川村二郎/池内紀 『翻訳の日本語』 (中公文庫)

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川村二郎/池内紀 
『翻訳の日本語』

中公文庫 か-65-1

中央公論新社 
2000年7月10日 印刷
2000年7月25日 発行
404p 
文庫判 並装 カバー 
定価1,048円+税
カバー: 和田誠


「『翻訳の日本語』(日本語の世界 15)
一九八一年十一月 中央公論社刊」



川村二郎(第一章~第八章)と池内紀(第九章~第十一章)、二人のドイツ文学者による「翻訳」論であります。


川村二郎 翻訳の日本語


カバー裏文:

「翻訳を通じて外国文化に魅せられた日本人がいかに異質の文化を取入れていったか。泡鳴、上田敏、堀口大学、鴎外、二葉亭四迷その他近代文学の巨人たちと翻訳とのかかわり方を実証し、日本語と外国語との出会いの中からどのような新しい表現を生みだしてきたか、また我々の言葉のもつ可能性をも考察する。」


目次:

翻訳の日本語 (川村二郎)

第一章 「新語法」の試み
 最初の経験
 上等な翻訳の饗応
 一冊の翻訳本
 『表象派の文学運動』
 「原文の順序通り」に訳す
 漢文の訓読
 英詩翻訳の苦心
 異質な思想に異質な語法
第二章 翻訳詩の問題
 『上田敏詩集』との出会い
 原詩と訳詩の関係
 『海潮音』の新しい息吹
 上田敏の方法
 新体詩のリズムとの対比
 『海潮音』の詩から
 詩人たちの言葉
 山本健吉の評価
 さまざまな『海潮音』との出会い
 「信天翁」にこだわる
 表題について
 上田敏の詩と翻訳
第三章 文学の翻訳は文学か
 『洛中書簡』
 吉川幸次郎の見解
 野上豊一郎の『翻訳論』
 大山定一のロマン主義
 マイエルの「鎮魂歌」
 外国文学研究と翻訳
 論理的帰結と内的必然性
第四章 文学者の立場から
 ランボー『酩酊船』
 古語と外国語
 「未来詩語・未来文体」
 上田敏と岩野泡鳴
 ほかの訳者の試み
 「名訳」への意志放棄
 ゲーテの翻訳論
 建前と本音の矛盾
第五章 翻訳家としての鴎外
 上田敏の慨嘆
 鴎外への讃辞
 聖書の翻訳
 鴎外の翻訳第一作
 創作と翻訳の未分化
 『於母影』
 『水沫集』における文体の変化
 『水沫集』の自由闊達さ
 黒岩涙香との比較
第六章 『即興詩人』と『ファウスト』
 完結まで十年
 鴎外訳と原典訳
 翻訳の清新体
 文語体の利点
 『ファウスト』
 文語体と口語体の混用
 文体の切り替え
 歌と台詞の対比
第七章 二葉亭四迷をめぐって
 「あひゞき」の言文一致
 失敗の告白
 言文一致の進化
 『浮雲』に驚く鴎外
 「あひゞき」成功の理由
 「ア、秋だ!」
 「無精神の大事業」
 超然とした態度
第八章 多彩な系譜
 泡鳴の影響
 上田敏の系譜
 生田長江
 木下杢太郎

翻訳と日本語 (池内紀)

第九章 さまざまな意匠
 テキストとの出会い
 「忘れられた女」
 生きものの観察
 最初の一行
 『若きウェルテルの悩み』
 好奇心を刺激する
 新しい人生観
 「移す」だけか
 訳文のリズム
 『ディヴィッド・コパフィールド』
 『悪の華』
 意味かリズムか
 オリジナルの特色か翻訳者の特色か
 「思想の秋」
 「『時』がいのちを健啖家い」
 訳詩が「私の詩」になる
 メリメとクライスト
 アガサ・クリスティの推理小説
 『大いなる眠り』
 『鼻』と『変身』
 昔むかし、あるところに……
第十章 訳語三代記
 広告としての「名訳」
 翻訳の死
 私のシェイクスピア体験
 シェイクスピア紹介のはじまり
 なぜ『ヴェニスの商人』か
 『ヴェニスの商人』の登場人物
 法廷の場
 『ヴェニスの商人』の意図
 もうひとつの解釈
 「翻訳者」の理想像
第十一章 「ほんやく」と「やくほん」
 文明開化
 ビゴーと小林清親
 『西俗一覧』と訳者
 明治初期の翻訳書
 実用書の役割
 森林太郎訳『諸国物語』
 鴎外訳・レヴュー説
 翻訳における二つの態度
 翻訳者の三つのタイプ
 ヴィヨンの詩
 矢野目源一訳の魅力
 日夏耿之介
 “二つの暗礁”のあいだ
 神西清の名訳の秘密
 堀口大学の訳業
 『月下の一群』

