『モーリス・ユトリロ展』 (1998―1999)

「酔ったときの異常な行動から、(中略)彼は危険人物と目されていました。パリ通りの歩道の端に座り、ドブを流れる汚水に裸足を浸けながら、道行く人に罵声を浴びせかけました。時に、道の真ん中に立ちはだかって、路面電車の行く手を阻んだこともあります。(中略)アルコールが入ると、その魔力によって、彼の病的なまでの臆病さは跡形もなく消え去ったのです。」
(ジャン・ファブリス 「モーリス・ヴァラドン」 より)


『モーリス・ユトリロ展 
1998-1999』

Exposition Maurice Utrillo

編集・制作・発行: 株式会社アート・ライフ
1998
190p 
28×22cm 並装(フランス表紙)
監修: 千足伸行
執筆: ジャン・ファブリス/千足伸行
翻訳: 吉川節子/中内玲子/高久馨
デザイン: アトリエヒサゴ


展覧会
企画・構成: 株式会社アート・ライフ
監修: ファン・ファブリス

大分展 1998年8月5日―9月6日 大分県立美術会館
京都展 1998年9月11日―10月19日 美術館「えき」KYOTO
佐賀展 1998年10月28日―11月29日 佐賀県立美術館
千葉展 1999年1月13日―2月14日 千葉そごう美術館



ユトリロ展図録。作品図版95点(カラー)、その他図版(モノクロ)多数。


ユトリロ展 1998 01


目次:

Remerciments
ごあいさつ (主催者)

モーリス・ヴァラドン (ジャン・ファブリス)
Maurice Valadon (Jean Fabris)

「都に雨の降るごとく……」: ユトリロとパリの憂愁 (千足伸行)

