西脇順三郎 『野原をゆく』 (現代日本のエッセイ)

「いつの頃にか私は東京のコンクリートの街上をうつむいて歩いていた時、殆ど青天のへきれきの如く雑草のきらめきを知った。それは冬の初めであった。」
「雑草の美は失望した世の旅人の眼の中にのみ存在する。」

(西脇順三郎 「雑草の美学」 より)


西脇順三郎 
『野原をゆく』

現代日本のエッセイ

毎日新聞社
昭和47年6月20日 印刷
昭和47年6月30日 発行
318p 
A5判 丸背布装上製本 貼函 
定価1,000円
装幀: 安彦勝博

新字・新かな



毎日新聞社「現代日本のエッセイ」シリーズの一冊として刊行された、西脇順三郎エッセイ選集。巻末に鍵谷幸信との対談を収録。


西脇順三郎 野原をゆく 01


目次:

四季の唄
 春
 水鳥の言葉
 春すぎて
 夏から冬へ
 秋の日
 タイフーン
 月、なす、すすき
 むさし野
 美しい季節
 年の終り
 四十年前の三田の山
 自然の憧れ
 自然の哀愁
 イタリアの野を行く
 自然の風情
 日本の風情

私の植物考
 雑草の美学
 雑草と記憶
 路傍雑考
 街路の雑草
 雑草考
 心遠
 故園の情
 そくず
 くこの話
 鳳仙花
 イバラの幽霊
 風流人
 五月の夜

詩人の憂鬱
 ひとりで歩く猫
 土星の苦悩
 角笛を磨く
 MEMORY AND VISION
 テオクリトス
 曖昧な意味
 トランプ
 山歩き
 人間の話

漂泊
 旅人
 北海道の旅
 私のローマの休日
 新春
 半島の春
 二つの旅行
 日本人の旅行感覚
 ゴーガンの村

永遠への帰郷
 永遠への帰郷
 文学青年の世界
 美について
 茶人礼賛
 われ、素朴を愛す
 矛盾と偶然
 手紙
 追憶の美
 野原をゆく
 樵夫と近代芸術
 彫刻
 ピカソと近代芸術
 日本絵画

対談 西洋の言葉 東洋の自然 (西脇順三郎・鍵谷幸信)
著者略年譜



西脇順三郎 野原をゆく 02



◆本書より◆


「美しい季節」より:

「わたしは十二月と正月の季節を非常に美しく思う。昔の日にもどりたい気になる。人間の本来のさびしさにもどる季節である。人間の本来の穴にもどり冬眠する季節であるが、人間はそれを意識していないだけのことであろう。心理的には非常に回顧的になる季節である。すべてあきらめと失望の季節である。すべての草は北欧人のかみの毛のようにうす黄色くなっている。もやの中から、けやきの木がつき出ている。わたしはこの青白い季節にむさし野をひとり歩くことが好きだ。」
「わたしは自然に対して子供の時から非常に感傷的であった。枯れた野原を行く時など、くり林の中を歩いている自分の姿は悲しげである。犬が遠くからわたしを見ている。くりの葉はたばこ色をして地面を一杯しきつめている。特に低血圧になって身体の調子が弱っている時などは、この季節に野原をゆくことが好きだ。本当にバカみたいであるが、この時はくりの葉だとか、くぬぎの葉をひろって家へ持ってくる。時には石などもひろって来ることがある。まるで乞食のしわざのようだ。それを机の上に並べて置く。ランプの下からこの野原の幻影と話がしたくなる。」



「イバラの幽霊」より:

「すべての思想やすべての情想をすてて東国の白金の友人の家を訪ねてみると、そこへ行く小路にはもう秋が来ていた。切断された鉄条網のハリガネが曲ってたれていた。その中でみすぼらしい接骨木の薮が一つうずくまっている。その上をヘクソカズラというつる草がおいかぶさって、あの金色の小さい実がさがり、またカラスウリもさがっている。こうしたイメジは僕の頭を刺戟する唯一のものだ。」


