ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『ボルヘス、オラル』 木村榮一 訳

「わたしはホルヘ・ルイス・ボルヘスでありつづけたいとは思っておらず、べつな人間になりたいと願っている。死ぬ時は完全に死にたい、つまり肉体だけでなく魂も死にたいと考えている。」
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『ボルヘス、オラル』 より)


ホルヘ・ルイス・ボルヘス 
『ボルヘス、オラル』 
木村榮一 訳


発行: 書肆 風の薔薇
発売: 白馬書房
1987年10月30日 初版第1刷印刷
1987年11月10日 初版第1刷発行
175p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,000円


「本書は、
桑名一博、篠田一士、
清水徹、鼓直の編集による
アンデスの風叢書の一冊として
刊行された。」



Jorge Luis Borges : Borges, oral, 1979。
1978年、アルゼンチンのベルグラーノ大学における連続講演。


ボルヘス オラル


カバー裏文:

「《たとえば、ある人が自分の敵を愛したとする。その時、キリストの不死性が立ち現われてくる。つまり、その瞬間、その人はキリストになるのである。われわれがダンテ、あるいはシェイクスピアの詩を読み返したとする。その時、われわれはそれらの詩を書いた瞬間のシェイクスピア、あるいはダンテになるのである。ひと言でいえば、不死性というのは、他人の記憶のなか、あるいはわれわれの残した作品のなかに存続しつづけるのである。……言語活動というのは創造的行為であり、一種の不死性になるものである。わたしのうちには無数のスペイン語を用いた人々が生きている。わたしの意見、わたしの判断、そんなものはどうでもいいのだ。われわれがたえず世界の未来のため、われわれの不死性のために力を尽くしてゆきさえすれば、過去の名前などもはやどうでもいい。その時の不死性は個人的なものではない……》。
 本書は、晩年のボルヘスが、年来追求しつづけたテーマをあらためて真率に語った故国アルゼンチンにおける1978年の連続講演の全訳である。」



目次:

ベルグラーノ大学におけるボルヘス (ベルグラーノ大学学長 アベリーノ・ホセ・ポルト博士)

序言

書物
不死性
エマヌエル・スウェデンボルグ
探偵小説
時間

講演者ボルヘス (マルティン・ミューラー)
ボルヘスのプロフィール (無署名)

訳者あとがき (木村榮一)




◆本書より◆


「書物」より:

「わたしは(中略)つねづね学生を掴まえては、文献はあまり沢山いらない、批評は読まなくていい、直接実作にあたることだと言い続けてきた。彼らはおそらくほとんど作品を理解できないだろう。しかし、そうすれば、つねに作者の声を直接聞き、それを楽しむことができるはずである。わたしに言わせれば、ひとりの作家を理解する上でもっとも大切なことは、その人の抑揚であり、一冊の書物の中でもっとも重要なのは、その作者の声、われわれに届く作者の声なのである。」
「楽しいものだけを読むこと、書物とは楽しみをもたらすものでなければならない、(中略)わたしはこれまで新しいものを読むよりも、むしろ再読しようと努めてきた。新しいものを読むよりも、何度も読み返すほうがわたしには大切なことに思われる。」
「わたしは今でも盲目でないふりをして、本を買い込み、家中を本で埋め尽している。先だっても、一九六六年度版のブロックハウスの百科辞典を贈物にいただいた。家の中にその本のあることがはっきりと感じられ、わたしは一種の至福感を味わっていた。二十数巻の書物がそこにあるのだが、今のわたしにはそのゴシック文字は読めないし、そこにはさまれている地図や図版を見ることもできない。それでも、書物はそこにあった。わたしは書物から放たれる親しみのこもった重力のようなものを感じていた。人間が至福感を得る可能性はいろいろあるだろうが、書物もまたそのひとつであるとわたしは信じている。」
「一冊の書物を取り上げてそれをひもとく、その行為のうちには、芸術的行為の可能性が秘められている。書物の中に眠っている言葉とは何か? 死んだ象徴とは何か? それらは何ものでもない。書物は、それを開かない限り書物ではないのだ。紙と皮でできた、間に頁のある箱型の直方体でしかない。だが、それをひもとくと、意外なことが起こる。わたしの考えでは、書物はその度に変化するのである。
 人は二度同じ河に降りてゆかない、とヘラクレイトスはのべている。誰も二度同じ河に降りてゆかないというのは、流れる河の水はつねに変化するということである。しかし、それにも増して(中略)われわれが流れゆく河に劣らず移ろいやすい存在であるということである。」
「ハムレットはもはや、十七世紀初頭にシェイクスピアが思い描いたハムレットではない。(中略)ハムレットは何度も生まれ変わってきた。(中略)書物は読者によって豊かなものにされてきたのである。」