図版
1 十字軍の帰還 (1905年頃)
2 モンマニーのモーリス・ユトリロの家 (1907年頃)
3 ヴィリエ=ル=ベルの教会 (1908年頃)
4 モンマルトルのキュスティヌ通り (1909年頃)
5 ベルリオーズの家とアンリ4世の狩小屋 (1909年頃)
6 パリのサン=ジェルヴェ教会 (1910年頃)
7 村の通り (1910年頃)
8 モンマルトルのサン=リュスティック通り (1911年頃)
9 ムーラン・ド・ラ・ギャレット (1911年頃)
10 広場 (1911年頃)
11 ロスコフのチャペル(フィニステール県) (1911年頃)
12 モンマルトルの通り (1912年頃)
13 可愛い聖体拝受者 (1912年頃)
14 コンケの教会(ブルターニュ) (1912年頃)
15 ラ・クルヌーヴの通り (1912年頃)
16 教会と村、オーヴェール=シュル=オワーズ (1913年頃)
17 テルトル広場とサクレ=クール寺院 (1913年)
18 サン=ジャン=オ=ボワの教会 (1914年頃)
19 シャルトルのギヨーム門 (1914年頃)
20 モン=スニ通り (1915年頃)
21 小塔のあるホテル、モン=スニ通り (1915年頃)
22 モンマルトルのテルトル広場 (1915年頃)
23 ミミ・パンソンの家 (1915年頃)
24 ムティエ通りとヴィルジュイフの市役所広場 (1915年頃)
25 オルネイ=スー=ボワの鉄道大通り (1915年頃)
26 サン=ジャン=オ=ボワの教会 (1916年頃)
27 居酒屋ラ・ベル・ガブリエル (1916年頃)
28 アネの教会 (1916年頃)
29 マルカデ通り (1916年頃)
30 ラパン・アジル (1916年頃)
31 サンノワの通り (1917年頃)
32 ショコナンの教会の後陣 (1917年頃)
33 雪のラパン・アジル (1917年頃)
34 イル・オ・サンジュの酒場にて (1918年頃)
35 モンマルトルのテルトル広場とサクレ=クール寺院 (1918年頃)
36 モンマルトルの入り組んだ通り (1918年頃)
37 リメイユ・ブルヴァンヌのレストラン (1919年頃)
38 ラパン・アジル (1919年頃)
39 雪のロンポン教会 (1919年頃)
40 通りの風景 (1920年頃)
41 通り (1922年頃)
42 ヴェルサイユ大通りとエッフェル塔 (1922年)
43 縁日 (1922年)
44 雪の教会 (1922年)
45 ブール=ラ=レーヌの通り (1923年頃)
46 パリの城壁跡 (1924年)
47 旅芸人の馬車 (1924年)
48 プラヌの教会(東洋風のピレネー) (1926年)
49 田舎の家 (1927年)
50 プルボの家、ジュノ大通り (1928年)
51 ノートル=ダム・ド・パリ (1929年頃)
52 クレッシュ=シュル=ソーヌの教会、ソーヌ・エ・ロワール県 (1930年)
53 町役場の前 (1930年頃)
54 モンマニーの風景 (1930年頃)
55 ムーラン・ド・ラ・ギャレット (1930年頃)
56 モンマルトルのベルリオーズの家 (1930年頃)
57 モンマルトル、雪のノルヴァン通り (1930年頃)
58 モンマルトルのノルヴァン通り (1931年頃)
59 雪のラパン・アジル (1931年頃)
60 森の城館 (1932年頃)
61 サン=ピエール・ダルビニー、ミオランの城館 (1932年)
62 雪のラパン・アジル (1932年頃)
63 ロワイヤンのノートル=ダム教会 (1933年頃)
64 パルミエール通りの十字路 (1933年頃)
65 パリの城壁跡 (1933年頃)
66 ポワソニエ通り (1933年頃)
67 モンルージュのサレット通り (1933年頃)
68 モンマルトルのドゥブレイ農家 (1933年)
69 モンマルトル、ミミ・パンソンの家 (1935年頃)
70 モンマルトルのムーラン・ド・ラ・ギャレット (1935年)
71 ムーラン・ド・ラ・ギャレット (1935年頃)
72 モンマルトルの入り組んだとおり (1935年頃)
73 モンマルトルのサン=リュスティック通り (1935年頃)
74 雪の中のミミ・パンソンの家 (1935年頃)
75 ドゥルーの教会(ユール・エ・ロワール県) (1935年)
76 モンマルトル、カフェ・ド・ラ・トゥーレル (1935年頃)
77 ヴィレンヌ=シュル=セーヌの教会 (1935年頃)
78 サンノワのロゼ大通り (1936年頃)
79 パリのサン=セヴラン教会 (1936年頃)
80 ノートル=ダム・ド・パリとセーヌ川 (1937年頃)
81 パフォスの教会(キプロス島) (1937年)
82 ロワイヤンのノートル=ダム教会 (1937年)
83 モンマルトルのラブルヴォワール通り (1937年)
84 ラパン・アジル (1938年頃)
85 ルーアンの教会(セーヌ=マリティム県) (1939年頃)
86 コルシカ島の風景 (1940年頃)
87 モンマルトルの3つの風車 (1942年頃)
88 雪の兵舎 (1944年頃)
89 サンノワの風車 (1950年頃)
90 モンマルトルのラブルヴォワール通り (1950年頃)
91 ムーラン・ド・ラ・ギャレット (1950年頃)
92 サクレ=クール寺院とサン=リュスティック通り (1950年頃)
93 ムーラン・ド・ラ・ギャレット (1950年頃)
94 モンマルトルの入り組んだ通り (1950年頃)
95 サクレ=クール寺院 (1955年頃)

履歴
Biographie

主要参考文献
Bibliographie

Expositions
日本における主な展覧会歴

作品リスト
Liste des oeuvres



ユトリロ展 1998 02



◆本書より◆


ジャン・ファブリス「モーリス・ヴァラドン」より:

「この頃、シュザンヌはモンマルトル、コランクール通り27番地に母親とともに住んでいました。奇しくもトゥールーズ=ロートレックもここにアトリエを構えていたのです。彼女はトゥールーズ=ロートレックのモデルとなり、(中略)ロートレックは彼女に求婚しましたが、彼女は冗談めかして取り合わず、ついに2人は別れることになりました。また1893年の春、モーリス・ユトリロ、9歳の時には、シュザンヌ・ヴァラドンはエリック・サティの愛人になっています。(中略)2人の関係は3か月間続きましたが、サティが彼女に書いた手紙は100通以上にのぼっています。」
「時は少しさかのぼって1891年のことです。恋多きシュザンヌ・ヴァラドンの前に、以前の恋人の1人、カタロニア出身の男が現れました。(中略)この男性が1891年1月27日、(中略)モーリス・ヴァラドンを自分の息子として認知したのです。」
「モーリス・ユトリロは、母親のそばで暮らしたいという強迫観念にとりつかれていました。母親と一緒に暮らすことができたら、もうそれだけで彼は満ち足りたことでしょう。彼は幼い頃からたえず母親を追い求め、必要としてきましたが、母親が彼一人のためだけに存在したことは、悲しいことに、これまでありませんでした。」

