松山巖 『乱歩と東京』 (PARCO PICTURE BACKS)

松山巖 
『乱歩と東京
― 1920 都市の貌』

PARCO PICTURE BACKS

PARCO出版局
1984年12月10日第1刷
1985年3月20日第2刷
234p あとがき2p 参考文献1p
A5判 並装 カバー 
定価2,000円
装幀フォーマット: 菊地信義
装幀・デザイン: 東幸見



本書「序章」より:

「現在、様々な分野で一九二〇年代が顧みられるのは、この時代に今日の都市社会が否応もなく抱え込んでしまっている問題の祖型を人々がみるためであろう。また、乱歩作品が半世紀以上の時代を経ながらも高い人気を得ているのは、その中に私たちが現代に通じるリアリティを感じるためである。
 こうして、私は乱歩作品を辿りながら、“二〇年代と現代、二つの都市文化を現像すること”を本書の主題(テーマ)とすることにした。」



本文中図版(モノクロ)多数。
本書は1994年にちくま学芸文庫版が刊行されています。


松山巌 乱歩と東京 01


帯文:

「1920年代
東京論
いま、
江戸川乱歩の世界が甦る!

日本推理作家協会賞
評論部門――受賞」



帯背:

「'20年代東京論」


目次:

序章

i章 感覚の分化と変質
 探偵の目
 目と舌と鼻、そして指
ii章 大衆社会の快楽と窮乏
 高等遊民の恐怖
 貧乏書生の快楽
iii章 性の解放、抑圧の性
 姦通
 スワッピング
iv章 追跡する私、逃走する私
 追跡する写真
 逃走の実験
v章 路地から大道へ
 もう一つの実験室
 大道芸人たち
vi章 老人と少年 [三〇年代から六〇年代へ]
 埋葬
 小年誘拐

年譜 [1915―1945]
あとがき
参考文献



松山巌 乱歩と東京 04



◆本書より◆


「探偵の目」より:

「実は、「D坂の殺人事件」は(中略)、登場する人物の互いの関係がすべて希薄な上に構成されているのである。(中略)この登場人物相互の希薄な関係はどこから生じているのだろうか。多分、それは(中略)主要な登場人物のすべてが、東京にどこからか移入してきた故郷喪失者であるためと思われる。」

「「D坂の殺人事件」が想定している大正八、九年は、東京がその歴史の中で都市から大都市へと移り変る、いわばひとつの節目を通り過ぎたばかりの時期であった。」

「希薄な人間関係は、出郷者が上京する以前に取り囲まれていた小さな地縁社会では得られなかった解放感をつくり出す。人々はこの解放感の得られる場所として、喫茶店を選んだのである。そして、その解放感が、ありきたりの思考や常識に捉われない明智小五郎という探偵を生み出したのである。」

「明智と「私」が、事件に出会う前に白梅軒で、探偵小説について意見を述べあっているという設定は、探偵小説そのものの構造を明らかにする。探偵小説は、他の小説とは異なった構造をもっている。読者は作品を読みながら、絶えず作者がその中にさりげなく撒き散らしたトリックや仕掛けに注意し、どこか怪しい所はないか、疑わしい所はないかと思う。(中略)この作者の文章のディテールを読者が疑うという構造は、探偵小説以前の文学には考えられなかったものである。」

「つまり、人々が自らの目の中に探偵の目を内在させ、その目付きも変ったということである。日常生活に生じた矛盾やズレに足をすくわれぬように、人々は目くばりを欠かせなくなり、もしその矛盾に足をすくわれるならば、小説と同様、殺人事件にすら巻き込まれかねないということである。」

「この目付きの変化について、同時期に柳田國男はハリウッドから久しぶりに戻った俳優上山草人が、東京人の眼が大変に怖くなっているといったことを例にして「有りさうに思はれる」変化としている。柳田によれば、この目の変化は田舎での気の置けない生活には見られぬことであり、目を人と合すことは勇気のいることであったが、諸国の人が交流する都会では、伏し目で生きられぬと思い、人を怖れまいという努力が眼に表われているというのである。続けて、

 元来が餘り人を見たがらず、はにかんで屡々人に見られてばかり居た者が、思い切つて他人を知らうとする気になつたときに、其眼は赤子の如く和やかには見なかつたのである。多数の東京の男の眼が若し険しくなつて居るとしたら、それは新たに知識欲に目ざめたことを意味するだけで、必ずしも喧嘩も辞せずという迄の、強い反抗心の表示では無かつたらうと思ふ。

