郡司正勝 『おどりの美学』

「主観と客観の区別をしいて求めなかったこの国の美学は、すべて具象性が同時に比喩であったので、抽象という概念が生れなかったのではないかとおもう。比喩は〈たとえば〉という説明ではなく、一つの力であったのである。舞踊はなにかを表現するものでなく、それ自体が力であり溯れば呪力であったので、そこには人間を表現する介在を許さなかったものがある。」
(郡司正勝 『おどりの美学』 より)


郡司正勝 
『おどりの美学』


演劇出版社 
昭和34年11月 初版
昭和44年6月26日 8版発行
318p 口絵(モノクロ)1葉 
18.8×13.5cm 
角背紙装上製本 貼函 
定価800円



本文中図版(モノクロ)51点。


郡司正勝 おどりの美学 01


目次:

第一章 おどりの生態
 1 おどりを支えるもの
 2 日本舞踊の場
第二章 おどりの歴史
 1 舞踊前史
   古代のおどり
   外来の舞踊
   貴族の舞踊
   中世の舞踊
   おどりの黎明
 2 かぶき踊の歴史
   かぶき踊の誕生
   女方舞踊の展開
   ふり袖前後
   劇舞踊の展開
   変化物時代
 3 新舞踊の展望
   松羽目物と活歴舞踊
   新舞踊劇運動
第三章 おどりの美学
 1 〈まい〉と〈おどり〉
 2 おどりの東と西
 3 おどりの美しさ
   花
   大きいということ
   間
   移り
 4 動きと構えについて
第四章 かぶき舞踊
 1 かぶき舞踊の様式
   女方の芸術
   所作事 景事 振事
   所作事の構造
   おどりの種別
 2 かぶき舞踊の技術と演出
   基本動作
   特殊技術
   振及び振附に就て
   振附師の職掌
   後見について
第五章 おどりの周辺
 1 小道具と採り物
   採り物の意味
   小道具の演出
   小道具の美学
   採り物の伝承
   扇の表情
   生きている手拭
 2 衣裳の美学
   踊衣裳の意味
   衣裳の表情
   袖と徐袂の美学
 3 変幻する鬘
 4 舞台と大道具
   所作舞台
   雛段と山台
   特殊な道具
 5 舞台装置について
   背景の意味
   釣り枝の発想
   浅葱幕のエフェクト

あとがき




◆本書より◆


「第一章 おどりの生態」より:

「ふり返って、日本の舞踊史の上に想いを致せば、これまで、日本の演劇の歴史と称するものの大部分は、実は舞踊の歴史だといってもあながち語弊ではないとおもう。近代劇が日本の演劇の概念に入りこんでくるまでは、舞踊的要素は芸能の最高の極致と考えられていたのである。
 古代の宮廷社会で発達した舞楽も、中世の武士貴族に支持された能楽も、また近世の庶民階級のなかで生成された人形浄瑠璃や歌舞伎も、その時代時代を代表してきた演劇のすべては、洗練されるにしたがって舞踊化の道を辿っているのである。」
「人間が純粋なかたちで、より適確にできるだけ速かに他のものに乗り移るためには、仮面はもっとも有効な力を発揮する。しかも、より純粋な世界を伝達する形式としても、これ以上のものは望むべくもあるまい。その主観的な純粋性は、能の場合においてとくにはっきりと認識することができよう。仮面をかけたシテと、直面(ひためん)(素面)のワキとを同時に見比べれば、直面がいかに客観性を保とうとして人間的表情を拒否しようとしたか。そして、はたして、否定しえたかどうか。その素面の冷たさには仮面の聖に対して、かえって人間臭をきわだてずにはおかなかったようである。すなわち仮面はこの世ならざるものの形を表現するために存在理由があったのである。
 またわれわれは、舞踊の世界へ乗移るために化粧する。化粧は仮面の別なかたちにほかならない。またもう一つの他の方法をとることがある。それは斎戒沐浴(さいかいもくよく)をし、別火をして、行(ぎょう)のかたちをとって、日常生活から縁を断ち、別の世界へ移り住む方法である。」
「舞踊は、見物のために舞われるのではなく、神に奉納するものであり、祈祷のために舞われるものであって、見せるためのものではなかった。」
「これらの古代の仮面舞踊に対して、近世の人形芝居は準仮面劇だといえる。そこにはまだ人形のもつ純粋さへの憧れがある。自我のない美しさ、個性を否定した美しさがある。人形芝居や歌舞伎の世界は、中世を否定して人間性を取戻した現実の人間が登場してくるので、この点からいえば演劇らしい演劇がはじめて現われてきたのだといえるが、なお、最後の憧憬は舞踊につながっていたのである。
 もともと舞踊には、人物を表現しようとする意図はなかった。したがって人物の対立ということもないから、多人数が登場してきてもただ一つの踊でしかないことは盆踊などの例をとってもわかる。多人数を統一するものは、その人物間の交渉・対立ではなく、たんに構図があるだけだからである。舞踊はそれ自体主題をもっているが、人物を形成はしないのである。
 ここに演劇と舞踊のちがいがある。この矛盾を分化させずに二つの次元をもって、一つの演劇を構成せしめているのが人形芝居ならびに歌舞伎である。それはあたかも浄瑠璃において文学と音楽が、それぞれちがう次元をもちながら語り物としての性格を構成しているのとおなじものである。
 これを未分化の幼稚な状態とみようとも、あるいは優れた構想とみようとも、とにかくこの国の特徴ある芸術を形造って「いることにはちがいないのである。合理性をよろこばないこの国の民習では客観的な演劇芸術に展開しなかったのである。したがって人間が作り出した客観性というものの不確かな錯覚にも堕入らず、分化してゆく過程において誤りを犯さないでも済んだのである。」

