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種村季弘 『黒い錬金術』

「このように歴史的消長をながめてくると、錬金術を中世の迷信とする見方が一つの偏見であり、むしろ地中海を中心にヨーロッパとアジアとアフリカの三者のそれぞれ異質な文化が相互に結合する文化期にこそ「異質なものの合一」をめがける哲学的錬金術が花咲き、西方教会を中心としてヨーロッパを孤立的に閉鎖する文化政策の強圧下には錬金術が異端視される趨勢を迎えたものにすぎないことがわかる。」
(種村季弘 「錬金術とは何か」 より)


種村季弘 
『黒い錬金術』


桃源社 
昭和54年3月10日 初刷
266p 「あとがき」3p 
A5判 丸背紙装上製本 貼函 
定価2,500円
装幀: 力石行男



本書は1991年に「白水Uブックス」の一冊として再刊されています。
本文中図版(モノクロ)多数。


種村季弘 黒い錬金術 01


帯文:

「異端のいとなみとして、近代科学抬頭の勢いに抗しつつも
秘教的瞑想にひたる錬金術師の思想。
黒い錬金術――種村季弘
生命の反映、永遠の象徴たる黄金産出をも夢みた錬金術における絶対の探究は、
文学・芸術や哲学のなかにこそ、その原理的浸透をはたしたといえるのでは……
●図版50葉入り●桃源社刊――2,500円」



帯裏:

「錬金術の思想的
背景に迫る
話題の最新刊」



種村季弘 黒い錬金術 03


目次:

錬金術とは何か

I
黒い錬金術
神話と錬金術
錬金術の変貌
錬金術のエロティシズム

II
危険なマンドラゴラ
箱の話
ガバリスの転生
神の署名になる記号
客体の呼びかけ

III
太陽伝説
太陽と獅子
黒いプラトン
黒の過程
秘密結社について

あとがき



種村季弘 黒い錬金術 04



◆本書より◆


「錬金術とは何か」より:

「錬金術の奥義をきわめた最高の道士たちは、むしろ実利に走りやすい化学実験や冶金作業を「へぼ料理」と称して蛇蝎視していた。錬金術師にとって最大の眼目は金属を黄金に変える技術そのものではなく、ましてやこの技術を実社会に通用する金銭に替えることではなかった。なによりも低次の金属を高次の金属に変えるという物質変容の過程に、獣性をもって生まれてきた人間が霊性にめざめていく魂の精鍛(せいたん)、練磨の過程の比喩を見て取っていたのである。」
「錬金術は、したがって単に化学や医学のような自然科学の母胎となっただけではなくて、ヨーロッパの文学芸術や哲学のなかにも深く原理的に浸透している。ダンテの『神曲』やゲーテの『ファウスト』は地獄や煉獄をめぐって天堂界に達する魂の浄化を描いた錬金術的文学であり、ルネサンス期の巨匠画家たちも、暗いメランコリーの気分に浸された人物に精神の輝かしいよみがえりが啓示される体験をある種の化学変化になぞらえた画面においてしばしば描いた。」
「このように歴史的消長をながめてくると、錬金術を中世の迷信とする見方が一つの偏見であり、むしろ地中海を中心にヨーロッパとアジアとアフリカの三者のそれぞれ異質な文化が相互に結合する文化期にこそ「異質なものの合一」をめがける哲学的錬金術が花咲き、西方教会を中心としてヨーロッパを孤立的に閉鎖する文化政策の強圧下には錬金術が異端視される趨勢を迎えたものにすぎないことがわかる。」



「黒い錬金術」より:

