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柴田宵曲 『明治の話題』 (ちくま学芸文庫)

「緑雨は(中略)「仕入帳」に「父儀親類熟談の上、昨夜死去仕候」とか、「鉄瓶は薬缶に似たる動物にして」とか、子供の作文の例をいろいろ挙げてゐる。(中略)「薬缶に似たる動物」は正に天衣無縫の趣がある。」
(柴田宵曲 「作文の型」 より)


柴田宵曲 
『明治の話題』

ちくま学芸文庫 シ 22-1

筑摩書房 
2006年12月10日 第1刷発行 
333p 付記1p
文庫判 並装 カバー 
本体1,300円+税
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 間村俊一
装画: 「街燈」(三谷一馬)


「『明治の話題』(昭和三十七年九月、青蛙房刊)を底本とし、明らかな誤字脱字はこれを訂した。常用漢字は原則として新字体に改め、適宜ルビを補った。ルビは新仮名遣いとした。」



三谷一馬による「中扉絵」10点。


柴田宵曲 明治の話題


カバー裏文:

「彗星、憲法発布、園遊会、観覧車、辻占売り、アイスクリーム、烟草の広告、鐘の音、コックリさん、ゴム風船等々、百五十余に及ぶさまざまな事物、風俗、主題によって明治を語った随筆集。博覧強記にして地味横溢。事物起原の考証から懐かしい日常風景まで、多種多様な話題をめぐって、漱石、鏡花、子規、緑雨らの文章を縦横に引き、また文化人、政治家、ジャーナリスト等の興味深い逸話を数多く収めた本書は、さながら明治文学詞華集、人物逸話集の趣もある。三谷一馬の挿画10葉を付す。」


目次:

はしがき


彗星
春の大雪
晴雨
憲法発布
国会
提灯行列
凱旋門
凱旋異聞
記念絵葉書
演説
通訳
弔詞
投票
文芸委員


焼芋と牡丹餅
発行停止
檜可斬
号外
校正
懸賞小説
電信
電話
図書館
試験
採点
賄征伐


酒癖
貫目
官界の高士
吾輩は猫
暗殺の予言
安藤閣上
十人組
諢名
超人
年齢
水嶋寒月
死神
宿望
詐称
腰弁
高利貸
成金
乞食
忘れた日本語
花井お梅


丁髷
カイゼル髯
ハイカラ
燕尾服
シルクハツト
夏帽
角帽と制服
美術学校の制服
下駄
眼鏡
時計
香水


人力車
鉄道馬車
自転車
飛び乗り飛び降り
花電車
一銭蒸汽
渡船
変つた乗物
飛行機


園遊会
音楽会
かるた会
海水浴
水泳場

VII
日比谷公園
両国橋
吾妻橋
兜町
紅葉館
イルミネーシヨン
観覧車
日英博覧会
電気館
ルナパーク
手品
うつし絵
菊人形
国技館
角力の名前
角力勝負附
酉の市
砂文字
占ひ
催眠術
声色つかひ


絵草子屋
質屋
氷店
露店
お宝売り
苗売り
辻占売り
薬売り
パン売り
豆売り
カツフエー
ミルクホール


ビール
サイホン
烟草の広告
官製烟草
岩谷天狗
詰め替へ
きんとん
牛肉
サンドヰツチ
文字焼
カステラ
アイスクリーム
トマト
汁粉
懐中汁粉
砂糖水


ピストル
決闘
贋造紙幣
銀貨
銅像
幻燈
蓄音機
広告の楽隊
鐘の音
午砲
新内の流し
火の番
土蔵
街燈
洋字看板
ゼム
ラムプ
玩具
ゴム風船
焼きぬき
燐票
蚊遣香
ライオン
コレラ
ミイラ
コスモス
洒落
作文の型
ミツドウエー

あとがき (岡本経一)

解説 「小さな明治」への愛惜 (川本三郎)




◆本書より◆


「校正」より:

「「校正恐るべしとは、弱法師(よろぼうし)の傍訓(ふりがな)を大半(おおかた)はヨワに誤りし頃より、新聞界に伝はれる洒落なり」と緑雨が書いてゐるが、この洒落の発生地は東京日日新聞社で、云ひ出したのは福地桜痴らしい。桜痴は自分の文章が新聞に出たのを見ると、屢々校正のために誤られてゐるのに辟易し、校正者に対してかう云つた。原稿の意味の通ぜぬところは訂正を加へ、用字を正し仮名遣ひをも改めて、その文章を完全ならしめるのが第一、謹直に原稿を墨守して更にその誤謬を正さぬのが第二、妄(みだ)りに訂正を加へて原稿の意を害するに至るのが最下等である。第一は容易に得られぬから、第二の校正で満足するが、動(やや)もすれば第三の校正があるには閉口すると。或日余り校正の悪いのに腹を立てて、「校正可畏(こうせいおそるべし)。焉知硃筆之不如墨也(いずくんぞしゅひつのすみにしかざるをしらんや)。四回五回而無訂焉(しかいごかいにしてただすことなくんば)。斯亦不足恃也已(これまたたのむにたらざるのみ)」と紙に大書し、校正担当者の机を並べた傍の壁に貼り付けて置いたが、彼等は一向平気であつたと「新聞紙実歴」に述べてゐる。」
「すべての文章が原稿通り正しく組まれて世人の目に触れるやうになれば、著者も満足であらうし、校正恐るべしなどといふ洒落も自然消滅する。その代り「赤沢山(あかざわやま)の狩くらに」に「あかだくさん」とルビを振つたやうな愛敬ある話柄もなくなつて、世の中はいささか索莫にならざるを得ぬ。和田垣(わだがき)博士が学生の答案の中から「百鬼夜行的誤字当字」を拾ひ出して印刷に廻したところ、印刷所で悉(ことごと)くその誤字を訂正してしまつたため、何の事やらわからなくなつて、更にもう一度組み直したなどは、校正恐るべき一例であらう。誤植も決して無用の存在ではない。」



「採点」より:

「ケーベル博士は、試験勉強は勉強の堕落といふ意見であつたから、試験などには一向重きを置かなかつた。白紙の答案に対して、哲学はさう簡単にわかるものでない、白紙の答案はよい答案である、と云つて八十点を与へたり、試験に欠席しても、事情を述べれば点が貰へるといふ時代さへあつた。口頭試験の時、何を聞いても答への出来ぬ学生に、それでは君に答への出来る問題を出さう、一体何点欲しいのだ、と聞かれた。正直に六十点あれば結構ですと答へたら、よろしいと云つて、即座に六十点くれたなどといふ話は、慥(たし)かに西洋人離れがしてゐる。」
「尤も早いところの先生達は、日本人でもさう点数に拘泥してはゐなかつた。正木直彦の「回顧七十年」に、「隈本(くまもと)さんの代数学には実に閉口した。此の人はよく出来ると百二十五点などといふ点を呉れるが、出来ないと、マイナス二十五点なんて云ふ点を附けたもので、私は此の人のために数学が嫌ひになつてしまつた」と書いてある。」



「忘れた日本語」:

「明治四年にアメリカに留学した五人の女子のうち、永井繁(しげ)とあるのが益田孝(たかし)の妹である。十一歳で洋行し、十年後に帰朝して瓜生外吉(うりゅうそときち)といふ海軍士官(後の大将)と結婚した。この留学の間に日本語はすつかり忘れ、おぼえてゐたのは猫といふ言葉一つだつたさうである。
 結婚後はずつと日本で暮したわけだが、日本語では時々失敗があつた。帰朝後何十年もたつてからの話に、小田原で子供の下駄を買ひに行つて、鼻緒はトコロテンにして下さいと云つた為、下駄屋がびつくりしたなどは最も振(ふる)つたものであらう。コールテンと間違へたのである。
 或時どこかで落し物をして、警察へ届けに行つたが、日本語では書けないので英語で書いて出した。益田孝によこす手紙は後々までずつと英語であつた。」



「ルナパーク」より:

「画にかいた通りの人魚や、猿虎蛇の鵺(ぬえ)の剝製を見せる珍世界なるものが浅草から姿を消して、ルナパークなるものが出現した。さう内容が新しいわけではないけれども、名前が変つてゐるのと、平凡なものにも若干の工夫が凝らしてある。汽車の客車と同じやうな座席に腰掛けると、正面のスクリーンに活動写真がうつる。同時に座席に進行中の汽車に似た震動が伝はつて来る。画面の動きが窓外の景色の移るやうな錯覚を与へる、といつた風であつた。」
「明治四十四年の五月に寺田博士がヨーロツパから帰つた時、漱石門下の人々は先生を引張り出して浅草に遊んだ。仲見世から観音様にお参りをして、見世物の看板を見て歩くうちに、二三の人々がかういふ陰謀をめぐらした。今日は何とかして先生を木馬館の木馬に乗せようといふのである。そこで計画通りルナパークへ入つたが、木馬館は大入りでも大人は殆ど乗つて居らぬ。ひそかに先生の顔色を窺つたところ、むづかしい顔をして乗りさうな気色もない。弟子達はさゝやき合つて、先づ一人乗り二人乗りといふ工合に馬に乗つた。最後に残つた松根東洋城(とうようじょう)がアラビヤ馬に跨(またが)つて顧みると、漱石先生は自動車の客になつてゐた。二廻り三廻りした後には、已(すで)に自動車を棄てて馬背の人であつた。その姿勢は甚だ不恰好であつたと東洋城が書いてゐる。」



「うつし絵」より:

明治時代に「うつし絵」と称したものはいろいろあつた。汽車のことを「むしけぐるま」と詠む流儀の歌人は、写真のことを「うつし絵」といふ。幸田露伴の「うつしゑ日記」なども、写真器携帯旅行の意である。
 今の紙芝居に似た街頭の見世物があつた。背景に黒い布を張り、舞台に当たるところで紙の人形を使ひながら、演者が絶えずしやべつてゐた。人形は紙を両面から貼り合せて柄がついてゐる、極めて簡単なものであつたが、例へば孫悟空のやうなものを演ずる場合、手早く裏返すと、全く替つたものになる特色があつた。見物は無論子供で、これを「うつし絵」と称してゐた。
 寄席で見せた「うつし絵」は一種の幻燈であるが、活動写真や幻燈がスクリーンの正面からうつすのと違つて、幕の裏からうつす。絵はガラス板に直接画いたもので、幻燈と同じ着色であつた。」
「以上の「うつし絵」とは全く種類を異にしながら、やはり同じ名で呼ばれるものがあつた。花卉(かき)鳥獣などを色刷りにした紙を、濡らして手の甲へ貼り付け、やゝあつて徐(おもむ)ろに剥がすと、絵ははつきり皮膚の上に残る。その絵はいづれかと云へば西洋臭い感じであつた。」





こちらもご参照ください:

柴田宵曲 『明治風物誌』  (ちくま学芸文庫)
池内紀 編訳 『象は世界最大の昆虫である ― ガレッティ先生失言録』 (白水Uブックス)






























































































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柴田宵曲 『明治風物誌』  (ちくま学芸文庫)

「緑雨の「おぼえ帳」に、心中を決行した男女がモルヒネを一服したのに、分量が足りなかつたため、ぐつすり睡り込んだに過ぎなかつた。漸くにして目を覚ました女が、男を揺り起し、「ちよいとお聞きよ、こゝへも豆腐屋が来るよ」と云つたのは、たくまざる滑稽で底に涙がある。」
(柴田宵曲 「豆腐屋」 より)


柴田宵曲 
『明治風物誌』
 
ちくま学芸文庫 シ 22-2

筑摩書房 
2007年8月10日 第1刷発行 
329p 付記1p
文庫判 並装 カバー
本体1,300円+税
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 間村俊一
装画: 井上安治「筋違通夜景」


「『明治風物誌』(昭和四十六年十二月、有峰書店刊)を底本とし、初出紙および『柴田宵曲文集』第五巻(平成三年、小沢書店刊)を照合した。初出は、『秋田魁新報』昭和四十三年一月四日から四月五日まで、九十三回の連載。明らかな誤字脱字はこれを訂し、常用漢字は原則として新字体に改め、適宜ルビを補った。ルビは現代仮名遣いとした。」



森銑三による「序」より:

「明治風物誌は、その晩年の著作であるが、(中略)生前には活字にならずにしまひ、歿後に至つて秋田魁(さきがけ)新報に連載せられて、やつと日の目を見た。」


柴田宵曲 明治風物誌


カバー裏文:

「西南戦争後の夜空に出現した西郷星、ペスト大流行と鼠供養の塚、團十郎人気と贋物たち、焼芋と明治文学、白秋「東京景物詩」にみる瓦斯燈の詩情、落書きのため借家を追われた青木繁、コックリさんと小波お伽噺。サーカス、野球、人力車、競馬、水族館、赤帽、バナナ、半熟玉子、軽気球、凌雲閣、新聞広告など、九十七の主題によって明治を語り、懐古した本書は、その静かな滋味あふれる語り口で、偉人文人たちの逸話を披露しつつ、事物の考証を通して市井生活のささやかな詩情にも光を当てる。」


目次:

序 (森銑三)

サーカス
ミラー公判
ポスト
野球
万年筆
西洋菓子
ペーパーナイフ
人力車
瓦斯
毛布
焼芋
珈琲
いちご
今川焼
木の実
絵はがき
ボート
ヴァイオリン
競馬
團十郎
日本橋
電車
火事
浪花節
巡査
ペストと鼠塚

煙管
葉巻
汽車
大晦日
デヤボロ
不忍池
連隊旗

植物園
噴水
水族館
赤帽

扇風器
唱歌
西郷星
石鹸
新人
コックリさん
煙草
手品
照葉狂言
ラムプ
借り着
蝋燭
運動会
頌徳表
バナナ
ラムネ
煉瓦
豆腐屋
街路樹
蛇の目傘
楽書
下宿屋
同名異人
撞球
漬物

郊外
半熟玉子
軽気球
変つたカルタ
居合抜
凌雲閣
お伽噺
洋書
仮装
悪筆
大頭
酒客
パノラマ
上野の戦争
パイプ
ハンケチ
単騎旅行
月並
天長節
画題

月賦販売
月見
超然派
新聞広告

ステッキ
蒲焼
汽車弁
蕎麦
雑誌

宵曲先生のこと (池上浩山人)

解説 希代の明治居士 (加藤郁乎)




◆本書より◆


「ポスト」より:

「必ずしも創業時代には限らぬ。神経質な人などは、後々までポストに投じ去つた郵便物の上に或不安を感ぜざるを得なかつた。泉鏡花(きょうか)が紅葉(こうよう)山人の玄関にゐた頃、日課として新聞社へ送る先生の原稿をポストに入れに行く。手を投入口に深く入れて、暫く原稿を離さずに居る。漸く原稿がポストの底に落ちてからも、まだ安心ができず、もしやポストの外に落ちはせぬかとその周囲を三遍回り、更にもう一度振返つて後、はじめて立去るといふことを繰返してゐた。」
「歌の添削を担当してゐた大口鯛二(たいじ)が、「黒ぬりのポストの上を今朝見れば……」といふ歌の初句を改めて「道のべの」とし、ポストには赤塗りも青塗りもないから、特に黒塗りと断る必要はないと云つたことがある。この時代のポストは皆黒一色だつたのであらう。赤いポストが出来たのはいつ頃からか知らぬが、子規の「病床牀六尺」に「自分の見た事のないもので、一寸見たいと思ふ物」を列挙した中に、「自働電話及び紅色郵便箱」があるのを見れば、明治三十五年にはもうあつたに相違ない。赤は子規の好きな色であつた。」



「火事」より:

「火事は江戸の花といふけれども、江戸時代に火事といふ季題はなかつた。火事を冬の季に定めたのは多分「新俳句」以後であらう。その「新俳句」を撰んだ正岡子規は、幼年時代に松山で火事に遭つた経験がある。その夜は母堂の実家に伴はれて一泊する筈であつたが、夜中にほうほうと呼んで外を通る声に目がさめ、出て見ると火の手は我家の方角に当つて盛んに燃えてゐる。母堂に負はれて横町を曲つた途端、現在自分の家を焼きつゝある火焰を見て、子規はバイバイ、バイバイと躍り上つて喜んだ。バイバイとは提灯の事ださうである。
 火事の多い江戸に育つた人々は、その方角を見ては身拵へをして火事見舞に行く。関係者がその方角にない場合でも、火事を見に出る風があつた。田村成義(なりよし)が幽界の演劇関係者と話す形で書いた「無線電話」に、中村芝翫が「こちらは火事のない処ですから、飯より好きな火事に行く事も出来ず」とあるなども、その平生を知つて居る者でなければわからぬ消息で、彼はジャンと云へば直ぐ飛び出す一人だつたに相違ない。
 「永日小品」(漱石)の中に「火事」といふ一篇がある。知人の見舞ではないらしい。細い路地のやうなところへ入り込むと、真暗な中に人がいつぱい詰まつてゐる。「押し詰められてゐるものは口々に何処(どこ)だ、何処だとさけぶ。聞かれるものは、其処(そこ)だ、其処だと云ふ。けれども両方共に焰の起る所迄は行かれない」と書いてある。その焰はつい鼻の先から燃え上るやうに見えたが、翌日散歩のついでに、その辺へ行つて見ても、焼跡はどこにも見当らず、火の手の揚(あが)つたと思はれるところは杉垣つづきで、中の一軒からは微かに琴の音が洩れてゐた。――かういふ火事もたしかにあつた。
 こんな風に火事見物に出かけることは、漱石としては別に珍しくもなかつたのであらう。芥川龍之介が親しく聞いた話に、或る晩、火事を見に行つた帰りに非常線に引かゝつた。刑事が何方から来たかと云ふので、家は向うを出て来たが、火事場は此方から帰つて来たといふ複雑な答へをした。とにかくそこに待つてゐろと云はれて、路傍に積んだ材木か何かに腰をおろし、警察へ行くのも面白いなどと考へてゐるうちに、またつかまつて来た者があり、お前は行つてもよろしいといふことになつてしまつた。かういふ話を読むと、斯人には明かに江戸の血が流れてゐることを感ずる。」



「デヤボロ」より:

「日本にデヤボロが渡つて来たのは明治四十一二年頃である。時事新報社が出してゐた雑誌「少年」の如きは、早速この新遊戯を紹介すると同時に、考へ物の賞品の中に新たにデヤボロを加へたほどであつた。
 今日になると先づデヤボロの形から説明してかゝらなければなるまい。円錐形を二つ繋ぎ合せたやうなもので、木製、ブリキ製、セルロイド製などいろいろあつた。別に二本の棒を紐で繋いだものがあり、この紐をデヤボロのくびれたところにかけて、棒を上下に動かすと、デヤボロが紐の上で回転をはじめる。一遍回り出したら紐から落ちることはないので、次第に回転の速度を増して、遂に唸りを発するやうになる。その時を見はからつて、急に二本の棒を左右に開けば、紐の突張る勢ひで、デヤボロは空中にはね上る。最も速かに回転する時は一分間二千回に及び、はね上る高さも七八間に至ると書いてあるが、これは熟練にもより、巧拙にもよることであらう。はね上げられたデヤボロは、回りながら落ちて来る。その時これを紐で受け止め、また回転を早めては、空中へはね上げる。上手になれば幾百回も、はね上げては受け止め、はね上げては受け止めることを繰返し得るさうである。
 デヤボロの発生地はフランスで、それが欧洲各国に伝はり、更にアメリカを経由して日本へ来たものらしい。何分空高くはね上るだけに、紐で受け止めようとする者の注意は眼に集中されざるを得ない。巴里で流行した時分には、あまり皆が夢中になつてやるため、警察令を出して町の通りのデヤボロ遊びを禁じ、イギリスの地中海艦隊でも乗組の士官や水兵がこれに耽るため、艦内に携帯することを禁じたといふやうなエピソードもある。
 日本のデヤボロも大流行で、一時の風をなすかに見えた。それが或点でピタリと止つたのは、警視庁がやかましく云ひ出したためだと聞いてゐる。理由は巴里と同じ往来の妨害で、当時の東京は今のやうに自動車が氾濫してはゐないが、デヤボロで遊ぶのに便宜なやうな大通りもなかつた。流行の生命は短いのが通り相場だと云へばそれまでのやうなもので、デヤボロが忽ち姿を消したのは警視庁の取締りの結果であらう。」
「デヤボロは欧米に起つた舶来品に相違ないが、昔の日本にも似た玩具がなかつたわけではない。「倭名抄」に「本朝相撲記」を引いて、「其形細腰皷の如くにして、糸上に輪転す」とあるのを読めば、ほゞその状を想像出来るであらう。「新猿楽記」にも「品玉、輪鼓、八玉」とあり、「大言海」はこれを説明して「放下(ほうか)ナドノマハスモノ、クビレタル所ニ緒ヲ巻キテ、空中ニ投ゲテ、緒ニ承ケマハスモノナルベシ」と云つてゐる。輪鼓はリウゴと読むのである。放下師の手に在つたとすれば、各人の玩ぶものでなし、その演伎を見るものであつたらうと思はれる。
 とにかくデヤボロの流行は短きに過ぎた。(中略)残念にもその実物は有名な玩具コレクションにも含まれてゐないし、写真すら見当たらない。“まぼろしのオモチャ”とでもいふよりほかはなささうである。
 紋章学の上から昔の輪鼓を説く人はあつても、明治の外来品たるデヤボロの事は閑却されてしまふかも知れぬ。」



「不忍池」より:

「一時的な催しは多くの人の記憶にとゞまらぬ場合がある。四十二年の夏だつたと思ふが、中央新聞社の主催で各地の蛍を集め、不忍池に放つたことがある。人の丈より高い大きな籠に蛍を入れ、舟を漕ぎ回りながら折々これを放つので、蛍は空高く飛ぶのは少なく、大概水に近い草木にとまつてしまふ。籠から蛍の飛び出る毎に、岸にゐる見物は歓声を挙げるけれど、蛍火そのものが涼しい代りに陰気であるし、群飛とか乱飛とかいふ光景になりにくいので、多くの蛍を集めただけの壮観は見られなかつた。今でも目に残つてゐるのは、無数の蛍が光りつゝある舟の上の籠である。竹を編んで紙を張つたのが、大きな雪洞(ぼんぼり)のやうに見えた。あれほど盛な蛍の光は、その後遂に目撃したことがない。
 放蛍の催しが不忍池畔を賑はすのは一晩だけで、あとはもとの寂寥に還る。」



「コックリさん」より:

「狐狗狸さんなどと書いてあるが、これは洒落に字を当てたものであらう。狗はともかくも狐や狸は多少因縁がありさうな感じもする。実際はうなづくことをコックリといふので、こんな名を付けたものかと思ふが、命名者は誰か知らない。
 はじめてコックリさんが渡来した明治十九年頃、坪内逍遥(しょうよう)が「今日新聞」の小西義敬(ぎけい)に招待された席に、三脚と円盤が持出され、小西をはじめ大妓小妓が交々試験する。斎藤緑雨がその座にゐたのは、当時「今日新聞」の雑報記者だつたのだから不思議はないが、コックリさんの示すところが覿面(てきめん)に中(あた)るので、皆気味が悪くなつた。緑雨の如きも無理やりに手を載せられ、問答の急所々々で盤が微かな音を立てて傾いた時、彼は殆ど顔の色まで変へたと、博士は「柿のへた」に書いてゐる。この話は皮肉家としてのみ緑雨を認める人達には、意外に感ぜられるかも知れぬ。当時の緑雨はまだ二十歳のうら若い青年であつた。
 巌谷小波の十八歳の日記、明治二十年一月の条に、コックリさんの実験をすることがある。小波の長兄立太郎といふ人は、杉浦重剛(しげたけ)の友人の科学者だから、コックリさんの信者にはなりさうもない。冷かし半分にやつて見たらしいが、三本組んだ棒の上に飯櫃(めしびつ)の蓋を載せた、頗る家庭的な材料であつた。その結果はなかなか馬鹿にならず、殊に小波を驚かしたのは、隣の室にある本の数を尋ねたのに、脚の上下動が頻りに続いて七十以上に及ぶ。書斎でもないところに、そんなに本があるはずはないと、笑ひながら調べて見たら、薄い「東洋学芸雑志」が床の間に置いてあり、その数が七十冊に近かつたといふ一事であつた。
 小波は若いだけにコックリさんに興味を覚え、翌日学校へ行つて皆に話し、或る先生の欠席時間を利用して、教場でやつて見たり、夜は夜でまた実験を試みた。女中達も居睡りを忘れて、眼を円くして見物したとある。」



