北村昌士 『キング・クリムゾン ― 至高の音宇宙を求めて』

「ジャズ・ギタリストだとか、クラシック、ロックという具合に、自分を考えたことは一度もないね。私はそんな多芸ではない。だから自分のイディオムを自分なりに完成させる必要があった」
(ロバート・フリップ)


北村昌士
『キング・クリムゾン
― 至高の音宇宙を求めて』

 
新興楽譜出版社 
1981年7月10日 第2刷 
282ページ(うち口絵モノクロ図版6p) 
ディスコグラフィー84p
四六判 並装 カバー 
定価1,500円
装幀、本文レイアウト: 本多博隆、木村穣一



本書はヤフオクで1,000円(710円+送料290円)で購入しました(2011年10月)。
これは第2刷で、第1刷の発行年月日は記載されていません(たぶん1981年6月です)。
そういえばシンコー・ミュージックのクリムゾン本は当初たかみひろし氏が書く予定だったのではないでしょうか。


北村昌士 キングクリムゾン 01


「キング・クリムゾンの基本的な目標は、アナーキーを組織化し、カオスの潜在的な力を利用し、さまざまな異なる影響を相互に作用させ、それらの厳密な力の均衡を発見することである」
(ロバート・フリップ)


北村昌士 キングクリムゾン 02


目次:

第Ⅰ章 カオスの収束(一九六七~一九六八)
第Ⅱ章 永遠の宮殿(一九六九~一九七〇)
第Ⅲ章 流動と変遷(一九七〇~一九七二)
第Ⅳ章 創造者の権利(一九七二~一九七四)
エピローグ

附録 ディスコグラフィー



北村昌士 キングクリムゾン 03



◆本書より◆


「一九四六年五月十六日、ウィンボーンの不動産業者の息子として生れたフリップは、田舎のブルジョア階級特有の保守的で厳格な家庭と自らの少しばかり鋭敏な感受性の間で、ただならぬ孤立感を覚えながら幼少時代を過ごした。自分と人々の間にある距離に非常な苦悩を経験し、知らず知らずのうちに寡黙な性格へと固着していくが、フリップ自身の告白によれば、「イギリス人としてのハードな儀礼的、抑制的社会通念がとても重く、また白々しく感じられた。父親は私にイギリス紳士としての修練を積ませ、彼の相続人としての条件を満たすことを考えていたようだが、私はそれに反してひどい変り種だったようだ」といい、幸福とはほど遠い、疎外感にたっぷりと浸された少年時代を思い返している。
 「十歳の時、小学校の校庭に立ってはっきりと感じた。『自分は違っている』ってね。それ以来、十歳から二十五歳までの十五年間、自分自身とそれを取り巻く環境とを努めて同化しようと心がけたが、それは惨めなまでの失敗に終った」
 フリップが早くから、自己に対しての客観的洞察の視野を持ち込み、関係論的視座でものごとを考えるような早熟な少年であったことには驚かされる。しかし、彼の少年時代が彼自身をして「この先誰にもあんな辛い目には合わせたくない」と言わしめるほどの不幸な経験とは何だったのだろう。
 「私は実際にはまったく利発で、あふれんばかりに元気な性格だと思うのだが、それを表現する仕方がまずかったようだ。変人あつかいされて除け者にされることが多かった」
 抽象的な言いまわしだが、ここにフリップの本音がある。彼の少年時代とは自らの感覚の内で滞りなく流れる“世界への限りない違和感”との対立、そして戦いだったのだ。」
「まごうかたなく、ロバート・フリップは先天的なアウトサイダーだったのである。少年時代の彼の眼に映るもの、耳に入るもののすべては、彼の観念の世界に入ると、例えようもなくくだらない、取るに足らないものに堕してしまう。社会全体の営為がおそろしく希薄で無意味に映り、彼の旺盛な知的興味は現実とはまったく逆方向の、より自らの感覚に忠実な普遍的性質を秘めた限りない抽象へと向かっていく。
 芸術――ロバート・フリップが選択した唯一のもの。それは彼の存在にとってかけがえのない、同時に自らの持って生まれた素晴しい感覚と思考の能力を、“生きるため”という積極的な目的のために使用することを可能にする、きわめて重大で必然的な決定だった。
 あまたの優れた芸術作品や芸術家が世界におけるほんの気まぐれや偶然で生まれたと考えるのは大きな間違いだ。(中略)近代社会以降の芸術家のほとんどが、自己の創造活動に至るまでの軌跡の上で、ロバート・フリップと同じような道徳的、理性的社会規範からの逸脱を経験している。芸術家ばかりでなく、犯罪者、自殺者、異常性欲者、ある種の精神病患者、麻薬中毒患者、過激な政治テロリストなど、社会生活からの内面的な離脱によって発生するアウトサイダーたちが法律的にいくら取り締まっても続々発生する理由の裏側には、今日の社会と人間との病的な関係が克明に反映されていて、こうした反社会的な衝動を唯一社会的に行使でき得るのが、今日では芸術のみであることも重要な問題だ。ロバート・フリップには犯罪者として闇の社会の帝王たることを志すことも、過激な政治犯として世界中を恐怖に陥れることも、また自殺してこの世と縁を切ることもなく、そうした行動への素質は充分あったにもかかわらず、芸術へと向かっていった。結局はそれだけのことであり、それだからこそ彼は重要なのだ。」
 


