谷崎潤一郎 『人魚の嘆き・魔術師』 (中公文庫)

2013年5月26日。


「私は地上の人間に生れることが、この世の中での一番仕合わせな運命だと思っていた。けれども大洋の水の底に、かくまで微妙な生き物の住む不思議な世界があるならば、私はむしろ人間よりも人魚の種族に堕落したい。」
(谷崎潤一郎 「人魚の嘆き」 より)

「よろしい、よろしい、お前の望みは如何(いか)にもお前に適当している。お前は初めから、人間などに生れる必要はなかったのだ。」
(谷崎潤一郎 「魔術師」 より)


谷崎潤一郎 
『人魚の嘆き・魔術師』

中公文庫 A1-11

中央公論社 昭和53年2月25日印刷/同年3月10日発行
110p 文庫判 並装 カバー 定価180円
カット・挿画: 水島爾保布
新字・新かな



短篇小説「人魚の嘆き」および「魔術師」は、それぞれ「中央公論」と「新小説」の、大正6(1917)年1月号に発表。単行本は大正8年8月、水島爾保布(名前の読みは「におう」)の装画を鏤めて、春陽堂より刊行された。本書はその復刻文庫版。
装画は表紙絵、扉絵2点、文字(イニシャル)カット2点、フルページ挿絵20点、カット1点の計26点。
解説は中井英夫。


人魚の嘆き01


カバー裏文:

「むかしむかし、まだ愛親覚羅氏の王朝が、六月の牡丹のように栄え輝いていた時分――南京の貴公子の美しき人魚への讃嘆。
また魔術師に魅せられて半羊神と化す妖しい世界――」



人魚の嘆き02


目次:

人魚の嘆き
魔術師

解説 (中井英夫)



人魚の嘆き03


「むかしむかし、まだ愛親覚羅氏の王朝が、六月の牡丹のように栄え耀(かがや)いていた時分、支那の大都の南京に(中略)うら若い貴公子が住んでいました。」


人魚の嘆き04


「「どうして内の御前さまは、毎日あんなに鬱(ふさ)ぎ込んで、退屈らしい顔つきばかりなすっていらっしゃるのだろう。」」


人魚の嘆き05


「貴公子は、いつも必ず一段高い睡房の帳(とばり)の蔭に、錦繍の花毯(かたん)の上へ身を横たえて、さも大儀そうな欠伸(あくび)をしながら、眼前の騒ぎを餘所(よそ)にうつらうつらと、銀の煙管で阿片を吸うておりました。」


人魚の嘆き06


「その時、貴公子の視線は、一つの不思議な人影の上に注がれて、長い間熱心に、それを追いかけているようでした。その男は、頭に天鵞絨(びろうど)の帽子を冠り、身に猩々緋(しょうじょうひ)の羅紗の外套を纏い、足には真黒な皮の靴を穿(は)いて、一匹の驢馬に轎を曳かせて来るのです。」


人魚の嘆き07


「この車の轎の中には、南洋の水底(みなぞこ)に住む、珍しい生物が這入(はい)っています。私はあなたの噂を聞いて、遠い熱帯の浜辺から、人魚を生け捕って来た者です。」


人魚の嘆き08


「又或る者は、人魚の恋が恐ろしさに、竦気(おぞけ)を慄(ふる)って逃げてしまいます。なぜと云うのに、昔から人魚に恋をしかけられれば、一人(いちにん)として命を全うする者はなく、いつとはなしに怪しい魅力の罠(わな)に陥り、身も魂も吸い取られて、何処へ行ったか人の知らぬ間に、幽霊の如くこの世から姿を消してしまうのです。」


人魚の嘆き09


「私は地上の人間に生れることが、この世の中での一番仕合わせな運命だと思っていた。けれども大洋の水の底に、かくまで微妙な生き物の住む不思議な世界があるならば、私はむしろ人間よりも人魚の種族に堕落したい。」


人魚の嘆き10


「「私の体は魚のように冷かでも、私の心臓は人間のように暖かなのです。これが私の、あなたを恋いしている証拠です。」」


人魚の嘆き11


「人魚の体は海月(くらげ)のように淡くなって、やがて氷の溶けるが如く消え失せた跡に、二三尺の、小さな海蛇が、水甕の中を浮きつ沈みつ、緑青色の背を光らせ游いでいました。」


人魚の嘆き12


「船は、貴公子の胸の奥に一縷(いちる)の望を載せたまま、恋いしいなつかしい欧羅巴の方へ、人魚の故郷の地中海の方へ、次第次第に航路を進めているのでした。」



魔術師01


「私があの魔術師に会ったのは、何処(いずこ)の国の何と云う町であったか、今ではハッキリと覚えていません。」


魔術師02


「しかしあなたが、その場所の性質や光景や雰囲気に関して、もう少し明瞭な観念を得たいと云うならば、まあ私は手短かに、浅草の六区に似ている、あれよりももっと不思議な、もっと乱雑な、そうしてもっと頽爛(たいらん)した公園であったと云っておきましょう。」


