中野美代子/武田雅哉 編訳 『世紀末中国のかわら版』 (中公文庫)

中野美代子/武田雅哉 編訳 
『世紀末中国のかわら版
― 絵入新聞『点石斎画報』の世界』
 
中公文庫 な 35-3

中央公論新社
1999年3月3日 印刷
1999年3月18日 発行
329p
文庫判 並装 カバー
定価876円+税
カバーデザイン: 菊地信義


「本書は『世紀末中国のかわら版 絵入新聞『点石斎画報』の世界』(一九八九年二月 福武書店刊)に大幅な加筆を施したものです。」



本書「凡例」より:

「本書は清朝の末期に刊行された画報『点石斎画報』(一八八四~九六)を抄訳したものである。」
「『点石斎画報』の絵は全部で四千点以上をかぞえるが、本書ではそのうち八十二点を選択し、(中略)五つのジャンルに分類した。」
「本書の方針として、原文の逐語訳は採らず、意訳につとめた。(中略)タイトルも原題の訳ではなく、訳者が付けたものである。」



本書「あとがき」(中野美代子)より:

「本書は、武田雅哉君の企画、進行、そして私への叱咤によって成った。(中略)本書の半ばは担当せねばならない道理であるが、私の事情によって五分の一ほどしか担当していない。」


本書「文庫版へのあとがき」(武田雅哉)より:

「このたびの文庫化にあたっては、巻頭の解説を大幅に書き直したほか、本文には若干の訂正を加えるにとどめた。」


本文中図版(モノクロ)多数。


中野美代子 世紀末中国のかわら版 01


帯文:

「清朝滅亡前夜、西洋近代文明に触れた庶民の奔放な想像力が生んだ驚異の〈世界図鑑〉」


カバー裏文:

「一八八四年、上海で創刊された絵入新聞『点石斎画報』は、大衆への報道・娯楽紙として、飛ぶように売れたと当時の記録は語る。終刊まで十四年にわたって描かれた四千数百点にのぼる絵と、そこに付された文とは、初めて西洋近代文明に触れた清朝末期の中国人の奔放な想像力が生んだ、驚異と興奮と誤解の渦巻く〈世界図鑑〉である。百年前、彼らは何を幻視したのか? 美術史、文学史、科学史、社会風俗史……あらゆる角度からの発掘を待っている宝の山、〈『点石斎画報』学〉への扉が、いま開かれる!」


目次:

凡例
ゾウを想え――清末人の〈世界図鑑〉を読むために (武田)

第一章 洞窟をくぐり抜けたら世紀末 
 バトル・フィールドをフォーカスせよ
 呉淞戦線、異状なし
 気をつけよう! 列車事故
 屈辱のロードローラー
 人か鬼か? 纏足の危機
 母よあなたは強かった
 上海の雪まつり 雪だるまの内乱
 おまるとお尻のスクランブル
 妖怪オン・パレード
 トラの衣を借る……
 霊幻道士もたじたじ ポルターガイスト!
 淫祠邪教を駆逐せよ!
 猟奇! 人食い銭湯の恐怖
 芸者遊びはモダンにいこうぜ!
 チ・ン・ピ・ラ
 なにサッあたいの男よ!
 芸妓いじめもここまできた!

第二章 彼方の国と人びとの風景
 世界は不思議・地球は円い
 股下を失礼! ロードス島の巨人像?
 がんばれ! 青い目のお医者さん
 ヨーロッパ人は競馬がお好き
 美人コンテスト・イン・ジャパン
 君はサーカスを見たか?――空中ブランコは最高!
 君はサーカスを見たか?――ゾウさんも最高!
 大英帝国 大いに震撼す
 天災は忘れたころにやって来る
 彼方の国の摩天楼
 死体縮小の科学
 スコットランド式死体利用法
 『点石斎画報』より――お詫びと訂正

第三章 檻のない動物園 
 さあさあカエルのサーカスだよ!
 ヒョウのいるレストラン
 猪(チョ)ッちゃんが祟るわよ!
 サルの奇計 ワニを宙吊りに 
 オットセイ なぜ鳴くの?
 江中の豚 大いにあばれる
 ありがたや! でっかい魚
 どこから来たの? 海獣さん
 洪水や大海亀に助けられ)
 うちの狆はアヘンがお好き
 うちのサルもアヘンがお好き? (中野)
 うちのサルは草書の名人? (中野)
 塾の先生はおサルさん (中野)
 こわいよ~! バラしても死なない人食いイヌ

第四章 異形のものたちの行進 
 刑場の怪異 イヌに感謝!
 魚頭人身です! 踊り出たボクサー 
 人頭魚身です! 古来のモンスター 
 人食いワニよりこわい人ワニ人を食う 
 闇の左手――てのひらに爆竹を
 怪奇! 呪いのダッチワイフ
 ワニも僕の兄弟だ(一) 誕生
 ワニも僕の兄弟だ(二) 航海
 ワニも僕の兄弟だ(さん) 横死
 恐怖! 古壁妖怪の祟り
 そこのけ、そこのけ 双頭の人が行く
 惨また惨! ボール小僧の涙
 魚の形悪しきは食らわず
 死んでもマージャンやりたいの!
 わ! 異な雄ブタ! 多分ブタだ。ブー! 尾、無いわ!
 怪奇! 妖艶! スッポン美女の恐怖
 猟奇の果てに――嬰児の復讐

