川村二郎 『里見八犬伝』 (古典を読む)

「その場合、いうまでもないが、征服される側にとって、英雄は土地の平安を擾す悪辣な侵略者でしかない。」
(川村二郎 『里見八犬伝』 より)


川村二郎 
『里見八犬伝』

古典を読む 16

岩波書店 
1984年10月19日 第1刷発行
234p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,600円



本書「後書」より:

「『八犬伝』のことは一度書いて見たいと思っていた。何しろ、一番はじめに読んだ、そして多分今まで読んだうちで一番長い、日本の長篇小説である。それ以後量的には随分沢山の、古今東西の文学類を読みあさってきたはずだが、明治以後の近代日本小説の世界で、誰を最も敬愛するかと問われれば、まず露伴、ついで鏡花、少し離れた場所で釈迢空、こういった名前を挙げることにきまっているし、これから変えようもないだろうと思う。馬琴を最初に読んだからそうなったというつもりはない。しかし『八犬伝』に耽溺した少年時の幼稚な感性が、いわゆる近代にはやや異質な、これらの作家たちへの敬愛と、やはり無縁でなかったという気がする。
 反近代主義などという旗標を揚げる気持は毛頭ないけれども、いわゆる近代の特徴が濃厚な思想文芸には何となくなじめない。そうした気質の人間が書いたこれは『八犬伝』印象記である。国文学の研究者ではなく、文学とか小説とかいうものを読むのが好きな読者を念頭において書いた。」



本文中図版(国立国会図書館本「八犬伝」挿絵)14点。


川村二郎 里見八犬伝 01


帯文:

「八犬士を動かす女性たち
登場人物の中でも精彩を放つ女性群、結局は、女の呪いで始まり最後に打破られて完結することを巧みに論じる。 ●シリーズ第16冊」



目次:

一 女神の呪詛
二 聖女の危機
三 孤児の愛
四 幻の名所図会
五 性の明暗
六 末子の栄光
七 辺地の黄金

後書



川村二郎 里見八犬伝 02



◆本書より◆


「水神の呪詛」より:

「さて、漂泊者とその神の反対側wには、当然定住者とその神がいるはずである。作者はしかし、これも当然のことながら、この神には何ら言及していない。何しろ奸佞邪智の癖者と非道の淫婦の野合として、定住者側の状況は捉えられているのである。彼らが祭り、また彼らを守る神なぞ、存在するわけがないと断ぜられたとしても不思議はない。
 だが、どうだろうか。ことによると、彼ら自身が神ではないのか。新来の神に圧倒された旧くからの産土神(うぶすながみ)ではないのか。
 力を失った神が落魄して精霊や妖怪に変化する、水神が零落して河童になったり、キリスト教に追われた古代の女神ウェヌスが中世の魔女になったりする経緯は、民俗学の重要な研究課題の一つだが、今の物語の場合、玉梓は実は最初から「賊婦」なのではなく、白旗の一党に敗れてはじめて、賊婦淫婦におとしめられたのではなかろうか。
 つまりどのように彼女に対して、その悪逆の罪業を糾弾する言葉が(中略)さし向けられようと、単なる賊婦にしては、死んで後幾久しく強大な祟りを相手方に及ぼし続ける怨霊の威力は、物語を通じて誇示されすぎているのである。悪なら悪でも構わない。とにかく世の常の女の怨恨のなせる業では、それはあり得ない。物語の運びと叙述がそのことを強く印象づけている。玉梓は敗れた神、だからこそ彼女の呪詛は、中世ヨーロッパの山の洞窟にひそんだ、魔女ウェヌスの誘惑のように、勝った神の側についた人間を破滅に導く力があったのだと、そこで考えたい。」