「かりに錬金術が富の獲得と結びついたとすれば、それはむしろ産業革命のはじまる十七世紀後半以降の顕著な傾向であって、中世においてはアリストテレス学と、中世末期における錬金術の復活当時は古代哲学、とりわけプラトンならびにネオプラトニズムの鼓吹と結びついた精神史的動向の方に主体があり、錬金術はかならずしも直接的に金の獲得を目的とする技術ではなかった。逆に錬金術が化学とプロテスタンティズムにその内容を二分したとき以来、近代化学は不可能性(黄金造出)の追求を放棄して産業資本の奴僕と化し、もっぱら富の獲得と結びついた悪しき技術と堕したのである。
 近代化学がこの暗い母胎の記憶を喪失してから数世紀が経過したが、この間錬金術が思想として論じられることなく、迷信、詐術、未発達の技術という烙印を押されて精神史的関連から隔離されてきた過程は、ほぼ正確に、近代科学がその思想としての実体を糊塗して擬似中立性を標榜し、主観的思想的関連から独立した純粋技術を偽装してきた過程と軌を一にするであろう。」
「錬金術師たちの世界は徹底的なダイアローグの拒否の上に成立している。彼らの作業は、異臭を放つ薄暗い工房のなかのどこまでも孤独な作業である。対話はあるが、それは他人との対話、連帯ではなく、物に潜在する見えざる一者との一者としての対話であって、ありようはモノローグにひとしい。この孤独な独白に裂け目をつくる論争や独善は不要である。閉ざされた絶対の孤独者は、その発見を擁護すべき世襲的な襲名者もなく、だが公開による伝達の可能性も信ぜず、ひたすら暗黒に沈潜するのみである。だが、この孤独の内質である内密性は、同質の体験者すべてに非伝達的に伝達可能である。錬金術師のモットーのひとつは「一にして全」である。体系的な伝達こそ断念してはいるが、類推による共時体験は排除されない。かくて彼は一者でありながらすべての錬金術師であり、同様にすべての錬金術師が彼一者でもある。この全一性は時間と空間の範疇をさえ無視する。(中略)ヘルメスのように時間と空間、生と死の境界をくぐり抜けていたるところに神出鬼没する、この一者遍在の秘法こそは、体系信仰という全体主義の上に立脚する近代科学のあずかり知らぬ至高原理である。知的体系として教祖も権威者(オーソリティ)もハイアラキアルな先行者すらも必要とせず存在もしない、この反体系的な知識の世界ほど例外的なものはないであろう。」



「錬金術の変貌」より:

「グノーシス派の教義は、一口にいえば原罪の否認である。正統教会はアダムの過ちを認め、原罪を受け入れて、怒れる神を贖罪によってなだめることで救済が可能になると信じた。グノーシス派はこれに反して、神が創り給うた物質界は「不完全」であり、アダムの行為は神の不正によって起ったと主張する。神の不正に関してとはいわぬまでも、物質界の「不完全」を説くグノーシス教徒の考えは、不完全な物質(卑金属)を完全な物質に高めるために人工技術を駆使しようとする錬金術師たちの世界解釈ときわめて近しい関係にある。もっと直接的な血縁関係をうかがうには、グノーシス派の一分派拝蛇教徒のシンボルである、みずからの尾を咬むウロボロスの寓意こそは、錬金術の原理の象徴でもあったのである。
 ところで物質界の不完全や父なる神の不正を説く、反逆的プロメテウス的なグノーシス派の教義を、いまかりに今日の精神分析学の用語で要約するとすれば、端的に、エディプス・コンプレックスの臭いが濃厚であると言うほかはない。面白いことに錬金術師たちは事実しばしば父性憎悪(父性恐怖)について語っているのである。(中略)グノーシス的なこの父性恐怖の対極に錬金術特有の女性(母性)崇拝を考え合わせてみると、錬金術師のことさらな汚穢や腐敗への好みといい、下等な物質への関心といい、両性具有的なヘルマフロディトゥス崇拝といい、この技術のエディプス的起源を匂わせる要素はかなり歴然としてくる。」
「錬金術師たちにとってもこの万物照応の原理は至上原理であった。地上のあらゆる物質は天上の原型(モデル)の模像であり、天の光の投影である。だが天上の原理が自然のなかに模写されているというかぎりでは、それは上から下への下降運動が問題になっているにすぎない。錬金術師たちの考えの独自性は、この運動を可逆的なものと見做して、下から上へ、卑しいもの、病的なもの、不完全なものを手掛りにして天上的なソフィアに到達しうると考えたことにあった。この上昇運動を象徴する一例が、有名な卑金属から金(きん)への金属の人工的変成である。」
「錬金術師の世界解釈では、神は天上界の原像(モデル)をもとにしてその模像を地上の物質界に流出せしめたのであった。この下降運動を下位の物質を手掛りにしてふたたび天上的なものへと到達するための上昇運動に変成せしめること、これが錬金術の究極の目的である。パラケルススは第一原質(マテリア・プリマ)がいたるところに転がっていると語っている。いわば黄金の素材となる原物質は卑俗なもののなかにこそひそんでいるはずで、その逆ではあり得ないからである。上から下への神の創造は、かくてその逆対応として、下から上へ、魂の中心復帰の長い旅路の形において模倣されるのである。」
「したがって、あらためてくり返すまでもないが、真正の錬金術にとっては物質は口実であって、問題の核心はつねに魂の艱難をきわめる遍歴にあった。(中略)魂の陶冶というこの主要目的を抜きにして錬金術の問題を語れば、錬金術はたちどころにしてまだ不完全な化学に堕してしまう。しかしありようは化学の方こそはすでに不完全な錬金術かもしれないのである。」
「かりにいま錬金術固有の歴史をコンテキストにして近代の科学史を眺めやるならば、近代はまぎれもなく錬金術にとっての最悪の暗黒時代であった。だが、すでに大部分が情報理論にまで変質しつつある自然科学が、それが本来帰属すべき中心に向かって帰り道をたどらなければ、人間疎外というような月並な言葉では言いつくせない決定的な断絶が起るであろうことは、火を見るよりも明らかである。それともわれわれは、それと知らぬままに、史上空前の錬金術時代の、いまだ開かれざる扉の前にたたずんでいるのであろうか。そうであるとすれば、この扉を開く忘れられた招魂の呪文はつぎのようなものにちがいない。「より冥きものによって冥きものを、より知られざるものによって知られざるものを。」(obscrum per obscrius, ignotum per ignotius.)」



