川村二郎 『限界の文学』

「つまりすべての反逆者はひとりの「反逆者」だということだ。」
(川村二郎 「『死者の書』について」 より)


川村二郎 
『限界の文学』


河出書房新社 
1969年4月25日初版印刷
1969年4月30日初版発行
286p 
四六判 丸背布装上製本 
カバー ビニールカバー 
定価640円
装幀: 広瀬郁



「あとがき」より:

「ここ八年ばかりのあいだに書いた文章の中から、多少とも気の残るものを一冊にまとめた。その結果は、われながらいかにも雑然とした(スタイルにおいてもテーマにおいても)エッセイの集積で、実のところ、まとめた、といっていいのかどうか、はなはだ心もとない。
 しかしこれらの文章が扱っている対象が多端にわたるのは、ぼくの生来の気の多さの所為で今さらどうしようもないとしても、なぜそれらの対象が選ばれたのか、その選択にあたっては、ぼくなりに、なにがしか一貫した関心の持続があったような気がする。
 その関心とは、簡単にいえば、文学というものを成り立たせる場所、その境界が、どこに位置しているのか、ということにつきるようである。一方には、政治を極点とする現実の諸関係の世界、いわば「有」の世界があり、他方には、魔術的な呪文のたぐいがわずかにその消息をうかがわせる、一切の現実的関係が失われた世界、いわば「無」の世界がある。文学はこのどちらに属するのでもないが、しかも、このどちらにも接していなくてはならない。逆のいいかたをすれば、文学は二つの世界にかかわりを持ちながら、どちらの世界をもなんらかの意味で超越しなければならない。もちろん、かかわりながら超えている、というようなありかたが可能な場所は、きわめて曖昧な、場合によっては未練がましい不決断や狡猾な破廉恥の場でもあり得る。しかしそのような曖昧さや不決断や破廉恥にたえずさらされていなければ、厚みを加えることも鋭さと強靭さを増すこともできないのが、文学の奇妙な生理ではないのか。これらの文章を書くについては、多かれ少なかれ、その間の事情も明らかにしたいという動機が介在していたように思う。」



川村二郎 限界の文学


帯文:

「ルカーチ、アドルノ、ベンヤミン、保田與重郎、釈迢空らの文学・芸術論の分析を通して、文学の限界に挑み、その回生をめざしたユニークな評論集!」


帯背:

「文学の回生をめざす
処女評論集」



帯裏:

「ドイツ文学者の著者が、この八年間の評論を集めて、充実した処女作を公けにした。そのうちのいくつかを昨年読んで、珍しく私は魅力を感じた。
一方には、政治を極点とする、現実の諸関係から成立つ「有」の世界がある。他方には、魔術的な次元のたぐいに仄見えるところの、現実の諸関係の失われた「無」の世界がある。文学はこの二つに触れそれを超えねばならない。しかし場合によっては、曖昧に、不決断に、破廉恥にもなろう。そこのところを明らかにしたい。著者自身「あとがき」にこう述べているが、確かにこれがテーマである。
まことにもっともなことだと思うが、再読三読に堪える綿密な文章、内容に感心する。
小島信夫」



目次 (初出):


文学の位置決定のための五章 (「審美」 第7号 1967年12月)


保田與重郎論 (「展望」 1966年9月号)
経験と原理――ルカーチとベンヤミン (「展望」 1965年4月号)
断章の美学――ベンヤミン (「季刊世界文学」 第3号 1966年5月)
批評の生理――ルカーチとアドルノ (「ドイツ文学」 第39号 1967年10月)
ヴァーグナーの没落――アドルノに即して (「音楽芸術」 1967年4月号)


『死者の書』について―釈迢空論 (「三田文学」 1961年10月号)
虚実の帝国――『特性なき男』について (「秩序」 第10号 1962年8月)
イシスとオシリス――ムシルと神話 (「手塚富雄教授還暦記念論文集」 筑摩書房 1965年3月)
始原への旅――現代神話文学論 (「世界の新しい文学の展望」 白水社 1967年6月)
虚構のリアリズム――浄瑠璃の世界 (「文芸」 1968年11月号)


複数形の現実 (「群像」 1968年12月号)

あとがき




◆本書より◆


「『死者の書』について」より:

「『古代研究』の「追ひ書き」に、「私には、別化性能に、不足がある様である。類似は、すばやく認めるが、差異は、かつきり胸に来ない。事象を同視し易い傾きがある。」と記されているが、類似を直視する迢空の能力には、たしかに異常なほどのものがある。その能力が、『死者の書』において最大限に発揮されている。」