「豆腐屋」より:

「緑雨の「おぼえ帳」に、心中を決行した男女がモルヒネを一服したのに、分量が足りなかつたため、ぐつすり睡り込んだに過ぎなかつた。漸くにして目を覚ました女が、男を揺り起し、「ちよいとお聞きよ、こゝへも豆腐屋が来るよ」と云つたのは、たくまざる滑稽で底に涙がある。緑雨の子供の時分、芳町にあつた話だといふが、豆腐屋に関するエピソードの最も変つた例に属する。
 明治年間の豆腐屋を考へる場合、売り声とともに連想に上るのは喇叭(らっぱ)である。」



「超然派」より:
 
「田口和美(かずよし)博士(中略)が日清戦役を知らなかつたといふことは、明治の学者気質として有名な逸話の一つであるが、逸話といふものは自然に推移するものとみえて、「黙想の天地」(沼波瓊音)にもさう書いてあるのに、同じ人の手に成つた「徒然草講話」になると、日露戦役もまた開戦後数月に至るまで知らなかつたといふ一条が加はつてゐる。しかも著者の知つてゐる画師が解剖図を画く関係上、博士のところへ出入してゐたので、或る晩偶然の機会から日露開戦の話を口にした。博士はびつくりしたのみならず、興味をもつてこれを聞き、時に興奮さへしたといふのだから、どうしても事実でなければならぬが、残念なことに博士は三十七年二月三日に亡くなつてゐるのである。(中略)博士の死は実に宣戦布告に先立つ一週間であつた。」
「この逸話の推移はこれだけに止らず、「明治音楽物語」(田辺尚雄)では、大学の解剖室にたて籠つた博士が、或るとき珍しく校門を出て不忍池の方まで来ると、至るところ国旗が翻り、人が雑踏してゐる。大学に帰つてこの話を学生に話したら、それは凱旋のお祝ひですといふ答へであつた。それまで日露戦役を知らなかつたといふ話になるのであるが、さうなると博士は一年半以上も生き延びなければならぬ。逸話がだんだん面白くなり、おまけがついて来る消息は田口博士の例だけ見ても明かである。」



「ステッキ」より:

「西園寺公が、パリ時代に光妙寺三郎と会食した際、光妙寺が誤つて窓ガラスを一枚こはしたのに、ボーイが不機嫌な顔をしてガラス修繕の代価を要求した。そのとき園公は、代価を払へば苦情はないかと念を押した上、ステッキを揮つて窓ガラス全部を破壊し、呆然たるボーイにその代価を渡して去つた。このステッキはパリで購入した新しいものであつたらうと思はれる。」




こちらもご参照ください:

柴田宵曲 『明治の話題』 (ちくま学芸文庫)
佐藤隆房 『宮沢賢治』 (改訂増補版)






















































































































柴田宵曲 『新編 俳諧博物誌』 小出昌洋 編 (岩波文庫)

龍の落ちし畑見に行くや雲の峯 几董


柴田宵曲 
『新編 俳諧博物誌』 
小出昌洋 編

岩波文庫 緑/31-106-4

岩波書店 
1999年1月18日 第1刷発行
347p 編集付記・表記について1p
文庫判 並装 カバー 
定価600円+税
カバーカット: 「鳥獣画巻」より



「本書の編集について」より:

「本書『新編 俳諧博物誌』は、『俳諧博物誌』(日本古書通信社、昭和五十六年八月二十三日刊)に、新たに七篇を加えて編集した。」


柴田宵曲 俳諧博物誌


カバー文:

「兎ならちと出て遊べ月の中/蒲公英やローンテニスの線の外――兎、猫、雀、狸、金魚、鶴、蒲公英、コスモスなど動植物17のテーマでよまれた俳諧をとりあげ、博識で知られる著者ならではの評釈を加えた俳諧随筆。ルナールの『博物誌』にヒントを得て、俳諧の中の動植物の世界をみごとに浮かびあがらせた名著。」


目次:

はしがき




河童








金魚


蒲公英
コスモス

解説 (奥本大三郎)
本書の編集について (小出昌洋)




◆本書より◆


「はしがき」より:

「はじめてジュウル・ルナアルの『博物誌』を読んだ時、これは俳諧の畠(はたけ)にありそうなものだと思った。『博物誌』からヒントを得たらしい芥川龍之介の「動物園」の中に、
     雀
  これは南画だ。蕭蕭(しょうしょう)と靡(なび)いた竹の上に、消えそうなお前が揚(あが)っている。黒ずんだ字を読んだら、大明方外之人(たいみんほうがいのひと)としてあった。
とあるのを読んだ後、『淡路嶋』に
   枯蘆(かれあし)の墨絵に似たる雀かな  荊花(けいか)
という句を発見して、その偶合に興味を持ったことがある。古今の俳句の中から、こういう俳人の観察を集めて見たら、日本流の博物誌が出来上るであろうが、今のところそんな事をやっている暇がない。」
「俳諧におけるこの種の観察は、元来一部的な傾向である。(中略)やはり擬人とか、見立(みたて)とかいう平凡な言葉で片付けられやすい。(中略)仮に陳腐を嫌って、一々新意を出すとしても、その新しさが観察の範囲を脱却し得ぬとすれば、俳諧の大道にはやや遠いものといわなければならぬ。」
「「俳諧博物誌」と銘打ったのは、決してルナアル的観察に終始するわけではない。これを冒頭として各方面にわたる俳句の世界を一瞥しようというので、フランスの『博物誌』とは縁の遠いものになりそうである。」



本書掲載句より:

「鳶の啼く日の淋(さび)しさよ草の花  士朗」

「龍の落ちし畑見に行くや雲の峯  几董」

「書を干(ほし)て龍と添寝の鼾かな  沾徳」

「足入(いれ)て龍の夢見る清水かな  其角」

「春の海鯛の腸(はらわた)ながしけり  笙洲」

「戸を敲(たた)く狸と秋を惜みけり  蕪村」

「狸かもしらず夏野を行(ゆく)坊主  千畦」

「夕顔に狸の出(いず)る小雨(こさめ)かな  賀瑞」

「こがらしや宙にぶらりと狸の火  随古」

「春雨に雀かぞゆる夕部(ゆうべ)かな  如嬰」

「狼に喰はれてかへれ山桜  許六」

「こがらしや狼原をいづる月  五明」

「日暮るやうさぎの耳の動く時  搓雀」

「猫の尾の何うれしいぞ春の夢  賢明」

「猫の子のくんづほぐれつ胡蝶かな  其角」

「鼠にもやがてなじまん冬籠  其角」

「もらひ来る茶碗の中の金魚かな  鳴雪」

「蒲公英に狐の遊ぶ昼間かな  柳絮」







































































柴田宵曲 『続 妖異博物館』 (ちくま文庫)

「一たび仙界の空気を呼吸して来た彼は、遂に人間が厭になり、五穀を食うのをやめ、足の向くままに山へ入ってしまった。」
(柴田宵曲 「地中の別境」 より)


柴田宵曲 
『続 妖異博物館』
 
ちくま文庫 し-25-2

筑摩書房 
2005年8月10日 第1刷発行
345p+1p 
文庫判 並装 カバー 
定価1,000円+税
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 神田昇和


「『続 妖異博物館』(昭和三十八年七月、青蛙房刊)を底本とし、原則として仮名遣いは現代仮名遣いに、常用漢字は新字体に改め、適宜ルビを補った。但し、引用等の文語文については歴史的仮名遣いのままとした。」