「これはまだ誰も指摘していないと思うが、一国を代表する作家を選ぶ場合、どの国も奇妙なことに自国の典型的な人物を選び出していないようである。たとえば、英国なら代表的人物としてまっさきにジョンソン博士を選んでよいはずだが、意外なことに英国はシェイクスピアを選んでいる。しかし考えてみれば、シェイクスピアは英国の作家の中でももっとも英国人らしくない人物である。Understatement、すなわちものごとを少し控え目に言うこと、これが英国人の模範的な態度である。ところが、シェイクスピアは隠喩を誇張して用いるきらいがあり、シェイクスピアがじつはイタリア人、あるいはユダヤ人であると言われても、われわれは少しも驚かないだろう。
 ドイツもまたそうである。たちまち狂信的になるあの立派な国は、およそ狂信とは縁遠い寛容な人物を自国の代表的な作家として選んでいるが、選ばれた当人は祖国というものをあまり意識していなかった。ゲーテがその作家だが、ドイツはゲーテによって代表される。」
「スペインの場合はなおさら奇妙である。スペインを代表する作家と言えば、まずローペ、カルデロン、あるいはケベードの名が思い浮かぶが、どういうわけかスペインは自国を代表する作家としてミゲル・デ・セルバンテスを選び出している。(中略)彼にはスペイン人的な美徳も悪徳も備わってはいない。
 どうやら、どの国も典型的な国民とは言えない人物を、すなわち、多少とも自分たちの欠点を癒してくれる一種の治療薬、(中略)解毒剤となるような人を選んで、その人に自国を代表させなければならないと考えているように思われる。」



「不死性」より:

「ドン・ミゲル・デ・ウナムノは、(中略)自分は永遠にドン・ミゲル・デ・ウナムノでありつづけたい、と繰り返しのべているが、わたしにはその点がよく理解できない。自分に関して言えば、わたしはホルヘ・ルイス・ボルヘスでありつづけたいとは思っておらず、べつな人間になりたいと願っている。死ぬ時は完全に死にたい、つまり肉体だけでなく魂も死にたいと考えている。
 わたしは個人の不死性、つまり地上のできごとを記憶していて、他界にいても地上のことを懐かしく思いだす魂について話したいと考えているのだが、それがはたして思い上がったことなのか、それとも慎しいこと、あるいはまたまったく正しいことなのか自分でもよく分からない。先日、家にいた妹のノラが次のように言ったのをいまでもよく覚えている。「《地上の郷愁》という題で絵を描いてみようと思うんだけど、内容は天国に召された人が天上にいてもなお地上のことを思うといったものなの。少女時代のブエノス・アイレスの思い出をもとに描いてみようと考えているんだけど、どうかしら?」妹は知らないが、じつを言うとわたしも似たようなテーマの詩を考えている。それは、ガリラヤに降っていた雨や大工の仕事場の香ぐわしい匂い、あるいはまだ見たことはないが、つねづねそれに郷愁をおぼえているもの、つまり満天に輝く星空といったものを思い浮かべているイエスをテーマにした作品である。」
「自分の幼い頃に関しては、十ばかりのイメージがまだ記憶に残っているが、つとめて忘れようと心がけている。ひたすらべつの人間になりたいと願っていた少年時代のことは思いだす気にもなれないが、そのくせ当時のことは芸術によって変容され、詩のテーマとなることもある。」
「われわれは生きたい、永遠に生きつづけたいという切望をはじめ、さまざまな願望を抱いて生きているが、同時に不安とその裏返しの希望に加えて、生きることを止めたいという切望を抱いてもいる。こういうことは、個人の不死性とかかわりなく実現されうるものであり、その意味ではわれわれにとって個人の不死性はかならずしも必要不可欠なものではない。わたし自身について言えば、不死性など望んではいない、いや、それどころか恐れてさえいる。」
「生きたいと願うなにものか、物質を通して、あるいは物質があるにもかかわらずひたすら前に進もうとするなにものかが存在する。そのなにものかを、ショーペンハウワーは意志と名づけたが、彼は世界そのものを再生の意志と見なしている。
 やがてショーが現れて、life force (生命力)について語り、最後にベルグソンが elan vital について論じることになる。このエラン・ヴィタルは、森羅万象のうちに現れている生の衝動であり、われわれ一人ひとりのうちに息づいているこのエラン・ヴィタルによって宇宙が作りだされるのである。」
「われわれにとって自我というのは取るに足らないものであり、自我心など抱いてみたところでなにもなりはしない。(中略)そうした自我はあらゆる人間のうちになんらかの形で内在しているものであり、その意味ではわれわれの共有物であると言ってもよい。したがって、個人的なそれではなく、あのもうひとつの不死性はやはり必要なものであると言えるだろう。(中略)不死性というのは、他人の記憶のなか、あるいはわれわれの残した作品のなかに存続しつづけるのである。その作品が忘れ去られたところですこしも気にすることはない。」
「言語活動というのは創造的行為であり、一種の不死性になるものである。わたしはスペイン語を使っているが、そのわたしのうちには無数のスペイン語を用いた人々が生きている。わたしの意見、わたしの判断、そんなものはどうでもいいのだ。われわれがたえず世界の未来のため、われわれの不死性のために惜しまず力を尽くしてゆきさえすれば、過去の名前などもはやどうでもいい、その時の不死性は個人的なものではない、偶然現れてくる名前や姓、われわれの記憶などなんの意味もないものである。」