「箱の話」より:

「夢物語の作者は彼の独創性を通じて語るのではない。彼に下された神の指令を通じて彼の口から普遍的な知が語り出されるのである。逆に言えば、理性によっては孤立した部分しか認識することはできないのであって、全体的関連はつねに夢を通じて了解されるほかはない。」


「ガバリスの転生」より:

「人は市民的価値観から悪と見なされるような(中略)誘惑の試練を通過しなければ、彼方の世界への査証はついに下されず、此方側で無意味な挫折のうちに生を消尽してしまわざるをえないのである。」


「神の署名になる記号」より:

「物質、肉体、地上存在は、美徳を加虐的にそれ自身のうちに内包しているがゆえに悪であり、苦難である。しかしこの悪の逆説的肯定の上に立って、物質の汚染にまみれ、悪と苦痛によって身を洗わなければ、救済の光はやってこず、隠された神は姿を現わさない。」
「汎知論者にとっても神智論者にとっても、理性や理性言語によっては届かない認識の段階が存在することは自明であった。それゆえに、しばしば言葉を必要としない、物質との沈黙裡の対質から生成する認識が尊ばれる。言語もむろんつねに理性の僕(しもべ)であるわけはないので、頭から無視されはしない。近年エルネスト・グラッシが詩人の形象言語にその力を確認したように、言語の(中略)論証するのではなく指示する昨日のうちには「客観的超個人的存在」が姿を現わすのである。形象としての言語にあっては、ロゴスとパトスはふたたび一体となり、言語が表象となって隠された形象(ビルト)を内視せしめるだろう。」
「カタストロフはここから先にやってくる。言語は形象との関連から脱落し、表象と事物の内部とのつながりは切断される。パラケルススでは天上の星の力にしたがって動かされていた人間の肉体はデカルトによって精神から切り離されて根なし草のマヌカンとなり、カントの物自体の不可知が表徴と本質との最後の関連を破砕する。(中略)むろんデカルトもカントも、ショーペンハウアーも、ヴィトゲンシュタインも、精神と物質、形象と言語を、彼らが一刀両断に分割したのではなくて、かくある不幸をありのままに記述したのであろう。
 しかし、彼らの思想を講壇を通じて鸚鵡返しにくり返しながら小耳年増(ヘーレンザーガー)を量産した教授連(みみどしま)となると、これは罪が重い。デカルトの夜の不安な夢をも、ヴィトゲンシュタインの分裂症的な無人空間の恐怖をも、相補物として持たない合理主義的二元論は、要するに効率的な人間ロボットとその一瞬の廃物化に、全世界の強制収容所化とヒロシマ化に辿りつくだけだからだ。ここが袋小路なのだろうか。
 今日における表徴の術(ジグナトロギー)の正統的な継承者は、哲学教授よりはむしろ詩人と芸術家である。象徴詩人の中心課題は「万物照応」であった。シュルレアリストの実験作業の目的は、あげて言語の暴力的な形象の発掘にあった。いみじくもパウル・クレーは「形象のポリフォニーを謎に満ちたテキストのように強める暗号言語」について語り、眼に見えるものから見えないものへの転移を芸術家の使命と見なした。」
「いや、あえて詩人や芸術家の工房に足を運ぶまでもないだろう。むしろもっと身近に目をとめるがいい。中世の世界と同様、今もなお大学と管理機構から一歩外に出れば、無学文盲の輩の間には無知の知が豊沃に埋蔵されているのである。(中略)デカルト以来われわれが生棲することになった逆さまの世界では、まことに奇妙なことに、巷にあふれる競馬の予想屋と大道占師の実践的汎知論が大学教授の哲学論文に較べてはるかに過少評価されているとはいえ、にもかかわらずパラケルススの言うように、「神の署名になる表徴から哲学するのではない者は哲学者ではない」のは、依然として不易の真理なのではなかろうか。」



種村季弘 黒い錬金術 02





























































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Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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