北村昌士 キングクリムゾン 04


北村昌士 キングクリムゾン 05


北村昌士 キングクリムゾン 06











































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『夜想 10 特集: 怪物・畸型』

「きっとこれからは、暗いムードをことさらに押し出すのははやらない。(中略)奇型、あるいは不具となってしまった人が、奇型でない者、健常者の眼と論理に自分を合わせようとするのではなく、全く自己の側に論理を引きつけること、これこそが今日、求められていることなのかも知れない。」
(栗本慎一郎 「怪物の生まれる時代」 より)


『夜想 10 
特集: 怪物・畸型』


ペヨトル工房 
1983年12月1日 発行
176p 
A5判 並装 
定価980円
編集発行人: 今野裕一
AD: ミルキィ・イソベ



本書より:

「エリザベス朝以来の伝統をもつ見せ物小屋は、第2次世界大戦の後、博愛主義の名の下に次第に減少化の道をたどることになり、畸型の姿が人目に晒される機会が少なくなった。薬物や生体環境の悪化が進行するなかで当然人間の畸型発生率も増大しているにも係わらず、公害による畸型動物などばかりがあげつらわれている。もし万が一、身体の一部が不自由な人が、ごくあたりまえに街中に存在できないような、なんらかの規制(目に見えるもの、見えないもの、無意識的に働くもの、いろいろあるが……)が機能しているのだとしたら、我々は文化というものをもっと深く問い詰めてみなければなるまい」


秋田昌美に北村昌士……フールズメイトかとおもったわ。


夜想 怪物畸型 01


目次:

高橋睦郎 畸型の舟
合田佐和子 鏡の中
R・シャイツル 家の崩壊

松田修 不具の構造・畸型の美学
武邑光裕 聖徴・畸型・反身体
秋田昌美 畸と聖性
今野裕一 逆位相の解剖学

若桑みどり われらの内なる怪物
丹生谷貴志 怪物・東洋・女

三浦雅士 不具についてのノオト
栗本慎一郎 怪物の生まれる時代
北村昌士 伊福部昭――序論のための断章Ⅰ

パノラマ
サイド・ショウの人々
先天異常
畸形見世物考 あるいは臓腑の反世界



夜想 怪物畸型 03



◆本書より◆


若桑みどり「われらの内なる怪物」より:

「怪物の顔をはっきり見たのは、高校生のころ読んだランボーの「見者(ヴォワイヤン)の手紙」の中でである。詩人たるものは、「怪物とならねばならぬ。……怪物であらねばならぬ…怪物をおのれの中に養わなければならない」とランボーが書いていた。それ以来というもの人間たちを見るとき、私は、彼が怪物かどうかを見定めたものである。私は、そうやって人間を二つの種類に分けてきた気がする。ランボー学者が、何と言っているかは知らない。私が、ただ、彼が怪物かどうかを見ればすぐわかると永年信じてきたことはたしかである。
 私はアッシリアのニムルード出土のアラバスターのレリーフに刻まれている鳥の顔をした人間が、もっともこの怪物に近い、と思ってきた。これはほとんど人間だが、異形であり、半ば神、聖なる者に近く、聖樹の守護神である。彼を神聖なるものに近づけているのは、くちばしや恐ろしげな目つきばかりではなく、背につばさをもっているせいである。鳥形の人間のイメージがもつ力は、その非人間性であり、冷たさ、鋭さであり、その無感動、そしてその天空性である。」
「フランス人は次のようなことわざをいう。「竜のいるところ、宝物あり」。聖なるものの中心の辺(へり)に怪物は住む。これでランボーの怪物の正体がわかる。なぜ、もしもわれわれが怪物でないのなら、“怪物とならねばならぬ”のか。それは、怪物の本性が、人間の理性の規範によって断じて統御できぬ未知の力にあるからだ。それは宇宙の生成のモメントに神にさき立ってあり、神のまわりにとぐろを巻いてのこった。神が死んだときそれも一緒にいなくなってしまった。いまや人間のような顔をした自分を鏡で見たときに、そこに怪物を見つけたことがない人間にとって怪物は存在しない。」