「主観と客観の区別をしいて求めなかったこの国の美学は、すべて具象性が同時に比喩であったので、抽象という概念が生れなかったのではないかとおもう。比喩は〈たとえば〉という説明ではなく、一つの力であったのである。舞踊はなにかを表現するものでなく、それ自体が力であり溯れば呪力であったので、そこには人間を表現する介在を許さなかったものがある。
 舞踊は舞踊のためのもので、まして踊手の表現をみるためでもその魂を知るためでもない。舞踊家は一個の伝導体でしかない。舞踊家がその作品のなかでなにかを見せようとすれば、(中略)舞踊としての生命への動きを止めてしまうのである。」



「第二章 おどりの歴史」より:

「近世初頭の風流の旋風のなかで、出雲の阿国と称する巫女であり遊女である一人の女性が脚光を浴びて浮び上るのは、慶長八年(一六〇三)〈かぶき踊〉をもって京中にデビューし、その模倣者の遊女の芸能団が幾つも諸国へ下ったと諸書に記された頃である。
 それまで阿国は、他の女芸人の女田楽、女曲舞、女猿楽、女房狂言などとともに〈ややこ踊〉や〈念仏踊〉などをもって勧進して歩いた風流踊の一団であったと考えてよい。女性禁制の宗教時代、戦乱の武力時代はようやくに平和の曙光を迎えるに至って、人間性は開放され、回復されるにつれて女性も本来の姿を取戻すに至った。いやむしろその反動で、常軌を逸してまで誇張し傾け尽すに至ったといった方がよい。それがかぶきの精神である。」
「阿国が、ややこ踊や念仏踊をおどったこと自体は、女芸人の群のなかの賤民芸能者の歌舞団の一種にすぎなかったが、彼女がかぶきの祖として、その栄光を一身に荷なうにいたったのは、これらの踊をして〈かぶき踊〉に一変せしめたことであろう。
 阿国がかぶき踊をおどったという最初の記録は、いまのところ慶長八年以前に溯り得ないが、〈かぶき〉ということばは、常軌を逸したこと、傾奇なことなどの意からでて、新しいこと、流行、モダンを意味するようになり、のちには好色といった意味合をも含むにいたったといわれている。」



「第三章 おどりの美学」より:

「ヴァレリィは舞踊とは大地から開放されて自分の存在を確めるためだといっているが、この定義にはやはり舞踊における西の国の考え方が深く根差している。(中略)舞踊を意味する英語のダンス(dance)は、もと古いドイツ語のダンソン(danson)からでて、その意味は身体を伸すことだといわれている。洋舞が両手を高くさし上げ、爪立ちをし、あるいは跳躍を特徴とするのをみれば、なるほどと頷くことができる。
 そうすると日本の舞踊が、腰を入れてしっかと構えて浮かぬことをその基本とし、あるいは〈角(すみ)をとる〉といって舞台を廻ることや、また〈摺り足〉といって足を上げずに歩くことや〈反閇(へんばい)〉といって強く足拍子を踏むことなどを特徴とするがごときは、いったいこれはどういうことを表現しようとしているのだろうか。
 洋舞がもし大地から解放されて高く天上へ自由を求めて外へ外へと跳躍する表現だとすれば、邦舞は地上を恋い慕い大地に愛着するあまり、徘徊して去り難いという表現だといわねばならないのではないか。またこの西の放射的動きは天上憧憬的、東の内包的動きは地上愛着的だともいえよう。」
「日本の舞踊の姿をみれば、人間の生活から脱れた新しい時空の別世界を現しているのではなくして、むしろこの地上をそのまま楽土と現ずるということにあるようにおもわれる。」
「西の舞踊の願望が、人間の自由を求めるとすれば、東の舞踊は神が天上から舞い下って、この大地を愛(め)で恵み、しばし徘徊逍遥して、祝福を垂れるといった趣きがあり、これも悦びにはちがいなかった。日本ではこれを〈あそび〉といったのである。〈遊び〉は今日いうごとき子供の遊戯のことではない。日本の民族舞踊の根源をなす神楽はすなわち〈神あそび〉であり、田圃に下った神を歌舞で慰め喜ばす芸能を〈田遊び〉といい、奥州で巫女が人形を廻すのを〈おしら遊び〉といい、〈あそばす〉という行為の敬語は、もとは神の遊行し、舞う所作を称えたことばであったのであろう。」

















































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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