ランブール 『ヴァニラの木』 (小佐井伸二 訳/小説のシュルレアリスム)

「ヴァン・ホーテンが鼻にたえずまとわりつく香りの元を見つけ出さないうちに、病人は、熱に焼き尽くされて、死んでいった。彼女は死のなかに降りて行った、ちょうど彼女のすでに香気をつけられた熱い体を冷やしてくれるあまり深くない小川のなかへ降りて行くように。」
(ランブール 『ヴァニラの木』 より)


ジョルジュ・ランブール 
『ヴァニラの木』 
小佐井伸二 訳

小説のシュルレアリスム

白水社
1976年1月10日 印刷
1976年1月25日 発行
227p 口絵「ラム酒を試飲するランブール」
四六判 丸背紙装上製本 函 
定価1,100円
装幀: 野中ユリ

Georges Limbour : Les Vanilliers, 1938



本書「解説」より:

「ランブールの一つの意義は今日稀有なまでに「都市化」に抗して、未開の、失われゆく貴重なもの、緑なすもの、トリフィドめいたもの、蔓植物のように繁茂するもののなかに身をおいている点だ」


ランブール ヴァニラの木 01


帯文:

「小説のシュルレアリスム
精緻無類な文体によって現実のただなかに驚異を喚起するランブールの作風は、たしかに詩であるところの小説の華麗な一成果である。本書は一見まことに単純な植民地的異国趣味を定着させながら、じつは人生の問題にも深くかかわる、感動とイロニーにみちた美しい織物となっている。」



帯裏:

「ジャリ/澁澤龍彦訳 超男性★
アラゴン/小島輝正訳 アニセ またはパノラマ★
アポリネール/窪田般彌訳 虐殺された詩人★
スーポー/片山正樹訳 流れのままに★
ランブール/小佐井伸二訳 ヴァニラの木★
デスノス/窪田般彌訳 自由か愛か!
クノー/滝田文彦訳 はまむぎ
ドーマル/巌谷国士訳 類推の山
グラック/安藤元雄訳 アルゴールの城にて
アルトー/多田智満子訳 ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト
ブルトン/巌谷国士訳 ナジャ
ルーセル/生田耕作訳 ロクス・ソルス
★印は既刊本」



ランブール ヴァニラの木 02


目次:

ヴァニラの木 (小佐井伸二 訳)
解説 (巖谷國士)



