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川村二郎 『語り物の宇宙』

「孤独な「小さ子」は、他者との交渉を持たぬいわば絶対的な場に位置している限り、孤独でもなければ小さくもない。それ自体で全体であるものに、大小の基準は意味をなさない。他者のいる相対の場に放りだされてはじめて、それは限りなくよるべない、小さな姿をさらすことになる。」
(川村二郎 『語り物の宇宙』 より)


川村二郎 
『語り物の宇宙』


講談社 
1981年7月3日 第1刷発行
228p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,300円
装幀: 平野甲賀



本書「あとがき」より:

「これは著者の十冊目の本である。今から十二年前、最初の一冊を出した時のことを振り返ると、十冊も本を出すなど、われながら僭上の沙汰のように思われてくる。
 しかし十二年の後めたさはともかくとして、この十冊目の本が、かなり長いあいだ抱きかかえてきたモチーフに、一つの形を与え得た結果になっているのに、自分一己の納得を味う気持はある。」
「それにしても、何かに心をひかれるのと、その対象について語るのとは別のことである。二人の巨人(引用者注: 折口信夫と柳田国男)に啓発され、その他、本文中に名をあげた多くの研究者たちの業績から教示を与えられながら、『神道集』や説経などの語り物を、神話、乃至は民俗伝承を探究するための素材としてではなく、それ自体、言語表現として自立した世界、すなわち文学として論じること(それが取りも直さず、著者にとって唯一可能な対象への接近法と考えられたのだが)は、なかなかもって容易な仕事ではないと思わざるを得なかった。これまでに短い文章を幾つか書いてはきたが、ようやくこの書物で、背後にひろがる民俗の巨大な闇に半ば埋れながら、そこから光を発している語り物の言葉の、光の尖端をとにかくある程度綿密に吟味し、自分なりの論究の主題たらしめ得たのではないか、と思っている。」
「なおこれは、「群像」昭和五十五年一月号から五十六年三月号まで、二度ほどの休止期間を挿みながら連載された文章である。」



川村二郎 語り物の宇宙



帯文:

「説経節を典型とする「語り」に、日常の生存をはるかに越えた始源を見る。死があってはじめて生があり、絵空事をもって真実を感得せしめる。」


目次:

甲賀三郎
小栗判官
しんとく丸
語り物の文体

あとがき




◆本書より◆


「甲賀三郎」より:

「『神道集』の甲賀三郎物語の最も感動的な場面は、地底巡歴を終えた主人公が、信濃の浅間岳へ出、故郷へ帰る所である。地底の維縵国(ゆいまんこく)の王に貰った、一千枚の鹿の生肝の作り餅を、一日一枚ずつ食いながら、毒蛇と蜈(むかで)のたむろする河を渡り、蚊や虻の群れる原を抜け、鬼王や魔女たちの誘惑を振り切って、千日の旅路を経た後、甲賀三郎はようやく日本に近づく。明星のような星が一つ、光明赫奕と空に輝いている「朧月夜」の原で、南の方を眺めると、大きな岩山から大きな真藤が逆まに生え下っている。その藤に取りついて、かけ声を挙げながら岩間を伝い昇るほどに、千枚の鹿の餅を九百九十九枚まで食べつくし、今一つの残りを半分ばかり食い、五重の岩の階を昇った所でみな食い終えて、浅間の嶺(みね)へ出る。」
「「心憂カリシ蓼科ノ嶺」というのは、そもそも甲賀三郎の地底巡歴が、天狗にさらわれた妻、春日姫を捜し求めて、この山の人穴に降り、首尾よく姫を救いだしはしたものの、自分は兄甲賀次郎の奸計によって穴の中に取り残されたことに始まっているからである。」

「百合若伝説とユリシーズ(オデュッセウス)物語との関連については考証学者は懐疑的なようだが、趣向の類似性はまぎれもない。直接の影響関係ということではなく、漂泊者の艱難辛苦の旅程と彼の帰郷という普遍的な主題に対して発動した、人間の初源の想像力が、甲賀三郎のたどる地底の道ならぬ、いかなる地上か海上の道を通じてか、相応する造型を地球上の別々の地点に成立せしめた、というのは、充分根拠のある推測だと考える。学者は文献上の確実な典拠がなければ信じない。しかしたとえば、八幡信仰とアプロディーテ信仰とが、一切の文献的証拠を欠いているにもかかわらず、神を生みだす人間の想像力の、所を異にした共通の表現ではないかとは、虚心に眺める者の心に訴えかけずにはいない問いである。くり返していうが、影響関係ではなく、根源の共通性の問題である。」