「野原をゆく」より:

「文明がすすむにつれ、その反動として自然にもどりたい気持がますますさかんになる。人間がそういう風にバランスをとることは人間生活を健全にする自然の力であろう。」
「十二月も二十日過ぎになると天気がよい日でも、朝から夕方のようである。そうした時期にむさし野へ出て、本当に真暗くなるまで、枯れた藪のわきにひとり立っていたい。この季節に野の上に沈む太陽はすばらしい。野ばらの実の色にもまさる色をしている。あたりはうすい黄色の草にいろどられている。ミゾソバやイヌタデやエノコログサなどはもう影もなくなっている。ただ藪には名の知れぬ草の実がぶらさがっている。
 わたしが知っているサルトリイバラやヘクソカズラやエビズルの実が赤や黄色や黒い実を土人のくびかざりのようにぶらさげている。あたりにじっと耳かたむけていると、どこか近くの林の奥から小川の流れる音が聞えてくる。
 色あせた冬枯れの美は素朴な自然の美だと思う。そういうタイプの美がわたしのように年をとってくるとだんだん好きになる。人間自身がつる草の悲しみのように思われる季節にむしろ美しいものが感じられる。」
「それから西洋画などについていえば、先に言ったように素朴な画風に無限の愛着を覚えるようになった。それにはセザンヌの画風が無条件によくなってきた。(中略)そのセザンヌの色調や色彩の配合や選択、また濃度などは水彩画である。彼は油で水彩画をかこうとした珍しい頭の持主であった。全体として実にうす色で、どこか水彩のにじみまでが出ている。」
「線についていえば、例えばリンゴの輪郭の線はリンゴの色からはみでて描かれている。また壁の中に窓わくが描かれているとすれば、その壁の色が水彩画によくあるように、その窓わくの中ににじみこんでいる。油であるから、水彩のようににじまない筈である。よほど油をたくさんどろどろに用いなければにじみ出ることはない。わたしの考えでは彼はわざとそうしたにじみ出たようにかくのではないかと思う。そういうことをはじめた男の頭は珍しい存在であった。わざとへたにかいたようにみせかけたり、不器用な無骨な無作法な画風をみせようとしているところなどは、ヨーロッパ絵画史上面白い現象であった。
 形は今日の人々がいうデフォルマションとかディストーションという、いびつにかいたり、線はとぎれとぎれにへたな裁縫のぬいめのようにつながれたりしてある。こうした画風を模倣してわたしは時々いたずらに絵をかいてみるが、実に面白い。また絵画とはこのことかとさえ思うのだ。どこからこうした東洋の文人画的な画風を考え出したのか、それはセザンヌが一生売れないし、名画匠になれないし、ただ一生禅僧のように自分勝手に欲するままに描いたからであろう。そうしているうちにそういう画風になってしまったのであろう。東洋の画風と偶然に一致したのかも知れない。一種の未完成は最大な完成であるということを信じなければならない運命に彼は達したのであった。わたしはセザンヌの絵を一本のサルトリイバラの実のように、素朴な自然の美として崇拝する。わたしは十二月という月がセザンヌのように一番美しいと思う。
 家に帰ってかがんだら、ドングリがころげおちた。」



対談「西洋の言葉 東洋の自然」より:

鍵谷 先生はエリオットとはお会いになったことはありませんね。
西脇 ないです。あんなのはあんまり好きじゃない。われわれのグループじゃないんですよ。グループはもういまのヒッピーみたいなやつばかり集まった。コリアーなんかヒッピーですよ、小説家になって成功したんだけれども、詩を書くことはやめて。ぼくはグループをつくって「タイモンズ・ケーブ」という雑誌を出すことになっていた。(中略)そのタイモンは隠遁者ですからケーブ、洞穴のなかに住んでいる。その「タイモンズ・ケーブ」という雑誌をつくろうとした。
鍵谷 それは実際に出たんですか。
西脇 出なかった。」




こちらもご参照下さい:

西脇順三郎 『西脇順三郎詩論集』






















































































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