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川村二郎 『銀河と地獄』

「銀河があるから地獄があるのであり、銀河をもとめるから地獄が見えるのである。」
(川村二郎 「銀河と地獄」 より)


川村二郎 
『銀河と地獄
― 幻想文学論』


講談社 
1973年9月20日第1刷発行
346p 
四六判 角背紙装上製本 貼函 
定価980円
装幀: 司修



本書「あとがき」より:

「これはぼくの三冊目の本である。これまでの二冊、『限界の文学』『幻視と変奏』が、その時々の要請に応じて書かれた文章をまとめたものだったとすれば、これは、発表の場や条件に多少の違いはあるにせよ、ともかく持続した関心によって書きつがれた連作エッセイのつもりである。このうち最初に書いたのは泉鏡花論だが、(中略)雑誌に発表した時は「幻想小説論序説」と題していた。つまり、幻想小説、乃至幻想文学と呼ばれるような文学の局面を、自分なりに少し探りつづけて見ようという気持があったわけである。この種の文学に対する興味は、どういうわけか、早くからぼくの中に棲みついていて、小学生時代の江戸川乱歩はともかく、中学生になって文学の魅惑を知りはじめた少年を、最初に熱狂させたのはポーとホフマンだったし、そして高等学校で文芸同好会誌めいたものを出そうという話が持ち上った時、この文学少年がはじめて人に見せるつもりで書いたのが、「上田秋成小論」だった。昭和二十一年のことである。保田與重郎とイギリス・ロマン派詩人とウォルター・ペイターへの耽溺をないまぜにしたこの幼稚な作文は、間もなく学校が火事で焼けたため、幸にも陽の目を見なかった。」
「それにしても、その頃のことをふり返ると、(中略)ポーもいいが、それ以上にホフマン、と感じた、その少年の感じ方が、現在まで尾を引いていることを、よかれ悪しかれ自分の体質として認めざるを得ない。超絶的な幻想世界の、日常の現実から遮断されて凝然と静止した相を眺めるよりも、幻想世界は日常に浸蝕され、日常は幻想に攪乱され、現実と非現実の境界線を引くのも困難な、曖昧な動きにみちた空間に見入る力が、より一層、心を躍らせた、ということである。(中略)一般的にいって、夢の相の直截な提示よりも、夢と日常とがあるいは溶け合いあるいは軋み合い、いずれにせよ両者のあいだに独特な緊張関係が生じ持続する、そのような消息をうつしだすことに、殊に現在、とりわけ切実な文学的真実がこもり得るのではないか、という具合に考えている。」
「したがってこれは、醇乎たる夢物語や妖異談を扱っているとはかぎらないけれども、ぼく流儀の「幻想文学論」である。折口、柳田、南方といった人たちについての論考を収めているのは一見場違いに見えるかもしれないが、現代人にとって古代とはやはり一つの夢であり、夢を観ずるさまざまな方式を見たいという点で、ぼくの関心は一貫しているのである。」
「少年時代の執着に、以後三十年になんなんとする現在までかかずらっている迂愚には、われながら嗟嘆するほかないが、しかし今までそうしてきた以上は、これからもくり返しこの領分に立ち戻るのが、何ものかに対する義理であるような気がしている。」



川村二郎 銀河と地獄01


帯文:

「幻想文学論
銀河と地獄 川村二郎
幅広い知識力をもって縦横に論じた連作エッセイ集」



帯背:

「川村二郎
文学論集」



帯裏:

「■収録作品■
上田秋成
狂言作者たち
泉鏡花
幸田露伴
折口信夫
柳田国男
南方熊楠
岩野泡鳴
佐藤春夫
牧野信一
藤枝静男
吉行淳之介」



目次 (初出):