本書「はしがき」より:

「尤も続篇と云ったところで、話の続きでないのは勿論、話の方角も大分変っている。前巻にも支那の話を引合いに出さぬことはなかったが、今度はその色彩がよほど強く、時には支那を主にしたのではないかと思われる箇所が出て来た。日本の話にしても、前巻の主流であった江戸時代より、少し遡ったところに話題を求めた。」


柴田宵曲 続妖異博物館


カバー裏文:

「空を飛ぶ話、羅生門類話、離魂病、白猿伝、化鳥退治など、奇譚の数々を集めた『妖異博物館』続篇では、日本の古典のみならず中国の志怪にまで範囲を広げ、様々な怪異を取り上げる、動物変身譚や竜宮譚について比較考証を試み、怪異の系譜をたどってシェイクスピアやアポリネエル、『アラビアン・ナイト』にまで話は及ぶ。まさに融通無碍、博覧強記の不思議物語集。」


目次:

はしがき


月の話
大なる幻術
雷公
雨乞い
鎌鼬
空を飛ぶ話
地中の別境
地中の声


宿命
火災の前兆
家屋倒壊
卒塔婆の血
経帷子
井の底の鏡
五色筆
難病治癒
診療綺譚
髑髏譚
眼玉
首なし
ノッペラポウ
首と脚


竜宮類話
羅生門類話
妖魅の会合
雨夜の怪
死者の影
離魂病
壁の中
吐き出された美女
関屋の夢
大和の瓜
死者生者
朱雀の鬼
樹怪
くさびら


仏と魔
信仰異聞
押手聖天
金銀の精
名剣
不思議な車
樽と甕
埋もれた鐘
巌窟の宝
打出の小槌
茶碗の中
金の亀
木馬


竜に乗る
竜の変り種
虎の皮
馬にされる話
牛になった人
白猿伝
猿の妖
狐の化け損ね

鵺になった人
化鳥退治
大魚

魚腹譚
胡蝶怪

銭と蛇

あとがき (青蛙房主人)

解説 不思議の国の宵曲 (西崎憲)




◆本書より◆


「月の話」より:

「王(おう)先生なる者が烏江(うこう)のほとりに住んで居った。(中略)長慶(ちょうけい)年間に楊晦之(ようかいし)という男が長安から呉楚に遊ぶ途中、かねてこの人の名を聞いていたのでその門を敲(たた)いた。先生は黒い薄絹の頭巾を被り、褐色の衣を著けて悠然と几(つくえ)に向っている。晦之が再拝して鄭重に挨拶しても、軽く一揖(いちゆう)するのみであった。併し晦之を側に坐らせての暢談(ちょうだん)は容易に尽きそうにもないので、晦之は一晩泊めて貰うことになった。先生の娘というのが出て来たが、七十ばかりで頭髪悉(ことごと)く白く、家の中でも杖をついている。これはわしの娘じゃが、惰(なま)け者で道を学ばぬものじゃから、こんな年寄りになってしまった、と云い、娘を顧みて月の用意をせよと命じた。この日は八月十二日であったが、暫くして娘が紙で月の形を切り、東の垣の上に置くと、夕べに至り自ら光りを発し、室内はどんな小さなものでもはっきり見えるので、晦之は驚歎せざるを得なかった。」

「周生(しゅうせい)は唐の太和(たいわ)中の人で、(中略)道術を以て多くの人の尊敬を集めた。或時広陵(こうりょう)の舎仏寺に居ると、これを聞いた人が何人も押しかけて来る。恰(あたか)も中秋明月の夜であったから、皎々(こうこう)と澄み渡る月を見て、自(おのずか)ら月世界の話になり、吾々のような俗物でも、月世界に到ることが出来るでしょうか、と云い出した者があった。周生は笑って、その事ならわしも師に学んだことがある、月世界に到るどころではない、月を袂(たもと)に入れることが出来る、(中略)と云った。或者はこれを妄言とし、或者はその奇を喜ぶ中に、周生は委細構わず、一室を空虚にし、四方から固く戸を鎖(とざ)し、数百本の竹に縄梯子を掛けさせ、わしは今からこの縄梯子を上って月を取って来る、わしが呼んだら来て御覧、と云う。人々は庭を歩きながら様子を窺っていると、先刻まで晴れていた空が忽ち曇り、天地晦冥(かいめい)になって来た。その時突如として周生の声が聞こえたので、室の戸を明けたところ、彼はそこに坐っていて、月はわしの衣中に在る、と云う。どうかその月をお見せ下さい、と云われて、周生が衣中の月をちょっと見せると、一室は俄かに明るくなり、寒さが骨に沁み入るように感ぜられた。」



「大なる幻術」より:

「唐の貞元(じょうげん)中、楓州(ふうしゅう)の市中に術をよくする妓が現れた。どこから来た人かわからぬけれど、自ら胡媚児(こびじ)と称し、いろいろ奇怪の術を見せるので、これを見物する人が次第に集まるようになり、一日の収入千万銭に及ぶということであった。或時懐ろから一つの瑠璃(るり)瓶を取り出した。大きさは五合入りぐらいのもので、全体が透き通り、手品師のよく云うように、種も仕掛けもないものであったが、胡媚児はこれを席上に置いて、これが一杯になるだけ御棄捨(ごきしゃ)が願えれば結構でございます、と云った。瓶の口は葦(あし)の管のように細かったに拘らず、見物の一人が百銭を投ずると、チャリンと音がして中に入り、瓶の底に粟粒ぐらいに小さく見える。皆不思議がって、今度は千銭を投じても前と変りがない。万銭でも同じである。好事の人が次ぎ次ぎに出て、十万二十万に達しても、瓶は一切を呑却して平然としている。馬はどうだろうと云って投げ込む者があったが、人も馬も瓶の中に入り、蠅のような大きさで動いて居った。その時官の荷物を何十台という車に積んで通りかかる者があり、暫く立ち止って見ているうちに、大いに好奇心が動いたらしく、胡媚児に向って、この沢山の車を皆瓶の中に入れ得るか、と問うた。媚児は笑って、よろしゅうございますと云い、少し瓶の口をひろげるようにした。その口から車はぞろぞろと入って行き、全部中に在って蟻のように歩くのが見えたが、暫くして何も目に入らなくなった。そればかりではない、媚児までが身を躍らして瓶の中に飛び込んでしまったから、ぼんやり口を明いて見物していた役人は驚いた。何十台の荷物が一時に紛失しては申訳が立たぬ。直ちに棒を振って瓶を打ち砕いたが、そこには何者もなかった。媚児の姿もその辺に現れないと思っていると、一箇月余りの後、清河(せいが)の北で媚児を見かけた者がある。彼女は例の数十台の車を指揮し、東に向って進んでいたということであった。」


「眼玉」より:

「唐の粛宗(しゅくそう)の時、尚書郎房集(しょうしょろうぼうしゅう)が頗(すこぶ)る権勢を揮(ふる)っていた。一日暇があって私邸に独坐していると、十四五歳の坊主頭の少年が突然家の中に入って来た。手に布の嚢(ふくろ)を一つ持って、黙って主人の前に立っている。房ははじめ知り合いの家から子供を使いによこしたものと思ったので、気軽に言葉をかけたけれど、何も返事をしない。その嚢の中に入っているのは何だと尋ねたら、少年は笑って、眼玉ですと答えた。そうして嚢を傾けたと思うと、何升もある眼玉がそこら中に散らばった。」


「離魂病」より:

「夫婦のうち妻が先ず起き、次いで夫も起きて出た。暫くして妻が戻って来ると、夫は寝床の中に眠っている。夫が起き出たことを知らぬ妻は、別に怪しみもせずにいると、下男が来て鏡をくれという夫の意を伝えた。旦那はここに寝ているではないかと云われて驚いた下男は、寝床の中の主人を見て、慌てて駈け出した。下男の報告によって来て見た夫も、自分と全く違わぬ男の眠っているのにびっくりした。夫は皆に騒いではいけないと云い、衾(ふすま)の上から静かに撫でているうちに、寝ていた男の姿はだんだん薄くなり、遂に消えてしまった。この夫はその後一種の病気に罹(かか)り、ぼんやりした人間になったそうである。」