参考文献
あとがき (川村二郎)
索引

壁抜け男 (池内紀)




◆本書より◆


「第一章 「新語法」の試み」より:

「誰でも翻訳を通じて、外国語の形作る文化世界に対する興味を呼びさまされるのである。特に、外国文学に心をそそられ、この世界にのめりこんだおぼえのある人間にとっては、その読書経験のうちに、記憶にやきついた翻訳の幾つかがないはずはないだろう。
 自分一己の回想から話をはじめると、最初は新潮社版「日本少国民文庫」に収められた山本有三編の『世界名作選』である。昭和十一年の刊行で、ぼくは小学校三年生だった。」
「人生の暗さ、重さに正面から向き合うことを求めるような、厳粛な作を多く選んだのは、多分編者の見識だったのだろう。それにもかかわらず、ここに連なった数々の物語は、全体として輝いていた。あとあとまで消えぬ深い刻印を心に残し、自分の文学観を決定する一つの要因になっているかもしれぬと思うのは、ワイルドの『幸福の王子』だが、そのほかトルストイの民話にせよ、ドーデの田園挿話にせよ、ブラスコ・イバーニェスの海難悲話にせよ、話としては陰鬱な悲哀や苦い皮肉をたたえていながら、そうした悲哀や皮肉さえもが、未知の世界の輝きとして感じられた。これは、日本の「名作」からは味えない経験だった。」
「思い出話をこんな調子で綴って行けばきりがない。一足飛びに、昭和十九年に飛ぶことにする。この年、ぼくは高等学校に入ったが、もう病膏肓に入った文学少年になり終せていた。しかし心おきなく読書に熱中するにしては、時代の条件が悪すぎた。本を読めるのは動員されている軍需工場の休憩時間だけだし、そもそも、あらゆる生活物資と同様に、本そのものが極端に欠乏していた。欠乏はいやが上にも飢餓感をそそり立てる。工場からの行き帰り、たまの休日、どれほど眼をギロギロさせて、白々と埃ばかりが目立つ本屋の棚から棚をのぞき歩いたことか。
 そんな時、電車の乗換停留所の前にある、薄汚い古本屋の棚に、取り残されたように立っている一冊の翻訳本が妙に気にかかった。最初見かけて手に取り、何頁か立ち読みして棚に戻した。求める獲物ではないと感じた、どころか、辟易したのである。しかしその本が、いつまでたっても売れずに、汚らしく変色した背表紙をさらしているのを見るたびに、落ち着かない気持になった。多少ともめぼしい本ならあっという間に買われてしまい、一瞬の躊(ためら)いが千載の悔いを残すような時代である。誰の眼から見てもそれほどつまらぬ駄本なのだな、と納得はしながらも、本屋へ入るごとにそこへ眼が行った。そしてついにある日、ほかに何も思わしいものがなかった時、いわば、やけくそじみた気分で買った。値段は大層廉かった。
 その本は今でも持っている。そしてこれは、およそ珍書奇書に乏しい現在の蔵書の中では、いささか貴重な部類に属しているのではないかと思う。少くとも自分にとって、大事な一冊になっている。
 「アサ・シモンズ著・岩野泡鳴訳・表象派の文学運動・大正二年新潮社刊」
 いうに足りない昔話を書き記したのは、この書物から自分なりの翻訳論をはじめるためである。
 辟易した、といったが、何に対してか。もちろんこの書物の翻訳の文章に対してである。」

「『表象派の文学運動』には、三十頁近い長文の「訳者の序」がついている。(中略)その文章の中で、翻訳の具体的な方法について、「僕は緩慢な意訳をも、昔の変な直訳が行けないと同様、行けないとする者だ」と自分の立場を明らかにした上で、一般に今日の翻訳家は、変な直訳でさえなければ意訳でも何でもいいと思って、原文の口調や語勢までは注意しない。しかしそれは、「誤訳ではないまでも、不親切な訳といはなければならない」と断じている。自分のやり方はどうか。かつて英詩を訳した時に、一行ごとに訳して行って、決してその前後を引っくり返すような仕方をしなかった。
 「今回もその流儀で、散文までも文句をあたまから棒訳(ぼうやく)しに訳して行つて、たとへば、for とか、because とか、so. . ., that. . . とか、who とか、which とか、when とか、while とかいふ接続詞、接続代名詞、若しくは接続副詞でつながれる混成句または複成句をも、努めて原文の順序通りに送つて行つた。これが原文の口調や語勢を、更らに又原文の癖を、忠実に維持する所以であるからである。」」

「たとえ訳者が、自己の信ずる原理原則についていかほど揚言しようと、冷淡にこれを顧みないのは読者の権利である。訳文が読むにたえさえすれば、訳者の信条など、知ったことではないのである。せいぜい、訳文の感銘から、逆にその原理なり原則なりの妥当性を推測する程度にすぎないだろう。泡鳴の訳文にはじめてふれた時の読者たる当方の反応も、それに似たものだった。この文章は日本語として到底すんなりと読み下すことができない、したがって、訳者の原理は正しくない、と感じられたのだった。」

