『定本 久生十蘭全集 9』

「「辛かったよ……失礼して、ぼくは、すこし眠らせてもらう」」
(久生十蘭 「われらの仲間」 より)


『定本 久生十蘭全集 9』
編集: 江口雄輔・川崎賢子・沢田安史・浜田雄介

国書刊行会 2011年6月20日初版第1刷印刷/同24日発行
793p A5判 丸背布装上製本 貼函
定価10,000円+税
装幀: 柳川貴代
本文二段組
月報(8p)



目次:

真説・鉄仮面
母子像
ボニン島物語
あなたも私も
人魚
海と人間の戦ひ
ひどい煙
われらの仲間
雲の小径
無惨やな
春の山
奥の海
川波
虹の橋
一の倉沢
不滅の花(インモルテル)
雪間(ゆきま)
呂宋(ルソン)の壺
肌色の月
喪服
いつ また あう

解題 (江口雄輔・川崎賢子・沢田安史・浜田雄介)




◆本書より◆


「母子像」より:

「いやだ、いやだ、こんな汚いところに生きてゐたくない。今夜のうちに死んでしまはう、死にでもするほか、汚いものを身体から追ひだしてやることができない……」


「あなたも私も」より:

「「われわれはあなた方の世代に期待をかけているんですよ……」」
「「ビキニで実験したウラニウム爆弾は、世界中、どこの原子炉ででも簡単に生産できる『二三八』を使ったものでした。それが日本のどこかへ落ちたとすると、三分の二以上の地域を、少なくとも三ヵ月の間、死の灰で蔽(おお)ってしまうから、あなたも私も……その区域にいる日本人は、どうしたって、ひとりも助からない……」」



「ひどい煙」より:

「半十郎が火縄の火を導火管の口火に移さうとしたとき、風のなかに、パーテル・ノステルの祈祷の声を聞いた。その一転瞬の間に、尾崎の断崖を背景にして、モヤモヤした砲煙の間から浮きあがつてきた、清らかな、世にも美しい女人(にょにん)の顔をありありと見た。
 火縄を持つた半十郎の手が、宙に浮いたまま、硬直したやうに動かなくなつた。自分は、砲術と大砲の領収を世職にする家に生れたのだが、これでもう、生涯、大砲から玉を打ちだす能力を失つたのだといふことを、このとき、はつきりと自覚した。」



「われらの仲間」より:

「「あれは、満蒙地区の戦犯第一号として、蒙疆(もうきょう)で銃殺されたはずの男なんです。」」
「「軍装の制式が出来たとき、あいつが、襟へ党の名を入れることにしたの……Y・KはY・Kでも、『山下建設』ではなくて、『ヤマト国粋党』と読むの……もっともふだんは、そんな堅苦しい呼びかたはしないわ。『われわれの仲間』とか、『われわれ旧勢力』は、なんて言ってるわ」」
「「戦争の間のことは、歴史以前の出来事のように霞んで、誰も思いだそうともしないけど、あたしたちの場合は、因縁因果の法則みたいに、断ち切ろうにも切れない状態で、しっかりと過去の幻影に繋がれているの」
 「過去の幻影というのは、あいつのことなんでしょう? 東京のまん中に要塞を構築しようという気ちがいは、どんな人間なんです」」



「雲の小径」より:

「「これは怪我をして死なれた方ですな。だいぶお苦しいようですから、はやく声をかけておあげなさい……あなたはもう死んでいるのだと、おしえてあげてください。それで、いくらかでも、苦痛から救われるのですから」」

「「お話するようなことでもないけど、一点でも自殺らしいところを残すと、行為が悲惨であればあるほど、いよいよ茶番めいたものになるでしょう。それでは助からないから、どうしても事故としか見えないように、綿密に計画したわ。」」



「奥の海」より:

「烏丸中納言は奇人の聞えの高いお公卿で、毎年四月、日光礼幣使の副使として、往きは中仙道、帰りは江戸をまわって東海道を通るが、両便と泊りのほか、いつも横になって眠っているので、名所はもとより、いまもって宿駅の名も知らない。街道筋で、引戸の間から足の出ている駕籠があったら、烏丸中納言が乗っていると思え、というくらいのものである。」

「金十郎はおそれ畏(かしこ)み、さっそくお館に推参すると、中納言は昼寝でもしていたのだとみえ、気だるそうなようすで、影のようにうそうそと、廊ノ間へ出て来た。」
「木の実が枝から離れ落ちるように、自然に知嘉姫との縁がまとまった。」

「知嘉姫は日増しにものを言わなくなった。このごろは小波ほどの微笑も見せなくなった、と思っているうちに、まだ露のある朝け、起きだして身じまいをすると、いつものように胸を反(そら)して出て行ったが、夜になっても帰って来ない。」

「金十郎は人生のオリジナルな問題に触れることを避け、人間の愛情のかからぬところで、自分一人で暮していたが、その罰で、善意も、ときには深く人を傷つけることがあるという、簡単な愛の論理すらわからないようになってしまった。
 金十郎はいちどは手の中にあった、大切なものを取り落したことに気がついて愕然(がくぜん)とし、(中略)すぐにも陸奥(みちのく)に下るつもりで、そうそうに江戸へ帰った。」

