多田智満子 『夢の神話学』

「夢見小僧のように、日常の世界から追放されてしまうほど頑なに夢の秘密を守りつづけた子供がいる一方では、せっかくの吉夢を人に売ってしまった男もいる」
(多田智満子 『夢の神話学』 より)


多田智満子 
『夢の神話学』

Mundus Somniorum

第三文明社 
1989年3月20日 初版第1刷発行
206p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,650円(本体1,602円)
造本・装幀: 大塚惠子



本書「後記」より:

「かねがね私は古代のさまざまな民族の夢の伝承について、テーマ別に書いてみたいと思っていたが、しかし対象があまりにも茫大(ぼうだい)で、虫とり網をもって象を生け捕りに行くような気おくれがあった。幸い、第三文明社の佐々木利明氏は、鋭敏な触覚をうごかしてそのような私の〈夢〉を感知し、私を上手におだてあげたうえ雑誌『第三文明』に十回連載の誌面を提供された。本書にはあとから一章書き足して全部で十一章、ささやかな夢のコレクションがここに実現したのである。」



多田智満子 夢の神話学 01


帯文:

「夢のコレクション
古来、神からのメッセージと信じられた夢
東西の夢伝承に分け入り、
意味深長なもうひとつの世界を
かいまみせる11章」



目次:

1 角の門と象牙の門
2 夢の棲み家
3 夢中の人物を求めて
4 夢をたよりの宝探し
5 夢によって創る
6 夢あわせのまにまに
7 縮約された人生
8 蟻の王国に住む
9 夢をめぐる裁判
10 偉人誕生の夢
11 死を告げる夢

後記



多田智満子 夢の神話学 02



◆本書より◆


「1 角の門と象牙の門」より:

「深く心に残るような夢をみたあと、その夢の意味を考えてみるのは人性の自然である。まして自分の運命にかかわる大事や、近親者の死を夢みたりすれば、それが現実に起こることなのかどうか、誰しも気にしないではいられない。洋の東西を問わず古来夢判断や夢占いが呪術や宗教と並行してさかんに行われてきたのも当然のことといえよう。というのは、睡眠中、意識があずかり知らぬところで夢が生じるからには、夢は自分を超えており、したがって神から送られたもの、と考えられていたからである。現存するギリシア最古最大の詩のなかに―つまりホメロスのなかに、すでにその思想ははっきりとあらわれている。トロイア攻囲のギリシア勢が次々疫病に斃(たお)れていくなかで、アキレウスは占師か、祭司か、それとも夢占師を呼んで神慮(しんりょ)を伺おう、という。「夢はゼウスの遣わされるものであるから」と。」


「2 夢の棲み家」より:

「さて夢の神は――というより夢の神たちの父である眠りの神は、どこにどんなふうに棲んでいたか。オウィディウスの語り口をたどってみよう。
 「キムメリイ人の住む国に近いところ、山の中腹にふかくえぐれた洞穴があり、そのうつろな山が怠け者のソムヌスの館(やかた)であった」【ソムヌスはラテン語で「眠り」を意味し、ギリシア語のヒュプノスに相当する。ちなみにラテン語の「夢」はソムニウムで、むろんソムヌスの派生語である。言語的にラテン語では夢は眠りの子なのだ】この洞穴には絶えて陽光の射(さ)し入ることがなく、霧が地面から立ちのぼり、日がな一日黄昏(たそがれ)のような薄明がひろがって時間を消し去ったような静寂が支配している。ここで聞こえる唯一のかすかな物音は、岩根から湧(わ)き出る小川の睡気(ねむけ)をさそうせせらぎの音だが、その水はじつは冥界の忘却(レテ)の川の源なのである。ソムヌスの洞穴の入口には無数のケシの花が咲きみだれ、しめっぽい夜は、それらの草の汁から眠りをあつめ、夜の国々にまきちらす。洞穴の中央には黒檀(こくたん)の寝台があり、黒一色の羽根ぶとんが敷いてある。この寝台に眠りの神が、ものうげに手足をのばして横たわっている。彼のまわりには、さまざまな姿をしたおびただしい夢たちが、(中略)ごろごろと寝ころんでいる。」
「要するに、冥府と境を接する洞穴、けだるさと静寂の支配する薄明の世界が、眠りの神の領土なのだ。(中略)ケシの花からとる眠りの汁とは、おそらく麻薬のはたらきを暗示していよう。」



「3 夢中の人物を求めて」より;

「しかし、夢という回路が残されて、人間――とりわけ神に近いところに在る特権的な人間は、夢を通じて神意をうかがい知ることができたのであった。」


「8 蟻の王国に住む」より:

「李公佐(りこうさ)撰(せん)するところの「南柯太守伝」を、煩をいとわずやや詳しく語ったのはほかでもない、この夢には二重の意味で人生がみごとに縮約されているからである。ごく短い眠り【あるいは昏睡(こんすい)】の時間のうちに長い人生が体験されている点では、邯鄲の夢の方がさらに雄弁であるといえよう。しかしこの南柯の夢では、時間だけでなく、空間の縮尺も行われている。人間が蟻のサイズにまで縮小され、あるいは蟻が人間のサイズにまで拡大される。人間と蟻とが等価であり、交換可能なものとなるのである。
 かつて荘子(そうし)は、夢に胡蝶(こちょう)となって舞い遊び、目がさめてから、荘周(そうしゅう)である自分が夢に蝶となっていたのか、それとも、現在の自分は、人間となった夢をみている蝶なのではないか、分からぬと語った。南柯の夢はまさしくこの荘子的観念をうけ継ぐもので、これに詳しく細部を書きこみ、一つの興趣尽きぬ物語に仕立てたものということができよう。
 主人公は蟻の世界に入りこんで、蟻との結婚、蟻社会での栄達や戦争などを体験する。」

