川村二郎 『懐古のトポス』

「分裂において純一な行動があるように、嘘において芸術家の最も素朴な真実が顕現するのである。」
(川村二郎 『懐古のトポス』 より)


川村二郎 
『懐古のトポス』


河出書房新社 
1975年7月25日初版印刷
1975年7月30日初版発行
230p 
四六判 角背布装上製本 
カバー ビニールカバー 
定価1,200円



本書「あとがき」より:

「これは「文学の根への問い」と題して、「文藝」一九七三年一月号から一九七五年三月号まで、とびとびに十回連載した文章である。文学の「根」とは、時間の暗い深層、すなわち過去の中にひそんでいて、時間の表面、すなわち現在の中で営まれる文学の行為を活気づける力、というほどの意味で用いたつもりである。しかし考えて見ると、これは多義的な曖昧な言葉で、啓蒙主義者流の大衆芸能礼讃のたぐいを、ことによると、この表題から連想されかねないだろう。それでこの本では、文学における現在の過去との交渉という、各章を通じるモチーフに、よりふさわしいと思われた一章の題を取って、全体の表題にすることにした。
 それにしても、なぜこのモチーフにそれほどこだわるのか。文学はいうまでもなく人間の生の表現だが、その生の奥行が、このモチーフを表出し肉化した作品において、とりわけ深くきわめられていると感じるからである。昨日がなければ今日はない。しかしまた、昨日がそのまま続いていれば、やはり今日はない。昨日を無視する進歩派や、昨日を絶対視する保守派、そのいずれでもない場所で、生の持続と変化のさまを捉えるのが、文学の果し得る最も重要な役割の一つだと考えるからである。
 おそらくこうしたことを考える場合、伝統という言葉を用いてもいいだろう。しかしこの言葉はほとんど用いていないと思う。この言葉のひびきには、何か、隠れていてこそ安らかに息づくものをあらわにし、確乎たる教条に仕立て上げようとする意志が共鳴しているように感じられる。もう少し感覚的に微かに触れてくるものに即しながら、考えたいという気持があった。
 またここでは、日本の文学について語るばかりでなく、ドイツの文学についてもかなり多く論及している。ぼく自身が、ドイツ文学にある程度親しんでいるから、自然にそうなったと一応はいえる。しかしそれを、いわゆる学問的研究の枠内でなく、ともかくこのような感想の形であげつらったのは、たとえば柳田国男にとってハイネが、三島由紀夫にとってトーマス・マンが、また本文中では資料不足から具体的な言及を避けたが、折口信夫にとって背教者ユリアヌスが、偶然のふれ合い以上の意味を持ったことは確かなように思われ、そうした交感の消息はまさにわれわれの文学のアクチュアルな問題として、直截に追究すべきことだと思ったからにほかならない。」



川村二郎 懐古のトポス


帯文:

「文学の根への問い
「はかり難い過去」への、畏怖と明晰な距離を保持しながら、文学の現在を支える過去との交渉過程を辿り、隠れた血のざわめき、その輝きを求めて、「分析説明する近代の目」が逸してしまった<文学の相貌とその力>の核に迫る長篇評論。」



帯背:

「最新長篇評論」


帯裏:

「■文学の「根」とは、時間の暗い深層、すなわち過去の中にひそんでいて、時間の表面、すなわち現在の中で営まれる文学の行為を活気づける力というほどの意味で用いた(……)なぜこのモチーフにそれほどこだわるのか。(……)昨日を無視する進歩派や、昨日を絶対視する保守派、そのいずれでもない場所で、生の持続と変化のさまを捉えるのが、文学の果し得る最も重要な役割の一つだと考えるからである。
著者」



目次:

Ⅰ ヘルダーの断念
Ⅱ 民謡と文学
Ⅲ 「魔法の角笛」の響き
Ⅳ イロニーの場所
Ⅴ 懐古のトポス
Ⅵ 三島由紀夫の二元論
Ⅶ 神話と小説
Ⅷ 歴史と小説
Ⅸ 史伝の空間
Ⅹ 『死者の書』再読

