西郷信綱 『源氏物語を読むために』

「『源氏物語』はあくまでも物語であって小説ではないといった風な議論にこだわるけちな了簡は、さしづめ犬にでもくれてやった方がよさそうに思われる。この作品はもしかすると、ジョイス『ユリシーズ』で終焉する(?)ところの全小説史の、世界における最初の記念すべき小説かもしれないという気がする。」
(西郷信綱 『源氏物語を読むために』 より)


西郷信綱 
『源氏物語を読むために』

朝日文庫 さ-16-1

朝日新聞社 1992年11月15日第1刷印刷/同年12月1日発行
318p 
文庫判 並装 カバー 
定価580円(本体563円)
カバー装画: 『年中行事絵巻』(田中家蔵)
カバー装幀: 中島かほる
表紙・扉: 伊藤鑛治

「単行本は一九八三年一月、平凡社から刊行されました」



本書「あとがき」より:

「さてこれは、一九七九年六月号以降『月刊百科』に断続して載せたのを主に、その他に発表したのや未発表の稿もまじえ一冊にまとめあげたものだが、」


本書「文庫版あとがき」より:

「なお、不適切と思われる箇所をいささか手直ししたり、「あとがき」をつずめ、本文中に小見出しをつけたりしたほかは、元のままであることをいっておく。」


西郷信綱 源氏物語を読むために


帯文:

「一千年の時間を超え人を
魅了しつづける源氏物語」



カバー裏文:

「藤壺との密通、葵上にとりつく六条御息所の生霊、あるいは苦悩の果て宇治川に入水する浮舟などなど――1千年の時間を超えて人をなお魅了しつづける『源氏物語』。その核心にある人間の悲劇性を鋭く分析し、作品を《読む》とはどういうことかを痛切に開示する珠玉のエッセイ!」


目次:

第一章 一つの視点
 一 音読か黙読か
 二 作者と語り手の関係
 三 物語と女
 四 小説史のなかで
第二章 《公》と《私》の世界
 一 《私》としての後宮
 二 作者の眼
 三 恋愛と色好み
第三章 色好みの遍歴
 一 雨夜の品定め
 二 最初の冒険
 三 情事と乳母子
 四 「やつし」の世界
 五 「をこ」の物語
 六 附 『新猿楽記』のこと
第四章 空白と脱線と
 一 空白について
 二 脱線について
第五章 夢と物の怪
 一 『源氏物語』と『雨月物語』
 二 心の鬼
 三 霊の病い
 四 過渡期の悲劇
第六章 主題的統一について
 一 危険な関係
 二 永遠の女性ということ
 三 政治小説として
 四 罪と運命と
第七章 古代的世界の終焉
 一 孵化作用
 二 皇女のゆくえ
 三 破局のはじまり
 四 大いなる破局
 五 時間と空間の軸
第八章 宇治十帖を読む
 一 宇治と「憂し」
 二 結婚を拒む女
 三 人物の対照性
 四 端役たち
 五 開かれた終り
第九章 文体論的おぼえがき
 一 パロディとしての『竹取物語』
 二 『蜻蛉日記』をめぐって
 三 『源氏物語』の文体に近づくために
第十章 紫式部のこと
 一 歌と散文と
 二 知識人と芸術家の共存

あとがき
文庫版あとがき




◆本書より◆


「第二章 《公》と《私》の世界」「註」より:

「平安朝の貴族生活が女にとっていかに不安と怖れに充ちたものであったかを、『源氏物語』はつぶさに語っていると前にいったが、このことをいわば女性史風にそれ自体として強調するだけでは一面的になる。女の不幸や宿世のつたなさは、実は社会における抑圧や差別と構造的につながっており、その集中的な表現であったのだ。この作者は身分社会そのもののこうした本質を直観的に見てとっていたらしいのだが、これはかなり驚くべきことだと思われる。」


「第三章 色好みの遍歴」より:

「さて末摘花という時代ばなれしたこの醜女にたいし私たちの抱いていた最初の優越感は、このへんで微妙に揺らいで来るのではなかろうか。自分の方がましだと思いこんでいたその優越性の基準が、実は浅い世間知にすぎなかったことに否応なく気づかされるからである。つまりひどく古風ではあっても純粋無垢な末摘花が、はやりかで当世風の伯母を逆に異化するのだ。」
「これを読むに従い、末摘花への私たちの態度は次第に両義的になり、始めの優越感は一種の困惑へと変ってゆくはずである。いうなれば作者はここで両面作戦をやっている。そして読者はこの両面のつくり出すデコボコした空間のなかに挿入され、人間の定義しがたさ、世間知というものが必ずしも判断の基準にはなりえず、むしろ偽善ですらあることについて反省をしいられる。」