魔術師03


「もしもあなたが、浅草の公園に似ているという説明を聞いて、其処に何等の美しさをも懐かしさをも感ぜず、むしろ不愉快な汚穢な土地を連想するようなら、それはあなたの「美」に対する考え方が、私とまるきり違っている結果なのです。」


魔術師04


「バルコニイの上を見ると、酔いしれた男女の客が狂態の限りを尽して野獣のように暴れていました。彼等の或る者は、街上の群衆を瞰(み)おろして、さまざまの悪罵を浴びせ、冗談を云いかけ、稀には唾を吐きかけます。彼等はいずれも外聞を忘れ羞恥を忘れて踊り戯れ、馬鹿騒ぎの揚句には、蒟蒻(こんにゃく)のようにぐたぐたになった男だの、阿修羅のように髪を乱した女だのが、露台の欄杆から人ごみの上へ真倒(まっさかさ)まに落ちて来るのです。」


魔術師05


「「この町の人たちは、みんな気が違っているようだ。今日は一体、お祭りでもあるのかしら。」」


魔術師06


「其処には日本の金閣寺風の伽藍(がらん)もあれば、サラセニックの高閣もあり、ピサの斜塔を更に傾けた突飛な櫓(やぐら)があるかと思えば、杯形に上へ行く程脹(ふく)らんでいる化物じみた殿堂もあり、家全体を人面に模した建物や、紙屑のように歪(ゆが)んだ屋根や、蛸(たこ)の足のように曲った柱や、波打つもの、渦巻くもの、彎屈するもの、反(そ)り返るもの、千差万別の姿態を弄(ろう)して、或は地に伏し、或は天を摩(ま)しています。」


魔術師07


「この粛然とした「死」のように寂しく厳(いか)めしい沼の中頃に、島とも船とも見定め難い丘のような物が浮かんでいて、“The Kingdom of Magic” と微かに記した青い明りが、たった一点、常住の暗夜を照らす星の如く、頂きの尖(とが)った所に灯されています。」


魔術師08


「就中(なかんずく)、一番私の意外に感じたのは、うら若い男子だとのみ思っていたその魔術師が、男であるやら女であるやら全く区別の付かないことです。女に云わせれば、彼は絶世の美男だと云うでしょう。けれども男に云わせたら、或は曠古(こうこ)の美女だと云うかも知れません。」


魔術師09


「「どうですか皆さん、………誰方(どなた)か犠牲者になる方はありませんか。」」


魔術師10


「「魔術師よ、私は半羊神(ファウン)になりたいのだ。半羊神(ファウン)になって、魔術師の玉座の前に躍り狂っていたいのだ。どうぞ私の望みをかなえて、お前の奴隷に使ってくれ。」
私は舞台に駈け上って、譫言(うわごと)のように口走りました。
「よろしい、よろしい、お前の望みは如何(いか)にもお前に適当している。お前は初めから、人間などに生れる必要はなかったのだ。」
魔術師がからからと笑って、魔法杖で私の背中を一と打ち打つと、見る見る私の両脚には鬖々(さんさん)たる羊の毛が生え、頭には二本の角が現れたのです。同時に私の胸の中には、人間らしい良心の苦悶が悉く消えて、太陽の如く晴れやかな、海の如く廣大な愉悦の情が、滾々(こんこん)として湧き出でました。」



魔術師11


人と魚、男と女、獣と神、それらのあわいに属するものたちは、すでにしてこの世の存在ではありません。この世の外の存在に憧れるものにとっては、頽廃と滅亡こそが恩寵にほかならないのです。

ちなみに、「人魚の嘆き」で、人魚の故郷を地中海といっているのは、ホメーロスの『オデュッセイア』に登場する「セイレーン」への言及ですが、澁澤龍彦「人魚の進化」(『幻想博物誌』所収)によると、ホメーロスのセイレーンは魚人間ではなく鳥人間です。澁澤龍彦は、アンデルセンの人魚姫のような「人間に恋する人魚」の起源を、地中海系の神話ではなくゲルマン・ケルト系の伝説に求めています。

本書の解説を書いている中井英夫の連作短篇集『幻想博物館』には、人が牧神に変身する話(「牧神の春」)が収録されています。


こちらもご参照ください:
山田俊幸 監修 『大正イマジュリィの世界 ― デザインとイラストレーションのモダーンズ』
堀切直人 『浅草 大正篇』
澁澤龍彦 『幻想博物誌』





























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