ランブール ヴァニラの木 03



◆本書より◆


「彼女は今では終日寝台の上に横になっていた、白い部屋着を着て。その部屋着を熱のある体が焼くのだった。窓辺の、つづれ織の生地のような碁盤縞のカーテンに、メキシコ蝶がよくその刺繍した重たい羽を休めに来た。また、蚊が、布目から長い脚を出すと、もう抜くことができず、その罠にかかったまま干からびてしまうのだった。
 彼女はときどき肘を突いて上体を起こした。本を投げ出し、首を延ばし、丸木舟のようなジグザグをわずかに描いて頭をもたげ、そうして宙に漂うある不思議な香りのあとを追った。その香りは一週間このかた寝室のなかをさまよっていて、彼女の大きく開かれた目はその目に見えないものをとらえようとするのだった。(中略)今では、それはもう立ち去ろうとはしなかった。いつも彼女のまわりにいた、ただ彼女だけのために。というのも、他の人たちは風や陽光のなかから来るとき、その香りを感じなかったから。たぶんそれは幻覚だった。
 彼女はもうピアノの前に坐っていることはできなかったが、ピアノがいつも開いていることに固執したので、ピアノは彼女の真正面に口を開いて古い象牙の長い歯並みを見せていた。そこから、その芳香はたちのぼって来るようだった。大きな、暗い、燃えるように熱い口のなか、有毒な赤い熱帯の花のなかに呑み込まれながらも、一方で彼女は眺めていた、まるで鍵盤のひとつひとつが無気力になり、また鉛をつけられたかのように、動かない黄色くなった歯並みの上で、黄金虫が死んだり、毛虫が這ったりしているのを。彼女は遠くから無関心に見るのだった。(子供が朝小さな手を鍵盤の上に走らせるからだったが)くたびれたEのキーがそこだけくぼんで下がったままでいるのを。それはまるで闇に呑み込まれたようで、もう二度と日の光の表面にまで浮かび上がっては来ないだろうと思われた。
 彼女の記憶をよびさまさないこの未知の香り、名前のないこの香り―それはきっとある新しい鳥のように、進化の最後の段階にあるひとつの終(つい)の花のように、この地上に出現したものにちがいなく、その進化はかつてマンモスを生んだあと、今日ではもう、ちょうど長く苦しい競走のゴールにおける最後の息のように、ひとつの香りをしか吐き出さないのだ―その香りがふたたび彼女に近づいて来るのだった。さながら、河口を探し、身を投げるべき海を探して、平野のあちこちにたえず川床を移す、移り気な流れのように。それが孤独にさいなまれながらこの世界に探しているのは、自分の入り込むことのできる忠実な記憶だった。彼女は一切を与えようとして探したが、彼女の過去にはその香りのものであるかもしれないものは何ひとつ見つからないまま、自分の青春を、自分の失われた幸福の数々を、それの前に夢中で投げ出すのだった。
 彼女は数年来一度も開かれたことのないすぐそばの引出しのなかに忘れたままになっているいくつかの物を思い出した。この国の熱風に孔をあけられた灰の袋のように乳房が空っぽで、彼女はもう歩くことができなかったが、それでも箪笥のところまで体をひきずって行った。その第一帝政時代風の箪笥は気まぐれな海をいくつも渡った長いさまざまな旅でゆがんでいた。(中略)半ば気を失った彼女の体の重みがとうとう引出しをひっぱり出した。すると、なかから、巣をかきまぜられた数知らぬ昆虫たちさながらに、世界をわが物にするべく音もなく飛び立った小衣蛾、すなわちあの香りだった。それがいかにも激しく、いかにも突然だったので、彼女は額を布地の山に沈めて、思わず深々と息を吸った。すると、まるで骨にいきなりまた肉がついたかのように、彼女の胸は官能のよろこびでもってふくらんだ。彼女は精気にあふれた髪の毛の重さを頭に感じて、その精気のなかをころげまわりたいと思うのだった。」