「「奥州波奈志(ばなし)」に「影の病」として書いてあるのは明かに離魂病である。北勇治という人が外から帰って来て、自分の居間の戸を明けたところ、机に倚(よ)りかかっている者がある。(中略)暫く見守っているのに、髪の結いぶりから衣類や帯に至るまで、まさに自分そのものである、(中略)不思議で堪らぬので、つかつかと歩み寄って顔を見ようとしたら、向うむきのまま障子の細目に明いたところから縁側に出た。併し追駈けて障子を開いた時は、もう何も見えなかった。この話を聞いて母親は何も云わず眉を顰(ひそ)めたが、勇治はその頃からわずらい出し、年を越さずに亡くなった。北の家ではこれまで三代、自分の姿を見て亡くなっている。」

「衡州(こうしゅう)の役人であった張鎰(ちょういつ)に二人の娘があって、長女は早く亡くなったが、下の娘の倩(せん)というのは端妍(たんけん)絶倫であった。鎰の外甥に王宙(おうちゅう)なる者があり、これがまた聡悟なる美少年であったから、鎰も折りに触れては、今に倩娘(せんじょう)をお前の妻にしよう、などと云って居った。二人とも無事に成長し、お互いの志は自ら通うようになったが、家人はこれを知らず、鎰は賓僚(ひんりょう)から縁談を持ち込まれて、倩をくれることを承知してしまった。女はその話を聞いて鬱々となり、宙は憤慨の余り京へ出る。(中略)然(しか)るに宙は船に乗ってからも、悲愁に鎖(とざ)されて眠り得ずに居ると、夜半の岸上を追って来る者がある。遂に追い付いたのを見れば、倩娘が跣足(はだし)であとから駈けて来たのであった。(中略)宙は倩娘を船に匿(かく)して遁れ去ることにした。数月にして蜀(しょく)に到り、五年の月日を送るうちに、子供が二人生れた。鎰とはそのまま音信不通になっていたのであるが、(中略)久しぶりに手を携えて衡州に帰る。宙だけが鎰の家を訪れて、一部始終を打ち明け、既往の罪を謝したところ、鎰は更に腑に落ちぬ様子で、倩娘は久しいこと病気で寝ている、何でそんなでたらめを云うか、と頭から受け付けない。宙は宙で、そんな筈はありません、慥(たし)かに船の中に居ります、と云う。鎰が大いに驚いて、人を見せに遣ると、船中の倩娘は至極のんびりした顔で、いろいろ父母の安否を尋ねたりする。使者が飛んで帰ってこの旨を報告したら、病牀の娘は俄かに起き上り、化粧をしたり、著物を著替えたりしたが、笑っているだけで何も云わない。奇蹟はここに起るので、船から迎えられた倩娘と、病牀から起き上った倩娘とは、完全に合して一体となり、著ていた著物まで全く同じになってしまった。(中略)神仙の徒が人を修行に誘う場合、青竹をその人の丈(たけ)に切って残して置くと、家人などは本人の居らぬのに気が付かぬという話がある。倩娘の本質は宙のあとを追って去り、形骸だけが病牀に横わっていたものであろう。



「壁の中」より:

「「列仙全伝」の中の麻衣仙姑(まいせんこ)は石室山(せきしつさん)に隠れ、家人達がその踪跡を探し求めても、容易に突き留めることは出来なかった。ところが或日石室山に於て偶然出会った者があり、その棲家を問うと、一言も答えずに壁のように突立った岩石の中に入ってしまった。」
「世を遁れ人目を避ける点は同じであるが、麻衣仙姑とオノレ・シュブラックとでは動機が違う。オノレ・シュブラックの恐れるのはピストルを持った一人に過ぎぬに反し、仙姑はあらゆる人の目から自分を裹(つつ)み去ろうとする。罪を犯した者と仙を希う者との相違である。」



「吐き出された美女」より:

「許彦(きょげん)という男が綏安山(すいあんざん)を通りかかると、路傍に寝ころんでいた年の頃二十歳ばかりの書生が声をかけて、どうも足が痛くて堪らない、君の担いでいる鵞鳥の籠の中に入れて貰えぬか、と云った。彦も笑談(じょうだん)半分によろしいと答えたら、書生は直ぐ乗り込んで来た。籠には鵞鳥が二羽入れてあったのだが、そこへ書生が加わっても一向に狭くならず、担ぐ彦に取って重くもならぬのである。やがて一本の木の下に来た時、書生は籠から出て、この辺で昼飯にしようと云い、大きな銅の盤を吐き出した。盤の中には山海の珍味がある。酒数献廻ったところで、書生が彦に向い、実は婦人を一人連れているのだが、ここへ呼び出して差支えあるまいか、と云う。彦は異議の唱えようがない。忽ち口から吐き出したのは十五六ぐらいの絶世の美人であった。そのうちに書生は酔払って眠ってしまう。今度はその美人が、実は男を一人連れて居りますので、ちょっとここへ呼びたいのです、どうか何も仰しゃらないで下さい、と云い出した。女の吐き出したのは似合いの美少年で、先ず彦に一応の挨拶をした後、盃を挙げてしきりに飲む。たまたま書生が目を覚ましそうな様子を見せたので、女は錦の帳(とばり)を吐いて隔てたが、愈々(いよいよ)本当に起きそうになるに及んで、先ず美少年を呑却し、何事もなかったように彦に対坐している。書生はおもむろに起きて、大分お暇を取らせて済まなかった、そろそろ夕方になるからお別れしよう、と云い、忽ち女を呑み、大銅盤を彦に贈って別れ去った。」


「死者生者」より:

「「夷堅志」に出て来る李吉(りきつ)という男は、死んでから十年もたってもとの主人に逢い、一緒に酒を飲んだりしている。彼の説によると、幽霊は随所に見出すことが出来るので、あれもそうです、これもそうですと云って指摘した。(中略)「宣室志」にある呉郡の任生(じんせい)なども、この鑑別の出来る人であった。或時二三人の友人と舟を泛(うか)べて虎丘寺(こきゅうじ)に遊んだが、その舟の中で鬼神の話になり、鬼は沢山いても人が識別出来ぬのだ、と任生は云った。そうして岸を歩いている青衣の婦人を指し、あれも鬼だが、抱いている子供はそうじゃない、と説明した。」


「魚腹譚」より:

「銭塘(せんとう)の杜子恭(としきょう)が人から瓜を切る刀を借りた。後に持ち主が返して貰いたいと云ったら、あれはそのうち返すよ、と答えた。刀の持ち主が嘉興(かこう)まで行った時、一尾の魚が躍って船中に入ったので、その腹を割いたら子恭に貸した刀が出て来た。これは子恭の秘術であると「捜神後記」に見えている。」































































柴田宵曲 『妖異博物館』 (ちくま文庫)

「英雄の武力、権謀術数が何の威力も発揮し得ぬのが、左慈とか、果心居士とかいう人達の住む世界なのである。」
(柴田宵曲 「果心居士」 より)


柴田宵曲 
『妖異博物館』
 
ちくま文庫 し 25-1

筑摩書房 
2005年8月10日 第1刷発行
338p+1p 
文庫判 並装 カバー 
定価1,000円+税
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 神田昇和


「『妖異博物館』(昭和三十八年一月、青蛙房刊)を底本とし、仮名遣いは現代仮名遣いに、常用漢字は原則として新字体に改め、適宜ルビを補った。但し、引用等の文語文については歴史的仮名遣いのままとした。」



柴田宵曲 妖異博物館


カバー裏文:

「『甲子夜話』『耳嚢』など、江戸時代の随筆から不思議な話を蒐集・分類した怪異大百科。舟幽霊、轆轤首、人魂、化け猫、河童、怪石など、様々な怪異を取り上げながら、その筆はあくまで軽く、ある時は『今昔物語』の昔へ遡り、あるいは明治へと下って綺堂や八雲、鏡花作品の典拠を指摘する。簡潔にして含蓄ある語り口が味わい深い、奇譚アンソロジーの決定版!」


目次:

はしがき


化物振舞
大入道
一つ目小僧
轆轤首
舟幽霊
人身御供
再度の怪
夢中の遊魂
人魂
異形の顔
深夜の訪問
ものいう人形
ものいう猫
怪火
狸の火


地上の竜
大猫
猫と鼠
化け猫
狐の嫁入り
狐と魚
狸の心中
狸囃子
狸の書
猿の刀・狸の刀
鼠妖
大鳥
白鴉
うわばみと犬
河童の力
河童の薬
河童の執念
海の河童
百足と蛇
古蝦蟇
蜘蛛の網
守宮の釘
大鯰
妖花
茸の毒


果心居士
飯綱の法
命数
外法
鼠遁
山中の異女
乾鮭大明神
人の溶ける薬
煙草の効用
適薬
秋葉山三尺坊
天狗と杣
天狗の姿
天狗になった人
天狗(慢心)
天狗の誘拐
天狗の夜宴
天狗の爪
手を貸す


光明世界
生霊
小さな妖精
執念の転化
気の病
形なき妖
道連れ
大山伏
そら礫
消える灯
夜光珠
異玉
化物の寄る笛
持ち去られた鐘
行厨喪失
銭降る
猫の小判
雁の財布
夜著の声
古兜
古枕
木像読経
斬られた石
動く石
魚石
提馬風
風穴

赤気

あとがき (青蛙房主人)

解説 アンソロジスト宵曲 (東雅夫)




◆本書より◆


「はしがき」より:

「小川芋銭(うせん)氏は「芋銭子開七画冊」の序に於て「図中往々怪を描くものあり、是(これ)予が癖にして実に東洋民族の癖なり。縁由(えんゆう)する処は老樹浮藻廃瓜水蟲狐獺の類、則(すなはち)自然物体中より其(その)妖氛(ようふん)魅形を捕捉し来る。惟(おも)ふに宇宙間虚霊遊動して予が方寸を誘(みち)びくものか」と云った。著者が平生読書の際、妖異に対して感ずる興味の如きも、やはり東洋民族の脈管を流れる血の致すところかも知れぬ。柳宗元(りゅうそうげん)の「竜城録」によれば、「昏夜(こんや)鬼(き)を談ずるなかれ、鬼を談ずれば則ち怪至る」というのであるが、深夜明るい電燈の下にインクの滴々より成った本書には、そういう虞(おそ)れは万々ない事と信ずる。」


「舟幽霊」より:

「生月(いきつき)というところの鯨組の親方に道喜という者があった。はじめ舟乗りをしていた頃、或夜舟端に白いものが何十も取り付いたので、よく見れば子供のような細い手である。」
「人吉(ひとよし)侯の侍医であった佐藤宗隆という人は、江戸へ出る船中で舟幽霊を見た。播州(ばんしゅう)舞子(まいこ)の浜あたりは、こういう事の稀なところであるが、その夜は陰火が海面を走って怪しく見えた。ほどなく大きさ四尺余りもある海月(くらげ)のようなものが漂って来て、その上に人の形をした者が居り、船頭に向って何か云いかけそうに見えた。」



「異形の顔」より:

「鈴木桃野(とうや)の祖父に当る向凌という人が若い時分に、独り書斎に坐っていると、忽然として衣冠を着けた人が桜の枝から降りて来た。(中略)衣冠を着けた人などが、この辺に居る筈がない。固(もと)より天から降るべき筈もないから、心の迷いでこんなものが見えるのであろうと、暫く目を閉じてまた開けば、官人は次第に降りて来る。目を閉じては開くこと三四度、遂に縁側のところまで来て、縁端に手をかけた。」

「越中、飛騨、信濃(しなの)三国の間に入り込んだ四五六谷というところがある。神通(じんずう)川を遡り、またその支流を尋ねて行くのに、甚だ奥深くて、これを究め得た者がない。近年飛騨舟津(ふなつ)の者が二人、三日分の食糧を準備して川沿いに行って見たが、その食糧も乏しくなったので、魚を釣って食うことにして、なお幾日か分け入った。或時ふと同行者の魚を釣っている顔を見ると、全く異形の化物である。思わず大きな声で呼びかけたので、魚を釣っている男が振向いたが、その男の眼には此方の男の顔が異形に変じている。お互いに異形に見える以上、この地に変りがあるに相違ないと、急いでそこを逃げ出し、大分来てから見合せた顔は、もう平常に戻って居った。思うにこの谷は山神の住所で、人の入ることを忌み嫌って、こういう変を現したものと解釈し、その後は奥深く入ることをやめたが、飛騨の高山(たかやま)の人の話によれば、それは山神の変ではない、山と谷との光線の加減で、人の顔の異形に見えることがある、飛騨のどこかに人の往来する谷道で、人の顔が長く見えるところがあるが、その谷を行き過ぎると常の通りになる、この道を通い馴れぬ人はびっくりするけれども、所の人は馴れて何とも思っていない、ということであった。」



「猫と鼠」より:

「「閑窓瑣談(かんそうさだん)」にあるのは遠州御前崎(おまえざき)の話で、西林寺(さいりんじ)という寺の和尚が或年暴風の際、舟の板子(いたご)に乗って流れて来る子猫があったのを、わざわざ小舟を出して救い寺中に養う。十年ほどたって、猫は附近に稀れな逸物の大猫になり、この寺には鼠の音を聞くこともなかった。西林寺は住職と寺男だけという簡素な寺であったが、或時寺男が縁端でうたた寝をしていると、猫も傍に来て庭を眺めている。そこへ隣りの家の猫がやって来て、日和もよし、伊勢参りをせぬかと声をかける。寺の猫がそれに答えて、わしも参りたいが、この節は和尚様の身の上に危い事があるので、外へは出られぬ、と云う。隣りの家の猫は寺の猫の側近く進んで、何やらささやくものの如くであったが、二疋はやがて別れた。寺男は夢うつつの境で、この猫の問答を聞いたのである。その夜本堂の天井に恐ろしい物音が聞える。折ふし雲水の僧が止宿して居ったのに、この物音が聞えても、一向起きて来ない。(中略)夜が明けて後、天井から生血が滴るので、近所の人を雇い、寺男と共に天井裏を見させたところ、寺の猫は朱(あけ)に染まって死んで居り、隣りの猫も半ば死んだようになっていた。更に驚いたのは、それより三四尺隔てて、二尺ばかりもある古鼠の、毛は針を植えたようなのが倒れていることであった。(中略)猫はいろいろ介抱して見たが、二疋とも助からなかった。」


「化け猫」より:

「佐藤成裕(しげひろ)は「中陵漫録(ちゅうりょうまんろく)」に猫の話をいくつも書いているが、その中に禅僧から聞いたという化け猫の話がある。猫好きの婆さんがあって、猫を三十疋も飼っている。猫が死ねば小さな柳行李(やなぎごうり)に入れて棚に上げ、毎日出して見てはまた棚へ上げて置く。この事已(すで)に尋常でないが、この婆さんは白髪で、猫のような顔をしていたそうである。後に人に殺され、半日ほどして老猫に変った。」


「大鳥」より:

「ある雪の明け方、新城(しんじょう)の農民が近くの山へ炭焼きに行くと、向うの山にいつも見たことのない大木が、二本並んで立っている。上に物があって、大きな翼を搏って上るのを見れば、前に大木と思ったのは鳥の両脚であったというのである。」


「茸の毒」より:

「普請をする家があって、黄姑茸を煮て職人に食べさせることにした。時に屋上に在って瓦を葺(ふ)く者が、ふと下を見れば、厨(くりや)には誰も居らず、釜の中で何かぐつぐつ煮えている。忽ち裸の子供がどこからか現れて、釜を繞(めぐ)って走っていたが、身を躍らして釜中に没した。やがて主人が運んで来たのは茸の料理である。屋根屋ひとり食わず、他人に話もしなかったが、食べた連中は皆死んだ。」


「果心居士」より:

「果心居士の話は「義残後覚(ぎざんこうかく)」に書いてあるのが古いらしい。伏見(ふしみ)に勧進能があった時、果心居士も見に来たが、已(すで)に場内一杯の人で入る余地がない。これはこの人達を驚かして入るより外はないと考えた居士は、諸人のうしろに立って自分の頤(おとがい)をひねりはじめた。居士の顔は飴細工の如く、見る見るうちに大きくなったから、傍にいる人はびっくりして、これは不思議だ、この人の顔は今までは人間並だったが、あんなに細長くなってしまったと、皆立ちかかって見る。遂に居士の顔は二尺ぐらいになった。世にいう外法頭(げほうがしら)というのはこれだろう、後の世の語り草に是非見て置かなければならぬと、誰れ彼れなしに居士の顔を見物に来る。能の役者まで楽屋を出て見に来るに至ったので、居士は忽ちその姿を消し、人々茫然としている間に座席を占め、十分に能を見物することが出来た。
 果心居士は長いこと広島に住んでいたが、そこの町人から金銀を大分借りた。そうして一銭も返済せずに京へ来てしまったので、町人はひどく腹を立てた。その後町人も京へ上ることがあって、鳥羽(とば)の辺でばったり果心居士に出逢うと、口を極めて居士を罵倒する。借金をしたのは事実だから、一言の申し開きもしなかったが、居士は例の如く自分の頤をひねりはじめた。今度は伏見の能見物の時と違って、顔の横幅が広くなって、目は丸く鼻は高く、向う歯が一杯に見える、世にも不思議な顔になってしまった。町人もいささか驚いていると、居士はすましたもので、拙者はこれまであなたにお目にかかったことがござらぬが、何でそのように心易げに申さるるか、と反問した。町人が見直すまでもなく、全く別の顔だから、まことに卒爾(そつじ)を申しました、と平あやまりにあやまって別れて行った。」
「「義残後覚」に出ている話は(中略)大体に於て悪戯の程度にとどまっているが、元興寺(がんごうじ)の塔へどこからか上って、九輪の頂上に立ち、著物を脱いで打ち振い、やがてもとの通り著て、頂上に腰掛けたまま四方を眺めている「玉箒木(たまはばき)」の話になると、大分放れたところが出て来る。或晩奈良の手飼町の或家で、客を四五人呼んで酒宴を開いた時、客の中に果心居士をよく知った者が居って、頻(しき)りに幻術の妙をたたえたところ、それなら居士をこの座へ招き、吾々の見ている前で幻術をさせて下さい、お話ほどの事もありますまい、と少し疑惑を懐(いだ)く者もあった。はじめに居士の話をした者が出て行って、間もなく居士と一緒に戻って来たが、その時少し疑惑を持つ一人が進み出て、(中略)どうか私の身について奇特をお見せ下さい、と云った。居士は笑って、(中略)座中の楊枝を手に執り、その人の上歯を左から右へさらさらと撫でた。上歯は一遍にぶらぶらして、今にも脱け落ちそうになったので、その人大いに驚き悲しみ、恐れ入りました、御慈悲にもとのようにして下さい、と歎願に及ぶ。(中略)再びかの楊枝で右から左へ撫でると、歯はひしひしと固まって、もとの通りになった。人々今更の如く感歎し、とてもの事に今夜この座敷で、すさまじい幻術をお見せ下さい、子々孫々までの話の種に致します、と所望する。お易い事と呪文を唱え、座敷の奥の方を扇を揚げて麾(まね)けば、どこからか大水が涌き出して、座敷にあるほどの物が全部流れはじめた。水は忽ちに座敷に充ち満ち、逃げようにも逃げられなくなったところへ、十丈ばかりもある大蛇が、(中略)波を蹴立ててやって来る。皆々水底に打ち伏し、溺れ死んだと思ったが、翌日人に起されて座敷を見れば、平生と変ったところは何もない。」
「その頃大和(やまと)の多門(たもん)城には、松永弾正久秀(だんじょうひさひで)が居住して居った。果心居士の噂を聞いてこれを招き、(中略)自分はこれまで幾度となく戦場に臨み、刃を並べ鉾(ほこ)を交うる時に至っても、終(つい)に恐ろしいと思った事がない、その方幻術を以て自分を脅すことが出来るか、と尋ねた。居士はこれに答えて、畏りました、然(しか)らば近習の人も退け、刃物は小刀一本もお持ちなされず、灯も消していただきとうございます、と云う。久秀はその通り人を遠ざけ、大小の刀を渡し、真暗な中にただ一人坐っていると、居士はついと座を立ち、広縁を歩いて前栽(せんざい)の方へ出て行った。俄かに月が曇って雨が降り出し、風蕭々として、さすがの松永弾正も何だか心細くなって来た。どうしてこんな気持になったかと怪しみながら、じっと暗い外を見ているうちに、誰とも知らず広縁に佇む人がある。細く痩せた女の髪を長く揺り下げたのが、よろよろと歩いて来て、弾正に向って坐ったけはいなので、思わず何者じゃと声をかけた。その時女大息をつき、苦しげな声で、今夜はお寂しゅうございましょう、見れば御前に人さえなくて、と云うのは、五年前に病死した妻女の声に紛れもない。弾正もここに至って我慢出来なくなり、果心居士はどこに居る、もうやめい、と叫ばざるを得なかった。件(くだん)の女は忽ち居士の声になって、これに居りまする、と云う。もとより雨などは降らず、皎々(こうこう)たる月夜であった。」



「命数」より:

「鯰江(なまずえ)六太夫という笛吹きがあった。国主の秘蔵する鬼一管という名笛は、この人以外に吹きこなす者がないので、六太夫に預けられたほどの名人であったが、何かの罪によって島へ流された。(中略)ひそかにこの鬼一管を携え、日夕笛ばかり吹いて居った。然(しか)るにいつ頃からか、夕方になると、必ず十四五歳の童が来て、垣の外に立って聞いている。雨降り風吹く時は、内に入って聞くがよかろう、と云ったので、その後はいつも入って聞くようになった。或夜の事、一曲聞き了(おわ)った童が、こういう面白い調べを聞きますのも今宵限りという。不審に思ってその故を問うと、私は実は人間ではありません、千年を経た狐です、ここに私のいることを知って、勝又弥左衛門という狐捕りがやって参りますから、もう逃れることは出来ません、という返事であった。そこで六太夫が、知らずに命を失うならともかくも、それほど知っていながら死ぬこともあるまい。弥左衛門が嶋にいる間、わしが匿まってやろう、と云ったけれども、狐は已(すで)に観念した様子で、ここに置いていただいて助かるほどなら、自分の穴に籠っても凌(しの)がれますが、弥左衛門にかかっては神通を失いますので、命を失うと知っても近寄ることになるのです、今まで笛をお聞かせ下さいましたお礼に、何か珍しいものを御覧に入れましょう、と云い出した。それでは一の谷の逆落しから源平合戦の様子が見たい、と云うと、お易い事ですと承知し、座中は忽ち源平合戦の場と変じた。」


「異玉」より:

「江戸の亀井戸に住む大工の何某が、夏の夜涼みに出たら、どこからか狐が一疋出て来た。その狐が手でころばすようにすると、ぱっと火が燃え出る。不思議に思って様子を窺えば、火の燃える明りで虫を捕るらしい。狐は虫を捕ることに夢中になって、近くに人がいるのを忘れ、別に避けようともせぬので、手許へ玉のころがって来たのを、あやまたず掴む。狐は驚いて逃げ去った。玉は真白で自ら光を放つ。夜人の集まった時など、この玉を取り出してころがすと、ぱっと火が燃えて、付木(つけぎ)なしに明りの用を弁ずる。大工は大いに重宝して、二年ばかり所持して居ったが、その間一疋の狐が大工の身に附き添って、昼夜とも離れない。年を経るに従い、大工も痩せ衰えて来た。多分この玉の祟りだろうと皆に云われるので、漸(ようや)く玉を返そうと思う心が起り、或夜闇の中に投げ遣った。狐は忽ち躍り上ってこれを取り返し、大工の方は何事もなかった。」




こちらもご参照ください:

『日本随筆大成 〈第一期〉 18』 世事百談 閑田耕筆 ほか
『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上』 杉浦明平 訳 (岩波文庫)




















































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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