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川村二郎 『アレゴリーの織物』

「しかし名づけられず、ただ読まれること、しかもアレゴリーの信徒によって不正確に読まれ、もっぱらアレゴリーの信徒の手によってきわめて意味深いものとされること、それは名づけられることに比べて、どれほど有意義だろうか。」
(ベンヤミン)


川村二郎 
『アレゴリーの織物』


講談社 
1991年10月25日 第1刷発行
349p 
四六判 丸背紙装上製本 貼函 
定価2,900円(本体2,816円)
装幀: 菊地信義



本書「あとがき」より:

「なおこれは、雑誌「群像」一九九〇年一月号から一九九一年六月号まで、十八回にわたって連載した文章である。」


川村二郎 アレゴリーの織物


帯文:

「小説をどう読むか
創作や批評におけるアレゴリーとは? シンボルとは? ―― ドイツ・バロック文学のアレゴリー性を論じたベンヤミンやアドルノなどの批評の魅力を縦横に論究。現代小説の読みとり法をも示唆する意欲的な長篇評論。」



帯背:

「現代文学を
刺戟する
長篇評論」



帯裏:

「ベンヤミンたちの仕事に対する一般的理解は、安直な紹介文を必要としないほど進んでいるにはちがいないが、思想の輪郭、骨格といった面にどちらかといえば寄っていて、思想の生れる場の雰囲気、ニュアンスに対しては、さして考慮されない傾きがありはしないかと感ぜられる。いわば、ハードの局面に関心の多くが注がれて、ソフトの面がおろそかにされてはいないだろうか。この本はソフトの面に、能う限り心をこめて拘泥している。(あとがきより)」


目次:

ベンヤミンとゲオルゲ
バロックの探究
ベンヤミンとバロック
影のゲーテ
ヘルダーリンの冷静
アレゴリーとシンボル
カフカの沼
「せむしの侏儒」

あとがき
人名索引




◆本書より◆


「ベンヤミンとゲオルゲ」より:

「詩論家としてのベンヤミンが、正面切って取り上げることは一度もなかったけれども、(中略)なみなみならぬ敬愛の念を捧げていたにちがいないと推定される、一人の詩人がいる。その名をカール・シュピッテラーという。」
「《シュピッテラーの『オリュンポスの春』の中に、奇蹟的に美しい物語がある。「なぜだめなのか」という名の小さな庭があり、そこへは「できればしたい」という名の道が通じている。しかしその庭には、誰ひとりたどり着けない。》」
「第一部第三歌、冥府を離脱した神々が、地上への苦難多い旅路をたどるさなか、美しい少女が現れて珍味佳肴を振舞い、彼らの飢えと渇きを癒す。満足した神々に、この少女、天上の接待係たるヘーベーが、語って聞かせる短い物語がそれである。
 天上に「なぜだめなのか」という名の谷がある。花は咲き乱れ、木の実は豊かに熟する谷、石を敷いた広い道がそこへ通じている。しかしかつて誰ひとりとして、行き着いた者はいない。行くことが禁じられているわけでもなければ、道に障害物が置かれているわけでもない。どうして行けないのか、誰にも分らない。ひとはその道をのんびりとたどり続け、「なぜだめなのか、行けない筈はあるまいに」と笑う。だが、道のほとりに立つ一本のマルメロの木の近くまでくると、ひとははたと足を止め、いっとき考えこみ、くるりと向きを変え、引き返す。どうしてなのか、誰にも説明はつかない。ただ一つ分っていることは、そのマルメロの木の中に、一匹の青いコオロギがひそんでいて、外をのぞきながら脚をこすり合わせるということ。コオロギの音が聞えた途端、谷へ行きたい願いは消え、意志はなえてしまうのだ。――」

