西郷信綱 『増補 詩の発生』

「詩を特色づける求心的内向、外を内に食いとろうとする衝動を単純に「逃避」と混同すべきでない。」
(西郷信綱 「言霊論」 より)


西郷信綱 
『増補 詩の発生
― 文学における原始・古代の意味』


未来社 1964年3月25日第1刷発行/1980年10月15日第11刷発行
344p 索引9p 
A5判 並装 カバー 
定価1,800円



本書「あとがき」より:

「この数年のあいだに書いた論文を集めて一冊にすることにした。いろんな機会にいろんなところに書いたものだが、一つの曲線は描いているつもりである。「もののけ」に関するものなど、本書の題名にそぐわないと思われるかもしれぬが、私の考える詩の概念は、かかる巫術的・秘教的な側面をもふくむのである。王権に関するものをおさめたのも、ランボオ風にいえば、それが日本の詩的精力の《盗人》だったと私が頑固に考えているのにもとづく。」


本書「増補版あとがき」より:

「「文学意識の発生」という一文を加えて、増補版を出すことにする。これは『民俗文学講座』第一巻にのせたもので、再録にさいし字句の上で少し手を入れた。
 なおここで、本書の(中略)聖婚にかんする叙述はまちがっていることをいっておかねばならない。訂正意見は拙著『日本古代文学史』(改稿版)で多少ふれるところがあったので参照してもらいたいが、この問題についてはそのうち新たに一文を草したいと思う。」



西郷信綱 詩の発生


目次:

詩の発生 (1956年)
 一 信仰起源説
 二 詩と魔術
 三 前論理性
 四 詩と言語
 五 「共同体的本質」
言霊論――和歌の永続性に関する覚え書 (1958年)
 一 「言霊の幸はふ国」
 二 人麿時代の問題
 三 抒情詩の発生
 四 宮廷と和歌
 五 和歌の永続性
 六 和歌形式の矛盾
古代王権の神話と祭式――神代とは何か (1959年)
 一 真床覆衾と天の羽衣
 二 大嘗祭と君主の誕生
 三 隼人の服属
 四 天の岩屋戸の物語
 五 出雲世界
 六 原型としての神代
 七 神話と祭式の分離
 八 古代王権の矛盾
柿本人麿 (1958年)
 一 挽歌の歴史
 二 人麿以前
 三 人麿の位置
 四 儀式的世界
 五 人麿の言語
万葉から新古今へ (1958年)
新古今の世界 (1959年)
 一 日本的抒情
 二 俊成の位置
 三 定家
 四 新古今的状況
 五 新古今の諸歌人
 六 二つの道
鎮魂論――劇の発生に関する一試論 (1957年)
 一 死と復活
 二 季節と人間
 三 君主の鎮魂
 四 魂の遊散
 五 ワキの発生
 六 能の本質
 七 悲劇の成立
源氏物語の「もののけ」について (1959年)
 一 廃院の怪
 二 游離魂
 三 自我と魂
 四 死霊としての「もののけ」
文学意識の発生 (1960年)

あとがき (1960.5.16)
増補版あとがき (1964年1月)

人名書名索引・事項索引




◆本書より◆


「詩の発生」より:

「たんに「信仰」とった風のものではなくて、原始の集団や共同社会の公の魔術こそが詩を生み出す母胎であった、と私は考える。魔術というとわれわれは、ある個人がじぶんの敵を呪い倒そうとするブラック・マジックをすぐに想うが、それとはちがってこの公の魔術は、社会の成員たちの経済的願望、自然を手なずけ豊饒をよびよせようとする願望と結びついたものであり、その集団的行使が祭式でもあるという関係であったと思う。そこでは自然を支配しようとする欲望や意志が直接的・命令的にあらわれるのだが、それは生産力がまだきわめて弱く、人間と自然との間が道具によって媒介されていないからで、部分は全体であり、象徴は象徴されたものであり、名は同時に物であるとう関係が生きられていた。未開といえばこの上もなく未開なわけだが、社会生活としてみれば、まだ階級対立とか社会分裂とかを知らぬ真の共同体的社会でそれはあったわけで、この点、うす暗い穴居生活を営んでいた原始人の方が、地獄じみた生活を強いられつつ来世にあこがれをよせねばならぬ文明人よりは、少くも社会的(引用者注: 「社会的」に傍点)には不幸でなかったといいうるかもしれない。」