第五章 科学と機械の幻想譜
 無残! 電気に燃えつきた仁義ある男
 「魂、買ッちくんねえ」――電気はいかにして作られるか
 新型機関銃を完成せよ!
 黄泉の国へのパスポート
 骨まで見せます! エックス線カメラの驚異
 ジェットコースターはあまくない
 恐るべし新型気球! 未来の空中戦争
 天津の屋根の上に気球は翔ぶ
 シカゴの屋根の上に帆船は翔ぶ
 パリの屋根の上に飛車は翔ぶ
 人知は限りなく――海底を行く卵形潜航艇
 超弩級観覧バス――パリ博へ向けて
 驚異の事業――大英帝国の水底トンネル
 ほんとにだいじょおぶ? 新発明の水中自転車
 走れ! 鉄人蒸気紳士
 エジソン先生の「おしゃべりめざましくん」
 鳥だ! 飛行機だ! 科学鳥人だ!
 スウェン・ヘディン――砂漠の探検隊
 科学の視線を宇宙に向けよ
 ありゃなんだ! 出現! 謎のU・F・O
 嗚呼! 地球最後の日

本書関連地図
点石斎画報関連年表
タイトル対照表

あとがき (中野美代子)
文庫版へのあとがき (武田雅哉)




◆本書より◆


「ゾウを想え」より:

「戦争の報道に始まった『点石斎画報』ではあったが、いま四千数百点の作品の山を眺めてみると、「ありとあらゆるものを描いた」といわざるをえない。市井の瑣末(さまつ)な事件から天下国家の大事まで、妖怪の祟りから新時代のテクノロジーまで。」

「『韓非子(かんぴし)』という紀元前三世紀の本の、以下に引く部分は、ぼくの好きな一節だ。

 人びとは生きているゾウの姿を見ることはめったにない。そこで死んだゾウの骨を手に入れて、ゾウの姿を考えては、生きているゾウを想像する。それゆえ、人びとが頭の中で想いうかべるものを、すべて〈象〉というのだ。(「解老篇」)

 〈想像〉とは〈想象〉、すなわち、ゾウというまだ見ぬ奇獣の姿を想いうかべることだというのである。」
「機械にせよ動物にせよ西洋人にせよ、(中略)絵師たちの描いたものどもは、かれらの想像によるものが、その多くを占めるのである。(中略)絵師たちが描き、万人がこれを見ること。これはそのまま、絵師たちの幻視した〈世界〉の〈かたち〉を、万人が(中略)信ずることにほかならないのではなかろうか。」

「『点石斎画報』という現象は、絵師と、そして画報の読者という、清末人の多くを包含しうるであろう、その時代の幻視者たちによる、大いなる饗宴であった。かれらはみずから「世界はこうなっている」と信じうる一冊の〈世界図鑑〉というテキストを編集し、その読み取りに明け暮れた。すなわち、かれらだけの似て非なる地球に、奇妙な外国の事物を配置したり、奇妙な動物園を経営したり、奇妙な飛翔機械を空中に舞わせたりしたのである。」
「その時代に生きた人間の幻想によって構築された、いまひとつの世界であるとはいえまいか。」




中野美代子 世紀末中国のかわら版 06


「死体縮小の科学」より:

「クーパー先生はアメリカの名医である。彼は死体を縮小する薬品を発明した。体長わずか一尺五寸にまでなり、石のように堅くなって腐ることがない。木箱にいれれば携帯にも便利である。」


中野美代子 世紀末中国のかわら版 02


「スコットランド式死体利用法」より:

「ヨーロッパ人は科学の力を尊び、あらゆる廃物を再利用してしまう。(中略)それは人間の死体にまで及ぶという。死体から油を採っては石鹸(せっけん)を作り、骨を削っては肥料にすべきである。と、これはイギリスはスコットランドの、とある化学士が提唱した説である。」


中野美代子 世紀末中国のかわら版 03


「『点石斎画報』より――お詫びと訂正」より:

「さて、昨年の八月掲載の「死体縮小の科学」、そして十月掲載の「スコットランド式死体利用法」(中略)の記事は、(中略)のちほど調査したところ、事実ではないとのことが判明いたしました。本斎はここにこれを明示し、訂正いたします。」



「惨また惨! ボール小僧の涙」より:

「梧州(ごしゅう)で商売を営む男、たまたま通りかかった見世物小屋に入ってみた。そこに出ていたのはまるまるとした子どもであった。しかも尋常のまるさではない。手足は縮み、耳や鼻はつぶれ、さながらボールのようであった。小屋の主人がこのボール小僧を蹴飛ばすと、彼は地面をころころと転がるのだ。」
「空もうす暗くなったころ、主人は小僧を小屋の奥にあるカゴの中に閉じ込めると、どこかへ行った。
 思うところあった商人、そっとカゴに近づいて声をかけた。「おまえさん仔細(しさ)がありそうだね。話してごらん」。小僧はおびえる様子であたりを見まわすと、目に涙を浮かべながら、こう答えた。「四つの時にさらわれて、かめ の中に閉じ込められたんだ。体が かめ いっぱいになると、やっと かめ を割ってもらった。それからも大きくならないようにといって、食べさせてもらえるのは木の実だけだったよ……」。哀れに思った商人は、小僧に向かってこう言った。「お役人に訴えて、きっとここから出してやろうね」。
 翌朝、商人はふたたび見世物のあったところに来てみた。小屋はあとかたもなく消え失せていた。」