「たとえ入る時は難なく事が運んでも、入ってしまえばあれこれの怪異に遭い、危険にさらされるのが、異界物語の常道である。(中略)甲賀三郎の行程には、その程度の緊迫感もない。地下の国の風景は、四季それぞれの移ろいとその中での人間たちの営みにおいて、地上といささかの相違もなく、そしてその人間たちはみな、心こまやかで情が深く、ねんごろな待遇をまれびとに与えぬ者はない。地下ならば波瀾に富んだ冒険や、血も凍る恐怖があって当然と予期する読者には、これは拍子抜けに似た気分を呼び起す光景である。ぼんやりとした靄に包まれた、気疎い、遠々しい光景が、予期に反して、どこまでもひろがっているのである。
 その気疎さ、その遠々しさ。この特徴は、何といえば、民話にしばしば現れる、ミニアチュアとしての村、ミニアチュアとしての田園風景に、固有のものではないかと思い当る。四部屋の座敷の中に、さらには箪笥の四つの抽斗の中に、蔵いこまれている春夏秋冬の風景。その風景は、おおよそ、禁を犯して覗き見られ、見られたことによって消え失せると同時に、見た者に不幸をもたらすのだが、風景それ自体は、田植えとか、稲刈りとか、梅に鶯とか、至極凡庸な日常の眺めでしかない。青髭の妻が、見るなといわれていたのについ見てしまった、地下室の地獄図絵などとは、およそ比べようもないのだ。戸を開けると、梅の枝にとまっていた鶯が、一声鳴いて飛び去ってしまう。そして、すべては取り返しがつかなくなる。―こうした結末は、地下室に吊り下げられた血みどろの死骸が喚起するより、はるかに深い、夢のようであればあるだけ一層収拾のつけにくい恐怖を、そそり立てるようである。」

「物語の表面では、たしかに首尾よく脱出した。それが実は、脱出どころではなく、むしろ、地獄以上の苦難を招く原因となっている。そこに、この物語の、最も根深い恐しさがある。」
「地上に出た甲賀三郎は、近江国甲賀に帰り、釈迦堂、あるいは観音堂を見て、地下に入ってから歳月をどれほど経たことかと思い、悲しみにくれる。(中略)七代の子孫にも会えないと嘆いたあと、

 其日モ暮レシカバ、御堂ノ通夜モ怠リ給ハズ、其後御隔子ノ内ヘ入リ給ヒテ、礼盤ニ寄リ懸リテ念誦シテ御在ケリ、其ノ明クル日折節、御堂ノ講ニテ有レバ、講衆共多ク集リ、先ニ童共隔子ノ内ヘ入リケレバ、甲賀殿ヲ見付ケ奉リ、アナ怖シヤ、此ニ大ナル虵(クチナハ)有リト、急ギ迯ゲテ出ニケル、我ハ甲賀ノ三郎ト云フ者ナリト云ヘバ、此ナル虵舌ヲ出シテ、我等ヲ咒フトテ、手々ニ持テル杖共ニテ、打チ奉ル、甲賀殿、サテハ我身ハ虵ニ成リヌルコソ、耻カシトテ仏壇ノ下ヘ隠レ給フ。

 恐怖とはこのことである。地下世界の実相が、ここで、一瞬の閃光に照らしだされたように、明らかになっている。地下の国々を通って、よくここまで「日本人」の姿のままでくることができたと不審がる、維縵国の王の言葉が何を意味していたか、この時、瞬間的な衝撃とともに読者は理解する。」
「オデュッセウスやアエネーアースは、地獄へ降ることによって、賢くなって帰ってくる。そもそも賢くなること、具体的には未来を知ることが、地獄めぐりの目的である。したがってそれは、どれほどの苦行であろうとあらかじめ覚悟を決めて、用意万端怠りなく遂行さるべき仕事であり、またその努力は、それに見合った成果を恵まれることにもなっている。甲賀三郎は、恋しき人のためとはいえ、全く不用意に穴に入る。(中略)甲賀三郎は不用意無自覚な巡歴の末、死よりもおぞましいかもしれぬ変身を、それと知らぬ間に、地下の力によって強いられてしまっている。これこそ、「心細サハ限リ無シ」という落魄の状態の、最後に行き着いたぎりぎりの真実の姿である。
 変身。動物への変身。われわれに身近な近代の文学で、そのモチーフを最も衝撃的に表現した作家といえば、誰しもカフカを思い浮べるにちがいない。そのカフカに、たとえば次のような一行があることを、おそらくここで連想するいわれがあろう。
 「まちがって鳴らされた夜の呼鈴に、一旦、うかうかと誘われて行こうものなら――もう決して取り返しはつかない。」(『田舎医者』)
 うかうかと誘われた者の、取り返しのつかぬ非運。」
「古い物語に近代小説を連想するのはふさわしくないといわれるならば、近代小説のうちで、カフカほど、古い物語の空気を自然に呼吸している例はないのだ、と答えてもよい。『審判』や『城』、何よりも『巣穴』の、睡気を催させる反復の千篇一律。その単調な千篇一律が、次第に醸しだす不気味な気分。そして、単調な反復が、これ以上はないほど唐突な破局によって、一気に断ち切られる時の衝撃。」

