多田智満子 『花の神話学』 (新装版)

「タジク 〔大食国〕 の西南二千里のところに、国がある。その山や谷あいの樹木の枝に、人の首が花のようにはえている。言葉は理解しない。人が問いかけると、笑顔をみせるだけだ。頻繁に笑うと、かならず落ちる。」
(今村与志雄 訳 『西陽雑俎』 より)


多田智満子 
『花の神話学』
新装版


白水社 
1991年5月10日印刷
1991年5月20日発行
240p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,400円(本体2,330円)
装幀・装画: 福澤一郎



本書「後記」より:

「この『花の神話学』は花ばかりでなく広く果実や樹木の神話を含んでいる。ヨーロッパで植物一般(特に一地域の植物相)をあらわすのにフローラという名詞を当てるように、ここでは植物を代表するものとして花ということばが用いられている。また、神話学といっても、文学が学であるのと同じ程度にしか学でないことは一読しておわかりいただけよう。これは詩にすさぶ者が、詩に隣接した神話の森に迷いこんだとき、気ままに手折った小さな枝折(しお)りの束にすぎないが、この枝折りを手にして、読者がひととき鬱蒼たる幻想の森の逍遥を楽しんでくだされば幸いだと思っている。
 本稿は、雑誌『草月』に、一九七八年十月から一九八四年二月まで、三十回にわたって連載されたテクストに、多少の筆を加えたものである。このエッセイのために毎号雄渾闊達な筆を揮われた福澤一郎画伯の装画で本書を飾ることができた上、福澤氏自身が快く装幀を引きうけてくださったことは望外の喜びである。」



初版は1984年、白水社刊。本書はその新装版。
本文イラスト30点。目次カット3点。扉絵(カラー)1点。


多田智満子 花の神話学 01


帯文:

「花は美しいがゆえに神々しく
木の実は養いの糧ゆえに神聖」



目次:

1 花の霊魂――序にかえて
2 ヒヤシンスの墓
3 没薬の涙
4 アドーニスの園
5 柘榴をもつ女神
6 水鏡に魅せられて
7 月桂樹への変身
8 葦の笛
9 葡萄の奇蹟
10 太陽を慕う花
11 血染めの桑の実
12 神の薔薇
13 巴旦杏縁起
14 あめんどうの杖
15 やどり木の神秘
16 世界樹ユグドラシル
17 林檎のある楽園
18 養いの母なるいちじく
19 暗い植物たち
20 メーデイアの魔法
21 不死の薬草を求めて
22 蓮喰いびと
23 太陽の昇る樹
24 糸を吐く娘
25 空桑に嬰児あり
26 月の桂
27 鬼には桃を
28 人參果
29 天地之中
30 光を放つ蓮華

小ノート
後記 (1984年2月末日/1991年春)



多田智満子 花の神話学 02



◆本書より◆


「1 花の霊魂――序にかえて」より:

「十九世紀ドイツの物理学者であり心理学者であったグスターフ・テオドール・フェヒナーは、視覚の実験的研究のため、太陽を見つめすぎて盲目の身となり、大学教授の職を退いたが、幸いにも何年か後に視力を回復した。いや、ただ回復しただけではない。彼は見えないものを見る神秘的な視力を得たのである。
 ある日、ライプツィヒのムルデ河畔を散歩していたフェヒナーは、植物から霊魂が現れ出るのを目撃した。ある花から、その花の霊魂がゆらゆらと立ちのぼるのを見たのだ。その霊魂は人間の子供の形をしていた!
 フェヒナーは、植物の霊魂が太陽の光をもっと享受するために花から出てきたのだと考えた。陽光にあこがれる植物霊魂――それはようやく視力を回復して光を感受できるようになった彼自身の魂のよろこびそのものであったにちがいない。
 多くの人から病後の幻覚として片付けられそうなこの詩的な体験は、しかし、思想家フェヒナーにとって決定的な原体験であった。もともとロマン派哲学の影響をうけていた彼は、十八世紀の唯物論的哲学に真向うから対立する汎心論者となり、一八四八年に、『ナンナ――あるいは植物の霊的生命について』という一書を著した。
 ナンナ(Nanna)というのはスカンディナヴィア神話の花の女神で、大神オーディンの孫娘に当り、光と春の神バルドゥルの妻である。」
「フェヒナーという人は精神物理学の開拓者であり、きわめて独創的な思想家で、人間にしか霊魂をみとめないキリスト教の確固たる伝統に反して、植物ばかりでなく、石や星にさえも霊魂をみとめた。キリスト教化された西洋にはめずらしい「万物有情」の汎心論の立場を貫いた哲学者である。
 もちろん洋の東西を問わず一般に古代には、この種の汎心論、というよりももっと素朴なアニミズムがひろくいきわたっていた。すべての神話が、森羅万象に霊力をみとめるアニミズムを根底にもつことは申すまでもない。」
「肝腎なのは、鋭敏な科学者が、一旦失われた視力を回復したときに、陽光のなかにたちのぼる《花の精》――植物の霊魂――を目撃したということなのだ。このような体験は稀なものとはいえ、決して一人の病的な人間の幻覚として片付けられてよいものではない。これより少し早く、十九世紀初頭に、ロマン派の自然哲学者で自然科学者であったローレンツ・オーケンは、『最初の人間の誕生』と題する論文の中で、《神話的な始原児》の形象にふれたあと、次のように論じている。
 「詩的に語るだけではなく、現実に即して語るなら、動物は植物から最後の発芽した花、あるいは本来の果実であり、すなわち、草花の上でゆらゆら揺れる精霊である。」
 進化論の先駆者であるオーケンの物理的汎神論と、フェヒナーの実在論的唯心論ともいえる汎心論とをごちゃまぜにする気は毛頭ないが、しかしこの二人の哲学者はたしかに、《花の上にゆらゆらと立ちのぼる精霊》という一つの神話的原型を共有し、それを彼ら独自の思想の始原(アルケー)としていたように思われる。この種のヴィジョンは、文明が進歩するにつれて、いいかえれば人類の老化と衰弱がすすむにつれて、わたしたちの大部分が失ってしまったものであるけれども、古代人たちはたしかにこうした視力にめぐまれていた。彼らは古いから年老いているのではなく、逆にわたしたちよりも数千年も年若かった。感受性もみずみずしく、幸福で不安な無知のなかで、自然の事物につねに驚きと畏敬の念をもって接していた。」



「28 人參果」より:

「人間の形をした植物というのは人々の想像力を刺激するとみえ、ヨーロッパではワクワク島の不思議な木の実が好事家の間で知られていた。」
「ふたたび中国にもどって、人の生る木を探してみると、『山海経』大荒南経に、菌人(きんじん)という小人(こびと)のことが記されている。本文だけ読めば、これは小人であって植物ではないけれども、この菌人の古註の一つに、『南越志』などの文献を引き、南方に子供と同じ実の生る植物があり、菌人はその同類であるとする説がある。その樹は銀山にあって女樹(じょじゅ)といい、夜明けにその枝に小さな赤児が生れる。日が出ると赤ん坊たちは木からおりて地上を自由に歩きまわり、遊びたわむれる。日が山に沈むと、かれらはみな地下に姿を消す。そして翌朝、木の枝から新しい赤ん坊が生れるのだそうである。
 また、段成式の『西陽雑俎』には「人木(じんぼく)」というものについての簡潔な記述がある。

  タジク 〔大食国〕 の西南二千里のところに、国がある。その山や谷あいの樹木の枝に、人の首が花のようにはえている。言葉は理解しない。人が問いかけると、笑顔をみせるだけだ。頻繁に笑うと、かならず落ちる。(今村与志雄氏訳)

 頻笑輒落(頻りに笑うときまって落ちる)というところがなんともいえず心をそそる。本来、咲という字は笑の古字であり、花咲くとは花が笑うことではなかったろうか。人と植物とはそれほど距たったものではないのである。」



多田智満子 花の神話学 03






























































































































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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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