中野美代子 世紀末中国のかわら版 04


「猟奇! 人食い銭湯の恐怖」より。



中野美代子 世紀末中国のかわら版 05


「猟奇の果てに――嬰児の復讐」より。














































































































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フランシス・ハックスリー 著/中野美代子 訳 『龍とドラゴン』 (イメージの博物誌)

「ドラゴンがわれわれの想像にいつも現われることに理由があるとすれば、まさにこの点にある。すなわち、ドラゴンは、内なる知識の外なる姿なのである。」
(フランシス・ハックスリー 『龍とドラゴン』 より)


フランシス・ハックスリー 
『龍とドラゴン
― 幻獣の図像学』
中野美代子 訳
 
イメージの博物誌 13

平凡社 1982年8月17日初版第1刷発行/1993年2月1日初版第6刷発行
105p 
27.8×20.2cm 並装 
定価1,850円(本体1,796円)
装丁: 谷村彰彦
Francis Huxley : The Dragon: Nature of Spirit, Spirit of Nature, 1979
Art and Imagination (General editor: Jill Puree)



著者フランシス・ハックスリーは1923年生まれの民族学者。父親は生物学者のジュリアン・ハックスリー。
図版(カラー&モノクロ)多数。


龍とドラゴン1


カバー文:

「東方世界の龍と西方世界のドラゴン――
それは大昔より人類の歴史に登場する幻の怪獣である。
崇高なる者、忌むべき者、世界の主……。
さまざまな称号が彼らに与えられ、
守護神として
神聖視される反面、
わるさをして
英雄に退治されたりもする。
人びとにたえず夢と恐れを抱かせる、この幻獣の正体は何か?
あらゆる角度から龍とドラゴンの秘密を探り、
その全体像を解き明かした画期的な書。」



目次:

訳者解説――龍の聖と俗 (中野美代子)

生々流転
ドラゴン・サイクル
百面相のドラゴン
ドラゴン退治
天空のドラゴン
時間とドラゴン
ドラゴンの夢

図版

資料図版とその解説
 龍宮
 入口か出口か
 閉じた円環
 エロス
 天気メーカー
 風水地形学
 英雄たち
 最初の両親
 格闘
 二つでひとつ、ひとつで二つ
 未知なる怪物
 乳海攪拌
 死神
 厄介なペット
 胎児の臍




◆本書より◆


「かくして、原初のドラゴンは、両性具有の唯一神であったと思われる。」

「このサイクルは、ウロボロスあるいは自分の尾を食うものとして、錬金術師にはつとに有名である。錬金術師たちは、ウロボロスの中に、自家生殖の行為や、新しい生命を容れる器や、サイクルが出発点に戻るまでの時の移ろいなどを見たのだった。ドゥルイド僧によって有名な円も同様である。春分になるときまって蛇の大集団が入りまじって、その夥(おびただ)しい目の中から卵をひとつ生みおとすのだそうだが、その蛇とは、足なし蜥蜴(とかげ)としても知られる硝子(ガラス)蛇にちがいない。なぜなら、その卵は硝子でできていて、輪(リング)の形をしているからだ。ところで、この輪の原型は、銀河にほかならない。銀河は、古代の北欧人にはミドル・アースの虫(ワーム)として知られ、アッカド人には蛇の河または深海の河として知られ、ギリシア人には世界河すなわちオケアノスとして知られ、インド人には蛇の道またはガンジス川の河床として知られていた。」

「二世紀ごろの拝蛇教徒(オフィテス)(グノーシス派の一派)たちは、蛇を神と崇めていたが、それというのも、蛇が万物に先んじてこの世に生まれたこと、この世界の創造者は蛇の私生の孫にすぎないと、彼らが考えたからである。この蛇は、ライオンの頭をしたアイオンに巻きついているが、ミトラ信者たちは、このアイオンのことを、時間およびその帰結としての破局のシンボルだと考えていた。
 アイオンとは、生命の水を意味するギリシア語で、そこから寿命とか、のちにはまた時代とかをも意味するようになった。」



龍とドラゴン4

「ドラゴンの中から現われた聖マルガレタ。『時祷書』より。一五世紀。北フランス」


龍とドラゴン3

「ドラゴンに捧げられる子ども。聖ゲオルギウス祭壇上部の装飾画。一四〇〇年ごろ。スペイン、バレンシア」






































































中野美代子 『スクリブル』

「でたらめだらけにせよ、頭のなかで組みたてた世界や言語の体系には、それなりの論理がなければならぬ。いかに真実であっても、その一端しかのぞくことのできない人間よりは、でたらめの世界の全体像を描いてみせる人間のほうが、私にはおもしろいのである。」
(中野美代子 「詐欺としての文学」 より)


中野美代子 
『スクリブル
― 文学空間の流星体たち』


筑摩書房 
1995年12月20日 第1刷発行
259p 目次5p 初出一覧3p 
四六判 角背紙装上製本 カバー 
定価2,400円(本体2,330円)
装幀: 菊地信義
カバー図版: アタナシウス・キルヒャー 『シナ図説誌』より



本書「あとがき」より:

「ごらんのように、主として日本の作家たちについての文章を集めたのが本書だが、編むにあたって外したものも少なくない。また、Ⅲ 「スクリブル」・Ⅳ 「マルジナリア」に収めた諸雑文は、日本の作家たちとは縁がうすいが、Ⅰ Ⅱと Ⅴ とを結ぶ文字どおりのスクリブル、すなわち「走り書き」ないし私の書架紀行のマルジナリアとしてお読みいただければよいと思う。」