「ゲオルゲの指導者的・予言者的教説は、「不信感と異論」しか、心の内に呼びさまさなかった。詩についての「祭司的学問」にも、全く感銘を受けなかった。そのように保留をつけながらベンヤミンは、鍾愛する二つの詩、「侏儒の歌」と「誘拐」について、こう述べている。
 《これらの詩を、ぼくはドイツ的なるものの山並のうちに生じた裂け目にたとえたい。伝説によれば、その裂け目は、千年に一度だけ口を開き、山の内部にひそむ黄金をうかがわせるのである。》」
「その「黄金」は、では、いかに輝くか。とりあえず日本語に移して見る。

  侏儒の歌 (第一歌)

 とても小さな鳥が歌い
 とても小さな花が咲き
 花の鈴の音が鳴りひびく。

 うす青色の野の上で
 とても小さな羊が草を食(は)む
 羊の毛並は白い絹
 
 とても小さな子たちが会釈し
 にぎやかに輪舞を踊る――
 小人も出てきていいかしら?」

「何もかもが「とても小さく」統一された動物植物の世界は、それだけですでに、多様の統一という調和的な自然の心象を拒否している。一見無邪気な単純な同語反復は、むしろ、拒否の強い意志を示している。
 そしてこの世界を眺めているのは侏儒の眼である。侏儒だから、「とても小さな」ものたちの世界にはちょうど似合いで、やすやすとその仲間入りをすることが許されてもいいようなものである。しかしそれにしては、最後の一行には、おずおずと気後れした躊いが、いささか不安げにゆらめきすぎているようである。これに続く第二第三の歌では、侏儒は、ぼくは仙女の子、小人の王だ、ほしいものを何でもあげるよと、仲間に入れてもらいたさに、肩を張って見せたり甘くささやいたりするのだが、その調子自体が、願望の叶えられぬことを初めから心得てしまっているような、さびしい諦めの感じを含んでいる。」
「このように考えてくると、ベンヤミンが「黄金」になぞらえたことの真意が、おぼろげながらも探り当てられそうな気がする。その比喩が、何かしら隠されたもの、深い奥底にあるもの、滅多に目にすることができぬものを指していることは明瞭だが、どういう意味で隠されているかといえば、(中略)これらの歌が、地上の人間の生活から隔絶しているばかりでなく、健全な地上の人間の眼にふれさせてはならぬ、暗い禁忌をもとにしていることを、想定してよくはないかと思われる。」
「大方の民話や民謡において、侏儒は邪悪な危険な存在である。邪悪がその本来の特性であるというより、まず異界の異形のものという心象があり、その「異」質性に対する畏怖が、対象に邪悪という性格を押しつけたと見てしかるべきだろうが、(中略)そのような、忌むべき領界の住民が、もの欲しげに、領界の外をのぞいている。尋常な明るい自然の情景では、そもそもないのである。」



「バロックの探究」より:

「ベンヤミンの独特な「世間知らず」と「不器用さ」について、ハンナ・アレントが語っている。」

「ホフマンスタールは、『人生は夢』を、自分の言葉で新しく創り直そうと試みた。」
「『人生は夢』が『塔』と題まで改めて、ホフマンスタールの完結した作品としての姿を整えたのは、ようやく、一九二四年のことである。初めの試みから四半世紀近く経っている。」
「『塔』の主人公ジギスムント(セヒスムンドのドイツ語化)は、現実から隔離されて、動物同然に幽閉されているのだから、初めは筋道の通った尋常な話し方ができない。脈絡の不確かな、断片的な発語でもって、自分の置かれた状況への苦悩に満ちた反応を示すばかりである。塔を出てからは、一応理に叶った、王子らしく品位ある口のきき方をする(中略)けれども、基本的に、流暢な弁舌を封じられた痛々しい不如意の印象は持続している。彼の言葉は、言葉を持たぬ動物の、嘆きや怒りや惑いを重苦しくこめた「音」の世界から、時折浮び出てきらめいては、またその世界へ沈みこみ、沈黙と化するかのようである。
 ベンヤミンは王子ジギスムントに、「言語を拒まれている殉教者の皮を剥がれた肉体」を見ている。その言語喪失状態のうちにあって、王子があげる嘆きを、彼は「被造物の根源の音」と呼び、この嘆きの音を韻文の束縛から解き放った所に、作者の果敢きわまる力業をうかがい取っている。」