夜想 怪物畸型 06


栗本慎一郎「怪物の生まれる時代」より:

「五月四日死亡した寺山修司が言っていたように、このところ、具体的なフリーク人間の誕生は少なくなっているかに見える。」
「なぜなのか、寺山修司も疑問に思っていたようだが、私も疑問に思っていた。
 近代医学の進歩のおかげだと言えば、ことは妙に判りやすいが、少しでも事情を知るものにとっては、不必要なクスリを使用したり、不必要な手術を実験的に行ってみたりする機会が圧倒的に増えたこの頃の近代病院からは、相当数のフリークたちが誕生すべきなのだ。
 しかし、ある日、私の疑問を氷解させる、ある医師の体験談を聞いた。」
「彼がはじめて出産に立ち会ったそのとき生まれた赤ン坊は、なんと目がひとつしかなかったというのだ。片目がつぶれているというのとは違う。目がひとつしかなく、片方にはなにもなくツルリとした皮膚だけである赤ン坊が生まれることはありうる。そして、その赤ン坊が、死なずに健康に成長することも十分、有りうるのである。
 そうして、そのような子どもが成長して、その段階でムラの共同体秩序の壁にぶつかり、(中略)両親の手によって、森の中に小屋を作ってもらい、ときおり、食糧や衣料や、お祭りのとき作ったケーキの一部などを運んでもらって住んでいるということは昔は現実に有りえたのだ。」
「ところが、この医師が、立ち会ったそのときの出産では、一つ目の赤ン坊を見て、一瞬その場にいた看護婦、インターンほかが息をのむ間もなく、熟練をきわめているはずの教授の手がすべり、その赤ン坊が床に落ちたというのだ。」
「これは、業務上過失致死罪に、十分あたるものであるが、生んだ両親のがわも、死んだ我が子を見て、(中略)黙って引っこんだというのである。」

「私が述べたいことはひとつ、経済人類学の予見に基けば一九八〇年代は、怪物と非怪物のボーダーが失われるという傾向を秘めながら怪物およびフリークの跋扈する時代となっているということである。ごく簡単なフリークは、むしろ、メジャーなサブカルチャーに取り込まれていくであろう。逆にそのサブカルチャーを強く動かしうる可能性もないわけではないが、さらにそのまた逆に多少の反権力性も時代の波に取り込まれるであろうということにもなる。
 ロックでもフューのような超過激的にブレた歌手はともかく、戸川純のごとき、世間に過去の“正常”な眼が今なお生きているとすると、単に“病気”ということになるであろうような歌手が、マイナーを脱してきているのだ。彼女らの病んでいる眼差しは、いまや単なる排除の対象ではないのだ。
 きっとこれからは、暗いムードをことさらに押し出すのははやらない。(中略)奇型、あるいは不具となってしまった人が、奇型でない者、健常者の眼と論理に自分を合わせようとするのではなく、全く自己の側に論理を引きつけること、これこそが今日、求められていることなのかも知れない。」



夜想 怪物畸型 05


北村昌士「伊福部昭――序論のための断章Ⅰ」より:

「つまり怪獣というのは、そうした大自然の神秘とか、人間精神の神話的世界から放たれた象徴的なエネルギーが、映像という表現のなかで得た仮りの姿ということもできるだろう。それらがある日突然街に出現し、私たちの文明下の日常を侵犯するのだ。日常はなすすべもないまま怪獣の暴力に翻弄され手ひどい陵辱を受ける。子供だった私は、それを観て圧倒的なカタルシスともエクスタシーともつかぬものを感じ、やがて訪れた甘美な陶酔感に魅惑されたのだ。それは、明らかに私たちにとっての、最もプリミティヴな衝動と結びついたあまりに身体的な興奮作用であっただろう。私はゴジラの凶悪そうな目つきや、異様なダーク・グレーの皮膚、グロテスクな背中の突起に至上の美を感じ、家じゅうの紙という紙に憑かれたようになって、ゴジラの絵を描きまくったのを憶えている。」
「かつて哲学と科学は、神という概念に凝集されるあらゆるものの真相を解き明かすことが、私たちの知の最も高度に洗練された状態の掌握と定着につながると考えていた。トータルな全体の最終的収縮によって生じる一個の結晶体――真理と呼ぶ物質――があると盲目的に信じていたのだ。ところが神の発見とは無限に遠心的な全体への力の拡張を意味し、すべての求心的な運動を破壊する力であることを、ニーチェは言い、自らも無限に激越な意識とことばの自己解体のなかで狂って死んでいった。」
「いわば至高のヴァイオレンスに到達すること。完璧に能動的で力学的な実在への変容。それこそがニーチェの夢見た神のイメージであった。実に私は、ひどく大それたことだが、ゴジラのなかにそれを見つけたのだ。ゴジラは、近代的倫理の束縛の中からかろうじて生まれ出た正真正銘のアナーキーな実在として、(中略)幼少の私を一撃のもとに触発したのだということ。おそらく神の変わり果てた姿としてのゴジラは、当時の私のような子供(中略)が出会った最初の神のイメージなのではなかろうか。私はたぶん、あの時の強烈な興奮をとおして、その前後の時空間――すなわち日常性の一切――がある意味で完全な見せかけにすぎないことにうすうす気づいたのだ。」
「私がこれからやろうとしていることは、伊福部昭の音楽をとおして、また私の身体にプログラムされたあらゆる音楽とそれとの差異をとおして、どこまで無意味と否定を拡張し、神の原像に迫ることができるかという奈落性に充ちた試みである。虚無に対して、私はどこまで永久機関としての神を組織できるか、一切の形而上学のバカらしさのディスクールを暴き出しながら、その内部に滑り込んで、どこまで思い切り無礼な態度をとることができるか。ただしひとついえることは、音楽について、音楽の諸条件と諸限界を探る試みが、「もしかしたらいい」という予感めいたものをいつでも同伴していて、たぶんにロマンティックな肯定的気分をつくり出してくれるので、むしろ、死だとか否定だとか、解体だとか、そういう言説だけを拠りどころにする必要はないということ。音楽はそれ自体の能動性に一切をゆだねた時に、ある意味で決定的な有効性を発揮するのではないかと思う。」



夜想 怪物畸型 04


サイド・ショウの人々。


夜想 怪物畸型 02


裏表紙はカセットブック「上海星屑」の広告であります。









































































北村昌士 「月神懸かりて曰く」 (「The OWL 2」 1999年)

北村昌士 「月神懸かりて曰く」

「The OWL 2」 
1999年6月20日発行 pp.22-31
発行: SSE COMMUNICATIONS
発売: 星雲社

 

アマゾンマケプレで売られていたので買ってみた。
 
 
the owl 2 a
 
表紙はアイルランドの歌姫シニード・ローハン。版型といい編集といい「フールズメイト」にそっくりだ。何号続いたのか知らないが、六冊分で七千円(送料込)の定期購読を勧めたりしている。メインはアイリッシュだが、ヤマジカズヒデやZOAの記事もある。
 
 
本書より:

「原始・古代の知性
 
本文で下敷きにしているのは、主に古代の日本語で書かれ今でも読むことの可能な「日本語」テクスト。けれども、たとえば『日本書紀』のような官製史書や『万葉集』など何でもいいのですが、その書物のあらすじや物語、センテンスごとの意味的なディスクールといった内容部分を読み取る第一の水準にはあまりとらわれずに掘り進んでゆくとたどり着く場所、つまりテクストのディテール領域に形成された実にマイナーな文字情報ということになるでしょう。ネイティヴ言語と外国語の表記や語の表音・借字・借音規則、またある種の語呂合わせやダブルミーニング、内輪だけに通じる特殊用字などがあったり、ある種古代人独自の呪術的なことばの使用にもとづく、文法構造と文字の表意性からだけでは捕まえることのひどく難しい抽象的でアトランダムな要素があるとしたら、わたしの注目すべき情報は、むしろそちらのほうでより多く見つかるのは自明だからです。
(略)
専門の詩人・音楽家や世襲の語り部による芸能や神話伝承類の継承が果たした役割(略)。古代のケルト人は文字を知っていたにもかかわらず使わなかった。文字に書かれた記録は神聖性を喪失すると、かれらの精神的指導者ドルイドは考えていたらしい。したがってすべてのテクストは口伝により詩人が旋律、韻律、抑揚などをつけて伝承された。つまり歌うことで言語のもつ原初的な力、言霊の死滅を防いだのである。」

