西郷信綱 『斎藤茂吉』

「茂吉の偉さはその表現が本人の知らぬ間にその意図をのりこえる、ゆたかな感受力を持っていた点にある。」
(西郷信綱 『斎藤茂吉』 より)


西郷信綱 
『斎藤茂吉』


朝日新聞社 2002年10月30日第1刷発行
295p 序vii 目次2p 索引xiii
四六判 丸背布装上製本 カバー 
定価2,500円+税
題字: 多田順
装丁: 多田進



本書「後記」より:

「雑誌「東北学」(4)に、第一章の「『みちのくの農の子』茂吉」の初稿を載せたほかは、すべて未発表のものであることをいっておく。」


西郷信綱 斎藤茂吉


帯文:

「茂吉について語ることは、
芭蕉、さらに人麿にまで遡り、
日本詩歌の根源を
旅することにほかならない。
茂吉と出会い、
深い衝撃を受けてから半世紀、
著者渾身の書き下ろし。」



帯背:

「古代と近代の重層」


目次:


一 「みちのくの農の子」茂吉――古代と近代の重層
二 「狂人守」の悲しみ
三 恋歌「おひろ」
四 挽歌「死にたまふ母」
五 二重性の世界
六 『赤光』から『あらたま』へ
七 茂吉の写生論――「自然・自己一元の生」を写す
 補考――「寂しさ」あれこれ
八 茂吉と人麿――ディオニュソス的ということ
九 「聖なるもののリビドー」をめぐって
十 茂吉に笑いあり
十一 歌の円寂(?)
後記

年譜
索引




◆本書より◆


「序」より:

「そのとき(昭和十年・一九三五年)私は満十九歳で、大学は英文科の一年生。といえば何やら格好だけはいいが、入学後三か月ほどしかたっていないのに、実は私は虚をつかれ、もうさんざんな目に逢っていた。
 むろん英文科を選んだのには、若ものにありがちな不遜な志もなくはなかった。しかし読みの方はまあまあとしても、何しろその言葉をしゃべるkとおも、それで以て文章を綴ることもろくすっぽ出来ぬのだから、そこにあるのがほんの教養的で、ごくかいなでの英文学にすぎなかったのは確かである。ある日これがあッという間についえ去ったにしても、さして不思議はない。その一撃は、斎藤茂吉の自選歌集『朝の蛍』という改造文庫本(定価二十銭)を、たまたま読んだことから来た。」
「これらが生の哀感や寂寥や戦(おのの)きの諸相を独自な語法とリズムで歌い、一つのただならぬ宇宙を創り出しているのに、私はすっかり魅了されてしまったのだ。高校時代、萩原朔太郎や高村光太郎や三好達治の詩を多少は読みかじっており、やや心ひかれる想いを抱いてはいたけれど、『朝の蛍』から受けたのはそれらとやや質を異にする、いうならばぐさっと五体をつらぬく深い衝撃であった。啄木の歌をちょっぴり覗いたほか短歌というものが私の視野にまるで存しなかったから、『朝の蛍』が突如もたらしたこの衝撃は、一つの動乱と化すほかなかった。なけなしの金をはたき、『赤光』と『あらたま』を神田の古本街で探し求めて読むに及び、いよいよ茂吉の歌のとりことなった。
 当時の私にはそれらはたんに短歌というより、むしろわが身をゆだねるべき詩そのものであった。」

「ずばりいってこの茂吉との出逢いは一種の通過儀礼、つまり成人式にさいし課せられる試練にほかならず、私じしん、精神史をまさに「考古学」として反省することが要求されていると考えるようになったのである。いいかえれば初期のこの経験にまで降下してゆき、そこに沈殿しているあれこれの契機をとらえ直し、茂吉的世界の生成とその意味を新たに鮮明する手だてにそれを転ずることが何ほどかできそうだし、それが自分にも必須な仕事なのではなかろうかという点に気づいたらしい。以下はそのような思いにそそのかされてものした、ごく大ざっぱな一つの試論にすぎない。」



「「狂人守」の悲しみ」より:

「「狂人守」というのは茂吉の造語に違いない。右の連作の翌年、

  にんげんの赤子を負へる子守居りこの子守はも笑はざりけり (「根岸の里」)

