間章 『時代の未明から来たるべきものへ』

「しかしその「廃墟」とは荒廃の光景などではなく、存在と精神の光に照らされたありとあらゆる存在の〈原野〉のことなのだ。」
(間章 「迷宮論(1) 窓について」 より)


『間章 著作集
時代の未明から来たるべきものへ』


イザラ書房 
昭和62年6月30日第2版発行
613p 
A5判 丸背布装上製本 機械函 
定価5,000円



間章(あいだ・あきら)没後刊行評論集。
奥付には記載がありませんが、初版は1982年12月に刊行されました。
解説はシュタイナー研究家の高橋巌氏。


間章 時代の未明から来たるべきものへ01


間章 時代の未明から来たるべきものへ00


高橋巌+荒俣宏『神秘学オデッセイ』(平河出版社、1982年)より:

高橋 最後にひとことということですが、こういうことを申しあげたいんです。間章さんの著作集『時代の未明から来たるべきものへ』がイザラ書房から出るんです。ご存じの方も多いと思いますが、間章さんはジャズやロックの評論家として活躍されていて、数年前に亡くなった方です。彼の晩年書かれたものをまとめて、六百頁くらいの本になって出版されるんですが、それを読んでみますと、これはおそらく世界で初めてだと思いますが、ジャズ、あるいは即興演奏の精神によるシュタイナーとの出会いの記録がじつに克明に記されているんです。ジャズの精神を通じてシュタイナーと出会った人はほかにもいるでしょうけど、ああいう形で記録に残してくれたのは私の知っているかぎり、間章さんが初めてだと思います。間さんにかぎらず、シュタイナーをいっしょに勉強することで出会った人たちの仲に即興演奏をやっている人がいたり、ロックのグループをやっている人がいたり、マンガを非常に愛している人がいたりするわけです。それはとても大事なことだという気がします。おそらく日本の状況の中でそういうことがあるということは、世界に対して日本が現代の精神的状況の中で神秘学を受けとめるときのひとつの型を提出しているということにもなると思うんです。
 さっき荒俣さんは、自分は純粋じゃないんだなどとおっしゃいましたが、純粋じゃない時代に生きる人が純粋じゃないことがきっかけとなってシュタイナーと出会う、ということは大切なことであり、純粋なことだと思うんです。もし純粋な人が、純粋さによってシュタイナーに出会いますと、権力主義と一種の貴族主義に陥りまして、天狗になったり差別感をもつようになったり、要するに不純な結果に終わってしまうんです。
 間章さんの思想を通して見たシュタイナーの世界というのは本当にみごとなんです。あらゆる抑圧から自由で、個別的で、Aを選ぶからBを捨てなければいけないという発想ではなくて、Aであることがすべてを生かすことでもある、Aであることを通して普遍的なものに通じ合える、という発想で、それが私にとって今、非常に大事なことだと感じます。」



間章 時代の実名から来たるべきものへ02


目次:

フリー・ジャズ黙示録
 解体と非連続の系譜
  地獄論への素描とその前書
  転形論への下降とその光景
  地獄めぐりの論理となしくずしとニヒリズムの戦略
   迷路をわたる都市ブルースの変容とその回路
  地獄論の余白なたは自己破滅と“なしくずし”への無限過程①
  地獄論の余白なたは自己破滅と“なしくずし”への無限過程②
  地獄下りの諸相――ニヒリズムとデカダンスとの相剋①
  地獄下りの諸相――ニヒリズムとデカダンスとの相剋②
 フリー・ジャズ運動とその展開
  フリー・ジャズ戦略とその多様な地平変換と覚醒へのアマルガム
  エントピアの地平――イギリス・フリー・ジャズ・シーンをめぐって①
   AMMとSMEそしてISKRA1903の周辺
  エントピアの地平――イギリス・フリー・ジャズ・シーンをめぐって②
   フリー・ジャズ・アナキスト群像
  「黙示録」の終りなさに向けての断章――地獄論回帰