「酔ったときの異常な行動から、(中略)彼は危険人物と目されていました。パリ通りの歩道の端に座り、ドブを流れる汚水に裸足を浸けながら、道行く人に罵声を浴びせかけました。時に、道の真ん中に立ちはだかって、路面電車の行く手を阻んだこともあります。手足をだらんとさせた操り人形のように不動の姿勢をとったり、両手を真横に拡げて電車の前で棒立ちになったりしました。アルコールが入ると、その魔力によって、彼の病的なまでの臆病さは跡形もなく消え去ったのです。」

「泥酔から覚め正気に戻り、精神病院に再収容されていることがわかると、彼は、どうして精神病院に入れられたのか、その理由を問いました。「私は気違いではない、単なる酔っ払いなんだ」。彼は、ことあるごとに、こう言っていたそうです。後年、リュシー・ポーヴェルと結婚しますが、結婚後も彼は子どものままでいたいという強い欲求をもち続け、幼児性から脱却することはありませんでした。母親の役割は、妻が演じていたのです。」

「シュザンヌ・ヴァラドンは、息子のアルコール中毒について問われると、父親の飲酒癖を受け継いだものであると説明していました。モーリス・ユトリロの父親はボワッシーという大酒飲みの画家であって、息子がアルコール依存症になったのもこの父親にすれば当然である、と。」

「モーリス・ユトリロは生涯、母方の姓で通し、モーリス・ヴァラドンと名乗りました。(中略)青年期に制作された作品の署名は、すべて「モーリス・ヴァラドン」です。後年、画家としての名声を確立してから、彼は「Maurice Utrillo, V.」と署名するようになりますが、この「V」がヴァラドンの頭文字、「V」であることは言うまでもありません。」



ユトリロ展 1998 03

モンマルトルのテルトル広場、1915年頃。


ユトリロ展 1998 04

サクレ=クール寺院、1955年頃。



最後に、本カタログの訳文について、気になったことを書きます。
ジャン・ファブリスの解説文の結語で、「息子よりも彼女(引用者注: シュザンヌ・ヴァラドン)の作品に対して感性の鋭い批評がなされています」とある部分、原文は「et que la critique est plus sensible à son art qu'à celui de son fils」ですが、これは、批評の内容について言っているのではなく、解説文執筆時において、美術批評界(la critique)の関心が、ユトリロよりシュザンヌ・ヴァラドンに多く向けられるようになっている状況を指摘しているのではないかと思います。
 また、ヴァラドンが本名の「マリー」ではなく「シュザンヌ」を称するようになった経緯について、「けれども、「マリア」という名があまりにもキリスト教的だと判断したトゥールーズ=ロートレックによって、彼女は「シュザンヌ」と呼ばれるようになりました。」とある部分ですが、このへんに関しては訳注を付けた方が親切だったのではないかと思います。裸体で画家のモデルをつとめていた彼女を、聖処女マリアと同じ名で呼ぶのはふさわしくないとして、旧約聖書の「ダニエル書」に登場する〈美しき水浴女〉「スザンナ」(シュザンヌはそのフランス語形)の名で呼んだわけです。
 そしてもうひとつ、これは参考図版の説明文ですが、シャルル・トレネ(シャンソン歌手)とのツーショット写真のキャプションに、ユトリロがトレネに「Chante moi la mer et je t'offre un tableau!」と言った、とある部分の訳が、「海について歌っておくれ! そうしたら君に私の絵を贈ろう」とあるのは、「「ラ・メール」を歌ってくれたら絵をあげるよ!」と訳すべきでしょう。「ラ・メール(La mer)」はもちろん、トレネの大ヒット曲のタイトルです。


ユトリロ展 1998 05








































































































































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ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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