「三日ほどクヨクヨと考え詰めていたが、結局は、またしても読みの深い女心を読みそくない、なにかたいへんな失敗をやらかしたのにちがいないと、はかないところへ詮じつけた。」

「「こんどの隠し鯨は、御船手付の船頭と舟子が、藩船を使ってやったという、性の悪い事件で、お船方は総体打首。お船手御小人は切腹を申付けられることになろう……。もっとも、口書をとって盛岡へ送り、御用部屋へおさまるまでには、早くとも三日はかかる」
 川村孫助は、津軽の三厩から、松前までは半日の船旅にすぎないから、逃げ足の早いやつなら、三日もあれば蝦夷の奥までも行けるだろう、という意味のことを言っているのだが、金十郎には通じなかったらしい。番所の窓から雪もよいの暗い海の色をながめていたが、
 「腹を切るのに三日もいらぬ。いますぐ切ろう」
 と自若とした顔でいった。
 川村孫助は困ったような顔をしていたが、役儀の手前、切るなともいえない。
 「飛んだことになったよ。こんなつもりで、お番入をすすめたわけではなかったが……。江戸にいれば御儒者衆の家柄で、寛闊な日々を送れたものを、こんな辺土の浦浜(うらはま)へ流れきて、不法の漁撈(ぎょろう)に連座し、つまらなく腹を切るというのは」
 「辺土々々といわれるが、手前にとっては、住みよいなつかしい土地であった。どこで死んでもおなじことだ。すぐやりますから、ご検分ねがう」
 と脇差をとりあげた。川村孫助は四角に座りなおして背筋を立てた。
 「では検分しよう。潔(いさぎよ)いことだ……。それにしても、どうしてこんなところへ落ちてこられたのか、かねて不審に思っていた。聞けるものなら、聞いておきたい」
 金十郎は笑って答えなかった。」



「虹の橋」より:

「十六歳の春、あさひは本院を出て「社会」に入つたが、戸籍の母の前科がついてまはり、そのためにいくどか苦(にが)い涙を飲みこんだ。刑務所で生れた受刑者の娘などは、女中にさへ雇ってくれず、うまくもぐりこんだ気でゐても、間もなく素姓(すじやう)が知れ、蹴りだすやうなむごい仕方で追ひだされた。」



◆感想◆

かつて、「だいこん」に託して、日本が戦争を放棄して「その国自身は貧乏で弱いんですけど、その国があるために、ほかの国がみなしあはせになるといふやうな……世界中から愛され、感謝され、あの国があるあひだは、世界はけつして壊されないといふ希望をあたへるやうな……さういふ国」になることを夢みた十蘭でしたが、自衛隊は創設される、アメリカは悪びれた様子もなく核実験する……本巻収録作には十蘭晩年の絶望と憤りがじわじわと感じられます。
小説をその時代との関連でよむ、という、くだらないことをあえてしてみるならば、「母子像」のお母さんはつまり「日本国」で、「ひどい煙」の大臼砲は「自衛隊」、「無惨やな」の川合蔵人は「われらの仲間」でよみがえりつつある「過去の幻影」としての軍部の「戦犯」だということになります。「春の山」で死んでいく軍鶏は、警官に撃ち殺される「母子像」の太郎少年です。
そして「りぼん」に連載され、作者の死によって二回で中断した「いつ また あう」は、「墓地展望亭」を少女向けに書き直したような作品ですが、「火星のむすめ」と称される、カスパー・ハウザーのようなこの無言の孤児少女こそ、無惨にも踏みにじられた「だいこん」の夢の廃墟に、十蘭が見出した希望の象徴であったとおもわれます。

「奥の海」はよいです。「人生のオリジナルな問題」とは要するに愛=コミュニケーションのことです。生まれつきコミュニケーション能力のない、空気のよめない金十郎は(名前に「十」の字がはいっている登場人物は十蘭のアルターエゴだと考えてよいです)、僥倖によっていっしょに暮らすことになった女の人の気持をよみとることができず、女の人はいなくなってしまいますが、なぜそうなってしまったのか、それすらもわからないまま、金十郎は女の人の行方を追います。大切な人がどれほど大切であったか、失ってから気付くのはいたましいことですが、十蘭用語でいうとそうした「不器用な運命」を甘受するのもまた「人生の玄妙さ」です。大切な人にいつまた会えるのか。失われた人をふたたび見出す「墓地展望亭」や「湖畔」がある一方で、失われた人をおもいつつ靉靆として生き、時至れば潔く死んでいく「奥の海」がある。そしてその中間に立ち現われる「白雪姫」の冷徹なロマンティシズムの世界。十蘭の小説世界もなかなか玄妙です。























































































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『定本 久生十蘭全集 別巻』

「ボアゴベェの「鉄仮面」はウソだと思うんですよ。(中略)だいいち、鉄の仮面なんか、存在しなかった。ほんとは黒いビロードのマスク……(中略)なんのためのマスクかというと、暗殺を恐れて、じぶんで、つけたんです。」
(久生十蘭 「対談・話の泉」 より)


