吉田健一 『道端』

2013年4月13日。


吉田健一 『短篇集 道端』

筑摩書房 昭和53年1月30日第1刷発行
230p 四六判 丸背布装上製本 貼函 定価1,300円
新字・新かな



吉田健一の没後刊行短篇集。連作エッセイ「博物記」併録。


道端1


帯文:

「自由闊達の文人吉田健一の最後の小説集
着想の奇抜さと感性に満ち溢れた文章が醸し出す著者ならではの独自の文学の世界。氏の最近の精神の位置をうかがわせる好短篇《道端》など八篇を収める。」



帯背:

「遺作小説集」


道端2


目次 (初出):

物語 (「海」 昭和49年7月号、原題「沼の記憶」)
山野 (「海」 昭和50年1月号)
道端 (「海」 昭和50年11月号)
木枯し (「文芸」 昭和51年1月号)
一人旅 (「文芸」 昭和51年8月号)
帰郷 (「プレイボーイ」 昭和51年12月号)
町並 (「文芸」 昭和52年1月号)
桜の木 (「すばる」 昭和52年10月号)
 *
博物記 (「ちくま」 昭和51年5・8・11月号、52年2月号)
 小型の大動物
 ネス湖の未知の大動物
 海の大百足
 琥珀



『道端』は、集英社版『吉田健一著作集』では第三十巻(昭和56年3月刊)に、やはり没後刊行の長篇エッセイ『変化』と共に収録されています。

清水徹氏による著作集「解題」より:

「この本の編集制作を担当した筑摩書房の風間元治氏によれば、この本の刊行経緯は以下のとおりである。―まず、著者と風間氏とのあいだで短篇小説集刊行の話がまとまったとき、風間氏は、切り抜き七篇を一つ袋に集めたものを収録内容として示された。著者の突然の死ののちこの短篇小説集の刊行が現実に問題となった段階で、絶筆として雑誌『すばる』に発表された『桜の木』をもともとの収録内容七篇に加え、さらに雑誌『ちくま』に《博物記》の総題で連載中であったものも、完成すれば筑摩書房から単行本として刊行される約束となっていたので、これも併せ収めることにした。各篇の排列は著者の慣例にならい発表順とした。
この刊行経緯から筑摩書房版『道端』が著者の刊行意図を充分に汲みあげたものだと判断しうるが、ただ、短篇小説集と《博物記》というジャンルの異なるものとを一巻にまとめて「短篇集《道端》」と題した点に、やや首肯しがたいところが残る。そこでこの第三十巻の目次では短篇集《道端》と《博物記》の二つを別立てとした。
なお、単行本『道端』には、雑誌『ちくま』に連載された《博物記》の最後のもの「シベリアの動物」(昭和五十二年五月号に掲載)がどういう理由からか収められていない。これだけを除外する理由は見当らないし、生前の著者の指示もなかったようなのでここにあわせ収録することにした。」




◆本書より◆


「木枯し」より:

「森は一軒の家に住んでいなかった。その辺は四階以上の建物が建てられない区域になっていたが少しばかりの土地に金があってその土地に四階建ての共同住宅を建てればその上りで暮して行けるので歩いているとここにもあると思う程そういう住宅が出来ていた。森がおばさんを自分の所に呼ばなかったのは森がいるのが三階で平屋に住んでいるおばさんに三階までの階段を登らせる気がしなかったからだった。併しそこからは町が見晴せた。それが冬の天気がいい日ならば西側の窓から冨士も見えてその下を通っている東海道の松並木の眺めが頭に浮んだ。その並木は多くの場所で車の埃にも堪えていてこれは高速道路が別に作られた為かも知れない。もっと近くの寺の墓場も見えて墓場というのはその眺めそのものが静かでいいものである。森がいるのは三階の半階分で一応は何でも揃っての二間だったが一人で住んでいればそれがどうにでも工夫出来たおばさんの茶の間と比べてこの方が誰かの住居の感じがするとも言えた。
それは主に本棚に並んでいる本の背の彩りから来るものでこれは色調というようなことを考えてする所謂、室内装飾と違ってもっと自然な味を出すものである。どうかして絵が見たくなれば画集があって壁に絵を掛ける必要はなかった。もう一つは初めは選んで買った家具だったものが見馴れて来ると自分が使っている椅子や卓子になった。そういう風にガス火で米を炊く釜、又その釜や鍋が棚に並んでいる具合にも馴れて来る。森は外に出て戻るとそこに自分の家があることを認めた。併しそれはおばさんの茶の間にいる時と根本的には違った感じがするものでなくてその上におばさんの家で知っているのは玄関とその茶の間だけだった。もし精神の上でのことで設計図を作ることが出来るものならばその茶の間が森の住居での三番目の部屋でもよかった。又もしおばさんの家にある他の部屋を知っていたならば森の所の二間がそれに続いていても構わなかった。
木枯しの音を聞くのもどっちにいても同じだった。寧ろそれが普通よりも同じなのはその音がガスが燃えていることの他におばさんの茶の間に冬を持って来て最初に何を言うか考えるのを省くからだった。その言葉の代りを木枯しがして森がその音でそれが思い出させることを追っている間おばさんも家の外を木枯しが吹くので満足しているのが解った。それを聞くだけでなくておばさんも考えていることがあるのに違いなかったがそうしてその部屋にいる感じがいつもと少しも変らなかったからおばさんもやはり自分というものをその部屋から引き離さないことを考えているのだった。或ることが頭にあって、或はそのことが頭の中で働いていてそれが別な場所のことだから自分がいる場所にいなくなるとは限らない。
「木の葉が落ちる音もしている、」とそういう或る晩おばさんが言った。「靖国神社の銀杏はどうなのか知ら。あの油で車も昔のように走らなくなるんでしょうかね。」
「そうすると又公害になる、」と森は言ったがその部屋から公害は遠かった。「一番の公害が人間、つまりは自分なんだということが誰も考えたくないらしい。」
「お茶を入れ代えましょう、」とおばさんが言って土瓶を持って立って行った。」



























































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本