「ふたたび森へまで歩いて行けるようになると――その広大な森は危険と魔力とに満ちていて、そこから彼女はまた熱をもらって来たのだが――花や蝶や蛇の皮や羽毛を拾っては、蟻がたかっているポケットのなかに機械的に押し込んだ。彼女は植物の雨にぬれ、丈高い木々から埃のように舞い落ちる、手で触れることのできる虹をしみ込ませて、家に帰った。だから、夕方着換えをするとき、彼女の髪や、押葉標本の厚くて中が空っぽの紙のようだと彼女が思う服から、ちょうど仮装舞踏会から帰ると服から落ちる色紙のつぶてに似た色とりどりのたくさんのかけらがきらきらとこぼれるのだった。夜、眠りに落ちる前に、寝台から彼女は自分のまわりで床を染めているその色とりどりの輪を眺める。自分の体のあるところは空虚だった。彼女は痩せた両腕を、熱い両手をその魔法の輪の上に立っている若い日の自分の幽霊のほうへ延ばす。次いで手を肉の落ちた胸の上にもどすのだった、滅びた自分の美しさが花々や昆虫たちの塵となって落ちるのを見てぞっとして。
 朝、まだかすかな日の光が窓から入って来てそれらの残骸をふたたび彩るころ、扉がたたかれる。そして女の子がときどきその塵の輪のなかを石蹴りをするように片足で跳ぶのだった。
 一度、その子が訊(き)いた、まばゆいばかりの花を腕にかかえて。「この円はなあに? 花や窓のまわりにおいて、けものが入らないようにする毒の粉? ここに何をおいたの? 何を蛇やさそりから守りたかったの?」
 だが、もう、彼女のまわりに引かれたどんな魔法の輪も彼女を守ることはできないのだ。どんな粉も、どんな毒の入った石灰も。彼女は窓のほうへ、庭の熱い影のほうへふり向いた。庭には揺れてきらきら光る葉むれが屋根越しに影となって消えに来ていた。
彼女はこれらの残骸を掃除させた。が、たまたまそのなかに目もさめるような鳥の羽毛を見つけると、彼女はそれを拾い上げる。すると、彼女の体は強烈な音楽に満たされるのだった、まるで前日その場所でインディアンの熱狂的な踊りを踊ることができたかのように、そしてその羽毛が彼女のたけだけしい髪飾りから落ちたかのように。
 しかし今日、彼女がかつてその前でインディアンの踊りを夢見た柱の足もとの、さまざまな責苦に疲れた美しい奴隷、あの壊れかけた箪笥の前に膝をついて、彼女は引出しのなかにあの羽毛、あの翼のかけらをふたたび見つけたのだった。かつて彼女が引出しのなかにおき忘れていたそれらのかけらは、毛皮の外套のかくしや、むかし北国の埠頭で手をそこに入れて指と指とをからみ合わせていたマフのなかにまで忍び込んでいた。
 けれども、そういった古物のなかに、彼女の知らない、長い汚れたものがあって、それらは羽毛や、マフの毛にはりついている。何だろう、考えてみてもわからなかった。彼女はそんな髪を縮らせるカーラーのような汚いものをもって来たおぼえはない。そのたくさんのカーラーは洗ったことのない櫛のように黒ずみ、脂じみている。彼女はそのひとつを嫌悪感とともに手にとり、指で曲げて、折った。すると、それから、黒味がかった汁が流れて、強い匂いを発した。
 それが、あの香りだった! 彼女は子供のころ新しい匂いを嗅いだときのようなめまいをおぼえた。そして埋めることのできない大きな孔が彼女の記憶にあくように思われた。香りは、そこにいるのだった、まるであたたかな自分の毛にくるまって眠っている未知の動物のように静かに、そこによこたわっているのだった。彼女はその動物を手で愛撫することによって目醒めさせたくなかったが、しかしそれのほうから頭をもたげて彼女をなれなれしく見つめていた。そのなれなれしさが彼女を恐れさせたが、それというのも、彼女はそれにかつて出会ったことがなかったからだった。
 彼女はよろこびをもって指先を鼻の下に往き来させた。あの不思議な棒のようなものは一体何なのか。香料をつめた小さな蛇? 砂糖づけにした大きな毛虫? 木から愁わしげに垂れ下がっているのが見られるあの長い雫? あの子がそれをずっと前に引出しのなかに放り込んだのにちがいない。彼女はそのいくつかを手にとった。骨を折って起き上がり、それからまた横になった。
 夕方、庭が赤い燃えるような色合いを帯びるころ、そして、世界が銅製のひとつの巨大な銅鑼(どら)となって、それに太陽がインディアンの踊りの開幕を告げるすさまじい一撃をくれるころ、彼女は莢いんげんのようなあの賤しい間の抜けた実を突然思い出した。その実を、彼女は名を知らない灌木から、森のはずれで機械的に摘むと、割って、彼女の気にさわる夫の帽子に投げたものだった。あの莢が、時間の酢にひたって、思い出の品々の入った引出しの奥で、骨疽にかかった歯の色調を帯びていたのだった。
今は、部屋のなかをさまようあの匂いとぐるになった彼女は、まるで媚薬を発見したばかりの魔女のように幸福だった。一方、やっと思い出してもらったことに満足して、香りのほうは彼女の疲れた感覚からひきあげて、つつましく消えていった。」



















































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本