多田智満子 『神々の指紋』 (平凡社ライブラリー)

「この地の要になるアポロン神殿は高い甃(いしだたみ)の床の上に数本の石柱を残すのみの廃墟であるが、しかし廃墟の風景ほど私を恍惚とさせるものはない。」
(多田智満子 「初めてのギリシア」 より)


多田智満子
『神々の指紋
― ギリシア神話逍遥』

平凡社ライブラリー 64 

平凡社
1994年7月15日 初版第1刷発行
323p 
B6変型判(16×11cm) 並装 カバー 
定価1,200円(本体1,165円)
装幀: 中垣信夫
カバー・マーブル: 製本工房リーブル
カバー: 野中ユリ「女神」



本書「あとがき」より:

「この小著は一九八八年に筑摩書房から刊行された。(中略)その後絶版になっていたのが(中略)このたび平凡社ライブラリーの一冊として再び日の目を見ることとなった。文章を数行書き改め、表記など細部に手を入れたほかは筑摩版とほとんど同じ内容である。」


本文中図版(モノクロ)19点。


多田智満子 神々の指紋


カバー文:

「詩人の指はパンドラの甕に触れ、足どりは大地の臍に及び、
想像力はエロスの翼に見紛う、きわめて長い視線のもとに世界を眺めわたす
楽しみに満ちた、清閑・典雅な古代神話随想、詩作、紀行を併載。」



目次 (初出):

I 神々の指紋 (「現代詩ラ・メール」(思潮社)に連載 創刊号(1983年夏)から10号(1985年秋)まで)
 〈詩〉――「失われた王国」より (『蓮喰いびと』所収)
 パンドラの甕
 棄児の栄光
 大地の臍
 〈詩〉――石の多い土地にて (『蓮喰いびと』所収)
 アキレウスの楯
 三重の女神たち
 キュベレのローマ入城
 エロスの翼

II 旅のメモから
 〈詩〉――「エーゲ海の浦島」より (『祝火』所収)
 ギリシアの旅
 アルカディアの春に (「読売新聞」 1983年4月1日)
 〈詩〉――アルカディアの春 (『祝火』所収)
 初めてのギリシア (原題: 或るギリシア体験記/「第三文明」(第三文明社) 1982年1月号)
 クレタのゼウス (「第三文明」 1983年8月号)
 花のペロポンネソス (「草月」(草月出版) 第142号、1982年6月)
 アカントス異聞 (「草月」 第149号、1983年8月)
 エジプトの旅
 蜃気楼の国にて (「毎日新聞」 1980年2月23日)
 エル・ファイユームの籠 (「第三文明」 1980年6月号)
 〈詩〉――エジプト帰り (『祝火』所収)

III 神話散策
 葡萄と蜜と (「言語生活」(筑摩書房) 1986年12月号)
 蓮喰いびとの食べた蓮 (「カイエ」(冬樹社) 1979年5月号)
 風の塔をめぐって (「is」(ポーラ文化研究所) 第18号、1982年9月)
 琴のひびき(原題 亀のうた・風のうた) (「楽器の世界」(読売新聞社) 1982年4月)
 穢れを祓う人々 (「Japonaiserie」(光琳社) 創刊号、1987年1月)
 サルペドンの死 (「ぎゃらりい」(福武書店 メトロポリタン美術全集) 第4号、1987年3月)
 ヴィーナスの失恋 (「早稲田文学」 1979年1月号)
 〈詩〉――蓮喰いびと (『蓮喰いびと』所収)
 ヘラスの夕映え (「波」(新潮社) 1980年7月号)
 光源としての眼 (「饗宴」(書肆林檎屋) 創刊号、1976年春)
 文字の神トート (原題: トートの影のもとに/「ソムニウム」(エディシオン・アルシーヴ) 第4号、1981年9月)
 オシリスの影のもとに (「饗宴」 第9号、1981年冬)

あとがき
初出一覧

解説――歴史を歩く詩人のために (松枝到)




◆本書より◆


「失われた王国」より:

「王国はじつは存在しなかったという説がある
ただ 王の系譜ばかりが残っている
葉脈だけ残した枯葉のように

記憶が断たれている
記憶の根が断たれている
降りてゆかねばならぬか 根の国へ」



「棄児の栄光」より:

「神話伝説の英雄や半神たちには、幼い時に何らかの事情で棄てられたことのある人物がどうしてこうも多いのだろう、まるで棄児であったという経歴が偉大な例外的な存在になる条件であったかのように?」

「棄児を守り、育てる神、それは大地母神にほかならない。生きとし生ける者を生み、育てる大地は、多くの民族にとって、八百万の神々に先立つ原初の大女神である。ギリシアでは、太母である大地(ゲーあるいはガイア)はクロトロポス(子供の保育者)という添え名ももっている。子供を山や洞穴に棄てる者は、クロトロポスたる地母神のふところに子供をゆだねるのである。生かしめるのも、死なしめるのも、大地の意志である。
 むろん、大地にゆだねる、といっても、神話にあるように狼や熊の乳で養われたり、牧人にひろわれたりする僥倖はまず望めないが、ひと思いに殺して手厚く葬ってやるのと、山に棄てて餓死させ野獣の餌食にさせるのと、どちらが残酷か、というような思案はここでは意味がないのであって、オイディプスの母やアンピオンの母も、殺すよりは山に棄てて、太母たる大地に運命の決定をゆだねる方がましと思ったにちがいないのである。
 そして大地母神の管掌するところは畑や野山ばかりではない。川や海のような水もまた太母に属した。ポセイドンのような男神が海を支配するようになるのはむしろ後の話である。モーセやロムルスやペルセウスのように水に流された英雄たちは、大いなる母神の母胎の羊水のなかを漂った、という見方もありえよう。いずれにせよ、地上のすべては、土も岩も水も、みな広義の大地(ガイア)の支配下にあった。大地は万物を生じさせる者であり《万物の母》として無限のポテンシャルを有している。」