あとがき




◆本書より◆


「ヘルダーの断念」より:

「来し方をふりかえるとは、どの道、不健康なことである。
 おおよその所、懐古の思いは、現在への不満から生れる。幼い日々は愉しかった、世界は幸福に包まれていた、このように語る言葉は、たとえあからさまに口には出さないにしても、それにひきかえ今は、という悲しげな詠嘆に裏打ちされていると見てまちがいない。かつては黄金時代だった、といえば、現在は鉄の時代ではないまでも、少くとも白銀時代以降であることはたしかである。二流、あるいはそれ以下の時代であることは明らかなのである。」
「だが、愉しいといおうにも苦しいといおうにも、そもそも茫漠としていて一切はかりがたいおのれの過去の局面が、誰にもあるはずである。どれほど記憶力のすぐれた人間でも、嬰児の時のことをおぼえてはいない。いわんや、生誕以前のことを知っているわけがない。もっとも、そんなことをおぼえていた所で、今生きる上でどうということはなかろうから、おおよその人間は、記憶の彼方の暗黒に、強いて探りを入れようなどとは考えない。しかし、かりにこの暗黒が、今生きる上で気にかかって仕方がないとしたら。この中に、現在の自己の生活にとって決定的な意味を持つ謎がかくれているとしか思えないとしたら。一旦この強迫観念に取りつかれたら、彼の生活はもはや現在という時に沿うて円滑に流れて行くことはかなうまい。」
「しかし、見定めがたい過去の部分をどうあっても見定めたいという欲求は、単なる好奇心にとどまる場合はいざ知らず、心にきざした以上膏肓に入るよりほかない悪疾ではないかと思われるが、実のところ、これは膏肓に入ることによって、なまじな薬品以上の効力を発揮する毒物ではあるまいかとも考えられるのだ。というのも、この欲求が生じた時、現在の生活の歩調は当然乱れてくるし、躊いがちになるはずだが、そもそも現在の生活が不確かで捉えがたいからこそ、この欲求が生じるのだと考えれば、それを突きつめることは、曖昧な現在を確認するための、間接的であるように見えて実は最も直接的な方策たり得るかもしれないからである。」
「そして過去への潜行は、遠い神話世界の英雄たちが、あてどない漂泊の途上、自己の境涯をたしかめるために、冥府に降って祖霊の教えを乞うような、意味深い儀礼となり得るかもしれない。」



「イロニーの場所」より:

「それにしても、「正直」という形容詞は意味深長である」
「というのは、たとえばロマン的イロニーの元祖というべきフリードリヒ・シュレーゲルを論じた『ルツィンデの反抗と僕のなかの群衆』(昭和九年)の中に、シュレーゲルはハムレットを愛した、しかも彼は「ハムレットの行動の正直さ以外の下心など全然知らなかつた。僕もハムレットに成心を考えない」というような一節があるからだ。別の所には、「ハムレットの真正真銘の正直さと勇気」というような言葉もある。また、シュレーゲルは真理を薄めることを拒んだ、「真実の強さを一番知ったゆゑニイロニーを考へた」という、ほとんど啓示的な一行をもこのセッセイは含んでいる。
 すなわち保田にとって、「正直」とはイロニーの同義語なのである。」
「では、何をもって保田は「行動の正直さ」をいうのか。おそらく、その引き裂かれ方に「主人公の高貴な素質のすべての力」(シュレーゲル)を弱め薄めるような、いかなる卑俗な動機も働いておらず、引き裂かれながら依然として彼は一貫して高貴であるからだ。とはすなわち、分裂とそれに起因する懐疑や苦悩も、全体として、彼の一貫した精神の運動、その「行動」に属しているということである。シュレーゲルがそこまでいっているようには、ぼくには受け取れない。しかしシュレーゲルを受けてハムレットを語る保田は、明らかに、この「行動」の驚くべき単純さと深さを心得ている。」
「「芸術家だけが嘘をいつても、偽をいはない。いつも彼らはハムレットの行動を楯とする。楯とするとか、しようなどといつた豫前の態度ではない。彼らの行ひが既にハムレットの真正真銘の正直さと勇気以外にないのだ。」
 分裂において純一な行動があるように、嘘において芸術家の最も素朴な真実が顕現するのである。」