「ベンヤミンとバロック」より:

「「並外れた変幻自在の多才ぶりは、ホフマンスタールにあっては、おのれの内なる最善のものに裏切りを働いたという意識を伴っている」と、ベンヤミンはさらに手紙に書いている。(中略)何でも理解し、何でも認めてしまう。「最善のもの」、すなわち本質、核心から遊離しているからこそ、そうした融通無礙の態度が取れるのだと、ベンヤミンは言いたいのである。」
「「変幻自在の多才ぶり」と今訳した原語は Versatilität、「変りやすい」「敏捷な」「種々さまざまな」「不安定な」といった、それこそ種々さまざまな意味を含むから、当然積極的消極的どちらにも解釈され得る。」
「ベンヤミンは、ホフマンスタールの Versatilität を、内なる最善の資質を犠牲にした結果と見ている。この意見を敷衍すれば、ウツボの死に泣くクラススや、死んだ豚と自分を区別できないジギスムントを徹底して追究する方向においてこそ、彼の最善は具現された筈だということになろう。カフカについてベンヤミンは、「彼は忘れ去られたものを動物からうかがい取ろうとして倦まなかった」と言い、彼にとって重要だった祖先の世界は動物の世界に通じている、動物の世界は「忘れ去られたものの貯蔵庫」なのだ、とも語っている。このような方向にホフマンスタールが道を拓き続けていたならば、真に新しい言葉を獲得したにちがいないと、彼は考えているのである。」

「ベンヤミンが大人になっても童心を失わなかった人間だからだ、といえば、それはそうかもしれない。人形芝居のみならず、子供の本とか、玩具とか、児童劇とか、子供に関する文物に彼は、およそ尋常一様でない興味を抱き続けていた。ただそれにしても、いわゆる子供の無邪気さ、無垢、天真爛漫のたぐいは、そこでは一切容認されていない。その代りに注目され強調されるのは、残酷さ、自己本位、遊び好き、不真面目といったもろもろの特性である。(中略)子供といえば子供ではあるけれども、この子供は決しておとなしく素直な「よい子」ではないのである。」

「若い日のベンヤミンは、シュピッテラーを愛読していた。その理由は明確に述べられてはいないけれども、ロマン的(近代的)な情緒の、植物界にひとしい野方図な繁茂とは正反対の、無機的構成的な鉱物界の「自然」に惹かれる心性が、理にもとづく様式性に傾斜するシュピッテラーの比喩表現に、ロマン派抒情詩とは全く別種の魅力を感じたことは、まず疑いあるまい。ロマン的に曖昧に暗くかすむことなく、明るくくっきりした輪郭を保っていて、しかもそのうちに謎があるという趣に、おそらくベンヤミンは心を惹かれたのだ。」

「バロックの法外な外面性、すべてを表にさらけ出して羅列し、積み重ねられた言葉の重量でもって時間を押し潰し、無理無体に永遠を強請しようとする志向は、地と文様(内部と外部)の有機的な動的な関連を無視して一様な平面に化してしまおうとする意図と、おそらく照応している。」
「バロックの外面性は、(中略)恐慌状態に対する不安の表現だということができる。時間を否認して「永遠にひしとからみつく」のは、永遠への信からというより、時間のもたらす変化、無常に対する恐怖が強すぎるせいである。そして実際、恐るべき無常は終局において告知されずにはすまない。」
「世界全体が機械的な装置であり、人間もその特性を共有しているとすれば、人間の死は動物植物の「自然」な衰弱による斃死枯死とは全く異って、機能の故障が瞬間的に装置を停止させるといった、唐突な断絶の相を示すことになろう。生と死、有と無のあいだには緩慢な移行や転換は生ずるわけがなく、文字通り有無をいわせぬ、あれかこれかの二者択一が要求されるのみである。
 無常への恐怖は衰頽への恐怖というより、頓死への恐怖である。」