走るやさしさ 上田秋成 (「別冊現代詩手帖」第三号、昭和47年10月)
反自然の自然 狂言作者たち (「日本の古典20 歌舞伎・浄瑠璃集」解説、昭和48年七月、河出書房新社)
瞠視された空間 泉鏡花 (「群像」、昭和45年10月号、原題「幻想小説論序説」)
観察から幻視へ 幸田露伴 (「文学界」、昭和46年1月号)
伝統と小説 折口信夫 (「群像」、昭和46年5月号)
経験主義と神秘 柳田国男 (「群像」、昭和47年2月号)
博物誌の文体 南方熊楠 (「文芸」 昭和47年6月号)
銀河と地獄 岩野泡鳴 (「群像」 昭和48年7月号)
幻想の地誌 佐藤春夫 (「群像」 昭和46年9月号、原題「佐藤春夫論」)
篤実な誇張法 牧野信一 (「群像」 昭和47年8月号)
陰画の浄土 藤枝静男 (「空気頭・欣求浄土」 講談社文庫版解説、昭和48年2月)
魂の修錬の諸段階 吉行淳之介 (「吉行淳之介全集4」解説、昭和46年9月、講談社/「闇のなかの祝祭」 講談社文庫版解説、昭和46年10月/「暗室」 講談社文庫版解説、昭和48年1月)

あとがき



川村二郎 銀河と地獄 02



◆本書より◆


「反自然の自然」より:

「浄瑠璃の美しさとは、帰するところ、この結晶の美しさである。それはわれわれの通念の上で考えられる自然の産物ではない。時には不可解なまでに内攻し、反転し、屈曲する暗澹とした心が、その夢みる悪夢の中から、われとわが苦しみを鎮めるために無理強いに抽きだす、ささやかな慰藉のようなものである。」


「伝統と小説」より:

「歴史の「自然」を変更することを嫌って、知らず知らず歴史に縛られた、その苦しみから脱するために、『山椒大夫』を書いた、という鴎外は、(中略)「わたくしは歴史離れがしたさに山椒大夫を書いたのだが、さて書き上げた所を見れば、なんだか歴史離れがし足りないやうである」と記している。
 『山椒大夫』は、どう見ても鴎外作中の逸品とはいいがたい。「俗情を伝説の中に辷りこませて、あまり奔放でもない空想で肥大させて、美文の衣を着せた」うんぬんという石川淳の評語は、一見辛辣なようだが、まさに正鵠を射た適評というべきだろう。」
「たしかに、流罪の父を慕って旅に出た母子が、人買の手に渡って別々に辛酸をなめ、奇縁によって救われた息子が栄達の後母をたずねあてる、という物語の骨子は、鴎外においても表面的には大差ないとはいえよう。だが、佐渡に売られた母が足の筋を断ち切られるとか、姉娘のあんじゅが弟を逃がした咎で責め殺されるとかの部分は、あっさり無視されるか、単なる哀切な情趣程度にやわらげられている。そして世に出たつし王が、山椒大夫を白洲に埋め、その首を竹鋸で息子たちにひかせるという大詰は、鴎外では、「国守は最初の政として、丹後一国で人の売買を禁じた。そこで山椒大夫も悉(ことごと)く奴婢を解放して、給料を払ふことにした。大夫が家では一時それを大きい損失のやうに思つたが、この時から農作も工匠の業も前に増して盛になつて、一族はいよいよ富み栄えた」ということになっている。
 歴史そのままも歴史離れもあったものではない。この改変によって、山椒大夫伝説は、根柢から瓦解してしまっている。大夫を白洲に引きだした上で、つし王の語る言葉、「いかに太夫、某を見知りて有るか、汝が内に召しつかはれし忘れぐさよ、何とてあねごをば責めころして有るぞ、あね上かへせ太夫。あねご浮世にましませば、かほどの恨みよもあらじ」――この言葉こそ、説経節『さんせう太夫』のクライマックスであり、核心であるとぼくは思う。「あね上かへせ太夫」――このすさまじくも激情的な一句の重みを、鴎外は、良識的な改良主義者の思いつきでもって、きれいさっぱりぬぐい去っている。この思いつきは文字通り「俗情」のなせるわざで、その結果読者は、歴史あるいは伝説の自然の姿を眺めることはおろか、その新たな変容の形式、いわばパロディーを見て取ることすらかなわず、みずから意識することなしに浅薄な近代人の、淡い感傷を目にするよりほかなくなってしまう。
 鴎外の『山椒大夫』は、説経節の『さんせう太夫』と、粗大な輪郭においては同一の物語であり、恣意的な内実の潤色においてはおよそ似ても似つかぬ物語である。作者はあるいはこの潤色をアポロン的観照とでも自負していたかもしれないが、いわゆるディオニュソス的な内部の混沌を、近代的に衛生無害化した上で成り立つアポロン的形式など、あるわけもない。そのような経緯で観照が可能だと考えることほど、真の観照から遠いものはないだろう。」