ジャズの“死滅”へ向けて
 廃墟論
  ジャズの“死滅”へ向けて
  同一性と自同律について
  無関心(ニル・アドミラリ)と無感動(アパティア)について
  記憶と忘却――廃墟――私・論へ
 倫理論
  非命と流刑――死者そして滅びへの倫理①
  非命と流刑――死者そして滅びへの倫理②
  悪と滅尽への倫理①
  悪と滅尽への倫理②
 否定神学論または死論 “神と死”をめぐるブルジョワ思想批判ノート
  ニヒリズムと死の人類学〈序〉
  死の人類学“神と死”の埋葬
  “西洋”と“ロゴス”の殲滅①ハイデッガー批判への視線(まなざし)
  “西洋”と“ロゴス”の殲滅①ハイデッガー批判への方位
  個と幻影の終り――“変革”への道
  幻影から覚醒へ――“変革”への方位
  革命への「アナーキズム」へ
  「アナーキズム革命」の基礎とその在りか

季節の迷路から
 視線(まなざし)について
 「夜(ニュクス)」そして朝の終り
 鏡の中の男との対話〈1〉
 扉の向う側の砂漠そして冬
 ホモ・ヴィアトール
 ジャズの終りがさらに遠い一日の中で
 敵とその所在について
 無季・非時(ときじく)
 ニューヨーク もうひとつの冬またはガラス玉の中の雪
 ニューヨークのフリー・ジャズそしてもうひとつの雪
 ひとつの旅又は机の上の双眼鏡
 「一人の死者への手紙」――七六年・夏
 鏡の中の男との対話〈2〉
 迷宮(ラビリンス)論①窓について
 迷宮論②かごめ考
 迷宮論③ルサンチマン
 迷宮論④固有者ブロッホの死
 破片録 石原吉郎さんの死
 「ジャズ・マガジン」休刊の彼方へ――最後の「季節の迷路から」にかえて

ジャズの末路(おわり)への考現学
 非在へ向かう虚の穴(サックス)
  アルト・サウンドの負性①オリヴァー・レイクと身ぶり
  アルト・サウンドの負性②
  アルト・サウンドの負性③
  アルト・サウンドの負性④
  声とテクネー/サックス奏法の探究①サックスの本性そして宿命
  声とテクネー/サックス奏法の探究②サックスの現前そしてアンビヴァレンツ
  声とテクネー/サックス奏法の探究③サックスの奏法(テクネー)と戦略
  声とテクネー/サックス演奏における闘い
  「非在へ向かう虚の穴(サックス)」――後記
 排中律ピアノ論/ピアノの解体学
  無用の空箱――西洋としてのピアノ
  ピアノの解体そして異化
  ピアノの権力と強制(なしくずし)
  ピアノへの戦略とその異相①
  ピアノへの戦略とその居相②
  ピアノの光景の此岸①
  ピアノの光景の此岸②
 異化のギター/「ジャズの崩壊」症候群
  破壊者の肖像――序にかえて
  異貌のギター 受肉への秘儀
  「肉」と「存在」の交錯と「受肉」への闘い
  「破壊」と「受肉」――ギタリストの系譜

非時(ときじく)と廃墟そして鏡
 「テロルとトポス」論 ジャズの現(うつつ)をめぐるニ、三の断片的考察
  アルバート・アイラーの「サマータイム」をめぐって
  フリー・ジャズの思想と音楽の解放
  フリー・ジャズの諸相と現在
 解体と再生 反語的ロック・メディア論への素描またはロック分野における伝統と異化
  未明性としての伝統/伝統〈論〉への視線(まなざし)
  ロックとジャズの異相
  ロックにおける〈十九世紀〉の復権とクラシック音楽と現代音楽の影、そしてロックの地平(ホリゾント)
 チャーリー・パーカーの呪咀と終末論(エスカトロジー)
  即興演奏家の宿命としてのバードの存在と影について
 時代の未明から来たるべきものへ
  ニヒリズムとアナーキズムをめぐるヨーロッパ・フリー・ジャズ・シーンの根底問題について
  〈ナルチスの鏡〉の超克と破壊――西洋音楽の最後の冬
  ニヒリズムの超克と来たるべきものの在処

ジャズの“死滅”へ向けて 最終稿
 ジャズの“死滅”へ向けて 最終稿
  ジャズの退廃と没落
  〈ジャズは死んだか?〉の制度性
  アナーキーな地平 デレク・ベイリーの示すもの
  ジャズの“死滅”の彼方

初出一覧
年譜
解説 (高橋巌)



間章 時代の未明から来たるべきものへ04



◆本書より◆


「解体と非連続の系譜」より:

