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阿部良雄 編 『ボードレールの世界』

「ボードレールには旅の計画さえあれば、旅そのものは必要ではなかった。むしろ旅の計画や旅の夢想こそが、つまりは「旅へのさそい」こそが、彼にとっての旅だったのである。」
(安藤元雄 「旅への「さそい」」 より)


阿部良雄 編 
『ボードレール
の世界』



青土社 
1976年4月10日 印刷
1976年4月25日 発行
397p(うち別丁口絵図版8p) 
菊判 丸背クロス装上製本 機械函 
定価2,400円
装幀: 加納光於



本書「編者あとがき」より:

「人はおそらく、ここに提示されたさまざまなボードレール像の、あまりにも多様であるのみならず、互いに矛盾しあるいは反撥し合うようにさえ見えるのに、驚くかも知れない。反応の多様性は作品のはらむ豊かさの証左であるという現代批評の公理をもち出すまでもなく、「自ら矛盾撞着する権利」を(「この世からおさらばする権利」とともに)人権宣言に加えるべきだと言ったのは、ボードレールその人であった。」
「一九七三年春に「ユリイカ」臨時増刊として刊行されたボードレール特集号の中から、アルベール・ベガンの「ボードレールと夢」(完訳のある『ロマン的魂と夢』の一部)を削って、ヴェルナー・ホフマン、ジョルジュ・ブランの小論文を加え、拙稿書誌の誤りなどを出来る限り正したのが本書である。」
「カットとして用いたカリカチュアとパリ風景は、絵入り娯楽文芸雑誌『パリの悪魔』 La Diable à Paris - Paris et les Parisiens, Paris, Hetzel, 1868 からとったもので、ガヴァルニ、グランヴィル、ペルタル、シャム、クレルジェなどの作である。」



口絵図版(モノクロ)25点、本文中図版(モノクロ)多数。



ボードレールの世界 01


函表: 「ボードレール自画像逆版」



ボードレールの世界 02


函裏: 「ノートルダムから見たパリ」


目次:

ボードレール頌
 ヴェルレーヌ 「ボードレールの独創性」 (佐藤東洋麿 訳)
 ランボオ 「見者ボードレール」 (奥本大三郎 訳)
 マラルメ 「「シャルル・ボードレールの墓」」 (菅野昭正 訳)
 アポリネール 「大革命と近代精神」 (横張誠 訳)
 ティボーデ 「都市の詩人」 (横張誠 訳)
 クローデル 「ボードレールの音楽」 (渡辺守章 訳)
 エリュアール 「ボードレールの闘い」 (横張誠 訳)
 ジューヴ 「「ボードレールという慰め」」 (豊崎光一 訳)
 ポンピドゥー 「ボードレールと神」 (家柳速雄 訳)

辻邦生 「汝が永遠の岸辺」
磯田光一 「わがボードレール」
佐藤朔 「寸感」
村上菊一郎 「パリのボードレール」
饗庭孝男 「受苦の聖性」
ボヌフォア 「悪の華への序文」 (田中淳一 訳)
菅野昭正 「少年老いやすく……」
種村季弘 「覗く人」
粟津則雄 「ボードレールの苦さ」
カイヨワ 「ボードレールの詩の位置」 (佐藤東洋麿 訳)
窪田般彌 「拓次とボードレール」
加藤郁乎 「親愛なる他人」
ベンヤミン 「遊民」 (円子修平 訳)
杉本秀太郎 「「読者に」の位置」
清水徹 「『宝石』私解」
安藤元雄 「旅への「さそい」」
阿部良雄 「おお奴隷なる女神よ……」

出口裕弘/渋沢孝輔/松山俊太郎/阿部良雄 「共同討議 なぜボードレールか」

宮川淳 「ボードレール再読」
興謝野文子 「理性と怪物」
豊崎光一 「もうひとつの海 雙児の海」
ブラン 「変化矛盾頌」 (阿部良雄 訳)
ブラン 「無限を求めて」 (阿部良雄/長谷徳夫 共訳)
出淵博 「ひとつの変奏」
鍵谷幸信 「石だらけの沙漠、砂利いっぱいの屑」
ホフマン 「ボードレールとカリカチュア」 (阿部良雄/杉本紀子 共訳)
及川馥 「ボードレールとヌーヴェル・クリチック」
佐藤東洋麿 「麻薬・無限への眺望」
二宮正之 「荷風の散文とボードレール」
奥本大三郎 「瞳、髪、飲むこと」
横張誠 「「呪われた部分」の選択」
阿部良雄 「ボードレール論の系譜」

批評的書誌 (阿部良雄)
シャルル・ボードレール詳細年譜 (杉本紀子 編)
編者あとがき (阿部良雄)




ボードレールの世界 03


本体表紙(クロス地に紙貼付)。



◆本書より◆


「旅への「さそい」」(安藤元雄)より:

「題名は『旅へのさそい』である。しかし、読んでみればわかるように、それは「旅」というよりも「移住」に近いものである。ボードレール自身、三行目ではっきりと、「行って暮す」という言葉を使っているし、しかも、そこへ行ってしまえばもはや「死ぬ」までそこを離れないのだから。そこ、というのは一種の理想郷であって、つまりは詩人の夢想の中にしかない国なのだが、その夢想のきっかけを提供している現実の国はオランダである、というのが諸家の注釈の定説となっている。たしかに、この定説に異議をさしはさむ理由は何もない。とくに、同じボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』の中に、これと類似した趣向で書かれたやはり『旅へのさそい』と題する一篇があり、(中略)その中にはもっとはっきりとオランダを指示する言葉がちりばめられているからである。しかし、この韻文の『旅へのさそい』から読み取られる限りでは、どうしてもオランダでなければならぬというほどのものは一つもない。「霧の空」や「運河」や「船」、それに「東方の国のみごとさ」と並べてみても、それだけで舞台をオランダに限定してしまうには材料不足である。
 しかし、十九世紀なかばのフランスの読者にとっては、これだけの材料で、すでに充分にオランダを連想することができたのかも知れない。アントワーヌ・アダンがガルニエ叢書版『悪の華』の注にしるすように、ベルナルダン・ド・サンピエール以来オランダに関する文学上の伝統とでも呼ぶべきものがあったとすれば――そしてこのころでも盛んにオランダ見聞記のたぐいが書かれていて、その筆者の中にはネルヴァルやゴーティエ、シャンフルーリ、ウーセイなど、ボードレールに近かった名前も見出されることを思えば――そう考えるほうが自然だと言えよう。このころのフランスには、たとえばドラクロアの絵などにも見られるように、東方趣味がかなり高まっていて、それは北アフリカ方面へのフランスの経済進出と軌を一にしていたのだが、その趣味の対象が中近東方面にとどまらず、もっと東へ、インドから中国へとひろがるためには、当時の対アジア貿易の先進国であったオランダが絶好の窓口とされたであろうことは、たやすく理解できる。つまりオランダはフランスから見て、ヨーロッパの文化的な枠組みの中でアジアへの異国趣味をも十分に満足させ、しかも相対的に「北方の神秘性」にも欠けていないという、夢の対象となるべき条件を完備した国だったのだ。散文詩『旅へのさそい』の書き出しはこうである。

  すばらしい国があるのだ。悦楽の国とも人の言う、私が昔からの女友達とともに訪れたいと夢みる国である。面白い国で、北方の霧に沈みながら、西洋の中の東洋、ヨーロッパの中のシナとも呼べるほど、……

 ボードレールはこのときまで、オランダを実際に訪問したことはなかった。のちにベルギーに滞在し、オランダまであと一歩のアンヴェルスまで行きながら、ついにオランダには足を踏み入れない。『パリの憂鬱』の注釈者ロベール・コップは、詩人が自己の詩的夢想の破れるのを恐れたためではあるまいかとさえ言っている。だが、それはともかくとして、ここではこの夢想における方位感の奇妙な消滅(引用者注:「方位感の奇妙な消滅」に傍点)を指摘するにとどめよう。晩年のベルギー滞在を別にすれば、ボードレールの生涯における唯一の大旅行と言えば、二十歳のとき、彼の放蕩ぶりを恐れた養父にインド行きをすすめられ、モーリシャス島からレユニオン島まで行って引き返して来た、南方への旅があるだけだ。(中略)そして、散文詩『旅へのさそい』の異文には、ゲーテの名高いミニヨンの歌「君よ知るや南の国……」から発想を借りた跡が歴然と見て取られる。にもかかわらず、南のイタリアへのあこがれを北のオランダへのあこがれに置き換えた(中略)ことが、ボードレールにとって決して不自然でなかったのは、前述のように東洋という軸があったからこそであろう。その結果、韻文の『旅へのさそい』にあらわれるイマージュは、決してフランドルの風物ではなく、かといって明るい南方の風土でもなく、文字通りのユートピア(どこにもない国)になり、そのユートピア性の中に静止する国となったのである。
 そして、それはまた、その国における詩人の理想的な住まい方にとっても好都合だったと言える。そこへ移り住んだ恋人たちは、豪華な室内に閉じこもって、あらゆるものを手に入れながらしかもあらゆるものにわずらわされずに、いわば静止的に、暮すのでなければならなかったから。船は眠っているし、世界もこれから眠りに入ろうとしているのだ。」

「ボードレールには旅の計画さえあれば、旅そのものは必要ではなかった。むしろ旅の計画や旅の夢想こそが、つまりは「旅へのさそい」こそが、彼にとっての旅だったのである。」




ボードレールの世界 05



「共同討議 なぜボードレールか」より:

松山 なぜボードレールか、という問題は、自分にとっての問題でもまずあるけれど、他人にとってなぜボードレールかという問題も、いつでもそれと並行してあるわけです。(中略)ところが、ボードレールの場合は、自分にとって大変好きな作家であるということが、他人が好きだというボードレールとは必ずしも重ならないんじゃないか。ボードレールは非常に複雑な作家だから、一人一人が違う形でボードレールを好きになってもいいんじゃないか、ということですね。(中略)ぼくの場合は、ポーが好きだったから、ポーの単なる翻訳者としてだけではなく、ポーの先へとボードレールが延びてきているということがあって、それでまず好きになったわけです。(中略)もともとこっちは一冊の詩集のなかに十か十五好きなものがあればすぐれた詩集に違いないと決める。あとの『パリの憂鬱』とか『赤裸の心』はもうボードレールが好きになっているから良く読めるわけで、批判的に読んでいるわけじゃない。(中略) L'Invitation au Voyage にしても、それから髪の詩篇にしても、人間が人間としてある限り、非常に古い頃から持っているテーマで、そういうテーマを扱っているから好きですね。いつでもそこへ戻っていけば、そういうものに触れられるという安心感がひとつあるわけです。そういう意味での古さに惹かれますね。(中略)ボードレールは戻ってみたときに揺るがない感じがある。こっちの退嬰的な心と対応するものとしてのボードレールが、非常に懐しいし安心できる。ある意味で、ボードレールは西洋の詩の古さを代表した、なんというか、フランス文学じゃなくて、むしろラテン文学といいたいような系譜の、いっとう終りの頽廃する寸前の一番輝かしくて、同時にいっとう最後だから、ぼくらにも身近な詩人なんじゃないか、と思う。」

阿部 ぼくはあまり文学青年的な人間ではなくて、それこそフランス文学に対して非常にミーハー的な入り方をしていますから、ランボーにかぶれた時期というのも全然なかったし、ボードレールのどういうものが好きだったかというと、たとえば「港」なんていう散文詩ありますね。(中略)港へ行ってマストとか船とか、揺れているのを見ている、まだ出発するだけの意欲を持っている人を羨みながら、もう自分はそんな気持もなくて、ぽかんと波止場で見ているという、そういうものとか、あるいは散文詩のなかの「異人さん」というようなもの、あるいは「スープと雲」ですか、馬鹿な女房だかなんだか、「スープができたのに、早く食べなさい、雲屋のおバカさん」というと、食わないでポカンと雲を見てるとか、そういうところに、青空みたいなものが見えてたわけですね。不思議と言えば不思議な話なんですけども、ボードレールを読んで、そこに青空を感じるというのは、ちょうどその頃、印象派の絵なんかが好きになって、非常に青空があるという感じです。(中略)そういうボードレールが初めにあって、だからボードレールの精神的弁証法というか、キリスト教には全く関心がなかったし、ボードレールの持っている苛烈な面とか、そういうのは後からわかったことです。(中略)「憂鬱と理想」といいますか、青い空の彼方に何か求めているような、そういうボードレール像が最初にできた。(中略)それこそ勉強しているうちに、もっとたくさんいろんな面があるということがわかってきたわけですけれど、やはり最初に持ったそういうイメージはいつまでも残っていて、たとえばいま「旅へのいざない」を読むと、若い頃に得たボードレールのそういう印象が、いつまでも持続しているわけですね。それがひとつの古いものであって、そこへ安心して帰っていけるというわけですが、それがなんだかぼくには古いという感じが全然しなくて、(中略)そういう部分は古くも新しくもないボードレールという感じがするわけです。……逆に古いけれども魅力を感じる部分がありまして、たとえば『悪の華』の最初に出ている「読者に」ですね。あれなんか読むと、古色蒼然という感じがして、(中略)最後の「アンニュイ」なんてのは、まさにアレゴリーです。ことさらに擬古的なレトリックを使って、ことさらに古臭く書いている、そういうものが、読めば読むほど魅力が出てくるというのは、一体どういうことなんだろうかと、それがまあ一番わからない点であるわけです。」

松山 大詩人は、必ず原型(アルキティープ)を提出すると思うわけですよ。原型というのは、さっきも古さについて言ったけれど、大昔からあり得べきものなんだけれど、たとえばボードレールによって初めて提出された原型があるでしょう。それが本当の原型であれば、読む人全部にとっても原型だから、自分の代わりにボードレールが言ってくれたというように、それを通じて作者と読者が融合せざるを得ない。そういう原型を、数は多くないにせよ、掻撫での詩人を五、六人合わせたくらいは一人で提出してくれていると思う。日本では萩原朔太郎が原型を非常に提出しているんじゃないか。批評性とか精神の峻厳さとかで朔太郎はボードレールと比肩はできないけれども、原型の提出者としてみると、やはりボードレールよりも朔太郎の方が詩人的じゃないかとも思うんですけどね。日本では、朔太郎はとにかくずば抜けているし、西洋では、ボードレールはそういう点で卓越しているんじゃないか。」




ボードレールの世界 04



ボードレールの世界 06



ボードレールの世界 07






こちらもご参照ください:

『ボードレール 『悪の花』 註釈』 多田道太郎 編 (全二冊)
出口裕弘 『帝政パリと詩人たち』
阿部良雄 『ひとでなしの詩学』



































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Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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