と歌っているが、「狂人守」とこの「子守」という語とは意味的に通底しているらしい。だから「にんげんの赤子を負へる子守」というのに人はどきっと(引用者注: 「どきっと」に傍点)させられるのである。」
「いわゆるベビー・シッターとは違い、借金のかたに子守役として奉公務めしている貧家の娘が「子守」である。そして「この子守はも笑はざりけり」とある。かの女はひどく疲れており機嫌も悪かったに違いない。子守唄には、「御寮(ごりょん)よく聞け 旦那も聞けよ 守(も)りに悪すりゃ 子にあたるヨーイヨイ」(博多子守唄)といった風な文句が頻出する。有名な「五木の子守唄」の歌い出し「おどま くゎんじんくゎんじん」の「くゎんじん」も勧進の転で、乞食の意である。その子守が背負っているのが「にんげんの赤子」だというのは、「人間」という文字に張りついている自明性(引用者注: 「自明性」に傍点)を中断し、それを括弧に入れたときの驚きをあらわす。「初句〈にんげんの〉一語で読者は後頭部を鈍器で殴られたやうな衝撃を受ける」(塚本邦雄、『茂吉秀歌「赤光」百首』)とある通りだ。何れ後でふれるが、「自殺せる狂者をあかき火に葬りにんげんの世に戦(おのの)きにけり」(「冬来」)の「にんげん」についても、ほぼ同じことがいえよう。」

「こうして黒と赤、または暗と明とが交錯しながら原色の抒情ともいうべき世界が展開する。」

「狂人守であることの悲しみはどこから来るか、それと歌よみであることとが精神的にどう交錯し、どう包みあっているかに、もっと目を向けるべきではなかろうか。」

「囚人といえば『赤光』には、さらに次の歌がある。

  あま霧(きら)し雪ふる見れば飯(いひ)をくふ囚人(しうじん)のこころわれに湧きたり (「雪ふる日」)

 この歌につき、「作歌四十年」で作者は次のように回想している。「この雪の降る日に、囚人のことをおもひ、その囚人の飯(めし)を食ふことをおもふ。さうすれば今飯を食ふ時の囚人の心に等しいやうな心が自分にも湧いたといふのである。……時に深く囚人について考へたことがあつた。特にその頃、精神鑑定などをして、責任能力云々を論じた時であつた」と。(中略)いろんな風に解されているようだが、右の歌も「囚人の心境に同化して」(鎌田五郎『斎藤茂吉秀歌評釈』)と見ていい。」
「茂吉は誰も見ようとしたことのない自然に眼を向けることがあるように、誰も思ったことのない観念や心の動きを突如おもいやったりする。」
「つまりこのとき作者は、たまたま風邪か何かをわずらい自宅にひっそり引きこもり、墓地に雪の降りつもるのを見守っていた。そこへおよそ雪とはゆかりもない「飯くふ囚人のこころ」という奇想(コンシート)が啓示のごとく湧いてきたのだ。囚人の心の鑑定にも深くかかわっていた「狂人守」であればこそ、このように歌えたわけで、雪しんしんと降る東北育ちの作家だからと考えるだけに終ってはなるまい。万葉ぶりの「あま霧し」で始まったのに、思いもよらぬ歌へとそれが化けるのも、この奇想のおかげである。前にもちょっと触れたが、総じて茂吉の歌には驚異(引用者注: 「驚異」に傍点)の要素とでもいうべきものがあり、それがその魅力の源泉になっていることが多い。



「恋歌「おひろ」」より:

「先に引いた「作歌四十年」には、新詩社は恋愛というものを主題として観てかかるにたいし、「自分のはもつとおどおどした素人向のものであつた」と見える。茂吉は時あって猛然と爆発するかと思うと、ひどく臆病なところがあったとよくいわれる。現にくり返し、「僕のやうな、物に臆し、ひとを恐れ、心の競ひの尠(すくな)いものが……」(『念珠集』)とか、「私には臆病な性質があつて……」(「森鴎外先生」)といったセリフを連発している。(中略)しかし(中略)、その表現まで「臆病」であったわけではない。」


「二重性の世界」より:

「こんなことまで口にしなくてもいいのにと思うけれど、こうした真っ正直さこそ彼の資質の一つであるといえなくもない。」
「茂吉は、その語が自分にとって「真実にして直截である」かどうかが肝腎要(かなめ)であって古語・現代語などという「外的差別見」に構ったりということをしない。(中略)「真実にして直截」と感じさえすれば、茂吉は古語はむろん、何れであれ己れの歌に生かそうとする。」



「歌の円寂(?)」より:

「茂吉の偉さはその表現が本人の知らぬ間にその意図をのりこえる、ゆたかな感受力を持っていた点にある。」







































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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