「ことはそんなに甘くはない。全体に向かおうとする時、個はつねに破片であり、廃墟であり、敵は全体として立ち現われる。直系的論理も運動もことごとく敵を補完するだけであり、沈黙も饒舌も敵を許すだけである。要は敵を内に飼いながら、毒を飲みながらみずからの感性のヒエラルキア、理性の整合性を破砕しつつ、複数の不可視の戦線を創出させることなのだ。」

「体制か反体制かという幸わせな“午後のあいびき”はもうどこでも見失われている。影へ、深部へ、暗部へ、地獄へのまなざしは向かってゆくだろう。そこにおいては誰一人として安易な孤立は許されない。会うとしたなら地獄で会おう。」

「四〇年代のリズム&ブルースは(中略)それがまだリズム的にも形態的にも判然としたスタイルと厳密さを持たずにまさに一種のメルティング・ポット(るつぼ)または暴力的とも言える潜在力を秘めた(異種のヴォイスがせめぎ合う)カオスであったが故にロックンロールという毒とフリー・ジャズの過激の芽を宿すことができたのだ。」
「都市ブルースの転形の上に、開かれたカオスと暴力をかかえたR&Bはおよそアメリカという資本主義社会が異る文化の階級的闘争の中でしめ殺した未明の声とそれ以上にパワフルであるアマルガムの中で生み落した無産の悪夢、凶々しさであるといっていい。その凶々しさは次の新しい凶々しい世代へ転形してゆく事でそれ自体の使命を一つ果してゆく。いつもヴァイオレンスとテロルは次のさらに苛酷なヴァイオレンスとテロルにひきつがれ、名づけられぬ情念の闇と谷間の中で正系のない異端を生み出す。R&Bのカオスからそしておのが肉体にあらゆる呪縛を秘め、さらに新しい位相でいまわしさに引き裂かれるようにして、異形の者が現われるのだ。それを今、フリークスとでもイノヴェーターとでも呼ぶことが出来る。フリークス=奇形・怪物はそして文化の破滅をこそ自己のよってきた文化のカオスの破滅をこそ母親殺しのように無意識の内で目指すのだ。」

「地獄めぐりの論理、それはあらゆる負性をさらに過大に負い続け、あらゆる実体を解体し続けることである。」

「階級性はすみずみに入り組み、われわれはどのような過激な意識を持とうとも抑圧の内に管理されている。自己解体なくして体制を破壊するなにものも出て来ないと私が言うのは音楽をとりまく階級性はわれわれの内なる諸々の観念や感情の階級性とつり合った形で存在しているからなのだ。
 そのわれわれの観念や感性、感情の階級性はとても自己批判といったようなものでは解放されはしない。われわれは自らの抑圧者である、観念や感情のヒエラルヒアを殺し続け、破壊し続けなくてはならないのだ。」

「フリー・ジャズの敵対物はあらゆる制度内の音楽であると同時に、形式的フリー・ジャズと擬似フリー・ジャズとである。」
「形式的フリー・ジャズとはフリー形態を保守し、予定調和的なフリーにとどまり、フリーを固定観念化するあらゆるフリー的ジャズのことである。
 擬似フリー・ジャズとはあらかじめ法則や調和や構成や展開性や機能・役割をかかえ込み、それらによって守られたあらゆるフリー・ジャズである。」



「廃墟論」より:

「廃墟とはなつかしさである。未だ見ぬ愛の不可能性と同義であると言ってもよい。この世で実現されうる唯一のレアリテそれが廃墟であり無秩序が存在の律を見い出す形態それが廃墟なのだ。廃墟とは欠落ではなく現前なのだ。」

「廃墟を見る時、私がいつも感ずるのは廃墟程やさしく、なごやかな空間はないという事だった。」

「亡びはどこにでもあった。ただそれを実現させなくてはならないのだ。」

「無産者とは存在そのものにもっとも近づいた行為者であり、現前の強圧におびやかされることのない負性なのだ。舞踏者であり、即興演奏者であり、無の遊戯者であり、虚無秩序の律法者なのだ。」

「「廃墟=私」が実現するその時まで……」



「倫理論」より:

「私は虚無精神=ニヒリスムと頽廃=デカダンスの底へ降りてゆく。そしてそれはニヒリスムとデカダンスを超出する為でも、克服する為でもない。最も本質的なものがその二つの位相のなかにあるからであり、ニヒリスムとデカダンスによって私の〈未明〉と〈曖昧〉を滅びにかざしながら、さらに養おうとするからなのだ。生きるとは生存に毒を流し込むことであり、生そのものに滅びを導入することであり、生の特権性をこわす事に他ならない。」

「生をまっとうしようとすることは生の無(ノン)=意味(サンス)と不可能にさらされる事だ。」

「実現されたどのような世界にも帰属でき得ない放浪者にこそ〈倫理〉が出現してゆく。〈倫理〉は現存の秩序や法則や道徳律に属するのではなく、可能事と不可能事をわたるこの領域につまり彼方へ向かって、闇へ向かっているものとして見い出されねばならないのだ。
 倫理は空無の上に求められ、ニヒリスムとデカダンスを注入され、さらに深化させるものとして発見されねばならない。」
「倫理こそがニヒリスムとデカダンスの上に用意されねばならない。
 そして滅びに向かった時に始めて、倫理が必要とされる。終りなき行為、理由なき、辿りつくべきものなき作業にこそ、倫理の〈場所〉があるだろう。
 滅びなきところに倫理はなく、虚無と頽廃なきところに倫理はない。逆説的(パラドキシカル)に言うならば虚無と頽廃をかかえ込まない倫理は倫理たり得ないのだ。
 何故なら、倫理とは肯定的様態ではなくして圧倒的な否定性そのものだからなのだ。
 すでにあるものを守り、秩序だてることではなくして、未だ無いものへと存在をかりたてる破壊的なパワーの存りか、脆弱なもののなかに否定のテンションをかけ渡すものこそが倫理なのだ。」

「倫理とは個人的なものである。そしてそれ故にこそ恐ろしく苛酷さを帯びたものなのだ。」



「否定神学論または死論」より:

「我々は負性を負った人間である、と同時に、呪われた逆理と両義性を生きる人間である。
 それ故にこそまなざし(引用者注: 「まなざし」に傍点)を解放へ向けてゆく。そして解放とは具体的な実現として、私の個やこの肉この生において実現されねばならないものである。たとえ来世が別の生が確実にあったとしても、この世のこの生の抑圧や支配との闘いを放棄することを私は私に許さない。私は目覚めた人間より最終的には真に闘う人間の方を選ぶであろうからである。」



「鏡の中の男との対話(1)」より:

「私の視線はそしてことごとく“冬の破片(かけら)”だけを見つけだしてしまう。
 ジャン・ジュネは次のように書いたことがあった。「もし生れ変わることが許されるなら、冥王星かもっと遠い星の氷のような空気と大気圧の中で泥にまみれ、はいつくばっている爬虫類のようなものになりたい」
 もしもそこにまだ亡び去っていない何かが残されてしまっていて“冬”も又あるのなら私もそこへ行こうかとふと思う。」



「扉の向う側の砂漠そして冬」より:

「私はさらに呪われた道を行くだろう。戦いの地平は常に全体的だ。私はそして決して部分では闘わないだろう。そして私が体制と権力とぶつかる個別の場、日常の強制、予定調和の階級性と対峙するところ、そこが戦線なのだ。さらに、その戦線は扉の向うの砂漠の地平線につらなり、私の内に不可視の戦場を用意する。私は強制と圧制をことごとくに亡ぼそうとすることによって私自身をも亡ぼしてゆかなくてはならない。それが敵をうつ唯一の方法であることによって。何故なら、敵にとって凶々しい毒は私にとっても毒であり凶器でなければならないからなのだ。
 冬からの出撃。私は先ずなによりも私自身の不吉さと呪い、そして冬によって武装するだろう。そして砂漠へと先ず乗り出してゆくだろう、というのは都市も街路も、扉の向う側の砂漠の中にあるからなのだ。」



「敵とその所在について」より:

「私はあらゆる擬態をとる。あらゆる正体不明の曖昧を得るための法を学ぶ。それはどこまでも敵をうつ為である。敵を定義づけるものは自己にある姿・形をあてはめるものであり、自己を定義づけ自己に境界をもうけるものであり、敵を分類づけるものは、確定的な観念に身をゆだね、自己をもまた分類するものだからなのだ。我々はどのような定義や分類によってもくぎられ、また統治されてもならない。それこそが我々を閉塞させようという、敵の観念の網であり罠、我々へのなしくずしの戦略だからなのだ。」


