川村二郎 『白夜の廻廊』

「だが、偏窟は徹底することによって積極的な力と化し得る。」
(川村二郎 「〈美しくよき少年〉」 より)


川村二郎 
『白夜の廻廊
― 世紀末文学逍遥』


岩波書店 
1988年10月26日 第1刷発行
238p 目次3p 初出一覧1p 
18.7×13.5cm 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,800円



本書「あとがき」より:

「この本の第一部は岩波書店の『図書』一九八七年七月号から一九八八年七月号まで(八七年十二月号を除いて)十二回にわたって連載した文章である。全体として話題の一貫性のない、その時その時の感想を記した並列体、しかつめらしくいえば連環体のエッセーだが、総題として「世紀末の周縁」という言葉を最初に選んでいた。」
「第二部は、その時々の要請に応じて書かれた小文を集めている。執筆の心構えにおいて、しかし、それらは第一部と基本的に変りない。それぞれに扱っている対象は異るが、もし全体の前にエピグラフを据えるとすれば、キーツの『ギリシャの壺に寄せるオード』の一節、Heard melodies are sweet, but those unheard are sweeter. を置きたい、と思うほどの気分でみな書かれている。」


川村二郎 白夜の廻廊


帯文:

「隠れた世紀末の肖像
世紀末の狂熱の夜を訪れる
静かな審美の時間……
精神の白夜に、
イギリス、ドイツ、日本文学の
廻廊がうかぶ。
怪奇幻想の美は、古典的
調和への憧憬を軸としてめぐる
万華鏡ではなかったか。
逆光の世紀末紀行。」



帯裏:

「「白夜」という言葉への執着は、ウォルター・ペイターの『享楽主義者マリウス』第一部第二章の表題を目にした時以来、心に滲みついて離れない。……颱風の眼の中の、一時たてばたちまち消えてしまうであろう牧歌の静寂。まさにそのはかなさ故に静寂は貴重なのだと思う気持と、「白夜」の夢に対する執着とは、おそらくぼくの内側で複合してしまっている。
――本書より」



目次:

「白夜」の夢――序に代えて

Ⅰ 世紀末の周縁 (「図書」 1987年7月号~88年7月号連載 87年12月号を除く)
 ペイターの導き
 プシュケーの美
 「朝」の空白
 並列する幻
 詩的ドン・キホーテ
 聖ダンディー
 翻訳詩の機微
 翻訳家杢太郎
 詩とジンメル
 渋く甘美な「歌」
 「母の闇」と詩
 赤き薔薇まず来る

Ⅱ 生の薄明
 <美しくよき少年>――ペイターのプラトン像に即して (「文学」 1988年9月号)
 ホフマンスタールと音楽 (「都響」 48号、1988年5月)
 ホフマンスタールの遺作短篇について (「人文学報」 153号、1982年3月)
 アドルノとゲオルゲ (「人文学報」 162号、1983年3月)
 老いたる蕩児の春の夢――シュニッツラーのカサノヴァ物語 (『華麗なる頽廃』 世紀末の美と夢・二巻 集英社 1986年)

あとがき




◆本書より◆


「「白夜」の夢――序に代えて」より:

「「白夜」という言葉への執着は、ウォルター・ペイターの『享楽主義者マリウス』第一部第二章の表題、WHITE-NIGHTS を目にした時以来、心に滲みついて離れない。この本の中でもくり返しふれたことだが、「白」の奥深い豊かさ、その夜の中では眠りもあだな空白ではなく、啓示の夢に満ちている、といった白い時間のひそやかさが、何より魅力的に感じられたのである。
 しかも、ペイターの物語の中では、「白夜」とは主人公マリウスの住居の名とされている。彼の生れ育ったその家のあたりは、都ローマから遠く離れたイタリアの田園地帯で、都ではもろもろの新しい宗教が勃興し、古い宗教と激しく争っている時代だというのに、こちらでは昔さながらの民俗に即した祖霊崇拝や自然信仰が、ひっそりと守り続けられている。「白夜」はそうした信仰の空気にひたされて、半ばうつらうつらとしながら静かにつつましく生きている、人間の生そのものを暗示してもいる。」



