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川村二郎 『神々の魅惑』

「悪の生理に全く無知無縁な、単純な善には、おそらく悪を仆す力は恵まれていないのだ。悪の生理を内側から感受し得、その内的な契機を知悉している者、すなわちみずからの内に悪を共有している善なる者のみが、悪の克服を成就するのだ。」
(川村二郎 「二つの館山城」 より)


川村二郎 
『神々の魅惑
― 旅のレリギオ』


小沢書店 
1994年3月20日 初版発行
301p 
四六判 丸背布装上製本 カバー 
定価2,575円(本体2,500円)



本書「あとがき」より:

「日本の神々と旅について書いた文章を集めた。はっきりそれを主題にしていないでも、潜在的にはどの篇にもそのモチーフがまつわっているといってよい。
 若い頃は旅行嫌いだった。(中略)たとえば京都の街を初めて歩いたのも、ようやく五十歳を過ぎてからのことである。いわんや外国など、今までに行ったこともなければ、これから出かけるつもりもない。
 ただ月並ながら、二十代末から三十代にかけて、大和めぐりに熱中したことはある。凝り性だから、行きだすときりがなくなって、当時住んでいた愛知県より、奈良県の地理と交通の方にくわしくなったような気さえした。」
「寺から社へ。その道筋はさらに、大和に限らず、日本全国の古社に向って伸び、五十歳を過ぎて初めて、未知の諸国をへめぐる旅への欲求を、内心の疼くような衝迫として感じた。」
「この本に集めたのは、大体、一宮巡歴の最中か、巡歴完了後間もない頃に書かれた文章である。『日本廻国記』のように首尾一貫してはいないけれども、単なる雑録集成のつもりもない。旅行嫌いの人間が歩き始めて、歩きながら見たり感じたり考えたりした結果が、この本のどこにも影を落していると思っている。」



川村二郎 神々の魅惑


帯文:

「旅とは、風土の中の目に見えないもの、地霊との対話であり、文学とは、土地によどむ古い記憶を蘇えらせる言葉の力である。露伴、鏡花、柳田国男を論じ、出雲や近江、神々の国を訪ね、『八犬伝』の地で虚実を探る。旅を契機に時空を超えた世界に遊ぶ、『日本廻国記』の著者の最新エッセイ集。」


帯背:

「土地の霊――風土の
中に睡る古い記憶
を訪ねる旅の記録。」



目次 (初出):


露伴の「連環」 (「文学」 昭和53年11月号)
鏡花と白 (「文学」 昭和58年6月号)
柳田国男の神 (「文学界」 昭和58年10月号)
伴信友と保田與重郎 (「文学界」 昭和57年6月号)
灰と精神――保田與重郎の戦後 (「季刊思潮」 第8号 平成2年4月)
神話象徴の転位 (「新潮」 昭和54年10月号)
『青銅の神の足跡』 (集英社文庫 『青銅の神の足跡』 解説 平成1年9月)
『鍛冶屋の母』 (講談社学術文庫 『鍛冶屋の母』 解説 昭和60年5月)


死の国の神々――出雲紀行 (「太陽」 昭和61年7月号)
洞穴の話 (「潭」 昭和61年12月)
『八犬伝』の旅 (「THE GOLD」 昭和61年10月号)
二つの館山城――『八犬伝』のある地名をめぐって (「地名と風土」 第5号 昭和61年10月)
様式について――東京神社考 (「文体」 第12号 昭和55年6月)
東の日吉、西の日吉――近江紀行 (「東京人」 昭和63年夏季号)
無差別の魅惑――高野山 (「旅」 昭和63年11月号)
水の神の恵み――八溝探訪 (「旅」 平成2年5月号)
女神の酒――白山、蔵元訪問 (「四季の味特選<地酒と肴>」 昭和59年1月号)
一遍の旅 (「法蔵館 『私にとっての仏教』 (仏教編集部編) 平成3年12月)
石階の道 (悠思社 『私の山河』 (高田宏編) 平成4年1月)


「レリギオ」の促し――書かれた旅 (「読売新聞」 平成3年9月2日~12月23日、十七回連載)

あとがき
初出一覧




◆本書より◆


「鏡花と白」より:

「山ならばどこも白山で、山に住む者は姫神を奉ずる。『山海評判記』の「白山のお使者」たちは、山人と明記されてはいないけれども、どこから来てどこへ行くのか定かでない漂泊芸能者の相貌を具えている限りでは、その同類と見なされるのにふさわしい。」
「宮田登氏の『民俗宗教論の課題』によれば、葬儀の際に死者を納め墓に運ぶ天蓋を白山と呼ぶ例があり、また類似の装置が山村の古い祭礼で用いられ、白蓋、あるいはシラヤマと名づけられていたという。要するに死者が入る場であると同時に、そこに入ることによって新たによみがえる、死から生への転生を可能ならしめる装置が白山なのである。
 鏡花における白のモチーフを、ほかならぬこの文脈に即して考えたいのが、この小文の本旨である。たとえ柳田に並々ならぬ親しみをおぼえていたにせよ、民俗学的な調査研究に鏡花が深く立ち入ったということはなかっただろう。しかしその代り彼は幻視者の直覚でもって、白山が何であるかを悟っていたにちがいない。白山の影を眼の露に宿していた白い女の避難所、聖域は、被差別者の住家である。彼女を匿ったその家の主が何というか。 
 《凡そ、此の国ほど、人間の差別を附けて、金銭の多寡や家の由緒、其の人の身分に、甲乙を分ける国は他にやあねえ。……
 不断の鬱憤を思召(おぼしめ)さい。町は天気の、山は晴れても、俺(わし)どもの里は水が濁つて、天井も真暗だ。 
 月とも、星とも、御器量人と、美しい上臈が、其の里へ光つてござつて、微塵も別隔(わけへだ)てをなさらねえ。前塚田圃はさらりつと秋晴で、鳳凰のかはりに、きらきらと蜻蛉が飛びます。》
 「此の国ほど」というのは明らかに日本ではなく加賀だから、前にもふれた作者の故郷に対する憤懣が反映していよう。それならば、作者はおのれの身を被差別者の場に置いていることになる。この擬似的な同化は、素朴な正義感、人間的な同情といったものにもとづいていると一応は見られよう。しかし日常の基準で測られ得るその種の情念より以上の動機が、多分この同化を推進している。おそらくその場こそ、醜悪な世俗の眼にはうかがうよしもない、この世ならぬ白い光のかがよいを見ることのできる場所なのである。その場の性格の象徴として白山がある。
 白山の姫神は菊理姫とされている。日本書紀では、黄泉に赴いたイザナギとすでに黄泉の住人となっているイザナミとの談合を仲介している。つまり死と生の仲立ち役である。対立する二つの世界にかかわる重義的な神秘性が、この神とこの神を奉ずる一党を性格づけている。厳密に地理的に考えれば白山とは別方向に当る白菊谷も、白山の菊理姫の谷と解き得るその名にふさわしい、光と闇、白と黒の分ちがたく密接した世界にちがいないのである。」
「『由縁の女』の最も力動的な場面では、礼吉とその朋輩を差別し責めさいなむ金沢の街の名士たちが、差別された者たちの奇襲を受けて散々の目に会わされる顛末が述べられている。「此の国に、位地(いち)あり、金子(かね)のあるもの」どもが、闇のどこからともなく飛んでくる粘土(ねばつち)の塊を打ちつけられ、周章狼狽、なす術を知らず逃げ惑うさまは、読んでいていかにも小気味よい。みずから清潔と思い上っている横暴無礼な時を得顔の人間たちが、実は誰よりも不潔であることを、粘土に塗れた彼らの渋面がまざまざと示している。愛護若の物語の語り手にはまだ思い及ばなかった逆転の契機が、ここでは明瞭なモチーフにまで浮上している。共感の方向ははっきりしている。ただ、作者の意向はそれとして、作品表現の重層性において鏡花は、白の清浄が決して一面的ではあり得ないこと、反面の黒と重ねられてこそ真に清浄であることを示してしまっている。多分その点に鏡花の表現の晦渋さ及び奥深さがかかっている。」

 

「二つの館山城」より:

「『南総里見八犬伝』には、おびただしい邪悪な人物たちが登場する。勧善懲悪を旨としながら、作者曲亭馬琴はひそかに悪を愛していたのではないかと思われるほどである。」

「実状をよく知らないが、精神病的な性向なり資質なりを持ち合わせていなくては、すぐれた精神科医にはなれない、という話を聞く。そういえば、フロイトでもユングでも、偉大な精神の医師たちは、彼ら自身の内奥に狂気を秘め、狂気をおのれの作業のためのバネにしていたのではないか、と推測されるふしがある。似たことが、善と悪の関係についてもいわれ得るのではないか。悪の生理に全く無知無縁な、単純な善には、おそらく悪を仆す力は恵まれていないのだ。悪の生理を内側から感受し得、その内的な契機を知悉している者、すなわちみずからの内に悪を共有している善なる者のみが、悪の克服を成就するのだ。」



「「レリギオ」の促し」より:

「この本(引用者注: ケレーニイ『意図しない芸術紀行』)の最初と最後に、十九世紀スイスの大歴史家ブルクハルトの「われわれはみな没落するだろう。少くとも私は、そのために私が没落することになる関心の的を、すなわち古いヨーロッパの教養を選び取りたい」という言葉が、モットーのように置かれている。文化の行く末にきわめて悲観的でありながら、渇仰する過去の遺産を守り続けて亡びようというのだから、冷淡な目で見れば、時代におくれた教養人の居直りとでもいうことになろう。今注目したいのは、こうした精神の基本姿勢でもって巡り歩く旅人の感想に、宗教的と呼んでもよい敬虔さが滲み出ていることである。
 ケレーニイ自身が「ペレグリナチオ(旅)としてのレリギオ」といっている。「レリギオ」は普通「宗教」と訳されるが、本来「つつしみ深さ」を意味するラテン語である。旅路をたどりながら、常につつしみ深く慎重に、目に見え耳に聞えるものに心をこめて対応する態度。」






































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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