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西脇順三郎 『壤歌』

「人間の思考はいつも
どこか遠い海から送られてくる
何か悲しい音調にひたされている
それは天体的宿命の音楽である
この宇宙的聞えない悲しみは
脳髄を蒼白にするのだ
そして水仙のように
生物の悲しみに香る」

(西脇順三郎 「壤歌」 より)


西脇順三郎 
『壤歌』


筑摩書房 
昭和44年12月20日 発行
153p 
26.5×19cm 
角背バクラム装上製本 
本体カバー 貼函 
定価2,000円



『壤歌』は全集にも収録されていますが、ヤフオクで1,500円(+送料)で出品されていたので落札してみました。
なんといっても画集なみにサイズが大きい本なので、また趣がかわってよいです。


西脇順三郎 壌歌 01


函には表と背に題箋が、裏の下の方には定価を記載した紙片が貼付されています。
函はだいぶ傷んでいますが、むしろそのほうがよいです。

「すべて古いものの哀れさには
無常のはてしない永遠への
あこがれがひそんでいる」

(「壤歌」より)


帯文:

「巨匠の初の書下しによる2000行の大長篇詩
人間の実存から深い憂愁をすくいとりながら、詩の
世界に闊達独自な境地をきりひらいた巨匠が、想を
ねること一年、ここに雄大な四部作を完成させた。
1200部限定 自筆署名入 定価2000円 筑摩書房」



西脇順三郎 壌歌 02


西脇順三郎 壌歌 03


本体カバー(画・西脇順三郎)。お花畑にあそぶヘビでしょうか。

「菜種の畑を蛇のようにはってみた。」
(『近代の寓話』所収「呼びとめられて」より)


西脇順三郎 壌歌 04


薄い半透明の紙に「西脇順三郎」と万年筆で署名されています。


西脇順三郎 壌歌 05


そして扉には、笛を吹いているらしい妙な生きものの姿が描かれています。牧神(パン)でしょうか。

「壤歌」の「壤」は「鼓腹撃壌」の「壤」でしょうか。「ジョウカ」は「冗歌」(冗漫な詩)に通じ、また「ジョーカー(joker)」にも通じます。するとこの生きものは鼓腹撃壌する「道化」(トリックスター)としてのパンの神でしょうか(※)。

あるいは、「壤歌」とは、地上を這いずりまわることしかできないアースバウンドな人類の歌ということでしょうか。

「人間は土の上に生れて、その上で生活して、また土へ戻って行く。どうにもならない人生。ここに一つの土のかめがある。このかめの存在のもとは何か。それは土である。それがかめのどうにもならない、いたましい現実である。」
(西脇順三郎「現代詩の意義」より)

あるいは「大地の歌」でしょうか。だとすると「生は暗く、死もまた暗い」でおなじみのマーラーの交響曲「大地の歌」を思い浮かべます。
マーラーもまた西脇順三郎同様、漢詩を自由にアレンジして「大地の歌」に取り入れています。
しかしながら、西脇順三郎がマーラーを愛聴していたかどうか。ありそうにないです。

「空はコンペキに遠く」
(壤歌)

「天空は永久に蒼く(Das Firmament blaut ewig)」
(大地の歌)

「人間はすべてのカーテンをひきよせて
宇宙的暗黒の中で」

(壤歌)

「生は暗く、死もまた暗い!(Dunkel ist das Leben, ist der Tod!)」
(大地の歌)

「君の名は野菊を枯らす
地獄の王というが」
「ヨシダケンコウが最後のヒルガオを
おしんでいるだろうオイモイ!」

(壤歌)

「花のかぐわしき香りは、すでに飛び流れ去り、
その茎は冷たい秋の北風がうち吹かれ横たえた
枯れしぼみ金色に染まった睡蓮(すいれん)の花も
ことごとくやがては池の面に浮かび出すだろう
(Ein kalter Wind beugt ihre Stengel nieder.
Bald werden die verwelkten,
gold'nen Blätter Der Lotosblüten
auf dem Wasser zieh'n.)」
(大地の歌)

「地球のなつかしさというものが
おそろしく衰退している」
「我が思考のつきるまで
さきを急ぐ旅人よ
くるものはくる
でもいそぐ」

(壤歌)