「流星体」と書いて「メテオロイド」と読む。
本文中図版(モノクロ)3点(『肉蒲団』挿絵/ハンス・ベルメール「髑髏」/エッシャー「滝」)。


中野美代子 スクリブル


帯文:

「日本の作家たちの
奇妙なよその国
澁澤龍彦、久生十蘭、宮澤賢治……地上の者には捕え難い流星体(メテオロイド)のごとき煌めきを放つ作家たちをはるか追いかけて、そのユニークな文学世界へ案内する縦横無尽のスクリブル!」



目次 (初出):

Ⅰ ドラコニア
 人の千年は龍の十日――宮澤賢治「天気輪の柱」小考 (『新校本宮澤賢治全集』第八巻 月報 1995年)
 永久王国の原景――澁澤龍彦氏のユートピア論に寄せて (「ユリイカ」 1975年9月号)
 ドラコニア博物誌――澁澤龍彦の王国 (「国文学」 1987年7月号)
 哭ドラコニア――澁澤龍彦氏の訃報を聞く (原題: 「澁澤龍彦氏の訃報に接して/「ユリイカ」 1987年9月号)
 庭園と胡桃――『胡桃の中の世界』解説その一 (『新編ビブリオテカ澁澤龍彦』 『胡桃の中の世界』 解説 1988年)
 蘭房とプラトン立体――『胡桃の中の世界』解説その二 (「国文学」 1993年11月号 『胡桃の中の世界』 解説)
 南海――高丘親王の航跡 (「太陽」 1991年4月号)
 球体ものがたり――ふたたび高丘親王の航跡 (『澁澤龍彦綺譚集』II 月報 1991年)
 「最後の箱」の中の箱の中――疑惑を解いたもの (原題: 「箱のなか」/『澁澤龍彦文学館』12 『最後の箱』 月報 1991年)
 入れ子の箱――澁澤龍彦文学館に寄せて (原題: 「入れ子の箱の雅び」/『澁澤龍彦文学館』 内容見本 1990年)

Ⅱ エロティカ
 しな肉麻図譜――反(あんち)ベルメール論 (「夜想」2 1980年)
 性表現と女――あるいは「観る者」の位置について (「国分文学」 1979年5月号)
 就眠儀式の司祭――「眠れる美女」ノオト (「ポエム」 1977年9月号)
 鬼神相貌変――「憂国」および「英霊の声」論 (原題: 「「憂国」及び「英霊の声」論」/「国文学」 1976年12月号)
 「原ヒプー」考――沼正三 『奴隷の歓喜』 ノオト (沼正三『ある夢想家の手帖から』4 『奴隷の歓喜』しおり 1976年)

Ⅲ スクリブル
 竹帛から宋版まで――ものとしての書物二〇〇〇年史 (「ユリイカ」 1991年8月号)
 袖の下の文学――ローマ人とシナ人 (「国書」 1989年4月号)
 詐欺としての文学――マンデヴィル、キルヒャー、サルマナザール (「東方」104 1989年11月号)
 長安のアンゼルムス――『黄金の壺』と中国伝奇 (「ユリイカ」 1975年2月号)
 「閑話休題」のあとさき――物語のシークエンス (「is」42 1988年)

Ⅳ マルジナリア
 古典再読 (「読売新聞」 1994年1月10日、1月17日、1月24日、1月31日、2月7日、2月14日、2月21日、2月28日)
  ジュール・ヴェルヌ『必死の逃亡者』
  ガスパール・ダ・クルス『十六世紀華南事物誌』
  ルイージ・マレルバ『皇帝のバラ』
  劉安『淮南子』
  ヴィリエ・ド・リラダン「ツェ・イ・ラ綺譚」
  カフカ「万里の長城」
  芥川龍之介「地獄変」
  マルグリット・ユルスナール「老絵師の行方」
 口腹の書 (「朝日新聞」 1993年6月6日、6月13日、6月20日、6月27日)
  酒池肉林
  食による民族の定義
  滅んだ食べもの
  食事の風景
 読書日録 (「週刊読書人」 1990年10月22日、10月29日、11月5日)
  風景論と庭園論
  無人と蜃気楼
  構成遊戯とかたち
 旅のかたちをめぐる本たち (「季刊銀花」90 1992年夏号)

Ⅴ リストリア
 熊楠文礼讃 (『第一次南方熊楠計画 コンティンジェント・メッセージ群』 1985年)
 タルホ綺想空間の倫理性――『宝石を見詰める女』評 (「潮」 1974年12月号)
 エッシャー的世界の小説――石川淳論ノオト (原題: 「石川淳論覚書」/「藤女子大学国文学雑誌」11 1972年)
 離島文学考――乱歩か潤一郎か (『江戸川乱歩全集』17 解説 1978年)
 情念のスパスム――夢野久作『人間腸詰』解説 (夢野久作『人間腸詰』 解説 角川文庫 1978年)
 島と洞窟――久生十蘭『地底獣国』解説 (原題: 「刻鏤無形」/久生十蘭傑作選III 『地底獣国』 解説 教養文庫 1976年)
 文体あるいは玩物喪志について――久生十蘭私論 (「ユリイカ」 1989年6月号)
 架空の地図帳――久生十蘭「墓地展望亭」におけるリストリア王国 (「潮」 1976年8月号)
 斬って捨てる小説――久生十蘭「無惨やな」をめぐって (「リテレール」 1993年冬号)




◆本書より◆


「ドラコニア博物誌」より:

「海胆はヒトデやナマコとともに棘皮(きょくひ)動物に属するが、この動物の特徴は再生力が強いことだ。ヒトデは腕一本から再生するし、ナマコは内臓を捨てて逃げたあと再生する。しかし海胆は抜け落ちたとげ(引用者注: 「とげ」に傍点)を再生する程度だといわれている。
 かなり以前のことだが、積丹(しゃこたん)半島のさる漁村に遊びに行ったとき、採りたての海胆を山と積んで、おばさんたちが殻むきをしているのに出会った。とげが短く茶色っぽいのをバフンウニまたはガンゼといい、紫色のとげが長いのをムラサキウニまたはノナという。ノナとは、アイヌ語「ノナ」「ニノ」から来ていて、『和漢三才図会』にも「のね」「乃禰」と書かれている。
 それはともかく、陸上に山と積まれたガンゼやノナたちは、とげをしきりに動かしているのだが、わけてもノナが紫色の長いとげをうごめかせるたびに、その山はアメジストのように美しく輝くのだった。さて、おばさんたちは軍手を嵌め、左の手のひらにガンゼやノナをのせると、専用の細いナイフで殻を鮮やかに二つに割り、なかに詰まっただいだい色の卵巣を、耳掻きの親分のような専用スプーンですくいとり、用意したどんぶりのなかに入れる。殻は、もちろん用がないからポンと脇に捨てる。おばさんたちから、そのだいだい色のいわゆる海胆を分けてもらってよろこんで食べていた私は、ふと驚くべき光景を目にした。
 まっぷたつに割られ、大事な中身を抜きとられたノナの殻が、その紫色の長いとげを動かして歩き出したのである。それも、海に向かって!
 殻たちのすべてが歩いたわけではない。たった一つ、これぞ革命家というべきか、ともかく歩き出したのである。もちろん、私はかれ(引用者注: 「かれ」に傍点、以下同)について行った。しかし、海辺とはいえ、その殻むき作業場から海まではいくばくかの距離があったため、殻だけの行進はやがてダウンしてしまった。もし私が手伝って、かれをつまみあげ、走って海中に落としてやったら、かれは再生するのだろうか。もしそうなら、すし屋の海胆があんなに高くなるはずはないから、一般には、殻だけでは再生しないのであろう。
 それにしても、私でさえ目撃しているのであるから、海胆の殻だけの行進は、多くの人が見ているのではあるまいか。」



「詐欺としての文学」より:

「『台湾誌』は、たしかに「詐欺としての文学」を一歩も出ないかもしれない。キルヒャーの『シナ図説』がインドやチベットについてはきわめて確度の高い情報を載せていたのにくらべると、さらに歴史的価値は低い(というよりゼロである)。
 にもかかわらず、私は「詐欺としての文学」としての旅行記や地誌に強く関心をひかれる。でたらめだらけにせよ、頭のなかで組みたてた世界や言語の体系には、それなりの論理がなければならぬ。いかに真実であっても、その一端しかのぞくことのできない人間よりは、でたらめの世界の全体像を描いてみせる人間のほうが、私にはおもしろいのである。」



「島と洞窟」より:

「思うに、久生十蘭は、「海豹島」においてみずからの小説の方法論をつかんだのであった。その後のかれの小説は、すべてこれ「海豹島」のより精緻な発展であり、その綺想のより華麗な展開であった。戦後の傑作とされる「春雪」や「予言」、さらには「雲の小径」などは、この純愛の主題が「一転瞬の変化」によって至高のエロティシズムへと駆けあがる、日本の現代小説には類を見ない意匠をそなえるが、すべては「海豹島」に源を発しているといえるであろう。
 実在の、それもこともあろうに「膃肭獣の蕃殖場」たる島を舞台として、かような物語が展開しかつ終結したとき、海豹島もまた、非在の領域に拉し去られたかに見える。海豹島の実在性などは、もはや少しも問題ではない。そして、これこそが、虚構の物語としての小説の永劫に渝(かわ)ることのない本質ではなかったか。実在性が常に小説の前提となり、それゆえに現実を支配する秩序が小説の世界を浸潤することに少しも疑念を抱かずに成立してきた日本の近代文学は、かような久生十蘭の小説の方法を注意ぶかく排除しつづけてきた。それがおそるべき偏見であることは、われわれみずからが海豹島に立ち、この島が実在することよりも、この島が言葉の磁場として世界を引き寄せ、あげくは非在の領域に消え去ってしまうことをたしかめれば、すでに明らかであろう。」

「久生十蘭には、無政府的な極限状況下における人肉嗜食(カニバリズム)への強い関心があったと思われる。」

「久生十蘭は、けっして横光利一のように深刻な顔はしなかった。そのかわり、身につけてきた教養とエスプリは、十分な洗練を経て惜しげなく読者に提供された。そのぜいたくな知性の所産は、昭和文学史ではついぞ話題にされなかったのである。
 ところで、「墓地展望亭」の背景となるバルカン半島のリストリア王国の政変なるものも、久生十蘭に特有な、あのぜいたくな知性なしには描かれなかったであろう。政変を見るかれの目には、ガツガツしたイデオロギーは片鱗だに含まれない。すべては、主人公志村の純愛、生霊とおぼしき美女の非在性のための、ぜいたくな舞台装置にすぎないのである。しかも、この舞台装置は、リストリア王国という、いかにもありげな架空の国でありながら、はなはだ狡猾に実在性の影を帯びているところ、「地底獣国」ともおぼろに重なりあっているといえよう。私は、ここでも、リストリア王国を求めて、地図や百科事典のたぐいをひっくりかえしたのだった。そんな行為が愚かなものだとは承知しつつも、志村がエレアーナ姫を追ってパリから乗る「経伊近東特急(サンブロン・オリアン・エクスプレス)」を地図でたどって「……ヴァルローブ……ロオザンヌ……ドモドツノラ……ミラノ……トリエスト……ソフィア……とここまで来て、次なる「マナイール」でにわかに指を惑わせるのである。この奸計の虜となることも、久生十蘭の読者のひそかな幸福であるにちがいない。」
























