「「をこ」といえば、近江君を逸することができまい。かの女は内大臣(頭中将)の落胤、名告(なの)り出て内大臣邸にひきとられたが、何しろ「いと鄙(ひな)びあやしき下人(しもびと)の中におひ出で」(常夏)たので、姫君らしいもののいいかたも知らない。声は軽薄で詞はごつごつしていて訛りがあり、加えてひどい早口で、しかも無遠慮にしゃべりまくり、混乱と嘲笑をあたりに巻きおこす。内大臣も呆れはて、わが娘・弘徽殿女御のもとに出仕させようとするが、便器の御用だってやりますよ、といった返事がもどってくる。そしてその女御に型破りの消息文と一緒に次のような歌を贈ったりする。「草わかみ常陸の海のいかが崎いかであひ見む田子の浦浪」。早く会いたいという意だが、いかが崎は近江国、田子の浦は駿河国だからいわゆる「本末あわぬ歌」であり、「草わかみ常陸」の続きがらもデタラメである。
 私は「をこ」のついでに近江君を引合いに出したにすぎぬが、この人物の愚行にはお上品な社会に穴をあけてみせてくれる点がある。そしてそれは「をこ」というものの意味を考える上に、やはり忘れない方がいいと思う。右の歌にしても、何かといえば歌枕を詠みこむ当時の貴族趣味的和歌作法にたいするパロディと見ることもできる。」



「第六章 主題的統一について」より:

「どの期の作品にも、同時代の人びとには当り前であるため作者がとりたてていう必要のない、だが後代には見えなくなる黙契のごときものが存する。」


「第八章 宇治十帖を読む」より:

「浮舟の会いたいと願うのは母親だけであった。(中略)黒髪を切り落とそうとしたときも、しきりと母を思った。男と女ではなく母と子の絆という、歴史を無にかえすもっとも始源的なものへの回帰がここにあるが、世界を失った女にしてみれば、これは当然のなりゆきであろう。」
「こうして『源氏物語』は幕を閉じるのだが、それを中絶かも知れぬと勘ぐったりするのは、まったく無用のわざである。女主人公としての浮舟が尼になったとき、この世の時間は停ったのであり、したがって物語がさらに新たな世界を生成する内的必然性はもうなくなったといっていい。もっとも、中断と見えるほどゆたかな余韻がそこに残されているのも確かで、これは開かれた終りと呼んでいいのではないかと思う。そしてそれは作者が、浮舟の運命について何ら最後のことばをいわず、読者の想像にすべてをゆだねて終っていることと無縁でないはずである。」
「すでに見たように宇治十帖では仏教的厭世観が濃くなってきているのだけれど、しかしそれがドグマとして文学の頭ごしに働くことはまったくない。そしてこの終末の部分を読む私たちは、浮舟には宗教といえど救うことのできぬある種のいいがたい経験がなお身のうちに生きており、だから尼になっても「行くへも知らぬあまのうき木」なのだ、と思いながら巻を閉じる。
 紫式部は観音の化身だとされる一方、狂言綺語の戯れの罪により堕地獄の苦患を受けているとする俗説が中世にはひろまり、その供養が行われていた。『水滸伝』の作者は嘘をつきすぎたため三代つづけて唖の子が生まれたというが、右の話も『源氏物語』が仏罰を蒙るほど痛烈な傑作であったゆえんを中世風にいいあらわしたものに他なるまい。文学は与えられたものとして歴史をつねに前提にする。だがすぐれた作品はその歴史的なもの――ここでいえば例えば仏教――の価値や規範性を確認するというより、むしろさまざまなしかたでそれを否定したり括弧に入れたりして、そこから越え出てゆく。そうかといって倫理学や哲学や宗教などのようにそれにとって替る価値が何であるかを、文学は定式化したり明示したりはしない。その意味が実現されてくるのは、それを読むものの意識においてであり、こうして読者は今まで知らなかった新たな現実を想像的に経験する。その点、すぐれた作品はつねに開かれており、かつ一義的でないといえるはずである。」



「第十章 紫式部のこと」より:

「実は私は、人がいうほど紫式部の歌を見どころがあるものとは考えていない。」
「年暮れて我が世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな
という歌は、例外的にほとんど唯一の傑作と見ていいのではなかろうか。」