「折口は鴎外ぎらいである。

 かたくなに森鴎外を蔑(サ)みしつゝありしあひだに、おとろへにけり

 などという晩年の詠もある。いわゆるアポロン的な観照を彼が望んだはずがないのは、(中略)ナルチスムス風の志向が彼の作に浸透している以上、当然のことである。」

「折口がもとめたのは「歴史離れ」でもなければ「歴史其儘」でもない。あるいは、その両方をいちどきにもとめたのだといってもよい。一方で彼は過去を過去として眺めようとした。そこから、現在には疎遠なある人間的心性を掘り出そうとした。しかし他方では、この作業を表現にもたらすに際して、(中略)自己自身のパトスをたっぷり盛りこんだ。むろんここには矛盾がある。だが、実に奇妙なことだが、彼のパトスにひたされたからこそ、探索の的なる過去の人間的心性が、現像液にひたされでもしたように、ありありと浮んできたのではなかったか。薄命の美少年を渇仰しつつ、渇仰の対象と自己を同一視する俳優たち、伶人たちを動かしていたのが、宇宙大にひろがるナルチスムスと同性愛だったということ、彼らの対象は一種フェティッシュのごときものだったということが、明らかになったのではなかったか。
 「しんとく丸」について語る者は「しんとく丸」だ。これは折口が学者として獲得した認識である。しかしこの認識を、『身毒丸』において彼は、みずからも一人の「しんとく丸」となることによって、いわばこの神話的形姿の転生を一身に閲することによって、血肉と化しているのである。自己への執着が他者への観察眼をひらき、他者への観察が自己の深みを照らしだす、この循環において、矛盾は矛盾でなくなる。
 眇たる『身毒丸』一篇が、個人的な告白の色調を濃厚にたたえながら、われわれの持つ稀な歴史小説の傑作たり得ているのは、かかってこの、仮面と肉体との秘義の経験にある。このことはまた、一般に歴史に対する文学的な想像力のありようについて、一つの啓示をもたらす事実だろうと思われる。」



「銀河と地獄」より:

「「吾人の頭脳は銀河に浴し、吾人の両足は地獄のゆかを踏む。」

 いかにも大時代な、気恥ずかしい文句である。」
「泡鳴は平然とこんな文句を小説の主人公に思い浮べさせる。しかも、その主人公、『五部作』の田村義雄は、この「エマソン警句」を思い浮べた上で、「若しこのおほ袈裟な口調で自分の考へを発表すれば、地獄のゆかをも踏み破つて、而も天上に須佐之男(すさのを)の暴威の雄たけびをやつて見たいほど絶望的だ」と思うのである。
 もちろんこれは作中人物が思っているので、作者が思っているわけではない、と注釈することは可能である。しかし『耽溺』の場合と同様、『五部作』においても主人公は作者と一体不可分といわねばならない。こう思う主人公に対して、アイロニカルな視線が投げかけられているなどということはあり得ない。作者は明らかに主人公と共有する一つの肺腑から、真情を吐露している。」

「描かれた情景が異常というより、情景の捉え方、情景にむけられた目の動き方が、過度に偏執的で、極端へ極端へと傾いて行き、その結果、たとえその情景が平凡な市井事を映していても、奇妙に歪んで非現実的に見えてくる。いわんや、物語の素材そのものが尋常でなければ、極端への傾きはとどまる所を知らない。泡鳴はスカトロジーの並々ならぬ愛好者だが、この嗜好が(中略)野方図に開陳された場合には、まさしく芬々たる芳香が文章から立ちのぼってくるように感ぜられる。
 近親者の回想類によると、泡鳴は普通以上の潔癖家であったらしく見える。そうとすれば、潔癖症では第一人者というべき泉鏡花が、醜怪無残な形象に淫することを好んだのに似た、嫌悪の対象への惑溺があったとも考えられる。
 それにしても、この惑溺の生理はどういうものだろう。(中略)禁忌といえば、古代人にとって、触れるべからざるものという意味で、最も神聖なものと最も醜悪卑猥なものとは、等価であったらしい。神聖にして侵すべからずとは、取りも直さず、世界のうちでも最も忌まわしい存在に該当する規定だったろう。」