「大津皇子、詩賦は彼よりはじまると言われ、性すこぶる放蕩として法度にかかわらずと評されたこの皇子については、保田與重郎氏の美しいオマージュ『大津皇子の像』が委曲をつくしているが、要するにここに、もっとも早いダンディの、「呪われた詩人」のおもかげを見、彼の刑死に、政治と文学との、答えはかならず負となる乗算を推定することも、決してむりではなかろう。
 しかしその薄命のダンディは、「尊いおつかさま」持統に粛清されると、二上山に葬られた。難波と大和の境界に立つこの交通の要衝に埋められて、大津の亡魂は一種の道祖神となる。おのれを殺した国家権力を守るために、外来者を威嚇する凶暴な御霊となる。御霊信仰には、霊魂のエネルギーの操縦に関する、おどろくばかり率直な古代人の合理主義がうかがわれるのだが、手すさびのようなものとはいえ、ともかく日本ではじめて五言律を作った敏感な詩人が、不気味なゲニウス・ロキに変貌する過程には、義疏を講じた聖徳太子の場合と同じように、歴史の痛烈なイロニーが露呈している。『死者の書』冒頭の異様な持続感は、もっぱらこのイロニーに堪えるための緊張から発しているので、強引な接合によってなりたつ文体を、この緊張感が必然的に要請すると見られなくもない。
 だがそれから、作者の類化性能がはたらきはじめる。結界を犯して当麻の庵室にとどめられた藤原南家の姫に、鏡花のスタイルそっくりの口調で、語部の姥が語りきかせるところによれば、「天の神々に弓引いた罪ある神」天若日子と、隼別と、大津皇子とは、同一人物なのだ。つまりすべての反逆者はひとりの「反逆者」だということだ。天若日子、隼別、大津皇子とこう並べれば、さらにそこに迢空の偏愛した大山守をつけ加え、すべての原型として須佐男命を据えるのは当然すぎるほど当然なことである。」

「二上山上の死者の呟きからうかびあがるのは、実にラディカルな反逆者のイメージなので、それをすぐに作者の人格へ還元するのはもちろん危険だが、しかしこの場合、秩序と統制に対する反逆と、その反逆が無効に終らねばならぬことを知る悲しみとを、おのれの文学の原動力としていた作者自身の衝迫を、裏づけとして考えなければ理解できないほどの強烈さが、イメージにはらまれている。ビザンチウムに生を受けたヘレニズムの使徒、背教者ユリアヌスを熱愛し、高天原族に圧服された出雲の神々への反語的な崇敬を終生かえず、その神々へ、「神 やぶれたまふ」(『近代悲傷集』)において、おそろしく逆説的なオマージュをささげた、釈迢空の衝迫を。」



「虚実の帝国」より:

「しかしロレンスやマンのような、ことさららしい神話による現代批判の意図は、ムシルにはどこをさがしても見当らない。(中略)神話は至極自然に兄妹の対話の中で実現する。「するとわたしたちは双生子なのね?」とアガーテが言う。「そうとも!」とウルリヒが答える。これでもう彼らはイシスとオシリスであり、ヘルマプロディートスなのだ。近親姦の罪と贖いを、その間にひそむ陰惨な弁証法を、グレゴワール伝説を借りて表現しなければ、二元の緊張を超越したヘルメスの微笑、すなわちフェリクス・クルルの告白に到りえなかったトーマス・マンとムシルと、作家としての器量がどちらが上かと問うてもあまり意味はないだろう。ただいえるのは、クライストの美しい『人形劇』論に典型的にあらわれている、認識と無垢との悲劇的な乖離から生じるセンチメンタリズムが、マンにとっては決定的だったと思えるのに、ムシルにはほんのかすかな痕跡もとどめていないということである。有名なマンのイロニーとは、所詮、乖離した二つのもののあいだのバランスにすぎない。しかしムシルの場合、認識と無垢は、海水と月のように、たえず呼応しあいながら変容する。数学者はそのまま神秘家になる。ホーフマンスタールにとってと同様、彼にとっても、数学と神秘主義との血縁を予感していたノヴァーリスは、もっとも身近な兄だった。
 別のユートピアは、二十世紀ドイツ語散文のいかなる成果も及びえないような、澄明なセレニテの中に現われる。

  花時を過ぎた木々のこずえから、色褪せた花びらが雪のように散り落ち、音もなく陽ざしの中をただよった。花をはこぶ風はあまりにもひそやかで、花びらのひとつとしてひるがえるものはないほどだった。そこから芝生の緑に影の落ちることもなかったが、この緑は、まるでひとつの眼のように、内側から次第に暗くなって行くようにみえた。若い夏の日の手で、やさしく、しかしあふれるばかりに葉を装われた木々や繁みは、自分たちの愉しげな装いにかつはおどろきかつは魅せられながら、この弔いの行列を、自然の祭りを、呆然と眺めている観衆のようだった。春と秋、自然のことばと沈黙、生と死の神秘がこの光景に融けこんでいた。心臓は静止し、胸からえぐり取られ、静かに空中を進んで行く花びらの行列に参加するように思われた。「その時わが胸より心臓はかきいだされぬ」とある神秘家が言っているのを、アガーテは思い出した。