「大地の臍」より:

「オリュンポス神族の嫡流ともいうべき若き男神アポロンは、力ずくでこの由緒ある大地女神の神託霊場を乗っ取って自分の神域とし、みずから神託と予言の神となった。そのときこの聖域を護っていたのがガイアの息子というよりは地霊そのものである大蛇ピュトンで、若き銀弓の神は得意の矢で大蛇を射殺した。」

「アポロンによるデルポイ乗っ取りはギリシア宗教史上の顕著な事件であるが、オリュンポス神族によるこの種の侵略は当時ギリシア各地で行われていて、有力な男神の神域はほとんど必ずといってよいくらい、古層の女神の聖所であったことが知られている。」

「ここに記した事柄から、大地―神託―地霊―蛇―死霊―墓塚―オンパロスといった一連の観念の密接な関係が見えてくると思う。これらの観念は、どれも一筋縄ではいかない複雑な背景と歴史をもち、かたわらの蛇の尾を咬んだ蛇たちのかたまりのように、始めも終りもなく互いに他を含みながら土の中でからみあっている。」



「アルカディアの春に」より:

「どうやら現実に、わたしはアルカディアにいるのであった。おだやかな谷あいの平地にはオリーヴの樹々が銀緑色にきらめいていた。扁桃(アーモンド)の木立は白っぽい桜のような花の雲をただよわせていた。まさに桃源の里だ。
 岩の多いごつごつした山の斜面には羊の群が草を食んでいた。うすよごれた白い羊たちは、遠目には山肌に点々と散らばったシラミに見える。黒い羊も多かった。そのむかし、黒い羊は地下の神々や死者への生贄にされたものだが……。ぼんやり見ていると、ひときわ大きな黒い羊がもこもこと立ちあがり、後脚で歩き出した。黒い古風な長衣をまとった羊飼の老人だったのだ。まことにここは山羊脚の半獣神パーンを生んだ土地だけあって、獣と人と神とが今でもまじりあって暮らしているように見える。」



「花のペロポンネソス」より:

「赤いけしの花も行く先々の野を飾っていた。大地母神の娘ペルセポネは、『デメテール讃歌』によれば水仙を摘んでいるところを冥界の王にさらわれ、暗い地下で暮らすようになったのだが、別伝によれば、誘拐されたとき摘んでいたのはけしの花であった。たしかにこの花は見ると摘みたくなる花で、私もつい手をのばして二、三輪摘んで胸のポケットにさした。しかし神話学者によればペルセポネがけしの花を手にしたのは決して偶然ではない。第一にけしは催眠性の植物であり、第二に死後の復活を約束する真紅の花であるから、植物の精霊たる少女神は毎年の眠りにつくためにこの花を手にして冥府へ降(くだ)るのである、と。」


「エル・ファイユームの籠――バクシーシさまざま」より:

「じっさい、この国では、バクシーシとは、最も日常的な次元で日本人の頭を洗脳してくれる、巧まざる「国民的」演出なのである。バクシーシに悩まされることがなければ、多くの日本人観光客は、彼我の意識構造のはなはだしい相違に気付くこともなく、この国の民のうわべだけを眺めながら、古代遺跡の周辺を素通りしていくにすぎないだろう。
 私たちの心の中には、心付けというものは上の者が下の者に施す恩恵だという意識がある。奉仕に対する謝礼の意はもちろんあるが、それ以上に、気分としては上から下への寛大な祝儀という意味が強い。受け取る側はそれをありがたく頂戴するだけであって、いやしくも手を出してそれを請求するなどという行為は、礼儀の上からもすべきでないし、また当人の自尊心もそれを許さない。
ところが、イスラムの国では、富める者が貧しい者に施すのは、神の嘉(よみ)したもうところであるばかりでなく、富者の義務なのである。一方、貧しい者はバクシーシをもらうことで自分のふところがうるおうと同時に、神に嘉せられる機会を相手に与えることになる。いわば、もとで要らずの免罪符を金持ちに売りつけているようなもので、天上地上をあわせると、ちゃんと損得のバランスがとれ、倫理の辻褄が合う仕組みなのである。
 そういうわけで、バクシーシをもらうのは少しも恥ずべきことではないので、彼らはじつに大らかに手を出す。なかには卑屈な態度で遠慮がちに手を出すのもいるが、これはたぶん、異邦の観光客たちにしばしば侮蔑の眼で見られたため、崇高なるイスラム的理念に自信を失った結果にちがいない。」
「エジプトは国家財政のかなりのパーセンテージを観光収入でまかなっているらしいが、庶民は観光客からわずかずつでもバクシーシをまきあげることで、国家財政に寄与しながら、観光客の魂の救済にも一役買っているという次第なのである。」

「バクシーシに悩まされる、というと、さもここの人たちが欲深いようにきこえるが、決してそうではない。彼らはもらうことに熱心であっても、与えることにやぶさかではないのだ。これはホテルで知り合った話し好きの紳士からきいた体験談である。
 ――バクシーシ、バクシーシって、あんまりうるさいから、こっちからバクシーシって手を出してみたんです。そしたらほんとにくれたんですよ。ちゃんとコインを一枚。」



「葡萄と蜜と」より:

「そもそも陶酔に「ほどほど」などという節度がありえようか。陶酔が昂じていわゆるディオニュソス的狂気に憑かれるのを、この神はむしろよろこんだであろう。」





















































































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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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