「ひとつの旅または机の上の双眼鏡」より:

「ふと見ると殆ど何もない彼の机の上にポツンと小さな双眼鏡が置いてある。私が不思議そうにしているとブライアンは言うのだ。「ちょっとした旅する機械です。窓から外の河をそれで見、空や遠くの人達を見て未知の世界に触れるのです。童話を作る機械とも、トリップ・グラスとも言います」
 私とスティーヴ(引用者注: スティーヴ・レイシー)はかなりの時間代る代るその六十倍の双眼鏡をのぞいて、八畳の窓の外のセーヌ河のきらめきを眺め、月や遠くの恋人達を見た。そして「ここ」とは違う場所に限りなく近づき「今」とは違う時の中へゆっくりと足を踏み入れ、しかも静かに醒めてゆく自分自身を何処かでみつめていた。そして半ば放心したようにじっと水のきらめきの美しさに見とれていた私にブライアンはそっと話しかけたのだった。「何かみえますか。この世界の何かが。そして貴方の旅が」と。
 私は何も答えないまま、ただじっと双眼鏡をのぞき続けた。
 出会うものは出会う、というのは殆ど信念ともいえる私の確信である。私はブライアン・ガイシンと出会った。その事は秘かだとはいえひとつの運命(さだめ)だったように思う。幾週間が過ぎて私は今、渋谷の私の部屋にいる。そこには双眼鏡がない。そして窓さえも。そしてブライアン程には決して自由であり得ない私の一日、一日があるのだ。私はここから全てを始める。(中略)ここにはニューヨークの“鏡の中の雪”も、パリの双眼鏡の中の“水のきらめき”もない。あるのは私の途方もないオブセッションと、私が私に課した戒律だけなのだ。」
「私はこの私のいる場所の中で旅を続けるだろう。恐らくは終りのない、見つめる事の旅を。
 時にはそんな私を遠い焦りがおそう。そんな時きまって呼びかける声があるように思えるのだ。「例えば星の決っているものはふり向かぬ」という声が。」



「「一人の死者への手紙」――七六年・夏」より:

「昔お前に話したのを覚えているか。高校生の時、新潟地震というやつがあった時の話を。ちょうど昼休みで俺は屋上で寝ころがっていたんだが、ひどいゆれが突然やって来て、しばらく待っても止まらないので下へ降りていった。そうしたらもう階段では大変なさわぎなんだ。(中略)グラウンドの方に回ると今度はグラウンドが無数の地割れなんだ。それでもそれを飛び越えながら俺はみんなと一緒に向う側の川岸へむかって走った。(中略)ちょうど半分位行った時に突然大音響がして左手にすごい黒煙が上がった。その時誰かが言ったんだ。『原爆だ』ってね。俺は走るのをやめた。そして不思議に安らいだ気持で一杯になった。『これでもういいんだな』と思ったんだ。しばらくはそこに立ったままだった。どれ位時間がたったか知らない。実際はほんの数十秒だったろう。俺は原爆ならピカドンというのに光はなかったじゃないかという事に気づいたんだ。しかもふと見るとグラウンドにとり残されているのは俺だけで、その俺ももう川岸にいる連中も死にそうな気配がない。『違ったんだ』そう思った時俺は何とも言えないくやしさとがっかりした気持との入り混った、またなつかしさにも憎悪にも似たものを感じた。後になって見ればなんのことはない、その爆発は地震のショックで破裂した石油のタンクのやつだったのさ。
 パリでひどく血を吐いて気を失い、救急車で運び込まれた病院で最初に気がついて眼をさました時にもあの地震の時感じた奇妙な気持を感じたんだ。そして俺はお前の死の知らせを聞いてしばらくしてやはり同じような気持でいる自分を感じた。」
「俺にとって何人目かの死者であるお前。俺はまた残されたのか、などとは決して言わない。俺は何がどうあろうと生きてゆくさ。それは俺がすでに俺に定めた事なんだ。そう、俺は生き晒す。一度やめようと思ったことを又始めた人間にはそれしかないんだ。」