「だが、はたで見る眼が辟易しようと顰蹙しようと、燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや、我はわが道を征く、というのが、翻訳家としてのみならず、文学者としての泡鳴の一貫した態度だった。この頑なな一貫性には、それに賛同すると否とにかかわらず、共感すると否とにかかわらず、敬意を払わせずにはいない力強さがある。訳詩においては格別不自然でないからといって、散文の訳における原文即応が、場合によってかなり以上に珍妙な結果を生みだす例はすでに見た。原文即応が中途半端にならざるを得ないことも指摘した。しかしおそらく泡鳴といえども、その程度のことを知らなかったはずはないのである。」

「「訳者の序」と別に、この訳書には「例言」がついていて、これがまた意気軒昂たるものである。まず、本書は読みやすい本ではない、寝ころんで読めるものではない。
 「そして又訳文の六ヶしいのは、原文の語法と発想を出来るだけそのまま再現してあるからである」」

「蛾と光、乃至炎というイメージを、到達しがたい理想への憧憬の暗喩として、一般文学読者が素直に受け取ることができるのは、ゲーテ(高いまぐわいにあこがれて焼け死ぬ蝶)、シェリー(星を求める蛾の思い)など、近代ロマン主義の抒情詩において愛好されたそのイメージが紹介され、常識化しているからである。それ以前ならば、これは、「飛んで火に入る夏の虫」といった、平板な人生教訓的比喩としてしか受け入れられなかったろう。泡鳴がことさら「新語法」と言い立てる時、ほかならぬ無技巧的な直訳を通じて、一つのイメージの意味内容を変革し、近代西欧の思想と情念でもって、比喩を旧来の因循姑息な人生観の平面から際立たせ、高めようとする意向が、疼いていはしなかったかと思われる。
 「清新な思想には清新な語法を」、この場合、「清新な思想」とはもちろん西欧から渡来した思想だから、「清新」は、いわば「異質」と同義語である。それならば、清新な語法もまた異質な語法ということになる。
 日本語として読みにくいという非難を予想した上で、読者に向って、それなら読むなとか、けちをつけるなとか、威嚇的な居直りめいた言辞を吐いているのは、決して泡鳴のドン・キホーテ風に攻撃的な性格のみに帰せらるべきことではない。異質な内実には異質な表現を与えなくてはならない。この内実に習慣的な日本語による表現を与えて、その異質性をぼかすのではなく、むしろ日本語そのものを異質化することでもって、その異質性を強調するのでなくてはならない。泡鳴の主張したいのはおそらくこのような原理的要請であって、たとえそれにもとづく成果がいかほど奇態に眼に映ろうと、この要請のもとにある認識を、翻訳を問題とする時、到底無視することはできないのである。」




◆感想◆


川村二郎(ドイツ文学)といえば自分語り&森鴎外批判ですが、必ずしも川村二郎の愛読者を対象としてはいないであろう、日本語啓蒙シリーズものの一冊として書かれた本書でも、それは健在です。まずはいつもどおり自分の(「自分一己の」)幼少年期の読書体験から始まって、鴎外訳の『即興詩人』『ファウスト』を称揚しつつも、「知的エリートを自負する取り澄ました指導者ぶりがひときわ嫌味に感じられる」「知的優越を取り澄まして誇示するだけ、その知の奥行きの浅さが、後から見れば一層空々しく見え透く」「しばしば読者を苛立たせる秀才特有の小人物性」「こうした気ふさぎな苛立ちをさらけだす、あえていえば俗物」等ディスっています。

詰屈とした文体の川村二郎に対して、後半の池内紀氏によるエッセイは自由奔放かつトリッキー、シェイクスピア『ヴェニスの商人』の坪内・福田・小田島の新旧翻訳の比較検討をすると見せかけて、「シャイロックこそ、この喜劇に登場する人物のなかで、唯一まっとうな、いわば人間の名に値するただ一人の人間なのではなかろうか。」ということを証明し、河原者として差別されていたであろう作者シェイクスピアの鬱屈が、ユダヤ人シャイロックの台詞に重ねあわされます。しかしながら、うつ状態のアントーニオの不定愁訴にコメントして「甘ったれ屋の退屈な男にちがいない」などと一蹴してしまうのは、シャイロックに肩入れするあまり口がすべったのでしょうか、いかがなものかと思います。神西清の翻訳を論じるくだりはどこかで読んだことがあると思ったら、日本幻想文学集成の神西清の巻(池内紀編)の解説にそっくり同じことが書かれていました。
あとがき「壁抜け男」は、文庫化に際して新たに書かれたもののようです。

















































































































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Author:ひとでなしの猫
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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