「テリー・イーグルトンの『ワルター・ベンヤミン』(中略)を読むと、「衝撃的であることは、そのような(バロック劇の)テクストの本質的な性質であるのだ。ベンヤミンにとってはバロック劇は挑発的で攻撃的でなければ何の意味もない」といった言葉が見出される。衝撃を与え、挑発し、攻撃すること、それが『ドイツ悲劇の根源』の筆者の意図にあったのを疑ういわれはない。今こだわりたいのは、第二次大戦後育ちの威勢のよい反体制的な学者批評家が考えるよりは、ベンヤミンの挑発と攻撃は、より悲観的な、切羽つまった感性のニュアンスを、あえていえば窮地に追いこまれた揚句の抵抗のニュアンスを、濃く帯びていると思われることである。
 『ドイツ悲劇の根源』の終段で、ベンヤミンは、アレゴリーの「豹変(ウムシュプリンゲン)」について語っている。髑髏が散乱する場面のよるべない紛糾は、人間の実存の荒涼たる実相を示しているのではあるが、それだけにとどまらない。そこでは無常がこの荒涼のうちに意味され、アレゴリー的に表現されているというよりは、むしろ「アレゴリーとして提示され、みずから何かを意味している。すなわち、復活のアレゴリーとして。」
 「バロックの死斑の中で――今初めて後向きの極大の弧を描き、救済をめざして――アレゴリー的観照は豹変する」と続けて述べられている、この「豹変」 umspringen が、こちらの耳にはほとんど、決死の離れ業、「死の跳躍(サルト・モルターレ)」をドイツ語にした場合の、tödliches Springen に通じるように聞えてしまう。
 アレゴリーはシンボルのように意味と形、内と外との緊密な一致を必要とせず、動機と表現とがずれていて当り前ならば、そこではたしかにあらゆる形があらゆることを意味してもいい筈である。死の形象が復活の形象であり、無常の姿が永遠の姿であるという読み取りも、たしかに可能ではあるだろう。だが、救済の道がすべて閉ざされているのが見えるからこそ、救済を求めねばならないと熱望する観察者にして初めて、その読み取りを強行し得るのだと思われる。」



「影のゲーテ」より:

「ベンヤミン、そしてアドルノを読んでいて、時にはほとんどあり得ないことのように感ずるのは、彼らが沈黙、空白に対して実に繊細な感覚を具えていることである。」
「『ドイツ悲劇の根源』でベンヤミンは、「悲しみが自然を沈黙させる」と言い、悲しみは無言への傾きを持つと述べた後、謎といえばやはり謎のような言葉を書きつける。
 《悲しみはそこで、認識不可能なものによって、根柢的に認識されたと感じるのである。》
 「認識不可能なもの」とは何か。普通に考えれば神、あるいはそれにひとしい存在と受け取れる。黙っていても、というより黙っていると、神が認めてくれるということのようでもある。ただ神というと、「神が知っている」という成句が「誰も知らない」の意味になるのを思い合わせたくなる。そちらの方に気持を寄せて読む時、今の一句は何かひどく無残な、結局はどこからも理解を得られない沈黙の悲惨をほのめかしているとも読めるのである。
 そう読みたくなるのは、この一句に続けてさらに、「名づけられることを望む期待は――たとえ命名者が神々にひとしい至福の存在であるとしても――悲しみにとっては、永久に予感にとどまるかもしれない」とあるからである。名づけられるとは、認識され理解されることにほかならぬだろうが、神々の命名を期待する思いさえ、予感にとどまらざるを得ないとすれば、悲しみの沈黙には、全くよるべない孤絶の状態しか約束されていないことになるはずである。
 まことにベンヤミン的というよりほかない逆転、ないし「豹変」が、すぐそれに続けて用意されている。
 《しかし名づけられず、ただ読まれること、しかもアレゴリーの信徒によって不正確に読まれ、もっぱらアレゴリーの信徒の手によってきわめて意味深いものとされること、それは名づけられることに比べて、どれほど有意義だろうか。》」