「今でも思い出すよ、誰だったかの小説で、外国へ行って帰って来るには三つの帰り方しかないという事を言っていたのを。ただ通り過ぎて帰って来る事、買物や知識を仕入れて帰って来る事、それにもうひとつは破産して帰って来る事というやつだった。お前なら俺がこの三つの内どのような帰り方をしたのか、言わなくてもわかるだろう。」



「非在へ向かう虚の穴」より:

「私にとってアルトとテナーは全く異種の楽器=道具なのだ。アルトは吹かれる時その高音域には悲痛さを低音域には白痴性を負っているのだ。そしてまるで悲痛さと白痴性を押し殺しつな渡りするようにして“音の現在”“サウンドの光景”を出してゆく。アルトの第一義の特性、それは脆弱さであり、ハンディキャップでもある。」

「アルト吹きは自己の現存在が脆弱で曖昧であることを知るようにして、アルトの脆弱さを負い、選ぶ他はない。悲痛さも白痴性も同時に乗り超えるようにしてアルトのサウンドを自分で選ばねばならないのだ。」



「異化のギター/「ジャズの崩壊」症候群」より:

「しかしそれがひとつの闘いであった事はまぎれもない。ジミ・ヘンドリックスはギターなるものへ全身的に攻撃的に向かった。そしてすべてを激化させ拡大し自爆したのだった。そして彼の過激はそのような性質のものだったのだ。
 彼の他の二人のロック・ギタリスト、リー・スティーヴンスもシド・バレットも本質的な意味でギター演奏の地獄で自滅していったミュージシャンだ。私はミュージシャンの演奏性と演奏に内在する闘いと思想においてしか演奏を聴かないし、だからこそ私にとってミュージシャンに本義的にはロックもジャズも区別はない。それはもしあるとすれば負っているものの違いでしかないのだ。」
「ジミが持続的な拡大され続ける暴力と狂気にのめり込んでいったとするなら、リーは一瞬の狂気に身を裂き続けて廃者の道を歩いたのだった。そしてこの破滅をもしミュージシャンの輝やかしい「自己破砕」と呼ばずしてなんというだろうか。私はジャズだけの歴史を決して信じないように又ロックだけの歴史も決して信じない。ドルフィやアイラーやジョゼッペ・ローガンが評されると同じところで又ジミやリーやそしてシドが評されない時、我々は「ジャンルの強制」を回避できないばかりか「ジャンルの強制」を自らの内に用意してしまい、音楽そのもの演奏者そのものの存在の歴史をついに見る事なく「制度の補完者」となってしまうだろう。」



「チャーリー・パーカーの呪詛と終末論」より:

「私は久しい間「最後の人」パーカー「最後のジャズメン」パーカーという観念をいだき続けてきた。というのはモダン・ジャズの出発点、バップの完成者としてのパーカーという考えにどこまでも反撥を感じ、むしろパーカーがジャズの終りをたったひとりで早々と体現し、ジャズを終えた人間だったのではないかと秘かに思い続けてきたからだ。」

「パーカーは何ひとつ安全なテクニックを持たなかった。それは彼が余りに純粋で非順応的だったからなのだ。生き残る術を身につけなかったからなのだ。
 テクニックの、行為の抽象化の懺悔者はむしろ我々の方なのだ。我々は今日を明日につなげる技術ばかりに熱中する。(中略)「即興演奏」というものが人間にとってどのように重要な課題なのかを、本当には誰も考えない。それはスタイルでも技術でも単に方法でもない。「即興演奏」とは「今を生き」「今において自分をとり戻す」「自分自身と出会う」ひとつのたとえようのない闘いであり、秘法なのだ等とは誰も考えない。」
「パーカーを誰も「直視」しようとはしない。自己保全の方法があまりに身についてしまっているからなのだ。」



「〈ジャズは死んだか?〉の制度性」より:

「我々は、これらの気分や心情や好みを超えたところで自己を見い出し現実をみるまなざしを持ち自分自身の固有性を見い出し、それぞれの固有性の中でしなやかに開かれ〈他者〉へ向い続けることによってしか〈制度〉を超えることは出来ない。或いは〈制度を無化〉することは出来ない。そして我々自身の内の〈制度〉とエゴイズムを乗り超える事は出来ない。」


「アナーキーな地平 デレク・ベイリーの示すもの」より:

「どうしてあのようにデレク・ベイリーは完全にスポンテイニァスで自在なのか? どうしてあのような即興そのものである即興演奏は可能なのだろうか? という問いは以来私の内から去ったことがない。それは考えれば考える程に私を失語の淵へさそうようなものとしてあり続けた。しかし一方では余りに自明な事としてもあったのだ。
 確かにデレクは人間はその人間の固有性そのものによって立つことによって様々なこだわりや形式から自由であればその人間の無限の可能性としてある、自己の固有性そのものであることによって限りなくのびやかにしなやかになる事から一切の可能性が生まれるということを示した。しかしこの事を論理的に語るには途方もない困難がつきまとってくる。私がそれらの示すものを〈未知のアナーキズム〉と語る時、私が語ろうとする事から離れてこのアナーキズムという言葉自体が一種の狭さと固苦しさを帯びてしまうからだ。しかし私にはデレク・ベイリーの示したありのままの可能性がやはり一切の否定を超えた無秩序主義や許された自由、でたらめさを離れた人間の存在の本質そのものとしてある〈アナーキー〉さであると信じている。そしてその〈アナーキー〉はおそらく〈アナーキズム〉をも超えてあるのびやかで自然なものなのだ。」

「〈アイデンティティ〉の問題にしても次にあげるデレクの語り口にひとつの明確な答え、態度があると思える。デレクはインタヴューの中で「ジャズやその他の問題について考えるにアイデンティティの問題は大きな影をさしているし或る種の危険さを有しているが、貴方は自らの現にやっている音楽とアイデンティティについてどのように考えるか?」という質問に対して次のように彼の態度を表明している。
 「私には無数のアイデンティティがあります。私にはそれを選択することが出来ないし、選択することが無意味だと思います。もし選択したとしても無数のアイデンティティの中からひとつのアイデンティティを選ぶことは決して厳密ではあり得ないし気分的なものにしかならないと思います。そしてひとつのアイデンティティを見い出しそれにこだわることは結局そのアイデンティティが連ねている文化や様式や形式や秩序を身につけることになってしまうと思います。
 「私は無数のアイデンティティにこだわらずに自由でありたいと思っています。私にはアイデンティティにこだわりひとつのフォームを身につける事が束縛にしか思えないのです。
 「それよりも私は現在を体験し自発的に行為することによって未来の新鮮な記憶の子供になりたいと思っています」」

「デレク・ベイリーの存る地平は彼の固有性によって開かれている。
 そしてそれはミュージシャン同士のより開かれた可能性の方へ明確に開かれている。
 彼が七五年に組織した「カムパニィ」はその事を確実に示している。
 この「即興演奏家のプール」とデレク自身が言っている「カムパニィ」程あらゆる意味においてグループ性や組織性を欠いたそれ自体自発性とスポンティニティに基礎を置いたグループは他にないだろう。」
「そしてこの「カムパニィ」はあらゆる素材や一切のリーダーシップなしに完全に即興のアンサムブルを生み出してゆく。それは常に自然発生的で即興そのものだ。一見アナーキーにもでたらめにも見えるこの「カムパニィ」の中に息づいているのは全くそれぞれに自らの固有性に(個性ではなく)根ざした即興演奏家達の自由そのものなのだ。」



高橋巌による「解説」より:

「本書の中で間章は何度も、人間はどこから生れて、どこへ行くかわからない、と書いているが、この人生の迷路の中で、私よりもおくれて生をうけ、そして先に去っていった彼の短い生涯が、今もなお私の導きの星としてあざやかに光輝いている。
 何という人生だったのか。彼のことを考える度に、そう繰り返さざるをえない。いつかそれと同じような思いを佐伯祐三の回顧展の会場でもったことがあった。最後の二年間の作品の中に現れている佐伯祐三の魂の灼熱は、間章の最後の二年間のどの文章からも受けとることのできる魂の灼熱と同質のものである。この二人ほど人生が地獄であり、廃墟であるという、当然でありながら、つい忘れてしまいがちになるもっとも基本的な認識を、深く、徹底して、しかも優しく、美しく語ることのできた人はめったにいない。しかも間章の場合、彼がフリー・ジャズを通して幻視したものは、神秘学の核心的な部分に通じていた。まったく信じられぬ程のスピードで、彼は最後の二年間に、時代のこの暗い底辺から光を求めて、認識の天空へ翔ぬけていった。あとにのこされた者は、重い足どりで、彼が通った道を、彼によってはじめてつけられた道を、のろのろと辿ってゆくばかりである。彼の朗らかな笑声が、優しい微笑がそういうわれわれの歩みに、今でもかけがえのないはげましを与えている。」
「間章がルドルフ・シュタイナーと出会ったのは、いつのことだったのか。(中略)私が彼と出会うことができたのも、それからそれ程後のことではなかったであろう。法政大学で、その時私は笠井叡と結んで、舞踏と講演のイヴェントを行ったが、その会場で彼に会ったのがはじめての出会いだったと思う。ギリシア正教の修道僧のような黒い服と大きな銀のペンダントが印象的だった。彼とはその後二度、鎌倉の自宅でゆっくり話し合う機会をもつことができた。その折にも彼は、「出会うものは出会う」という確信をもっている、と話してくれた。(中略)ヴァージン・レーベルで出はじめたタンジェリン・ドリームのことを話題にしたあとで、彼はモーツァルトについて、ハイデッガーについて、愛情をこめた話し方で話してくれた。その二度の来訪は大変強烈な印象を与えてくれたにも拘らず、手紙を往復させた他は、その後ふたたび会う機会を逸した。(中略)だから彼とシュタイナーとの出会いのいきさつはむしろ本書を通してはじめて具体的に辿ることができた。」
「「シュタイナーの『個体主義』はその深い意味において、どのように具体の『個』と具体の『他者』へ向かって開かれているのか。……私はこう思うのだ。……一方にシュタイナーがいて一方にブレヒトがい、シュタイナーのもう一方にハイデッガーがい、ブレヒトの一方に例えばヒットラーやナチズムがあり、ヒットラーやナチズムは又激しくブレヒトとハイデッガーとシュタイナーに向き合って存在するという事、その事が語るものこそ“この時代”の内景であり、それ自体が『秘儀』的な思想の場を有していると。……まさに霊と肉との『十字架』にかけられるようにしてこの『存在』の受苦と供犠にはりつけになりながら」(二三二―三頁)。
 間章とルドルフ・シュタイナーの出会いはまさにこの受苦と供犠の中で生じたにちがいない。彼が愛したシレジアの天使、アンゲルス・シレジウスの詩がこの場面を的確に描いている――、「ゴルゴダの十字架もお前を悪から救うことはできない。もしお前の中に十字架が立てられるのでなければ」(二三四頁)。
 救済の十字架が負性の十字架と重なる地点から「自我」の受難と光栄とがはじまることと、この人智学の核心的イデーを、間章はジャズを通して、たちどころに把握した。だからこそ自我における「死と再生」の秘儀を、彼は見事に言語化することができた。――「我々が今、成さなければならないのは、自我を『個』に高め、自己を『肉』に深化させる作業、そして『個』と『肉』がひとつの具体者において遭遇し、ひとつの場所を共有する時にそこにある『アナーキー』を見つめ生き、そこで引き裂かれんとして引き裂かれ得ないあらゆる『他』に還元され、又補完され得ない『個―性』の闇を見つめることである。その時この『アナーキー』と『闇』とは一個の『舞踏者』を生むだろう。……そしてその『アナーキズム』を基礎とし、又原理とする新たな『共同体』、新たな『連続性』を見い出さねばならない」(二三八―九頁)。
 人間の尊厳のための闘士としての間章はシュタイナーと出会い、その思想の核心を洞察したことによって、根本的な発想の転換を遂げた。(中略)それは一言でいえば、死と亡びを基礎とする抑圧の状況から、生と未知を基礎とする開かれた地平への転換であった。」
「このあとがきを書くために、何度か繰り返して本書のゲラに眼を通した。それでも間章の文章の重みと切実さとが私を不安にさせたので、ひとつひとつの文章をノートに書き写してみた。そしてあらためて筆をとってみても、間章について何かを書くことに、彼についての思いに特定の形式を与えることに大きなためらいを感じてしまう。ニーチェが夭折した美学者ハインリヒ・フォン・シュタインについて言ったように、彼は「本当に許し難く、若くしてこの世を去ってしまった」のだし、彼自身がたびたび述べているように、われわれは常に季節の迷路の中を旅しているのである。今の彼はおそらく高笑いを残しながら、別のはるかに高次の世界を旅しているにちがいない。」
























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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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