「女の無時間性・非歴史性は、玉梓が最初金余光弘の側室でありながら、何の抵抗もなしに次の支配者山下定包に随い得た所にあらわれている。光弘も定包も、それぞれに自分の歴史を持ち、自分の刻限が尽きれば時間の場から退場するのだが、玉梓は本質的に自分の時間を持たない。もし里見義実が彼女の助命嘆願を認めたとすれば、依然として彼女の無時間的世界(無意識と言い換えてもよい)は持続し、その前面に義実の固有の時間が流れ、流れ尽きたとも考えられなくはない。つまりカエサルが殺された後クレオパトラを引き受けたアントニウスが、自分も破滅への道をたどったように。クレオパトラもむろん自殺するのだが、しかし毒蛇に胸を噛ませた時、彼女は一人の女として死ぬのではなく、蛇を使わしめとするエジプトの大地女神イシスとして、かりそめのこの時間の世界から、本来の棲(すみか)である無時間の世界へ還帰するつもりだった――神話学的に少くとも、そのように解釈できる理由がある。それに対して男たちはただ、一人一人、時間の表層に浮び出ては、またその底に沈んで行くにすぎぬかのようである。
 義実が玉梓を殺したのは、この文脈に即して考えれば、新来の神が土着の神を亡したというばかりでなく、時間と意識の世界の居住者が、みずからの根である無時間を掘り起し、明るみにさらした行為でもある。その時玉梓は、敗れた神であると同時に、侮辱された無時間の、時間に対する報復の執行者となる。
 クレオパトラに比べれば、カエサルもアントニウスも、孤立した、そしてその意味で脆弱な英雄にすぎないように、無時間の女性原理を体現する玉梓の怨霊に対しては、いかに智勇兼備の名将であろうと、男性原理を奉ずる義実はほとんど無力にひとしい。(中略)怨霊に対抗するためには、同じ資格を持った原理の体現者が登場しなくてはならない。」



「性の明暗」より:

「髪を振り乱し血にまみれ、刃をひっさげた美女、投げだされた首、そこに降りそそぐ月光。まことに凄惨な、戦慄的なエロティシズムを孕んだ美の光景ではあるまいか。(中略)美は非人間的な残酷なものだ、といえば、ある種の唯美主義者の常套句のようにひびきかねないが、「飛鳥」にまがう迅速さと、美少女から乞食小僧になりまた軽業師になるという、変幻自在の転身ぶりを見せる毛野は、そもそも地上の人間の体温をあまり持ち合わせていないらしい犬士たちの間にあってさえ、人間味の欠如において際立っている。作者はそのことを承知している。人間味の欠如に即して彼の妖美が現れることを、むしろ強調しているとさえ思われる。
 諏訪湖畔で美しい歌姫がむさくるしい乞食に零落しているのを見て、浮世の有為転変に感慨を催すのは、読者のごく自然な反応だと思う。だが、後の放下師をも含めて、一所不住の漂泊者という点から考えれば、みな同じ系列に並んでいると見えなくもない。定住を旨とする日常の生活者にとっては、いずれも差別と疎外の対象、ただしその差別感情には、侮蔑にまじって何がしかの非日常的なるものへの畏怖が含まれていよう。そしてその畏怖は、性的禁忌からの自由に対する畏怖と結びついているだろう。」



八犬伝については、単行本『神々の魅惑』(小沢書店、1994年)収録エッセイでも論じられています。そのうちの一篇「二つの館山城」(1986年)の「後記」より:

「二年前に『八犬伝』についての私見を発表した時(『里見八犬伝』 岩波書店)、物語の多層性に関してはかなり考えたつもりだったが、土地及び土地の名については十分な注意を払わなかった。そのため、まことに迂闊にも、蟇田素藤を「安房館山の城主」と書き記してしまった。ただし素藤と犬江親兵衛の関係をめぐってその時述べたことを改めるつもりはなく、この誤記に気づき、地名の作中での意味を考えた時、それに即して両者の関係を具体的に一層明瞭にすることができると思ったのが、この小文執筆の動機である。つまりこの文章は前著の訂正、および補遺という心づもりで書かれている。」







































































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