『定本 久生十蘭全集 別巻』
編集: 江口雄輔・川崎賢子・沢田安史・浜田雄介

国書刊行会 2013年2月4日初版第1刷印刷/同7日発行
660p 索引viii 口絵(カラー4p)
A5判 丸背布装上製本 貼函
定価10,000円+税
装幀: 柳川貴代
本文二段組

月報 (16p): 久生十蘭参考文献 (沢田安史 編)
正誤表



本書「解題」より:

「「定本久生十蘭全集」別巻には、第一巻~第九巻に収録された小説・戯曲作品のヴァリアントのなかから、二十三作(中略)を「異稿」として採録した。あわせて「座談・対談」と「補遺」を収め、巻末には「著作年譜」「年譜」「索引」を付した。」

カラー口絵は単行本表紙(書影)です。


目次:

異稿
 湖畔 [『文藝』版]
 海豹島 [『大陸』版]
 虹色の旗
 赤い孔雀
 幸福な朝
 傍若夫人とボクさん
 猫屋敷
 新説娘道成寺
 弘化花暦
 三人目
 金座の凧
 村の飛行兵 [人形劇版]
 月 [手稿版]
 花 [手稿版]
 だいこん [『モダン日本』版]
 だいこん 第6回 [『モダン日本』校正刷版]
 最後のワルツ
 ユモレスク 
 ココニ泉アリ 第54回 [異版]
 うすゆき抄 [『オール讀物』版]
 つきかげ抄
 このはな抄
 再会 [梗概版]

座談・対談
 迷路案内 [『新青年』昭和十四年三月号]
 迷路案内 [『新青年』昭和十四年六月号]
 探偵作家四方山座談会
 中支従軍対談会
 前線銃後はかく敵機を撃攘する
 艦隊・航空決戦を語る
 第一回オール新人杯決定発表
 第二回オール新人杯決定発表
 第三回オール新人杯決定発表
 対談・話の泉
 
補遺
 クノツクの演出
 作者の言葉 [「激流」]
 酒の害悪を繞つて
 給養――最前線の人々
 文芸週欄寄稿家招待茶話会記
 をがむ
 冬山

解題 (江口雄輔・川崎賢子・沢田安史・浜田雄介)

久生十蘭著作年譜 (沢田安史 編)
久生十蘭年譜 (江口雄輔 編)

定本久生十蘭全集索引




◆本書より◆


「対談・話の泉 (渡辺紳一郎・久生十蘭)」より:

久生 ぼくのおふくろは、六十近くになってから、ひとりで、ヒョッコリと、パリへやってきた。それもノエル(クリスマスの前日)に……ぼくのほうには、当然、女の子と約束があったもんだから、なんて、まァ、バカな日にやって来やがったもんだろうと腹をたてた。(笑)
 お花見にでも行くように、手提げの小さな信玄袋を持って、ギャール・ド・リヨンへ着いた。汽車からおりて、なにをいうかと思ったら、パリって、「ずいぶんオシッコ臭いところだね……」(笑)
渡辺 おふくろさんはなんでパリへいったの?
久生 ぼくは日本へ帰らないつもりで、むやみに金ばかり送らせたもんだから、それやこれやで勘づいたものらしい。おふくろとしては、迎えに来たつもりだったらしいが、そういう運びにはならなかった。
渡辺 よっぽど心配したんだよ。
久生 いや、あきらめていたようだった……」

渡辺 (中略)あんたの名前、どういう意味があるの?
久生 意味ないところが、いいところなんだ。あれは他人がつけてくれた名前だよ。当時、明治大学にいたから、雑文を書くのに、本名じゃ困るんだ。そうしたら、姓名判断の大家がいて、どっちへころがっても、上々吉という名を選んでやろうといって……。
渡辺 ぼくは「伊礼次五郎」という名前で、若い頃は「新青年」なんかにずいぶん書いたよ。イレ・ジゴロというフランス語をもじったものだ。」