「私の心は疲れ果て
私のささやかな灯も幽かな音とともに消え
私は一人想い寝の眠りに誘われる心安らぐ憩いの場所
私はそなたのもとへ行こう
(Mein Herz ist müde.
Meine kleine Lampe Erlosch mit Knistern,
es gemahnt mich an den Schlaf.
Ich komm zu dir, traute Ruhestätte!)」
(大地の歌)


ここで唐突ですがエキセントリックなことをいいます。本書をタロットで占ってみたところ、

tower.jpgdeath.jpgfool.jpg

このようになりました。ざくっと説明すると、直面している深刻な問題は「塔」(人類の傲慢=功利主義的な生き方の結果としての災厄)であり、著者の心を占めているのは「死」、解決策は「愚者」(道化、放浪者、乞食)的生き方、ということになります。

そういうわけで、アンドレ・ブルトンが自らの著作を「星」(希望)のカードで飾ったように、本書を「愚者」のカードによって飾りたいとおもいます。

「愚者」の意味については、
ルドルフ・ベルヌーリ/種村季弘 『錬金術とタロット』 (河出文庫)
をご参照下さい。


本書「あとがき」より:

「人間が地球という一つの天体の上に生活している以上宇宙という一つの永遠の世界の中に生活していることになる。そうしたことは人間にはどうしようもない宿命であつて陶淵明のいう窮達である。古代のギリシア人のいう to chren である。永遠の世界にくらべれば人間の世界などは瞬間的にすぎない。そうした運命に服さなければならない人間の存在それ自身は最高の哀愁である。
 そうした最高の哀愁は詩の世界では最高の諧謔であり最高の美である。
人間の生存価値をみとめる人間は高慢で常にたたかっている。藜藿(※)の世界に生存価値をみとめる人は最高な人間性を示している。
 「ホーマーとヘシォッドの論争」の中でホーマーは、死の宿命をもつ人間にとって何が一番良いことかと問われた時、「地上にすむ人間にとって一番よいことは生れないことだ、もし生れたなら最大速力で地獄の門をくぐることだ」と答えた。
 地獄へおちた夢を見た。エンマは笑って言った――「天国を望まない人間はめずらしいなー」「でも私は地獄は天国への参道だと思ったからです」――「このごろの地上の景気はどうだな、少し語ってくれないか。」そこで私は乞食という形態と放浪という形態が人間の最高の生活であることを説いてから人間生活の実情をくどくどと語った。」


※「藜藿」 れいかく。アカザの葉と豆の葉。転じて、粗末な食物。(「デジタル大辞泉」より)


西脇順三郎・山本健吉『詩のこころ』より:

「ギリシャでは神々は不死のものを持っている。つまり死がない。」
「ギリシャでは昔から(中略)、人間の苦しみというものは、老人になることと、死ぬことである、それが人間の最大の不幸なんだという認識があるんですね。神はそれがない。」
「人間はもう宿命的に死からのがれられないし、老人になることからものがれられない。それで非常に気の毒な生活をしている。神に比べると。(中略)ホーマーいわく、“それじゃ君は一番人生で楽しいことは何だ”と言ったら、非常におもしろいことを言っているんですよ。“要するにみんなで酒を飲んで歌を歌うことである”と言っているんですよ、ホーマー自身が。(中略)人間はどうせそういうもんだから、どうもしようがないもので、悲しい存在である、神々の存在に比べると。それじゃ楽しいのは何だ、と言うと、酒を飲んで歌を歌うことである、と言ってホーマーが答えるんですよ。(中略)だから酒を飲んで歌を歌うなんていう全体が、やっぱり人生、人間のさびしさに対する対抗のものでしょう。酒を飲んだり景色を見たりするのは。というのはエスケープ、のがれるという……のがれるのじゃないけど、しようがないから、それが一番楽しいことである、ということなんです。」


鍵谷幸信『詩人 西脇順三郎』より:

「『壤歌』は七十五歳になる詩人が二千行という長詩を一挙に書き下した大作だが、氏はその詩境のすべてをあげて、詩想のひろがるままにポエジー(と同時に非ポエジーも含めて)の混沌の中にのり出していった。全体が五部に分れ、各部が季節で大きく統合されている以外、この長詩にはなんの形態も結構もない。ここで詩人は極度に奔放自在であり、時に放逸ですらある。思いのままに時間や空間を切断したり、結合したりするこの詩人の想像力にぼくはほとんど翻弄しつくされそうになる。」

「筑摩書房の会田綱雄、吉岡実両氏から二千行の書き下し長篇詩を書いて下さい、と頼まれ約束した。約二か月、詩人はこれにかかりっきりであった。
ある晩、冴子夫人と夕食を食べていたところへ詩人が帰宅した。ぼくの顔をみるなり詩人は大声で「鍵谷、なにか文句があるのか」といった。「なにもありませんよ」「そうか」といって詩人は夕食を一緒にすませた。
「君は冴子と話していなさい。ぼくは二千行書かなくてはならないからね」といって二階の書斎へ上っていった。(中略)詩人も二千行が頭にこびりついていて、「二千本の釘を打たなければならない」と『壤歌』のなかで書いて、自分を激励したりした。完成して筑摩書房へ行って渡した翌朝電話がかかり、「ぼくは一枚目の原稿の一行を空けて書いたから、あれは千九百九十九行しかない。今日一行書き足すから筑摩へ来て下さい」という。とにかく二千行でなければならない。こうして一行を書き足して『壤歌』は二千行の詩になった。」


吉岡実「西脇順三郎アラベスク」より:

「昭和44年9月1日
西脇先生来社。会田綱雄と二〇〇〇行の詩の編集について語る。《壤歌》としたいがと言われたので、二人ともさんせいする。先生にきく、――ところで《壤歌》とは何ですか? それは土を叩いて唄うことだよ。土人の祭礼の夜のごとく。
9月3日
西脇先生来られる。二千行の詩、一行足りないことがわかり、書き加えにきたとのこと。グリルシンコーで昼食。それから会田綱雄がきたので三人でバリーに行き、言語談義。漢語とギリシア語との共通点を求めて、実に五ヶ年に及ぶとか。先生ひとりで一時間も喋る。」


西脇順三郎 壌歌 06


それでは本書より、「壤歌Ⅰ」冒頭部分を紹介しつつ、お別れしたいと思います。

「野原をさまよう神々のために
まずたのむ右や
  (「先ずたのむ椎の木も有夏木立」芭蕉。「右や左のダンナ様」は乞食の口上です。西脇はみずからを「ヨーロッパ乞食」であると最終講義で言っています。『西脇順三郎全詩引喩集成』には、「野原をさまよう神々」は芭蕉や陶淵明のことだとあります)
左の椎の木立のダンナへ  (西脇の最初の日本語による詩集『Ambarvalia』は百田宗治の「椎の木社」より発行されました。冒頭の三行は、ヨーロッパ文学(叙事詩)の伝統であるミューズ(詩の女神)への呼びかけ(invocation)のパロディの形で、詩は野原をさまよう神々の領域に属することであるが、資本主義の世の中で詩の本を出すには「右や左のダンナ」=出資者(パトロン)が必要だ、ということをいっていると思います。「Ambarvalia」は古代ローマの田舎の農耕儀礼ですが、端的にいえば、豊饒を祈念しつつ「野原を歩きまわる」ことを意味します。)
椎の実の渋さは脳髄を  (「椎の実の渋さ」は、現実的な義務やしがらみ、あるいは老年のことをいっていると思います)
つき通すのだが
また「シュユ」の実は
  (シュユは「山茱萸」サンシュユ=ヤマグミですが、「須臾」(つかの間)とかけて、いわゆる「青春」のことをいっていると思います)
あまりにもあますぎる!
ああサラセンの都に
  (サラセンの都はエジプトのカイロのこと。英国留学の途上に立寄りました)
一夜をねむり
あの驢馬の鈴に
めをさまし市場を
窓からながめる時は
空はコンペキに遠く
光は宝石を暗黒にする!
もうアスの神への祈りも
  (アスは驢馬の「ass」とエジプトの沙漠の神「アシュ(Ash)」をかけていますが、「明日」もかけてあるかもしれないです。)
全くおくれてしまった
人間でないものは神々だけだ
死がないものは神々だけだ
  (神は不死 immortal であるというのと「しがない=取るに足りない」をかけています。神と人間を分けるのは死があるかどうかです。ついでにいうとあとで出てくるパンの神は唯一その死が文献に伝えられている神であります)
苦しみのないものは神々だけだ
葡萄のたねをナイル河の中へ
はきだしたあのせつない夏の
昔の旅もはるかにかすむ
またセタガヤのフイフイ教会の