ウー・ホン 『屏風のなかの壺中天』 (中野美代子/中島健 訳)

「ひとりの紳士、おそらくは文人か道士であろうひとりの男が竹製の低い寝椅子に寝そべっている。目は閉じているが、その幅ひろの顔には表情があり、どうやら夢を見ているようだ。画家はその夢は描かなかったが、その夢を、床の間(アルコーブ)ふうの衝立一面に描かれた果てしない波という催眠力のある画像に変えた。」
(ウー・ホン 『屏風のなかの壺中天 より)


ウー・ホン 
『屏風のなかの壺中天
― 中国重屏図のたくらみ』 
中野美代子・中島健 訳


青土社 2004年3月20日第1刷印刷/同30日発行
355p 口絵(カラー)8p 著者・訳者略歴1p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価4,400円+税
装幀: 高麗隆彦



本書「訳者解説」より:

「本書は、Wu Hung, The Double Screen: Medium and Representation in Chinese Painting (London: Reaktion Books, 1996) の全訳である。」
「ここでウー・ホン教授は、画像提供(イメージ・ベアリング)の物体(オブジェクト)という概念を示す。image-bearing とは、画像(イメージ)を支える、あるいは帯びるということだから、平たく言えば、画像を「何に(どのようなもの(オブジェクト)に)描いているか」という即物的な観点であろう。思えば、いままでの美術史は、「何を描いているか」「いかに描いているか」を考察するのが主流であった。」



本文中図版(モノクロ)197点。


中野美代子訳 屏風のなかの壺中天1


帯文:

「隠す
遮る
囲む。

シカゴ大学発、
鮮烈な視点の
中国絵画論。

衝立という
絵画形式に
中国文化が
閉じこめた
入れ子の宇宙。
メタピクチャー
の策略。」



中野美代子訳 屏風のなかの壺中天2


目次:

序 衝立(スクリーン)とは何か
 空間と場所
 枠どりと図案化
 平面と媒体
 絵画空間と喚喩
 詩的空間と隠喩

I 《韓煕載夜宴図》
 テクスト包囲網を打ち破れ
 では絵そのものを
 画巻または絵巻物
 のぞきの視線

II 内なる空間および外なる空間
 ダブル・スクリーン――重屏
 女性像をもつ衝立
 だまし絵と魔術

III 内なる世界および外なる世界
 山水画の衝立
 内なる世界および外なる世界
 大衆化と標準化
 個の主張とステロタイプ
 ある「狂士」の衝立

IV 皇帝の選択
 《雍正十二妃行楽図》あるいは《十二美人図》
 女たちの空間
 皇帝の仮面舞踏会

V メタピクチャー
 メタピクチャーおよびメタ=メタピクチャーとは?
 『西廂記』一六四〇年閔斉伋本の挿絵

「もの(オブジェクト)」としての絵画――日本の読者へ (ウー・ホン)
訳者解説 (中野美代子)



中野美代子訳 屏風のなかの壺中天3



◆本書より◆


「序 衝立とは何か」より:

「この研究において著者が例としてとりあげるものは、衝立である。(中略)衝立は一つの物体(オブジェクト)であり、絵画の媒体(メディアム)であり、絵画的な表象であり、またそれらのすべてでもある。言い換えるなら、ある一つの構造物としての衝立は、三次元の空間を占めるとともに空間を区切り、芸術の一つの媒体としては、絵画に理想的な平面を提供する。じっさいのところ、衝立はむかしから記録されている最古の絵画フォーマットの一つであった。そしてまた、絵画に表現されたものとしての衝立は、中国の美術のそもそものはじめからして、中国人が大好きな画像の一つだったのである。」


「II 内なる空間および外なる空間」より:

「かれ(引用者注: 周文矩)は、中国絵画においてもっとも魅力的な構図の一つとされる「ダブル・衝立(スクリーン)」すなわち重屏(ちょうへい)を創案したことで有名なのだ。フリア美術館所蔵の《重屏図》の一ヴァージョンは、前景にぐるりと集まった四人の男たち、碁を打ったりそれを観戦したりしており、ひとりの小姓が侍立しているという図柄である。この連中もまた、高く黒い帽子をかぶった顎髭の男を中心とする。この男は、中央に陣どっていること、目立つ服装をしていること、やや厳格そうな表情をしていることなどからもわかるように、明らかにあるじである。この男の背後には一枚パネルの大きな衝立がある。そこに描かれているのは、とある家庭の情景だ。顎髭の男がいる。おそらくその客間のあるじであろうが、いまはよりくつろいだ奥にひっこんだ。そして、四人の女たちにかしずかれつつひろい榻(とう)の上で横たわっているところ。女ふたりが榻のかたわらのベッドのしたくをし、ひとりが毛布をはこび、ひとりが男のうしろで指示を待つという次第だ。この第二のグループも、やはり衝立のフレームに囲まれているのだが、その三曲の衝立には山水が描かれているのである。」
「周文矩の絵画のもとのすがたというものは、どこにでも立てられる衝立に貼ってあったものであった。つまりは「重屏」された画像は、べつの衝立の、がっちりした木の枠のなかに出現したのである。」
「そのヴィジュアルなトリックは、錯覚をもたらす空間およびヴィジュアルなメタファーのためにデザインされた。この画家は、ありとあらゆる手をつくして、衝立の前の情景と衝立に描かれた情景とをともに現実らしく見せるべく試みたが、同時にかれは、この二つの情景をば、衝立のがっしりした枠で分離した。鑑賞者はしたがって、枠のなかの家庭の情景は絵空ごとにすぎないということに気づくのである。鑑賞者がさきほどの混乱を乗り越え、「そうか! 衝立のなかのできごとは、ほんとは、幻影なんだ!」と叫ぶとき、かれは、それがより大きな幻影のなかの幻影にすぎないということを忘れてはいないだろうか。より大きな幻影とは、この絵画まるごとにほかならない。かれは無意識のうちに、衝立の前景に描かれた人物や「もの」を現実世界の一部であるかに見えるようにしたこの画家の凝ったレトリックに巻きこまれたのだ。かくて、完璧なるだまし絵が完成したのだった。」






































































































































中野美代子 『綺想迷画大全』

「ほんとうは、迷画も名画もないのです。自分の目でえらびとり、勝手に自分の論理を展開することの快楽が得られる絵画こそが、「私にとっての絵画」というだけのことであって、いわゆる「泰西(たいせい)名画」として押しつけられるものは、どうでもよいのです。つまりは、ヴィジュアルとしておもしろければ、「名画」であろうと挿絵であろうと、あるいはまた地図であろうと、要は、未知のものを描こうとしたヴィジュアル作品(断片(フラグメント)でも)なら、私のあたまになんらかの胚珠(はいしゅ)をポチリと植えつけてくれるのです。」
(中野美代子 『綺想迷画大全』 「前口上」 より)


中野美代子 
『綺想迷画大全』


飛鳥新社 2007年11月23日第1刷発行
289p 著者略歴1p 
A5判 丸背紙装上製本 カバー 
定価3,619円+税
プロデュース・編集: 小山晃一
ブックデザイン: 鈴木一誌+藤田美咲



本書「前口上」より:

「本書の初出は、クインテッセンス社刊の『歯医者さんの待合室』という雑誌に、2004年1月号から2006年12月号まで連載したものです。
 連載時の総合タイトルは、「この絵は歯(引用者注: 歯に×印)眼にしみる」でしたが、(中略)排列をいささか変え、各篇とも、できるだけ加筆いたしました。(中略)ただ一篇だけ、「画家か製図者か?」を新たに書きおろしました。」
 


本文中図版(カラー)多数。


中野美代子 綺想迷画大全1


帯文:

「この絵は眼にしみる!

サルの将軍ハヌマーン、
多頭の魔王ラーヴァナ、白い悪魔、
飛行する仙人と空飛ぶ絨毯、
西方へ飛ぶこうもり、角のない犀…など、
《未知》への好奇と憧憬に満ちた
《面白ヴィジュアル作品》の謎を
深い洞察力と該博の知識で
解き明かしつつ、
読者を《視る快楽》へといざなう、
綺想迷画漫遊記。

図版150余点収録オールカラー」



帯背:

「ようこそ、
不思議と驚異の
幻想ワールドへ!」



中野美代子 綺想迷画大全4


目次 (括弧内は引用者による補足):

前口上

I 交錯する異形(いぎょう)
 1 ワット・プラケオのハヌマーン (タイのワット・プラケオの壁画)
 2 多頭怪ラーヴァナ (魔王ラーヴァナ)
 3 バリ島の海をかきまぜる (乳海攪拌図)
 4 悪魔のかたち (「シャー・ナーメ」の悪魔/ミヒャエル・パッハー、グリューネワルトの悪魔)
 5 マルコ・ポーロの挿絵 (「驚異の書」のスキヤポデス)
 6 さそりと龍の関係 (西洋のドラゴンと中国、イスラムのさそり座)
 7 写字生のいたずら (中世写本の余白の絵)
 8 おしゃべりの樹 (人参果、美女果、ワクワク樹)
 9 かわいい魚介たち (三官出巡図)
 10 仙人飛行図 (群仙会祝図、蓬莱仙会)

II 空間のあそび
 11 空飛ぶ絨毯(じゅうたん) (ペルシャ絨毯)
 12 ムガルの架空庭園 (インドのチャハル・バーグ)
 13 まちの模型と楽園の模型 (カルロ・クリヴェッリ)
 14 定規で描く絵 (中国の「界画」)
 15 ハンコで埋めた余白 (中国絵画の余白)
 16 ぎっしり・びっしりの絵 (アルトドルファー、ブリューゲル)
 17 地図としての絵 (ヤン・ファン・ケッセル「アジア」と世界図)
 18 宗教画のなかの小人(こびと) (姚文瀚「第十八カーシャパ・ダルマ尊者」)
 19 天の井戸に何がいる? (アンドレア・ポッツォ「聖イグナティウス・デ・ロヨラの栄光」)