久生 ぼくは体系ある勉強をしていないでしょう。だから、時代小説を書くには骨を折る。」

久生 そこにいて、毎日、バスでモンテ・カルロへ通っていた。満州事変のころで、ほとんど日本人がいない。ぼく一人だった……。「モンテ・カルロ・レヴュウ」という緑色の新聞があって、毎日のルーレットの出目を速報してくれる。こいつは面白いというんで、それと取っ組んだ。そのころ、いささか数学に自信があったもんだから、ロガリズム(対数表)かなんか、ひっぱりだして、徹夜で研究です。絶対というシステムを発見して、モンテ・カルロにモラトリアムをかけてやろうというわけでさ……。
 実は、パリで物理学校みたいなところにいたんですが、あんまり勉強したもんで、神経衰弱になっちゃった。医者や友達が、パリにいちゃいけないといって、キャーニュの家を周旋してくれたんだが、なんのことやら、わけのわからないことになった。ニースで赤バスに乗換えて、カジノへ乗りつけて朝の八時から夜の十二時半まで、半年ほど、毎日やった……。いろいろなことがあった。NO・2 というテーブルで、いつもぼくの向いにすわる若いスマートなマダムがいた。(中略)千フランのジュットン(模擬貨)をポンポン投げ出してえらく派手にやっている。玉まわしに、「あのマダム、勝ってるのか」って聞いたら、「どうも、勝ってるようには思えません」という……。そのうちに、おかしなことをやり出した……。バクチの講釈などして申訳ありませんけれども。(笑)たとえば、ニュメロ(数字)に賭けて、十フラン取られる。その十フランを取返すために、つぎに、十二フラン、つぎに十四フラン……十八、二十というようにパロリ(倍賭)でやるが、それをやっちゃ、ダメなんだ……。モンテ・カルロのルーレットは、朝の八時から十二時までに、だいたい二百回まわす。「数字」は一から三十六まであるから、三十六で二百を割って平均率をだす……こんなものは、平均率でもなんでもないんだが、今日はまだ「一」が一度も出ないから、もう出るはずだ、もう出るはずだ、でやっている。ところが、それが出ないんです。たとえば、「一」が二百回のうちに、ただの一度も出ない日があるという習性を知らずに、倍賭でやっていく。けっきょくマキシマムになっても取返せない。賭けただけのものをみなすっちゃう。(中略)クロウトはそんなことはしない。グレーのタキシードの襟に、赤イカーネーションの花かなんかつけて、ブラリと入って来て、「いま何が出る?」かなんかって、玉まわしに聞く。「十五と三十が出る」というと、すぐそれに乗る。シャルゥル(暑気というくらいの意)といっていますが、これは出ます。待つのは絶対ダメ……。そのマダム、それをやっている。「あれゃ、ダメだね。今晩あたりが危いな」って玉まわしと話してたら、翌朝、突堤の先へポッカリと浮きあがった。二時間ほどのちに、亭主が汽車でモンテ・カルロに着いた。ポーランドの大蔵次官か何かだったそうだけど、細君は公金を持ちだしてやっていたんだね。次官の先生、突堤へあげた細君の死体につかまって、ワァワァ泣いていた。まわりは原色まがいで、明るすぎる環境でしょう。見物しているには、つらすぎるような風景だったな。」




















































































『定本 久生十蘭全集 11』

「ナーニ、譬へ敵はファントマであらうと極悪のロキャンボォルであらうと、鬼神でもなければ魔物でもない、要するに奸智(かんち)に長(た)けた人間であるといふのに過ぎぬ。智慧の競走なら此の俺(お)れとても決して彼にはヒケを取らぬ。」
(久生十蘭 「ファントマ第一」 より)


『定本 久生十蘭全集 11』
編集: 江口雄輔・川崎賢子・沢田安史・浜田雄介

国書刊行会 2012年6月20日初版第1刷印刷/同22日発行
775p A5判 丸背布装上製本 貼函
定価10,000円+税
装幀: 柳川貴代
本文二段組
月報(8p)



本書「解題」より:

「「定本久生十蘭全集」第十一巻には、『新青年』昭和八年(一九三三)十二月号に発表されたフランスの作家トリスタン・ベルナアルの寸劇三篇から、博文館伝奇叢書の一冊として昭和十五年(一九四〇)十一月に刊行されたフォルチュネ・デュ・ボアゴベイ作「鉄仮面」まで、久生十蘭訳とされている作品を収めた。
 十蘭の場合、訳業の対象はフランス語作品に限られるが、現在一般的に翻訳と称されるものに合致するのは、ベルナアルの三篇だけであり、そのほかは原作にもとづいた自由訳あるいは翻案というべきものである。」



目次:

天啓 (トリスタン・ベルナアル)
夜の遠征 (トリスタン・ベルナアル)
犯罪の家 (トリスタン・ベルナアル)
ジゴマ (レオン・サヂイ)
ファントマ第一 (ピエール・スーヴェストル、マルセル・アラン)
ルレタビーユ第一 (ガストン・ルルウ)
ファントマ第二 (ピエール・スーヴェストル、マルセル・アラン)
ルレタビーユ第二 (ガストン・ルルウ)
鉄仮面 (フォルチュネ・デュ・ボアゴベイ)
 第一部 白い寝台
 第二部 死の牢獄
 第三部 悲哀の谷

解題 (江口雄輔・沢田安史)




◆本書より◆


「ファントマ第一」より:

「ファンドールは深く長き嘆息を洩らし、
 「アー、実にどうも困ツた。防禦の方法を講じようにも敵は何物であるかそれすらも判つてゐないのだから、テンデ手も足も出(で)ぬ。俺は永年多くの殺人事件を扱つて種々と犯罪の機微にも通じてゐるから、エリザベトを匿(かくま)ふ時も敵に尾行されるやうなヘマはしなかつた積りだが、それが易々と向ふに判つて了(しま)ふンだから実にやり切れン。(中略)俺が身を粉(こ)にしてファントマを追ひ廻してゐた時も成程辛(つ)らかツたが何(な)ンと言ツても追ひ廻すだけの役、生命(いのち)一つを投げ捨てるとさへ覚悟を定(きめ)れば恐ろしいも怖いもありやアしなかツたが、愛するものゝ命を護(まも)らなければならぬ立場になると、何(なん)となく心が臆して存分に立働(たちはたら)くことも出来ぬやうな塩梅だ。代れるものなら何時(いつ)と、何(な)ン時でも代ツて死なうが、俺が死んで見たツて必ずエリザベトが助かるといふ訳のものでもなし、これには実にどうも困却した。アー、辛(つら)い辛い、俺は生れてからこんな辛い思ひをした事はない」
 と言つて頻りに頭を抱へて呻(うめ)きゐしが、やがて昂然と肩を聳(そび)やかし、
 「今からこんな弱音を吹いちやア仕様がない。ナーニ、譬へ敵はファントマであらうと極悪のロキャンボォルであらうと、鬼神でもなければ魔物でもない、要するに奸智(かんち)に長(た)けた人間であるといふのに過ぎぬ。智慧の競走なら此の俺(お)れとても決して彼にはヒケを取らぬ。この身一つを投げ出(だ)して不惜命(いのちをしまず)に奮発したら、必ず敵を取ツて捕(とら)へ、エリザベトが晴れ々々と日を送れるやうにしてやる事も出来やう。譬へどんな事があツたとてムザムザエリザベトの命を奪はせさせぬ。殺させるものか。万々一にもそのやうな事があツたら、此の俺とても生きては居(を)らぬ」」



「鉄仮面」より:

「ルイ王の侍従として今を時めく、婚約者のカスタニャリイ侯爵を振り捨て、巴里(パリー)に潜伏しゐるアルモアーズの後(あと)を追つてローレンヌ州を出てから、今日まで三年の間(あひだ)、和蘭(オランダ)や白耳義(ベルギー)と、心細い旅の空で、筆紙に尽されぬ苦労をして来たが、それといふのも、たゞの一度の素振りにも表はしたことのない、マルセルへの遣瀬(やるせ)ない愛情のせゐであつた。
 そのマルセルは、もう死んでしまつた。露ほども自分の心を悟らずに、永劫に会へないところへ行つてしまつた。マルセルに対する秘(ひめや)かな愛情は死ぬまで口には出すまいと心に誓つてゐたのだが、いよいよ死なれてみると、せめて、たつた一度だけでも、自分の愛をうちあけて置きたかつた。いづれ冷酷な死が二人の仲を引き裂くであらうことは、初めから覚悟してゐたのだから、その方は左程心を悲しませはしないが、この想ひだけが遣瀬なかつた。」




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『定本 久生十蘭全集 10』

「力は強くなくとも、たまげるほど美しくなくとも、こういう男性が、こういう女性が生きていると確信するだけで、人生に希望がわくような、そんな人物を書いてみたい。なかなかの大仕事です。」
(久生十蘭 「作者のことば〔「われらの仲間」〕」 より)


『定本 久生十蘭全集 10』
編集: 江口雄輔・川崎賢子・沢田安史・浜田雄介

国書刊行会 2011年12月20日初版第1刷印刷/同22日発行
705p A5判 丸背布装上製本 貼函
定価10,000円+税
装幀: 柳川貴代
本文二段組
月報(8p): 堀切直人ほか/写真2点



本書「解題」より:

「「定本久生十蘭全集」第十巻には、「随筆ほか」「放送台本」「初期作品」「日記」と大きく四つの区分を設けて、既刊の一~九巻に収録しなかった初期短篇、戯曲、詩、短歌の創作のほか、新聞記事、放送台本、インタビュー記事、随筆、アンケート回答、作者のことば、従軍日記などを収めた。(中略)著者生前に再録、単行本化されたものはなく、今回初めて存在を確認されたテキストも少なくない。」


目次:

随筆ほか
 野砲のワルツ――フランス・トオキイの楽屋
 仁侠と勲章――堀口九萬一氏と語る
 世界夫人――福島けい子夫人と語る
 曇後晴――藤原咲平博士と語る
 絵入小説――吉屋信子女史と語る
 悲劇供養――天野光子女史と語る
 薔薇の騎士――秦豊吉氏と語る
 地の塩――兼常清佐先生と語る
 五十歳の役――田村秋子夫人と語る
 頭の中の自動車――山田耕筰先生と語る
 結婚前駆症――佐藤美子さんと語る
 独逸語春秋記――石井漠氏と語る
 幻の女王牌――高田せい子女史と語る
 外征始末――北村小松氏をつかまへる
 青痰――城戸四郎氏をつかまへる
 大将の刀――北原白秋先生にきく
 芥子粒夫人――太田綾子氏にきく
 金魚の黒焼――蛇の小父さん広瀬巨海氏にきく
 広告球の鳶――小鳥の小父さん中西悟堂氏にきく
 〔『シユピオ』お問合せ〕
 冷水
 〔『シユピオ』ハガキ回答〕
 連作「キヤラコさん」に就て
 商船護衛艦隊
 海軍歩兵
 酒保
 作者の言葉〔「内地へよろしく」〕
 読者への言葉〔「第○特務隊」〕
 クーパンの秋
 猿の最後の一匹まで
 兵隊三姿――前線に拾ふ
 作者の言葉〔「祖父っちやん」〕
 水谷準君に贈る
 作者の言葉〔「ココニ泉アリ」〕
 空旅
 作者のことば〔「氷の園」〕
 日の丸
 作者の言葉〔「十字街」〕
 身を固めるために
 歌舞伎教室――その形式と演劇精神
 時計と賞金
 〔久生氏の意見〕
 作者の言葉〔「あなたも私も」〕
 作者のことば〔「われらの仲間」〕――希望わく人物を
 〔作者の言葉『母子像』〕
 馬琴のクイズ
 あとがき〔『直木賞作品集(2)』〕
 作者のことば〔「呂宋の壺」〕
 馬のやうに