「しかも、夢のなかの世界はこの世に実在していた。槐の洞をさぐってみれば、彼の領した南柯郡はもとより、狩をした霊亀山、妻を葬った盤隆岡など、みな夢にみたとおりのものがそこにある。ただし、蟻本来の寸法に縮尺されて。逆にいえば淳干生は槐安国逗留中は蟻なみに縮小されていたわけで、荘子ではないけれど、蟻と人間と、どちらに原寸を求めればよいのか分からない、というより、夢と現実、死と生、一瞬と一生、小宇宙と大宇宙、つまりは事物の相対性の理を彼はつくづく悟ったはずなのである。」



「9 夢をめぐる裁判」より:

「夢と現実との境界は、ふつう考えられているほど明確な、越えがたい一線によって区切られているものではない。夢と現実――あるいは想像界と行為界と言い直してもよい――は、ある種の人間にとっては、置きかえの可能なものである。日ごろ無視されている夢の領分は、機(おり)あらば現実にとって代わるだけの潜在的なエネルギーを秘めている。」
「邯鄲(かんたん)の蘆生(ろせい)のように、黍(きび)の飯を火にかけてからまだ蒸しあがらぬ短い時間に、栄達の長い人生を経験し尽くした男にとって、いまさら何をあくせく苦労して立身出世にこだわることがあろうか。輝かしく充実した夢のなかの人生に比べれば、今生(こんじょう)で実現しうる栄達などは知れたものではないか……。
 夢と現実、あるいは想像と行為の、このような価値の転換を明確に示す一つの逸話(いつわ)がある。唐(とう)よりも古く、六朝(りくちょう)時代の実話らしいのだが、『世説新語(せせつしんご)』という本の中に、わずか漢字七十数字で簡潔に記された、子猷訪戴(しゆうほうたい)の故事というのがそれである。
 王子猷が山陰【南方の呉越(ごえつ)の地】に住んでいたとき、一夜、大雪が降った。眠りからさめて窓を開け、命じて酒を酌(く)ませた。四望皎然(しぼうこうぜん)として月明の銀世界である。立ち上がって逍遥(しょうよう)し、左思(さし)の「招隠詩(しょういんし)」を詠(えい)ずるうちに、親友の戴安道(たいあんどう)を憶(おも)い出し、急に逢(あ)いたくなった。折しも戴は剡渓(せんけい)の川上に住んでいたので、小舟を漕(こ)がせて夜通し川をさかのぼり、暁方(あけがた)、その門前に至るや、くるりと舟を回させ、そのまま家へ帰ってしまった。人があやしんでそのわけを問うと、王曰(いわ)く、「吾(われ)もと興に乗じて行き、興尽きて返りしのみ、何ぞ必ずしも戴を見んや」
 六朝きっての大書家王義之(おうぎし)の息子である王徽之(きし)【字(あざな)が子猷】は、父ゆずりの能筆であり、(中略)相当な官職にも就いた人だが、徹底した反俗の風流人であった。竹を愛して、ほんの一時の仮住居(かりずまい)にも竹を植えさせ、人に問われると竹を指さして、「何ぞ一日も此(こ)の君なかるべけんや」といったという。とかく逸話の多い人であるが、しかし彼の名をいや高くし、《千年の風流》の範(はん)を後世に垂れたのが、親友を訪ねながら門前で引き返したこの「子猷訪戴」の一夜の出来事であった。
 ところで、なぜこれが後世の詩人や画人を感動させ、かずかずの詩に詠(よ)まれ、画題の一つにまでなって、賞賛されたのだろうか?
 幻想の支配力に対する東洋の芸術家の信仰のゆえであろうと私は考える。
 子猷は雪景の興に乗じて舟を出させ、夜を徹して川をさかのぼる間に、風流の隠士(いんし)である画人の戴安道と二人ですごす時のたのしさをさまざまに想(おも)い描いたにちがいない。酌(く)みかわす酒、皎々(こうこう)たる雪を前にして吟(ぎん)ずる詩、彼が絵筆をとって紙を染めれば、われがその画に讃(さん)をそえるなど、清逸(せいいつ)の風流の情景をまざまざと予想し、つぶさにその前味(まえあじ)を嘗(な)め尽くしたにちがいない。想像のなかで存分に歓楽きわまったものを、何でわざわざ時ならぬ時刻に門を叩(たた)いて友の一家をさわがせ、色褪(あ)せた現実を経験することがあろうか。
 ここには想像をひきあげて現実の上に据える一種の価値の逆転がみられる。邯鄲の盧生が人生の門前で引き返したように、子猷は友の門前で引き返した。これを現実逃避と呼び、デカダンスと呼ぶのはたやすいが、しかしここに示されているのは、想像をもって行為にとって代わらせ、夢をもって現実に代わらせようとする、或る種の人間に固有の精神態度なのである。中国ではこうした態度が老荘(ろうそう)的観想によって養われ、深化されてきたことはいうまでもない。荘子(そうし)の有名な胡蝶(こちょう)の夢は、この種の観想の最も鮮明な表示ということができよう。」
「この徹底した主観主義は、つねにレアリスムの側からの反撃を受けながら、二千数百年の歳月に耐えてきたのである。」



「11 死を告げる夢」より:

「こうしたエピソードは現代の人々には根も葉もない作り話ときこえるであろうが、この当時の人々は夢や前兆をふかく信じていて、《宗教》という語は、こうした夢告(むこく)、前兆、さては呪術の類までもすべてふくんだ意味内容をもっていた。《信仰》のなかにはもちろん《夢信仰》もふくまれているわけである。神を畏(おそ)れる人々が、神の送りたもう夢をおろそかにすることはありえないからである。」























































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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