「エマヌエル・スウェデンボルグ」より:

「まず最初に、彼が考えた他界と個人の不死性(彼はそれを信じていた)について見てゆくことにしよう。そうすれば、彼の思想の基底にあるのが、自由意志だということが明らかになるはずである。(中略)彼はこうのべている。人は死んでも、自分のまわりが少しも変化しないので、死んだころに気がつかない。死後も自分の家に住み、友人が遊びに来たり、市街を散歩することができるので、まさか自分が死んだとは思えないのだ。しかし、やがてあることに気付きはじめる。そのあることは、最初は喜ばしいものに思われるのだが、そのあと驚きに変わる。つまり、他界に移った人は、なにもかもがこの世界とは比較にならないほど生き生きとしていることに気付くのである。
 他界といえば、つい漠として捉えがたい世界を思い浮かべがちだが、スウェデンボルグに言わせれば、じっさいはまったく逆で、他界では五感が地上にいる時よりもはるかに生き生きと働いているとのことである。たとえば、色彩ひとつとってみても、もっと豊かなのである。(中略)なにもかもがこの世界よりもより具体的で、触知しやすい。このように、彼が何度となく訪れた、天国と地獄のある他界と比較してみると、この世界はつまるところ影のようなものでしかない、と語っている。つまり、われわれは影のなかで生きているのである。」
「やがて、見知らぬ人たちがそばにやってきて、話かけてくるが、それが天使と悪魔である。天使と悪魔は神によって創造されたものではない、とスウェデンボルグは言う。天使とは天使の存在にまで自らを高めた人間であり、悪魔は悪魔にまで自らをおとしめた人間にほかならない。」
「救済というのは、これまで倫理的な性格を備えたものであると考えられてきた。(中略)心さえ正しければ、人は救われるはずであったが、スウェデンボルグはそのような考え方を革新した。彼はイエスよりもさらに先へと進んだのである。すなわち、彼は心が正しいだけでは充分ではない、人は知的な意味でも救済されなければならないと説く。彼の思い浮かべる天上は、なににもまして天使たちの交わす一連の神学的会話で満たされている。そして、その会話についてゆけない人は、天上で生きるに価しないのである。(中略)その後、ウィリアム・ブレイクが現れて第三の救済をそこに付け加える。われわれは芸術を通しても救済されうる ― そしてまた、そうでなければならない ― と説いている。(中略)すなわち、人間は知性、倫理、芸術的実践を通して救済されるのである。」

「言ってみれば、彼は不思議の国を旅した旅行者なのだ。数多くの天国と地獄を巡り歩き、その時の体験を詳細に語っているだけなのである。」



「探偵小説」より:

「われわれがポーの作品を誤解する危険は大いにある。つまり、プロットの構成が脆弱で先の先まで読めそうな気がするのである。しかし、それはわれわれがすでにストーリーを知っているからであって、探偵小説を初めて手にした読者の場合はまったく事情が違っていたはずである。つまり、彼らはまだ探偵小説に馴染んでいなかった。われわれはポーによって作り出された探偵小説の読者だが、彼らはそうではなかった。探偵小説を手にする時のわれわれは、すでにエドガー・アラン・ポーによって作られた読者なのである。」


「時間」より:

「ヘラクレイトスは時間を河になぞらえたが、自分の経験に照らし合わせてみても、みごとと言うほかはない比喩で、われわれは今なおこの比喩を用いている。(中略)ヘラクレイトスは河面に映る自分の姿を見つめながら、河の水は流れ去ってゆくのだからこの河はもとの河と同じではない、自分もまた以前にこの河を見てからこれまでの間にさまざまな人間に変わってきたのだから、もはや昔のヘラクレイトスではないと考えている。このヘラクレイトスこそ、われわれ自身にほかならない。われわれは移ろいゆくものと不変なものとでできあがっている。つまり、われわれは本質的に神秘的な存在なのである。(中略)たとえばなにかが変化したという場合、それはあるものがべつのものによって取ってかわられたという意味ではない。「植物が成長する」というのは、小さな植物がより大きな植物によって取ってかわられたという意味ではなく、その植物がべつのものに変化したということである。ここから、移ろいゆくもののうちにある永続性という考えが汲みとれるはずである。プラトンは、時間とは永遠なるものの動的な似姿であるとのべている。(中略)われわれはたえまなく生まれ、そして死んでいるのである。」

















































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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