 
本文では古代の侏儒(ヒキヒト)が「弾き人」つまりミュージシャンであったかもしれないという説(「巫術・呪能・シャーマニズムの表現構造が、原初的には音楽芸能と一体であった実態」)や、「地下世界の住人」であったかれら小人族が金属祭祀文化の担い手であったこと、そしてヒキヒトの「ヒキ」(ヒキガエルの「ヒキ」)という「元来ヒキガエルを意味する朝鮮系の語彙」からユーラシア的な地霊としての蛙信仰、そしてヒキガエルと月の女神との関連などについて語られている。
 
 
the owl 2 b
 
アイリッシュ音楽の情報誌かと思うと、古代史論文が10ページに渡って掲載されている。読者は付いて来れたのだろうか。
 
 
月神懸かりて曰く
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

  

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ヤフオクで北村昌士の切り抜きを買った。

「葛藤がないものっていうのはダメだよね、まず。悩むっていうことはいいんだよ。」
(北村昌士)




kitamura fools mate 1
   
 
雑誌「フールズ・メイト」の切り抜きですが、何年の何月号なのかは不明。ディフェランスがCD『ナイト・クラッシュ』『アフィニティー』をリリースした時期(1994年)にそれぞれ掲載されたインタビュー記事のようです。

『ナイト・クラッシュ』の方は、記者による前書で、「本誌でもSSEの広告やVOXVIEW欄で発狂説が出てもおかしくないような情報が何度かあった。実際、神経過敏がひどいらしく、日常的な生活に少なからず支障をきたす場面もあるようだが、」などと書かれています。

以下、「」内は北村発言の引用です。

奴隷制の上に成り立っていたローマは奴隷狩りの目的で戦争をやっているうちに大帝国になった。奴隷となったのはゲルマン民族だが、のちにキリスト教の確立とともにゲルマン国家が成立し、ローマ帝国は亡びる。