「ヘルダーリンの冷静」より:

「詩人の意気、勇気は昂揚よりもこの謙抑を通じてより確実に証明されると見ながら、ベンヤミンは意味深長な言葉を書きつける。
 《「内気」――それが今や詩人の本来あるべき態度となった。生の中心に据え置かれて、彼に残されているのは身じろぎもせぬ存在の形、完全な受動性ばかりなのだが、この完全な受動性こそ、勇気ある者の本質なのだ。それは関係へと全面的に身を委ねることである。関係は彼から発し彼へと回帰する。そのようにして歌は生きとし生けるものを捉えるのだ。》
 この「内気」と「中間休止」と「冷静さ」とは、突きつめればすべて同義語にほかならぬと思われる。すべて積極的肯定的ではなく、むしろ積極性の否定をその特性としている。「完全な受動性」も当然そこにつけ加わる。それが「勇気ある者の本質」だとは、一見して逆説のようだが、(中略)これは逆説でも何でもないのである。」

「唐突な連想めくが、指揮者の岩城宏之が語っていた印象的な言葉をここに書きとめておきたい。岩城氏によれば、指揮者の仕事とはオーケストラの「邪魔をする」ことだという。つまりある程度の能力を持ったオーケストラならば、指揮者がいなくても一応そつのない演奏をすることができる。そのそつのない音楽の流れを、ある時はせき止め、ある時は断ち切り、そこに停滞やひずみを生じさせるのが指揮者の務めだという。それが成功した時に、音楽は、ただ抵抗感のない快い音の連続ではなく、突兀たる外見の中からその真の相をあらわしてくるということである。」



「せむしの侏儒」より:

「「せむしの侏儒」は、ドイツ・ロマン派の達成した最も輝かしい成果の一つ、アルニムとブレンターノが共同で編集した民謡集『少年の魔法の角笛』に収められている。全体を引用する。

 庭へ出て/チューリップに水をやろうとすると/せむしの小人が立っていて/いきなりくしゃみし始める。

 台所へ行って/スープを作ろうとすると/せむしの小人が立っていて/鍋をこわしてしまっていた。

 部屋へ行って/マッシュポテトを食おうとすると/せむしの小人が立っていて/半分食ってしまっていた。
 
 物置へ行って/薪を取ってこようとすると/せむしの小人が立っていて/半分盗んでしまっていた。

 穴蔵へ行って/ワインを瓶に移そうとすると/せむしの小人が立っていて/瓶を横取りしてしまう。

 紡ぎ車の前に坐って/糸を紡ごうとすると/せむしの小人が立っていて/車が動かぬようにする。

 寝部屋へ行って/寝床の用意をしようとすると/せむしの小人が立っていて/そこでいきなり笑いだす。
 
 膝つき板にひざまずき/少しお祈りしようとすると/せむしの小人が立っていて/いきなり話しかけてくる。

 「かわいい子供よ お願いだ/小人のためにも祈っておくれ!」」

「この醜い不具の小人は、やはりそのために希望が抱かるべき希望なきものの一族であって、醜いからこそそのために祈られ、邪悪だからこそ救われなくてはならないのである。たとえ彼が祈ってくれと呼びかけなくとも、背を曲げたその絶望的に醜い身振りは、ベンヤミンのような、とりわけ身振りに敏感な観察者に、読み解き、読み変えを促してやまないのである。
 その意味で「せむしの侏儒」は、ベンヤミンにとって、バロック悲劇やゲーテの『親和力』やゲオルゲの詩やカフカの物語と同様に、アレゴリーの信徒によって読み解かれるべき不確かなテキストにほかならない。」



川村二郎 アレゴリーの織物01































































































































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うまれたときからひとでなし
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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