「ペイターの導き」より:

「「芸術のために芸術を愛する心」 the love of art for its own sake、こうした表現は、今や古色蒼然たる旧時代の悠長な美辞麗句としか受け取られぬだろうか。そもそも修辞的にもせよこんな問いを発すること自体、ペイターの死後百年になんなんとする現在、そしてその経過において、人間及び人間性に関わる伝統的な幻想の法外な破壊を果した百年が、終りに近づいた現在、救いがたく楽天的だと思われるかもしれない。だがさし当り言っておきたいのは、幻想の破壊も結局は新たな幻想を生む契機にすぎないのではないか、もしそうとすれば、古色に彩られたペイターの修辞といえども、埋葬された遺骸を掘り起して洗い清める南島の風習に倣って、心をこめて洗いだす時、骨は幻想の最も白々とした輝きを放つのではあるまいか、ということばかりである。」


「赤き薔薇まず来る」より:

「『マリウス』においては、主人公の生家が「白夜」と呼ばれた通りに、いつも白が基調となっている。マリウスの母は幼い息子に向って、お前の魂は白い鳥で、それをお前は胸に抱き、人の群がる広場を越えて運ばねばならない、と教え諭す。汚れない子供の魂が白い鳥にたとえられるのは至極尋常だが、マリウスが成長してさまざまな学説を学び思索を重ねながら、しかも心を、瑕一つない清らかな書札(タブレット)として保とうと願い、苦しい死を目前にしてすら、「心の書札は白く滑らかに」 the tablet of the mind white and smooth 保たれていることに満足する、となると、広場を渡り終えた歩みの苦渋はほとんどうかがわれぬままに、ただ生れながらの魂の白さのみが際立つのである。
 白は所詮色彩の欠如にすぎない、空虚にひとしいと、見る人は見るだろう。しかし「白夜」の章には、あるドイツの神秘家が、「いわゆる白いものの神秘」について語った言葉として、「常に追想――まことのものの写し、またの姿、半ばうつつ、半ば幻――白い妃、白い魔女、白いミサ」といった謎めいた断片が記されているが、それを先導する一句は、さらに謎の影が濃い。「赤い薔薇が最初に来た」――The red rose came first ――それならば、白は赤の追想、写しなのか。色がまずあって、その幻として白があるのか。その真義はいずれにせよ、この喚起的な一句に触発されて想像を進めると、まさしく色のきわまった所に、ペイターの白は微光を放ち始めるのだと思われてくる。
 薔薇の赤、また、白ミサと対比される魔女の黒ミサの黒。そうした色にペイターが無縁でないことは、異教の神々の復活を描いた『架空の肖像画』の諸篇や、大地母神やディオニュソスの太古の闇にふれた『ギリシャ研究』が、充分に明らかにしている。しかし色彩に、あるいは闇に耽溺するにしては、おそらく、後から来たことによって、色彩の多様を経たことによって、かえって単一の透明に到達し得る可能性の消息を、ペイターは知り過ぎていたのである。」



「あとがき」より:

「戦後、サルトルにもルカーチにも、ノーマン・メイラーにもハインリヒ・ベルにも、ほとんど目を向けぬまま、ペイターからフランシス・トムスン、そしてホフマンスタール、ゲオルゲと、ほぼ半世紀前の、文目(あやめ)くすんだ言葉の織物に見入っていた日々を振り返ると、今さらながら、おのれの偏窟が痼疾に類していることを思い知らされて、憮然とする。時代、ないし時間の端に、縁辺にいたという思いが、憮然たる感情に入り混る。といって、むろん後悔しているわけではない。」






















































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Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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