III 動物たちの旅
 20 果物を献ずるサルたち (羅漢に果物を献じる猿・猴)
 21 サル絵と植民地 (ヴェロネーゼ「アレクサンダー大王の前のダリウス一家」)
 22 鳥の絵 傑作三題 (徽宗「桃鳩図」、イシドール・ド・バルド「エクゾティックな鳥たちのいる静物」、伊藤若冲「南天雄鶏図」)
 23 西方へ飛ぶこうもり (周季常「観舎利光図」の蝙蝠とウッチェロのドラゴン)
 24 マダガスカルから北京へ (カスティリオーネ「交阯果然図」)
 25 角(つの)のない犀(さい) (ピエトロ・ロンギの犀とデューラーの犀)
 26 ギャロップする馬たち (「ジェリコー型」の馬のギャロップ)

IV いつものできごと
 27 十八世紀のフィギュア・スケート (「冰嬉図」)
 28 まちなみ散策 (「清明上河図」)
 29 橋上マーケット (「清明上河図」)
 30 画家(ペインター)か製図家(ドラフツマン)か? (カナレット「リアルト橋」)
 31 子どもたちのお買物 (李嵩「市担嬰戯図」、蘇漢臣「貨郎図」)
 32 北斗を蹴とばす (魁星点斗図)
 33 ある船医の絵日記 (エドワード・クリー)
 34 帝王の行列 (「明皇幸蜀図」)
 35 帝王の肖像 (洪武帝像、ヘンリー八世像)
 36 張光宇(ちょうこうう)作『西遊漫記』

あとがき



中野美代子 綺想迷画大全3



◆本書より◆


「前口上」より:

「ほんとうは、迷画も名画もないのです。自分の目でえらびとり、勝手に自分の論理を展開することの快楽が得られる絵画こそが、「私にとっての絵画」というだけのことであって、いわゆる「泰西(たいせい)名画」として押しつけられるものは、どうでもよいのです。つまりは、ヴィジュアルとしておもしろければ、「名画」であろうと挿絵であろうと、あるいはまた地図であろうと、要は、未知のものを描こうとしたヴィジュアル作品(断片(フラグメント)でも)なら、私のあたまになんらかの胚珠(はいしゅ)をポチリと植えつけてくれるのです。」

「私は中国の文学や文化史を生業(なりわい)としており、小説『西遊記』の訳者でもありますが、いつのころからか、中国を日本からではなく、できるだけ「西方」からながめようという癖(へき)を身につけました。そんな癖は、日本のアカデミックな中国学(シノロジー)において受け容れられるはずも、まして歓迎されるはずもありませんが、本人にとっては快楽のひとつとなっております。本書における気ままな放浪は、この種の癖ないし快楽を素朴に語っている点において、たのしいものであったと告白しておきましょう。」



「悪魔のかたち」より:

「悪魔とは、どんなすがたかたちをしているのでしょうか? たぶん(?)だれも見たことがないので、ほんとうは、だれもわからないはずなのですが、そこはそれ、想像力を駆使して、人類は悪魔を描きつづけてきました。そもそも悪魔とは、絶対神に対立する観念でありますから、絶対神をいただくキリスト教やイスラム教の文化圏においてこそ、その絵画的表現は多様化したといえるでしょう。絶対神をもたない私たち日本人を含む、多くのアジア人は、悪魔的な画像(イメージ)を描きはしますが、それはむしろ妖怪(モンスター)に近い存在なのです。」

「こうして見ますと、ほんとうの悪魔とは、(中略)私たちの嫌悪感をさそう人間そっくりのその基本形態にこそ潜(ひそ)んでいるのだといえるのではないでしょうか。つまりは、ふつうの人間のすがたかたちが、わずかな異化をへて、わずかに異形(いぎょう)を呈したもの――これが悪魔のかたちらしいのです。」



「おしゃべりの樹」より:

「紀元前四世紀のマケドニア国王アレクサンダー大王のアジア遠征は、まずペルシア帝国への侵攻からはじまりましたが、征服されたペルシアでは、ヨーロッパ各地に発生したアレクサンダー伝説と軌を一にして、かれを英雄としてたたえるイスカンダル(アレクサンダーのペルシア名)伝説が生まれました。そんな伝説のひとつを物語っていると思われる細密画(ミニアチュア)があります。イスカンダルが一本の樹を見あげているのですが、なんと! その樹は、おかっぱ頭(?)の人間やら、馬やら駱駝(らくだ)やら豹(ひょう)やら羊やら龍やら……の頭部を枝の先端にくっつけているではありませんか。このあたまたちは、イスカンダルの野望を戒(いまし)め、異国の地におけるかれの死を予言しているとのことで、この樹は「おしゃべりの樹」と名づけられているそうです。」
「なお、十八世紀ごろのタイの仏教的彩色写本にも、「美女果(びじょか)」を意味するマッカリーポンが生(な)っている樹を描いた挿絵があります。冨田竹二郎『タイ日辞典』(中略)によれば、「美女果」とは、「雪山の森に生える植物の一種で裸体の美少女が果実として生り、髪の毛でつながって枝からぶら下がっているもの。通りすがりの者が採って妻として「使用」できるが七日間たつと腐ってしまう」とのことです。」



「まちの模型と楽園の模型」より:

「絵の上でなら、現実にはありえぬことを、二次元的に実現できます。「だまし絵(トロンプ・ルイユ)」というジャンルがありますね? でも、そんなジャンルでなくとも、絵画というものは、すべて「だまし絵」なのです。だって三次元空間では不可能なことを、二次元空間において、「それらしく」だまして現実化するのですから。」


中野美代子 綺想迷画大全2



こちらもご参照ください:

谷川渥 『図説 だまし絵――もうひとつの美術史』






























































































































































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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