「さて『紫式部日記』から次の一文を引いておく。

  ……呆(ほ)け痴れたる人に、いとどなりはてて侍れば、「かうは推しはからざりき。いと艶に、恥づかしく、人見えにくげに、そばそばしきさまして、物語このみ、よしめき、歌がちに、人を人とも思はず、妬(ねた)げに、見おとさむものとなむ、みな人びと云ひ思ひつつ憎みしを、見るには、あやしきまでおいらかに、こと人かとなむおぼゆる」とぞ、みな云ひ侍るに恥づかしく、「人にかうおいらけものと見おとされにける」とは思ひ侍れど、ただこれぞわが心と、慣らひもてなし侍るありさま、宮の御前も、「いとうちとけては見えじとなむ思ひしかど、人よりけに睦まじうなりにたるこそ」と、のたまはするをりをり侍り。」

「おおよそ口訳するなら――馬鹿で間抜けな人間になりすましているものだから、同僚の女房たちが、「案外だ。気取っていて、気づまりで、とっつきにくく、つんとしていて、物語好きで、何かといえば歌をよみ、嫉妬ぶかげに、人を人とも思わず見くだしているような人だと、みんなして噂もし、毛嫌いしていたのに、会ってみると、不思議なほど穏やかで、別人みたいだ」というので、こっちはくすぐったく、「他人にこうまでボンヤリ者だと見くびられてたのか」と内心思いはするけれど、これこそ我がみずから慣いおぼえた身の処しようで、中宮も「とても気をゆるしてはつき合えまいと思っていたのに、他の女房よりずっと親しくなったとはねえ」と、ちょいちょいおっしゃる、というくらいの意になろう。中宮に白楽天の「楽府(がふ)」を進講しながら、人前では屏風に書いてある詩句も目に入らず、一という漢字すら知らぬふりしていたとも記している。
 宮廷でのこの、自分をかくし、それをうっかり人にのぞかせまいとするフィクティヴで韜晦的な態度は甚だ印象的で、ほとんど不敵といっていいものである。フィクティヴといったのは、それが『源氏物語』という大きなフィクションの作者の生きかたに見あう点があるのではないかと思ったからだが、それにしてもあの「心のうちのすさまじきかな」とは具体的にどういうことなのだろうか。前に見た通り、この日記には異常ともいえる憂愁の気がたちこめており、もうこの世を離れたいという志も何度か洩らされている。が、それを無常観という時代の通念にさしもどすだけでは浅はかだろう。そこには一種病理的な何かがあるように感じられる。あれこれのにがい経験がひしめきあい、人生への絶望を深めてゆき、えたいの知れぬ魔がいつしか心内に棲みこむという次第になったのだろうか。
 日記に見られるかの女のこうした態度を嫌らしいとか、偽善的であるとか(中略)いうのは無用である。第二章でこの作者の眼に言及するところがあったが、自分をあらわにせず、他人の心のなかをじっと覗きこむ散文作家の孤独な眼差がここにあるのを知るだけで、今は充分である。」



「あとがき」より:

「文学の批評や研究に、かなり大きくて深い一つの変革が静かに起こって来つつあるように思われる。それは客観的なものとしてのテキストの自明性が崩れ、従来あまりかえりみられなかった読者、あるいは読むという行為の働きが前面に出てきたこと、そして従来のテキスト中心主義からそれらをふくめたものへと、批評や研究が転換しようとしていることである。「源氏物語を読むために」と題したのは、即興の思いつきではない。またむろん唯一無二の普遍的な読みがどこかにあり、それに向かって進むというようなことでもない。テキストは読むという行為を通して私たちの意識のなかに、まさに文学作品として構成されてくる。ある一つのテキストが時代により絶えず読み変えられてゆくのも、テキストが読者に与える効果(引用者注: 「効果」に傍点)というより読者がテキストに附与する意味(引用者注: 「意味」に傍点)、つまりそれを作品として構成するそのしかたが変るためである。しかもその過程は、決して個人的な恣意にゆだねられてはいない。
 本書はこうした問題を念頭におきつつ、『源氏物語』について私の経験してきたところを記述しようとしたエッセイである。エッセイと呼ぶのは、いわゆる専門の研究書ではないからで、むしろ専門家の間で大事とされていることがらをやりすごしたり、その常識からそれたり等々の点が、少なからずありそうな気がする。不勉強を棚にあげることにもなりかねぬが、そのへんを大目に見てもらえるなら、こうした試論にも何がしかの存在理由があろうかと思う。あるテキストを根本から読み直すには、それを専門家の研究のしからみから解き放ち自由にしてやることが必要条件になるという逆説だって、あながち成りたたなくはないだろうからである。」










































































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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