「せっかくローマ帝国が亡びて、自分達は別のところにでっかいゲルマン人の国をつくったのに、統治目的とはいえ、キリスト教とローマ文化を、自分達の上に置いてしまった。つまり現実世界では自由になったはずなのに精神世界での主人と奴隷の関係だけは、とうとう消滅させられずに残ってしまった。あそこで『イヤオレたちはゲルマン帝国をつくって新しくやりますから別にイイデスヨ』って何でいえなかったんだろう。(中略)もしヨーロッパでキリスト教徒ではありませんということになると、人間ではないということと同じになる。すべてキリスト教にに管理されて教会の許可を得る。つまりそれが連中にとっては人間になる、奴隷が奴隷でなくなるシステム、自己証明の道だというヨーロッパにとっては、当然の物語があったんだ。ところがそれに対して疑問を抱いちゃいけないところで、ニーチェは疑問を抱いて、ヨーロッパ人っていうのは奴隷あがりの、かついまだに奴隷であり続けている人間達だったと、奴隷と主人に比した象徴的な関係として、ヨーロッパ人とローマ人の関係を言ったんだよ。(中略)天皇と武士も似たような関係だったけど、天皇家はそういうギシギシの管理をすることができなかったし、自分たちも平気で仏教を信じたりしてるし、武士は八幡神社つくったり、村には村人の氏神様がいたりしてけっこうフリーな部分を残してる。ところがヨーロッパ人が一番いけないのは、非キリスト教的なものを異教とか悪魔崇拝という言い方ですごく弾圧してるところで、でもそれって実際には、キリスト教からみたら異教でも、自分らの遠い祖先が信じてた古代の文化なわけだから、連中は自分たちの過去を必死で否定してることになるじゃないですか。おかしいよねー」
「ヨーロッパにはゲルマン人の前にフランスにケルト人というのがいて、彼らはローマ化を全面的に拒絶した。それがアイルランドやイギリスやスコットランドなんかに逃げてそこで国をつくっている。(中略)日本でいえば神武天皇が征服する前の奈良盆地にあった国がちゃんと分かってて、それが別の場所で続いているような状態。奥州というのは完全に日本のスコットランド。(中略)藤原三代までは完全な独立王国で、それも大和朝廷より古くから日本にいた可能性のある人たちの国だった。」
「ニーチェのヨーロッパ観を拡大解釈して日本に当てはめると、日本人っていうのは“奴隷の奴隷”になってしまう。(中略)つまり、ロックの文化っていうものがあるとして、それはアメリカとかイギリスの英語圏の人達のもので、そういう人達にオリジナリティの源があって、自分達はそれを単に借りてるだけだと。そういうコンプレックスの中で、(中略)彼らをさも偉大な人達であるかのように、雑誌を作って書いたり、すごく小さなことなのにそれを針小棒大に解釈して、新ムーヴメントみたいに雑誌で特集するような人達。もしニーチェがヨーロッパ人は奴隷だっていうんだったら、日本人はその下にいる。他の文化圏の文化に無批判に従うのが奴隷の最も顕著な特質だというニーチェの図式を拡張すれば、そういうことになるよっていうだけの話なのだけど、それは実際、現実的にはそうじゃなくて、けれど、言語の世界ではこういう風にも言えて、こういう言い方で言って考えると、これまで当然のように思えてたことでも、すごくおかしいことがわかるっていうか、“ああ、そうだったんだ”って気になれるでしょ」
「基本的に古代的なものっていうのはそれほど固有性がない。固有性を生み出すのは言葉だから、言語の未発達な社会っていうのはとても単純明快に、食べる、寝る、殖やす、戦う、あとはお祭があって、歌って踊ってみたいな、」
「英米文化の中で育ったロックはもう実際には終わってる。でもロック的なものっていうのは、世界中に昔からあった。沖縄にもアイヌにも日本国内にも、ただそれを近代社会の中で初めてカタチにできたのが、欧米の資本主義社会だった。特に最も老大国で豊かで、文化的なレベルも高くて、そういう文化的な情報量が蓄積されてたイギリス。(中略)それに反応したかたちで、白人はこう、黒人はこう、とそれまで差別化の対象としか考えていなかったアメリカが、ラテン系やジャマイカ人や黒人がやっていることが自分達の文化的なパワーのプラス要素になるだろうということで、自分達の国の民族的なゴチャマゼ状態を、ロック、ポップスの中で完全に肯定した。これは連中にとってスゴイでかいことだった」
「アメリカ人は文化的な逃走みたいな方法で、ヨーロッパへの文化的従属を拒んでいる。例えばジョン・ケージが沈黙だとか言い、アンディ・ウォーホルがポップ・アートでやったことなんか、ヨーロッパだったら、あんなことしないよ。ヨーロッパが最後に生んだ作曲家がシェーンベルクでしょう。(中略)つまりヨーロッパではプログレッシヴな意味合いっていうのは全部複雑化されてゆく過程でしょう。それをスパーンと切ったのがジョン・ケージの仕事だよね。(中略)一方、アンディ・ウォーホルは、(中略)コピーとかさ、コミックとか、商業アート、要するにすごくキッチュなものとしての表現がアメリカなんだという、ヨーロッパとは反対のことを言うんだよ。反対のことをすれば、ひとつの文化になってしまうくらいアメリカはヨーロッパ文化に対してコンプレックスを持っていた。それで認められればひとつの権威になっちゃうわけ。だから言葉は恐ろしいっていうんだ。あの人達はまず言語的にヨーロッパを描いて、言語的なヨーロッパを自分の頭の中に並べて、それを反転するだけなんだもの。ポジをネガにするだけなんだ。ヨーロッパはそれだけでびっくりする。なんせローマ時代からずーっと直線で来ているから。でも今はそういう相克してしのぎを削るという関係ではなくて、もっと死んでるよな両方とも。」

 
 
「葛藤がないものっていうのはダメだよね、まず。悩むっていうことはいいんだよ。クスリや酒や女でそういう状態をやりすごしてうまく逃げるんじゃなくて、自分がそこでしっかり悩みつつ進む。激突してそのまま散るんじゃなくて、さらにその向こうへ進むっていうことは、音楽をやってるなら自分の音を鍛えることになるし、自分自身を鍛えることになるっていう。」
 
 
kitamura fools mate 2


大量の書籍を前に悩む故・北村昌士氏。読み取れる文字や装幀デザインから判断すると、『グレート・マザー』『古代史を語る』『アルフレッド大王』『メロヴィング王朝史話』『ブルターニュへの旅――フランス文化の基層を求めて』『ケルトの神話』『ケルトの薄明』『放浪学生プラッターの手記』『シェイクスピアの人生観』『汚辱と禁忌』『根源の彼方に――グラマトロジーについて』『レーモン・ルーセル』『広辞苑』などがあるようです。
































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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