ミナレットにムーエゼンと一緒にのぼり  (ムーエゼン(muezzin)はイスラム寺院の尖塔(ミナレット)から祈祷の時間を告げ知らせる人。西脇順三郎は乞食に憧れ、野原を行く詩人ですが、大学教授として、たまには「塔」にのぼってみたくなることもあったようです)
太陽の沈む時
アラの神にぬかずく人たちを
  (アラーの神)
呼ぶある夕暮もあった
それはその後の出来ごととして
 (若き日の旅を回想していて、日本に帰ってからの出来事を思い出したのでついでに言及しました)
よくおぼえている
今は溜息の橋の多い都に
  (溜息の橋(Ponte dei Sospiri)はヴェネツィアの橋。「溜息の橋の多い都」は東京のこと。『西脇順三郎全詩引喩集成』によるとこの橋は歩道橋のことです。若き日の回想から現実に戻りました)
ヴェネツィアのウドンを  (ヴェネツィアのウドンはスパゲッティ(パスタ)のこと)
たべている窮達をむしろ  (「若不委窮達/素抱深可惜」(若し窮達を委(す)てずんば/素抱 深く惜しむべし)陶淵明「飲酒其十五」より)
よろこんでいるとは!
でも今日はサンデンで
  (サンデンは「三田」で、慶應義塾大学三田校舎のこと)
マキャヴェリの王侯論と  (Il Principe 「王侯論」=「君主論」。マキャヴェリズムはこの詩で批判されている「生存競争」的生き方の典型です)
シェイクスピアのトロイルスと
クレシデの中にあるユリスィーズの
王侯論の話をして来た
  (大学の講義で Troilus and Cressida の登場人物 Ulysses の演説を取り上げ、マキャヴェリの思想との類似とその影響を説いた)
ばかりだがなんとしても
人間のかなしみは
宇宙神に向かつて
パンの笛のショパンの笛の
 (「パン(牧神)」と「ショパン」はたんなるシャレです。)
永遠の運行にすべては
流れ流れるのだ!
ここで思考の流れを中断しな
ければならないことはアンリー
ミショーのメスカリンの 
御ふでさきの弾圧の
 (「おふでさき(御筆先)」は神がかりの状態でなされる「自動筆記」のことで、天理教(教祖は中山みき)に同名の聖典がありますが、ここでは大本教の出口なおの御筆先を出口王仁三郎が漢字表記を交えて書き直した「大本神諭」と、内務省による大本教への大規模な弾圧事件への言及だと思います。アンリ・ミショーがメスカリンを服用して描いたデッサン(『みじめな奇蹟』(後出)掲載)を「御筆先」に喩えています。ついでにいうと西脇順三郎自身も『Ambarvalia』によって当時の官憲に弾圧されそうになりましたが、瀧口修造が擁護してくれたので事なきを得ました)
可憐なナデシコの花が
送られてきたからである
 (小海永二訳のアンリ・ミショーのメスカリン体験記『みじめな奇蹟』(国文社、1969年5月20日初版刊行)のこと)
この人工的な天国の布告を (「人工楽園」(Les Paradis artificiels)はボードレールの阿片体験記)
はこんで来た天使は (天使は神と人間の仲介者。ここでは翻訳者を原作者と読者を仲介する天使に見立てています)
木星が正午でもみえる
海岸の山の上に住みまた
いつも麻布をきている
  (『引喩集成』によると小海氏は当時「麻布(あざぶ)」に住んでいたそうです)
シャオハイであったことは  (シャオハイは「小海」の中国語読み)
永遠の回転をはやめる
一つの運命の車輪だ
 (Rota Fortunae) 
パパイ!  (パパイ(παπαί)はギリシア語の間投詞)












































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ねたきり読書日記。

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。


うまれたときからひとでなし
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