 この時、時間は停止し、一千年はまばたきのように軽くなり、千年王国、ことばをかえれば「愛の王国」が出現する。もちろんこの王国の中でもウルリヒは寡黙にはならない。彼は妹にむかって、二つの情熱、世俗的な情熱と神秘的な情熱の区別や、食欲的な生感情と非食欲的生感情の対立などについて長広舌をふるう。しかし彼らがヘルマプロディートスならば、この愛の対話は結局独白なのだ、愛ははじめから閉じた円環なので、ふとしたまばたきのはずみで、視界にうかんだり消えたりするにすぎないのだ、「そして世界は、さまざまな矛盾にもかかわらず、その繊細な一片にいたるまで光明に満たされているように思われた。」」

「ムシルはこの作品を完成させることなく世を去った。最後の部分は首尾一貫しない未定稿やメモによって占められている。(中略)だが、卒中で仆れるまぎわまで、ムシルが『夏の日の息吹き』の章に推敲を加えていたという夫人の証言を信ずるならば、これは、人の心を運命のはかりがたさの前に粛然とさせるに足る事実である。いかにも、千年王国の壊滅、愛の実験の挫折を暗示する一章(『楽園への旅』)もあるにはある。(中略)ひとつの世界の没落を意味するはずだったそれらの情景は、しかし結局のところ、生気のない走り書き以上の段階には達しなかった。この走り書きが練り上げられたならば、小説はむろん完結しただろう。しかし同時に、それは「特性なき男」の物語であることをやめただろう。おそらく作者もそのことを予感していた。だからこそ、肉体の亡びを目前にした彼の全精力は、さまざまな矛盾にもかかわらず光明に満ちあふれた、亡びない世界の表現にささげられたのだ。」



「始原への旅」より:

「アポロドーロスについては高津春繁氏の次のような評語がある。
  
  著者は神話の伝承に対して極めて僅かの例外を除けば、全然批判をせず、また異る伝承間の比較や研究も行わない。彼は平然として相反し相矛盾する伝承を語るのであって、従って同じ物語に関して異る場所に於て異る伝承が屡々語られる。これは恐らく典拠となった参考書や悲劇が異る筋を持っていたためであって、その矛盾に対する無神経とも言うべき著者の態度は驚くべきものがある。

 しかしそれは無神経というものだろうか。なるほど、テイレシアスはどうして失明したのか、その理由が幾通りも平行して叙べられたり、オデュッセウスが帰郷後妻を殺したのか追ったのか、それとも自分が殺されたのか、いくつもの異説が等価に並列されているのを見ると、一応そんな感じがしないでもない。だが実は、それは神話の本性への洞察に由来しているのではないか。テイレシアスの盲目とは、単なる偶然の現象ではなく、ある神秘的な特性の所有を意味するものであろう。そしてその特性をそなえるに到った消息は、やはりある神秘的な劫罰、乃至恩寵にかかわっているので、神秘の媒介者の名がゼウスであるかヘラであるかアテナであるか、それはほとんど第二義的な問題となってしまうのである。いいかえればそれらの名は、ひとつの根源的な力の時に応じた発現の相を規定するにすぎない。一方その発現の相に対面する人間についていえば、彼の存在理由は、もっぱら賦与された特性のにない手という点のみにあるので、独立した個体としての存在にかかっているのではない。だから場合によっては、神性との交渉に由来する失明という同一の特性において、テイレシアスとオイディプースが交換可能になることもある。異なる伝承間の矛盾とは、要するに交換可能なさまざまな意匠にすぎない、その背後には、伝承の唯一の実体が微動だにすることなくひそやかに鎮まっているのである。」

「光りかがやくような原初への旅の記録、暗澹たる地下の恍惚ではなく澄んだ天上の恍惚をうたいあげる文学は、はたして現代の渾沌の中には成立しえないだろうか。現実のさまざまな次元に仮借ない視線を投じ、それらを総体としてとらえる努力をたゆみなくつづけながら、そこに構築された世界の一角に、およそ思量にあまる神秘的な光源を置き、倏忽(しゅくこつ)の間に世界全体をこの世ならぬかがやきの海と化する――もしそのような作品があれば、その崇高さは一切の比較を絶するだろう。」





































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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