「私はさきに、巫女の発する言語は日常語や散文であったはずがなく云々といっておいたけれど、逆にいえば、彼らの言語、つまり呪文は、日常語や散文であることができなかったのだ。普通このことは、不文の時代の記憶と伝承のためであるかのように手軽にとかれているが(中略)、実は彼らをとらえたあの神がかりの心的状態は、散文や日常語を以ては正確に翻訳することのできぬ特殊な或るものであったからに外ならぬ。詩が、あるいは呪文や諺が記憶的であるのは、たんに不文の時代のせいではなく、もっと深い本質的なことがらであった。」

「私のいいたいのは、詩の世界では日常的そのままでない、あるいは散文とはちがう言語的秩序が支配しているということ、しかもそのことが詩の本質、詩を詩たらしめる根本の必然性と分ちがたいものらしいという点である。」

「神がかりの、憑かれた、巫女的あるいは予言者的状態が、日常語や散文に翻訳できない或るものであったのと全く同じ理由で、詩的真実に表現をあたえるには、やはり独自の言語的秩序が必要とされたわけだが、さきには一種の狂いのごとくあらわれる夢幻、陶酔、眩暉、倒錯の状態といったところのものを、いま詩的真実ということばにおきかえてみた。」
「それが一体どういう力の働く磁場であるかは、(中略)もっと概念的に規定するとすれば、それは若きマルクスが『経済学・哲学手稿』で懸命に追求しているところの人間の「共同体的本質(ゲマインシャフトリッヘス・ウェーゼン)」、階級的対立や私有財産制によって自己疎外されぬ人間的本質――その現存であり、それへの帰還であるといえると私は考える。とにかくそれは時間なき、あるいは時間をせきとめ抽象した、あるいは歴史と文明のメカニズムを拒否した、ないしは人間本能と環境との矛盾を一挙に止揚した、目に見えぬ、未分化で、日常意識下の集団的・原始的世界であり、具体的には一種の狂いを以て殺到的にしか経験しえぬ何ものかでなかろうかと思われる。少くともそこには日常とはちがった時間が支配しているのは確かで、しかもこういう世界の現存を人間がありありともち、必要とするものであるということ、このことがあらゆる時代の人間にとっての詩の必然性を根深く支える力として作用していることだけは疑えない。」

「科学的言語が発達し、自然や人間や現実の事物を実証的に指示しようとしてやまぬ精神が旺盛になるにつれ、当然、詩的真実の世界の独自性はおびやかされ、孤立に追いこまれる。(中略)とくに、前にもいったように、外部世界を音として純粋化・内面化しうる音楽とは異なり、詩の用具はあくまで言語――人間が社会生活において交通し、意味を伝達する実用の用具として発達してきた言語である外ないことが、その困難を倍化する。(中略)詩は音楽の知らぬ現実の抵抗と科学の抵抗にたえねばならない。」
「以前とは比較にならぬ苛酷さを以て、資本主義機構のヴィジョンなき物質的な力が、人間生活をしめつけ、圧迫し、不毛に近い旱魃を精神の上に加えつつあるからである。」
「かくして本来、自然にたいする人間のたたかいの縦横の糸として交わるべき科学と詩――魔術がその両者の母胎であった――が、精神のなかで徒らになぐりあいを始め、結局、宗教的なものに仲裁を仰ごうとする気配さえ見られる。」
「実体を記号におきかえる科学的言語とは相違し、詩的言語が羃(べき)をもち(中略)、しばしば比喩的になるのは(中略)、前論理的なものといいうる詩的真実の世界を可感的に客観化するには、どうしてもそうならざるをえないからである。比喩は呪文以来のものだが、決して飾りなどではなく、内を外に質的に(引用者注: 「質的に」に傍点)しかも迅速に結びつける固有の方法である。詩が意味とひびきの調和した、身体を通したことばを求め、主語と述語の配列を倒置したり、くりかえしを用いたりするのも、同じ原理によるのであり、決して世間でいわれているように、たんに「強め」のためなどではない。(中略)詩の言語のこういう特質は、リチャーズにならって喚情的(エモーティヴ)とよぶのが、やはり一ばん適切のようだ。それは、論理的・実証的に事物を指示するのではなく、情緒をよび起し、イメージを喚起するのであり、その点、言語の原始的・魔術的用法が、多くの媒介をへながらも、ここにはなお生きているということができる。これは詩が事物や自然を支配する上での、科学とはちがった(引用者注: 「ちがった」に傍点)独自の方法なのだから、それを性急に反科学的(引用者注: 「反」に傍点)なものであるかのように考えるのは、つまり非科学的(引用者注: 「非」に傍点)だということになる。」
「私のいわんとする前論理的とは、(中略)未分の混沌たる全体性、中原(引用者注: 中原中也)のいわゆる「名辞以前の世界」を指すのであり、そして魔術が技術としては誤りであっても社会感情としては真実であったように、この前論理性も真実な社会感情――というより一種の宇宙感情(引用者注: 「宇宙」に傍点)として、詩の世界にうけつがれているのだと考える。」