 柳田のいう知識欲とは、平林初之輔のいう「分析的精神」であろう。また柳田は目付きの険しさに反して、著しく減少したのが喧嘩であるという。柳田によれば喧嘩は一種の社交術であり、飯より喧嘩が好きという心情は、勇気あることの証しというよりも、新たな知人を増す喜びであり、それゆえに喧嘩の仲人は双方から尊敬されたのだという。このことを敷衍していえば、喧嘩という肉体的な社交が、眼の一瞥に変化し、互いの距離を遠ざけたということであろう。視線は具体的には体に触れぬ感覚であり、一方通行である。決して自分を傷つけずに他人を丸裸にしていく。探偵小説は都市生活者の希薄な人間関係を土壌として生れ、その希薄な人間関係の代償として得た鋭い目付きそのものが探偵小説であった。」



「埋葬」より:

「伏せ字だらけで発表した『新青年』誌上の「芋虫」(同誌上では「悪夢」)と、後に乱歩の原文通り発表した全集本の「芋虫」とを比較してみるとおもしろい。
 妻の性欲と兵士に四肢の代償として「功五級の金鵄勲章が授けられた」箇所、つまり、女性の貞節心と兵士の忠誠心にかかわる箇所が、伏せ字になっているのである。」
「「芋虫」は、発表後反戦小説として読まれたようだ。乱歩はその評価について、次のように述べている。

 私はあの小説を左翼イディオロギーで書いたわけではない。私はむろん戦争は嫌いだが、そんなことよりも、もっと強いレジスタンスが私の心中にはウヨウヨしている。例えば「なぜ神は人間を作ったか」というレジスタンスの方が、戦争や平和や左翼よりも、百倍も根本的で、百倍も強烈だ。それは抛っておいて、政治が人間最大の問題であるかの如く動いている文学者の気が知れない。(略)「芋虫」は探偵小説ではない。極端な苦痛と快楽と惨劇を描こうとした小説で、それだけのものである。強いていえば、あれには「物のあわれ」というようなものも含まれていた。反戦よりはその方がむしろ意識的であった。反戦的なものを取入れたのは、偶然、それが最もこの悲惨に好都合な材料だったからにすぎない。」

「乱歩の「なぜ、神は人間を作ったか」という疑問は、裏返せば“人間は、その先にはなにもない死までの時間を日々、過ごしているのではないか”という疑問にもなる。(中略)こうした疑問が生まれてきた由来を考えることは、さほど難しくないだろう。それは個人の身体をとりまく社会的な空間が、経済的な効率でしばられ始め、経済的な富を生み出さねば、その肉体はまるで死んだも同然であり、同時に死自体は意味をもたない、すべてが終ってしまう一瞬というものに変ったためである。」
「「芋虫」は、死の世界を理想化してみるか、あるいは全く価値のない世界としてみるか、観念が二つに分離してしまった状況をその作品の底部でたたえている。」



「少年誘拐」より:

「少年たちは怯えていた。また、その怯えを象徴するような出来事もあった。赤マントと呼ばれる怪人が少年をさらったり、少女を暴行したり、小学校や女学校の女子トイレに出没するという噂が、昭和十四、五年頃、東京のみならず他の大都市でも流れた。加太こうじによれば、昭和十五年の夏、彼の作った紙芝居が赤マントのデマを生み出した原因として大阪の警察に押収され、焼却されたという。警察が加太の紙芝居をデマの原因としたのは、赤マントの「デマは、東京の日暮里駅近くの谷中墓地に隣接したあたりで、少女が暴行を受けて殺害された事件から発していた。そのとき、そのあたりで私が作った赤マントの魔法使いが街の靴磨きの少年をさらっていって、魔法使いの弟子にする物語の紙芝居をやっていた」ためだという。紙芝居の絵が東京から横浜、さらに東海道の主要都市を経て、大阪へ行くという順路と時間が「赤マントの人さらいのデマが流布する順路と時間にうまく一致」したことも警察に睨まれた原因ではないかともいう。
 紙芝居の絵と共に赤マントのデマが移動したのは、少年たちの怯えが、乱歩の少年ものと同様に、紙芝居とも共鳴していったからであろう。紙芝居に子どもたちが魅せられたのは、連続活劇の物語の面白さと売られる駄菓子によるばかりではなかった。同じ時刻、同じ場所にどこからともなく現われ、語り終えると、またどこかへ去ってしまう紙芝居屋に惹かれていたのである。チンドン屋も、奇妙な扮装をして、楽器を打ち鳴らし町から町へ流れて行く。子どもたちにとって紙芝居とチンドン屋は別世界の住人に思えたのである。紙芝居屋もチンドン屋も大正時代から存在したが、昭和に入って失業者が増えてから急激に興盛した商売である。子どもたちは、この二つの新商売の得体なさに惹かれ、その後を追いかけた。子どもたちは、自分の町とは別の世界があることに怯えながらも、紙芝居とチンドン屋について行って、見知らぬ町へさらわれたがっていたのかも知れない。」



松山巌 乱歩と東京 03



こちらもご参照下さい:

堀切直人 『迷子論』
種村季弘対談集 『東京迷宮考』
鬼海弘雄 写真集 『東京迷路』










































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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