「蛇は美少年であり、しかも、孤児として深山に捨てられた天涯孤独のうちに、神通力を得る。神通力を得る資質が孤独を呼んだのだといってもよいが、どの道孤独が、この存在の生の条件である。」
「伊吹の神は孤独な蛇神である。そういって、その存在と甲賀三郎との類縁をたずねるのは、一見矛盾と思われるかもしれない。物語の文脈では、この神は明らかに甲賀三郎の敵なのだから。しかしそこで思い合わせる意味があるのは、神の世界においては、対立はしばしば同一物の二つの側面を示すにすぎない、ということである。」
「スサノオは大蛇と本来同体か、さもなければ少くともその同類である。そうでなくてどうして、大蛇の尾を裂いて神剣を手に入れることができるだろう。
 それと似た意味で、甲賀三郎は伊吹童子の同類なのだといってよい。」

「伊吹山の天狗と同じく、甲賀三郎にも、遺棄された孤独な少年の俤がある。地下の洞窟に閉じこめられた蛇。」
「伊吹の神には明らかに、柳田国男のいう「小さ子」の特徴がそなわっている。誕生の不可測性、それ故の疎外と孤立、神としての顕現。ギリシャ神話でなら、この特徴を最も鮮明にあらわしているのはほかでもないディオニュソスで、そのことはこの神の出自の不明瞭と照応していようが、誕生の不可測についての記述はなくとも、甲賀三郎も、当然同じ一族に属していると考えることが許されよう。「小さ子」の神の筆頭、少彦名と甲賀三郎が、敢国神社で相殿に祀られているのを、思いだしてもよい。誕生乃至出自が異常であるために忌まれ、しかし忌まれること自体が神性を明証する、そのような神の存在形式がそこに確認されるはずである。
 異常というのは、もちろん異界との縁においてであり、正常の世界が生なら取りも直さずこれは死である。死を閲して生へ到ると先ほどいったけれども、それは時間に属さないものを、時間の領分で眺めた結果であって、そもそもの資質からして、生と死との両界にまたがるように、この存在形式は規定されている。後世の意識の中で分裂している信仰と禁忌が、もともと一つの対象の属性だったのとそれは同じことで、後世の意識のうちにしか、そのような対象の重義性は存在しないのだ、といってもよいのである。
 否応なしに後世に生きているわれわれには、あまりにも単純明瞭な一義性は、かえって重義的な謎と見える。ウォルター・ペイターはディオニュソスを、二つの世界に属する「ドッペルゲンガー」と呼んでいるが、おそらくそれは、厳密にいって正しくないのだ。というのも、死と生と、地下と地上と、その双方を双方と区分しない、全体として一つの「生」がディオニュソスの圏であるはずなのだから。」
「「アナ怖シヤ」の悲鳴とともに、蛇体が露顕した瞬間は、そのような、時間にかかわらぬ普遍的な全体としての存在が、特殊化し個別化する時間に直面せしめられた瞬間である。孤独な「小さ子」は、他者との交渉を持たぬいわば絶対的な場に位置している限り、孤独でもなければ小さくもない。それ自体で全体であるものに、大小の基準は意味をなさない。他者のいる相対の場に放りだされてはじめて、それは限りなくよるべない、小さな姿をさらすことになる。その瞬間は、またたとえていえば、あたたかい羊水の海の中で安らかに眠っていた胎児、まさしく永遠の眠りを眠っていた文字通りの「小さ子」が、時間の支配する外界の冷い空気の中へ押しだされて、はじめて叫びをあげる瞬間である。(中略)その叫びこそ、最も死に近い場所で発せられた生の叫び、それ故に最も根源的な生の恐怖と悲哀の声である。」



「小栗判官」より:

「生は死の潜勢力であり、死は生の潜勢力である。生と死はたがいに補完し合っている。絶対的な距離でもってへだてられている別世界が、それにもかかわらず、呼びかつ応え合う。呼びかわす声の反響する空間が、ほかでもない物語の宇宙なのである。」


「しんとく丸」より:

「物語の途中で、話の進行を中断して、長々と物の名を連ねたり、その悠長な細密描写に耽ったりするのは、古い叙事詩や語り物の常套である。(中略)それがどうした心的動機にもとづいているのか。全体と部分のバランス、といったことを考慮しない、というよりむしろ、全体と部分をそもそも区別して考えない心の大様さが、一つには推定されるだろう。また、山づくしや神おろしと同様、名を呼ぶことでもってその実在を保証しようとする、つまり名の呪術的効果を強調する意向も働いているだろう。いずれにせよ、われわれ近代文学に慣れた読者には、この名の羅列は仰々しくくどく退屈である。しかしこれを退屈と思わない語り手と聞き手の形成する文学圏を想像し、その圏内に充満しているであろう、単調だが濃密な、執拗な反復と持続を自明のこととして平然と受け入れている気分の均質性一貫性に、半ば呆れながら驚嘆することは可能である。」

「要するに、真実などという厄介な代物は、一つだけではあり得ないのだ。」

「アプロディーテに殺されたヒッポリュトスがアルテミスに復活せしめられる。それはわれわれの神の世界に移して考えるならば、一柱の神の荒魂と和魂の働きを示しているのである。荒魂と和魂が交互に発動し、時にせめぎ合うすさまじい力の運動の圏内に、あなたこなたと揺り動かされる形でしんとく丸の生がある。たとえ最後は和魂の慈悲を恵まれるにしても、この生の根に濃いさびしさがこびりついているのはそのためである。」

「鼬と猿に救助されて、一息ついてよいはずのあいごの若だが、実はこの後、苦難の連続である。語り物の主人公たちが艱難辛苦を重ねるのは、もちろん共通の定式にちがいないが、あいごの若ほどむごたらしく運命に翻弄される例は、ほかにはない。」
「その暗さは、しかし逆説的にひびくかもしれないが、明と暗の対立拮抗といった次元、いいかえれば人間的な幸不幸の次元を超えてしまった所に生ずる暗さではないか、したがって、絶対的な明るさといっても同じことになるような性質の暗さではないか。もう少し具体的にいうなら、先ほど、地獄から戻ってきたこの世は、もとのままのこの世ではないと書いたが、地獄から派遣された動物と接触することでもって、この物語の主人公は、いわば、人間界から聖別されてしまったのではないか。そうとすれば、彼のそれ以後の歩みは、神の地上巡歴にひとしいことになる。」
「迫害に次ぐ迫害の彷徨のさなかでも、この神を正当に神として待遇する者がいないわけではない。「さいく」と呼ばれる一族、木地屋ともかかわりがあるかもしれないが、おおよそ皮革の細工にたずさわる、女人 病者とともに、比叡の山内には立入を禁ぜられている最底辺の生活者たちである。人間以下に差別され、ほとんど動物にひとしい位階を生の秩序の中に指定されている人間。だからこそ彼らは、深い竪坑の底から昼の星を仰ぐように、日常の秩序の中では無視される神を認めることができる。(中略)あいごの若を尊んだ「さいく」の男は、死後に土地の神と祭られたと、説経とは別の伝承にあって、神を認めるものは神であるという確信が、そこにもたしかに根を張っている。動物だから神なのである。」



「語り物の文体」より:

「いうまでもないが、絵空事は所詮絵空事と気安く割り切って、人生とおよそ相渉る所のない夢幻を得々と綴るばかりの書き物から、奥行の深い声がひびくという保証のあるわけはない。(中略)しかし絵空事がまさに絵空事として、生の現実から遠い距離を保ちながら、ほかならぬその距離によって、密着した姿勢では眺めようもない現実の全体を一挙に把握させる、そのような働きが明らかに文学の最も意味深い機能に属しているはずである。この場合、現実の全体とは、当然のことながら、死を排除しない生、死をくるみこんだ生のひろがりである。」

「このようにして突破された現実の下に、始源が現れる。(中略)時間の前後関係に即した序階はここには成り立たず、始源の出現は瞬間的である。川の流れではなく、たとえば若狭遠敷の淵の水が、いかなる地下を潜ったか知らず、突如として東大寺の若狭井に噴き上げるように、この始源は一瞬の間に現前している。それは、もう説明するまでもないだろうが、存在する一切が切目なしに連続している世界、人間も神も動物も未分化のまま、無時間にひとしい太古の中で息づいている世界、近代小説ならば、カフカがその天才の電光でもって照らしだす世界であって、語り物の語り手たちは、彼らの無教養な心の一途な強引な衝迫でもって、この世界の顕現する瞬間を、時間の中から無理無体に引きずりだしているのである。
 そしてこの瞬間を核として形作られるのが語り物の宇宙である。」





川村二郎





















































































































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Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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