放送台本
 夜の鶯
 蜂雀
 下北の漁夫

初期作品
 カシノ、マンドリニ、クヰンテツドに就て
 東京への突入
 東京還元
 電車居住者
 短評――師範の音楽会に対する
 悪魔
 「紅苜蓿」以後
 東京の春
 南京玉の指輪
 〔新聞雑報1〕
 タバコの話
 斧九太夫
 植物園
 〔新聞雑報2〕
 〔新聞雑報3〕
 〔新聞雑報4〕
 〔新聞雑報5〕
 〔新聞雑報6〕
 〔新聞雑報7〕
 〔新聞雑報8〕
 〔新聞雑報9〕
 〔新聞雑報10〕
 〔新聞雑報11〕
 〔新聞雑報12〕
 函館十橋
 生社第一回 短歌会詠草
 蠶
 昆布考
 九郎兵衛の最後
 恐ろしい時代
 アヴオグルの夢――遠近法を捜す透明な風景
 典雅なる自殺者――心臓を失つた憂鬱な論理学
 喜劇は終つたよ
 ゐの・しか・てふ
 さいかちの実
 ぜじゆ・くり
 素劇拝見
 へんな島流し
 胃下垂症と鯨
 彼を殺したが……
 喧嘩無常
 鈴蘭の花
 な泣きそ春の鳥
 壁に耳あり
 ぷらとにっく
 オペラ大難脈
 植物の半肯定論法
 未だ見ぬ「築地」
 やりきれぬ頭――『築地を見る記』に贈る弔詞
 千疋屋店頭
 弱つた思ひ出
 死顔のお化粧――泣き出した日本人の会衆
 味噌
 エキストラその他
 つまらぬ『狼』
 歳晩祈念――佐藤春夫の『新年の祈祷』に嫺ひて
 函館景物記(四)――元町界隈
 〔新聞雑報13〕
 〔新聞雑報14〕
 〔新聞雑報15〕
 〔新聞雑報16〕
 〔新聞雑報17〕
 〔新聞雑報18〕
 蛇の卵――別辞にかへて
 亡霊は TAXI に乗つて
 骨牌遊びドミノ
 秋霧
 フランスの立待岬より

日記
 従軍日記
  日本・爪哇
  サランガン湖畔
  出発まで
  チモール島クーパン警備隊
  アンボン島第一砲台
  ハロンの航空隊
  ニユウギニアにて
  第九三四海軍航空隊

解題 (江口雄輔・川崎賢子・沢田安史・浜田雄介)




◆本書より◆


「絵入小説――吉屋信子女史と語る」より:

「でもあたしなんか、小説を書くほか何ひとつ能のない馬鹿な女だから、結婚したつて奥さんの役は務まりさうもない、つて思つてるわよ。(中略)あたしはいまの生活にちつとも不足はないんだから、結婚なんかしてわざわざ不幸な夫を一人増(ふや)すには当らないと思ふし、それにあたしは、大勢の兄弟の中で育てられたので、子供のときから自分の分前つてものをよく知つてるの。自分に分配(わけ)られた おやつ の外(ほか)は、ひとのものを強請(ねだ)つたり、慾しがつたりはしないのよ。神様があたしに分けて下すつた おやつ は、『小説を書く才能』つて おやつ なんだから、あたしはそれだけで満足してゐればいゝの。結婚とか、美しい男とか、楽しい恋愛なんて おやつ は、あたし以外の女のひとが貰つて喰べるのよ。」
 「すると、あなたには、何か神様がついてゐるやうですね。」
 「えゝ、どうもそんな風なの。だから、あまり気を多くして、あたしの神様に妬(ねた)まれたくないのよ。」と言つて、女史は笑はれたのでありますが、私は驚きまして、
 「それはどんな神様ですか。言霊命(ことたまのみこと)と言つたやうな方なのでせうか。」と訊ねますと、女史は重々しい声で、
 「いゝえ、小説の神様よ。」と答へられたのであります。「あたしね、小説を書くとき、いつも 神がかり みたいになるのよ。考へてもゐない事がひとりでずんずん書けるの。(中略)その楽しさつたらないの。どうせ現実主義(リアリズム)に徹底出切るあたしぢやないんだし、拍手(て)の来ない舞台で芝居をするのは悲しいから、人物でも境遇でも、読者が喜んでくれさうなものを、書くやうに心掛けてゐるの。あたしの書くものに抉(ゑぐ)つたやうな深い生活の線が出て来ればそれに越したことはないんですが、さう言ふ線が通俗小説の中で、あまり鮮やかに見えすぎるのはいけないやうに思ふの。矢張(やつぱ)り夢のやうなものをかけて暈(ぼか)して置かなくては。(中略)つまりね、あたしにはリアルな姿を書く力がないから、止(や)むを得ずあたしの想像(しさう)ででつちあげた、美しく理想化した姿ばかり書くことになるでせう。それが却つて読者のお気にいるの。頭でつかちの子供が大人の口真似をして、一生懸命に力んで書いてゐるところに同情が集るのね。そしてあたしが今日(こんにち)まで育てられて来たのはこの同情と同感のお蔭なのよ。あたしを曲りなりにも、一人前の通俗小説作家として通用するやうにしてくれたのは、勿論文壇の力でも、編輯者の力でもなくて、読者の支持の力なの。」
 「あゝ、この世の中に、あなたのやうな幸福(しあはせ)な方も少ないですね。門馬さんの友情と、百万人の信者(フイデエル)に取巻かれて、生活に不足はなく、小説を書くのが楽しくてたまらないと。」
 「どうも有難う。……それはね、多分私が、自分の持つてゐる運命を早く知つて、柄にもないほかの運命を指探(まさぐ)らうとしなかつたからなの。つまり身のほどを知つてたの。だからあたしはこゝ迄、大した苦労つてものをしないですらすらやつて来たやうなの。少女世界や文章世界なんかに投書をしてゐるうちに少女の友で『花物語』を書くやうになり、何の気なしに大阪朝日の懸賞に応募して見たら、どうした間違ひか当選して、それから主婦之友や婦人倶楽部で一人前の通俗作家として通用するやうになつたつていふの。……まるで夢中でここまでやつて来たけど、ほんとに大して苦しいつてことはなかつたの、妙ね。あたしつて、ずいぶん意気地なしだけど、大根(おほね)には楽天的なところがあるやうなの。あまり物事に屈托しないのよ。通俗作家だと言つて、あたしを軽蔑しようとするひともあるにはあるんですけど、こつちは言はれたつて、感じないんだから一向平気なものよ。」
 「でも、たまに純文学なんて酒もどうですか?」
 「あたし子供の時、挿画(さしゑ)の入つた小説が好きだつたの。字ばかりぎつしり詰つた小説は、なんだか恐いやうでね。」」



「広告球の鳶」より:

「「先生、あの鳥はいまなにか先生に耳うちしてゐたやうですが、まさか、あいつの頭で糞(ふん)をしてやらう、なんて言つたわけぢやないでせうね」
 「いや、なにか喰べたいのでせう。……鳥の話がわかるわけぢやない察してやるのです。……一旦飼はれてしまふと、鳥は山野に於けるほどいろいろなものを持つてゐない。広い領域も持つてゐないし、自由な気持も持つてゐないので、あゝやつてくれ、かうしてくれ、といろんなことを訴へるのですよ。その訴へるやつを、今度はなにがして貰ひたいのだなと思つてしてやると非常に喜ぶのです。それを早く察してやらないと鳥が意地悪になるんです。早く察しがつけば馴れてくるんです」」



「日の丸」より:

「日の丸の旗は国際的な約束からすれば、平和と博愛の表徴ということになるが、こんどの戦争で、国家の理想も、時には思うところと正反対にいくこともあるものだという実例を示し、そのためだいぶ格を落して、博愛、平和どころか(中略)「厚い面の皮(中略)と残虐な血」の象徴だったかと思わせる結果になった。」
「赤白青三段引がオランダの独占でないように、日の丸も日本だけのものではない。瑞西(スイス)ではスケート場の標識だし、回教国では しょう家が月一回の休業日を公示するマークであるそうな。カイロの有名なN商会のNに、そういった家のおかみさんが日の丸の旗をくれとせがむので、よろこんで絹の上物をくれてやったら、麗々と公示の用に使われたのには弱ったとこぼしていた。こういう使いかたもあると観念して、そっとしておいたということである。」












































































『定本 久生十蘭全集 7』

「孤独から救ふものは、孤独に徹して生きる勇気を持つ以外にはない。」
(久生十蘭 「黄昏日記」 より)


『定本 久生十蘭全集 7』
編集: 江口雄輔・川崎賢子・沢田安史・浜田雄介

国書刊行会 2010年7月20日初版第1刷印刷/同23日発行
680p A5判 丸背布装上製本 貼函
定価9,500円+税
装幀: 柳川貴代
本文二段組
月報(8p): 齋藤愼爾ほか/写真1点、図版1点



目次:

春雪
手紙
黄昏日記
カストリ侯実録
復活祭
巴里の雨
風祭り
三界万霊塔
淪落の皇女の覚書
巫術
蝶の絵
氷の園
みんな愛したら (「ノア」)
勝負
妖婦アリス芸談
あめりか物語
女の四季
風流旅情記

解題 (浜田雄介・江口雄輔・沢田安史)




◆本書より◆


「黄昏日記」より:

「これで、生涯、自然な気持で海を見ることができなくなつたと思ふと、自分が堕ちかけてゐる地獄の深さをはつきりと感じた。」

「院長の話では、この種の障害は衰弱を経て不幸な転帰をとるのが常だといふ。さういふものなら、ぜひとも正気にと、出来ぬことはねがはない。廃人だらうと狂気だらうと、妻ときめた女性はこの世に久子しかゐない。命のあらんかぎり、いたはり、かしづいてやることが夫たるものに許された特典だと思へば、この侘しさもまた楽しいといへるやうなものだつた。」