「言霊論」より:

「和歌は文学形式であるとともに、一の魔術的パターンであったのである。」

「私はさきに、抒情詩の歴史が発生このかたずっと続いていることを指摘したが、もっとひろく舞踏歌などをもふくめた詩の歴史ということになれば、それは原初以来のほとんど全人類史を蔽うはずである。この事実は、詩の本質が、文明の発展の度あいに依存しない、人間の「本能的」な「不変」な、いいかえれば無時間的・集団的な側面に深く根ざしているのにもとづく。詩のリズムが思想以前のものであり、人間の肉体の運動に基礎をもっていることも明らかである。リズムは肉体を通して、人間の意識を内へと沈めてゆくことによって集団的共有の状態を麻酔的につくり出す。それは詩の本質でありまた奥深い希いでもあったはずだ。」

「詩を特色づける求心的内向、外を内に食いとろうとする衝動を単純に「逃避」と混同すべきでない。」



「古代王権の神話と祭式」より:

「日本書紀神代の巻によると、タカミムスビの命はニニギノ命に真床覆衾(マドコオフスマ)なるものをきせて高千穂の峯に降臨させたといっている。」
「大嘗祭のとき悠紀・主基両殿に褥を敷いて枕や布団(衾)などの寝具が備えられることになっていた。そこに天子が入って、ある種の秘儀をとりおこなうわけなのだが、その何であるかが古来わかっていない。」
「これが魂の復活行事であったらしいことは、ほぼまちがいあるまい。」
「ニニギノ命は嬰児としてこの地上に降ってきたのである。」
「嬰児であることと真床覆衾という二つの異質物を有効に結びつける像は、子宮とその羊膜につつまれた胎児の姿態以外にありえない、と私は推測するのだが、原始心性の性格から考えても、これはかなり無理のない解釈といえるだろう。民俗学では、ウツボすなわち空洞からの神の子の誕生として、カグヤ姫や桃太郎の物語を説くことがすでに定説のようになっている。だがそれもたんに抽象的な空洞ではなく、もっと自然的な空洞、つまり子宮であると見ることができるはずで、その方がはるかに具体に即する原始心性にかなっている。ニニギノ命も、子宮のなかの胎児を装ってこの国土に降ってきた。つまり大嘗宮で布団をかぶって寝る――死んで胎児としてよみがえるという神秘的にして象徴的な復活の劇が、降臨のあの部分の物語に投射されているのだと思う。
 ここで考古学上の屈葬制を想い起すといい。これは普通、死者を怖れてしばったと説かれているが、胎児の状態への復帰とそれによる新しい生活の開始を象徴するものと解することもできる。そして胎児への復帰は、何も死者にかぎられない。成年式もまた根本的には胎児への復帰による再誕を意味し、死ぬことによって甦る復活の儀式であった。」













































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本