「そうした人間関係が作りだす図柄はまさに醜悪の一語につきる。
 この醜悪が地獄と化するのは、まさしくそれが、銀河を頭に戴く者の目によって見られているからである。(中略)『五部作』の主人公は、自我の昂揚と発展によって地上を超脱しようと奮闘する。いいかえれば、垂直面を上にむかって志向する。しかし水平面には上も下もないが、そこに上への志向が生ずれば、当然その逆の方向とのあいだに緊張が生ずることにもなる。つまり地上は、上との緊張関係を持つ下の世界、上に敵対する下界、すなわち地獄に変化する。
 主人公(作者といってもよい)の上昇志向は、そうとすれば、下降志向にひとしいのである。そこには、くり返していうが、アイロニーは介在しない。上へむかおうとする努力は一途に直線的で、この努力が、下へ引張る力によって妨げられるために、嘆き悲しむとか思い惑うとかいった風情は、およそ見られない。だからこそ、嘆き節としてならば聞くに耐えないであろう「吾人の頭脳は云々」の文句を、主人公は思い浮べる資格があるのだ。銀河があるから地獄があるのであり、銀河をもとめるから地獄が見えるのである。とはすなわち、銀河即地獄ということだ。『五部作』第一『発展』における、主人公と妻との次のようなやりとりに、その認識がおそろしいほど明瞭に打ちだされている。

 『わたしが附いてゐなけりやア、あなたのやうな向ふ見ずは立つて行かれなかつたんです!』
 『お前はよく向ふ見ず、向ふ見ずといふが、ね、おれの向ふ見ずは、いつもいつて聴かせる通り、一般人のやうな無自覚ではない。』
 『自覚したものが下らない女などに夢中になれますか?』
 『だから、人のやうな夢中ぢやアないのだ――身づから許して自己の光輝ある力を暗黒界のどん底までも拡張するので――』
 『いえ、そんなことを云ふやうになつたのは、あなたはここ四五年前からですよ。わたしを茅ヶ崎の海岸などへおッぽり出して置いて、さ、僅か十五円や二十円のお金で子供の二人や三人もの世話までさせ、御自分は鳴潮さんや大野さんと勝手な真似をしてイたぢやありませんか? わたしが帰つて来てからでも、独歩や秋夢のやうな悪友と交際して、隠し女を持つて見たり、浜町遊びを覚えたりしたんです。』
 『そりやア、お前、観察が足りないので――おれが「デカダン論」を書いた所以は、人間の光明界と暗黒界、云ひ換へれば、霊と肉とは自我実現に由つて合致されるものだと分つたのだ。さうしておれの行動と努力とが各方面に大胆勇猛になつて来ただけのことだ。』
 『そんな六ヶしいこと分りませんが、ね、待ち合へ行つたり、目かけを持つたりしてイるものが――』

 何という美しい会話だろう。これらの言葉はことごとく真実であり、真実なもののみに固有のなまなましい輝きを放っている。平面の視点で見れば、愚かな極道者の亭主と賢夫人との、亭主側に旗色の悪い口論にちがいない。しかし亭主は決して負けていないのだ。彼は(そして作者は)、いう通りに信じているのだ。それが信じられるのは、妻の言葉によって代表される現実の原理が、厳然と前に立ちはだかっているからにほかならない。そのあいだに安直な妥協はなく、そしてそれゆえに、この応酬は銀河と地獄とのかわす、真率この上ない睦語となっている。このような垂直的な緊張を、随処に作りだしている所に、『五部作』の、ひいては泡鳴の小説の、最大の積極的な意義がある。」




































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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