「依田は閉口して立飲台の隅で小さくなつてコニヤツクを飲んでゐると、だしぬけにラジオからすごくきれいな英語が流れだした。
 「おゝ、ブルツクリンの月よ。落葉がし、紐育(ニユーヨーク)に粉雪が降ると間もなくクリスマスが来ます……」
 きれぎれでよくわからないが、噂にきいてゐた、「東京ローズ」の対米宣伝放送らしかつた。
 「七面鳥のサンドイツチ……オブン(釜)のスープスタツク(煮込)の中で、玉葱と、人参をあしらつた野鴨がグツグツと音を立てながらあなたの帰りを待つてゐます。あなたのジユリアンが、あなたのエドナが、あなたの年老いた母が、サメザメと涙を流す……お帰りなさい、お帰りなさい。戦争をやめて、早くお帰りなさい……」
 美しい声はだんだん低い調子になり、その終りは「ダフニスとクロエ」の夢のやうな美しい旋律の中へしづかに消えて行つた。
 依田は首を垂れて聞いてゐたが、それはアメリカ人へではなく美しい天の声が「真人間」の依田に話しかけてゐるのだといふやうな気がし、急に気持が昂つてきた。
 依田はむかしからどんな思想にも共鳴せず、どんな仲間にも合流しない徹底的な孤立主義者で、孤独だが平明な位置に、いつも自分を落着けてゐた。この戦争にたいしても、協力もしなければ反対もしない。
 その国の国民として、まぬがれることのできぬ戦争の「雑役」の一部を、機械になつたつもりで担当してきたが、この戦争は、日本を滅亡させるための「軍部」の戦争だといふことがわかつた以上、たとへ一日でもそんなみじめな軛(くびき)に繋がれてゐるわけにはいかない。自分の性格としては、先に立つて一日も早く戦争を終らせる運動をするといふやうな積極性は持てないが、せめて不協力の態度だけでもはつきりさせないと血が汚れる。軍籍から離脱して逃亡してやることが、この際、もつとも自己に忠なるゆゑんだと詮じつめると、急に眼がさめたやうになつて、
 「もうやめました。帰ります」
 と素直な子供のやうに呟いた。」



「氷の園」より:

「以津子にお前はもう死んだと納得させるのに、白川はえらい骨を折った。
 いちどまがりだすと、ずいぶんわからなくなってしまう、むずかしい加減のお嬢さんだったが、死ぬと魂の性格が色揚げするのか、いよいよ強情にみがきがかかったふうになって、どうしても死んだと自覚しないのには弱った。
 この押問答に三晩かかったが、三日目になると、さすがの主事も疲れて、
 「こんなわからない霊も、めずらしいです。生前、どういう方だったんでしょう」
 と肩を落して嘆息した。」

「「サティだな」」
「白川は勢以子の家の門口に立って、茫然と音の流れに耳をかしていた。
 フランスではエリク・サティ、独逸ではシェーンベルグ……どちらも音楽の伝統と形式感を蹴りつけてしまった偉大な二人の気狂いで、欧羅巴(ヨーロッパ)の近代音楽は、みなそこから新しい源をひきだしている。
 日本の女流ヴァイオリニストの奏く曲は、ステージではなに、サロンではなに、と判で捺(お)したようにきまっていて、サティやシェーンベルグに手をだすような冒険はしない。また、奏けもしなければ、理解することも出来ない。
 勢以子はリズムもトウナリティ(音節)も無視した無形式な楽句を、荒々しいタッチで奏きこなしている。
 うまい。おどろくほどうまいが、奏いている勢以子の感情は、どうやら尋常ではないように思われてきた。
 「ひどくアナーキィだ」
 印象を、音の感覚だけで表わそうとする、サティのような音楽は、奏く人間の、そのときどきの感情が丸彫りに出る。」



「妖婦アリス芸談」より:

「勉強することはいとはないですが、嫌な学課をやらされるのはうんざりする。好きな学課や興味のある宿題だと夢中になつてやりますが、面白くないことは我慢にもやれない。嫌だと思ふだけで疲れて欠伸(あくび)がでるんです。」



Tito Schipa sings Princesita




「蝶の絵」より:

「伊沢は窓ぎはのソファで笠原と領事時代の話をしてゐたが、そのうちに、いいものを聞かせようといつて、空色のラベルを貼つた古色蒼然たるレコードを持ちだしてきた。
 「テット・スキッパの『蝶(マリポサ)』だ。あのころパリにゐた連中は、忘れられぬ思ひ出をもつてゐるはずだ」
 ほのかな歌声が、管弦楽のアンサンブルの中から音の糸を繰りだすやうに洩れてきた。繊細な技巧と熱情が美しく波うつスキッパのハバネラは、人間の居ないうたひかたでは、どんな派手な声を仕上げてもだめなものだといふ証(あかし)をしながら、聞くものの心を深い陶酔にひきこんだ。」


















































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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