「懐古のトポス」より:

「懐古のトポスは、狭義の文学表現にかぎらず、すぐれた過去の探究者の業績には、どのような形を取るにせよ、必ず存在しているように思われる。つまり過去は遠くはかりがたいという心の謙虚さと、そのはかりがたい過去に向けられる、失われた故郷に対するのに似た憧憬との複合。それだけではそこはかとない夢心地に終りかねないこの複合が、熱心な知的興味に扶けられ、はかりがたいものをはかろうとして、過去の「外相」(土地、社寺、仏像、歌、その他)に執して行く時、おのずからその「内証」が、すなわち過去についての認識が熟する、そういった過程において、目には見えない隠れた血のざわめきが、はじめてきこえ、その輝きがはじめて明るく透けてくるのだろうと、ぼくは想像する。」


「三島由紀夫の二元論」より:

「英雄はたけだけしい壮士の姿を取るより、むしろやさしい少女の姿であらわされる、そこに日本の美の伝統があるというのは、保田與重郎の、最も独特な創見の一つである。倭建が女装して敵を討ったという物語、さらには、彼が転生して楊貴妃になったという、いささかグロテスクな民間伝承を、保田はきわめて重視する。(中略)肝腎なことは、ますらおぶりとみやびという、一見相反する原理が、相反しつつ照応している消息を、この種の物語に即しながら保田が跡づけようとしていることである。」


「神話と小説」より:

「イロニーの解釈については、第四章で、多少ふれる所があった。相反するものの一致を知る心の働き、という具合にそれを規定することはできるとして、もちろん問題はその知り方である。」
「狭義には文学とはいえないが、そこでフロイトの仕事を考えて見てもいい。フロイトはもちろん、意識の光によって無意識の闇を照らそうとした人であり、蒙昧主義の敵である。しかしその知的冒険の過程において、光に隅々まで照らしだされるにしては、あまりにも闇が広く深いことが、次第に明らかになってくる。闇の偏在に比べれば、光などほんの束の間のエピソードにすぎないようにさえ、見えてくる。そのことを心得ながら、フロイトはあえて光の側に立ちつづけるが、闇の力の強さを感ずれば感ずるほど、その口調は苦しげにとどこおりがちになる。晩年の労作『文化の不快』などに典型的にあらわれている、内部の矛盾に圧迫されて重苦しくなるその口調こそ、純情な啓蒙家や文化主義者のあずかり知らぬ、光の意味についての教示を、聴く者の心にしみこませる力である。
 『フロイトと未来』でマンは、自我と無意識との関係を騎手と馬とのそれにたとえ、前者は後者を乗りこなそうと思うのだが、しばしば関係は逆転し、乗るつもりで乗られてしまうことがある、と語っている。フロイトには関係の逆転を予感させる危うさがあり、危険を知りつつ難所に挑む悲愴感があり、まさにそれ故に、理論的な著作が、論理それ自体の持つ以上の説得力をそなえることになっている。矛盾し相剋する関係に捉えられ、その渦の中から発する声が、論理的に矛盾を解決することはないまでも、対立する両者のあいだに生ずる根本的な緊張を、なまなましく表現し、定着することになっている。ところで、論理的に解決不可能な矛盾が、その根本につきつめて確認され定着された時、定着された形そのものによって解決されているとはいえないだろうか。
 この形を定着することによって、イロニーはおそらく最も意味深い作業を果す。イロニーとは、最高の段階において、そのような作業を果す力の謂だとぼくは考える。フロイトは、少くとも晩年の著作の幾つかは、この意味でのイロニーを体現している。」







































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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