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坂崎乙郎 『絵とは何か』 (河出文庫)

「彼は早くから見離されていた。あまりに異常な言動に、自分でも狂人であると言明したほうがどんなに生き易かったかわからない。(中略)定職を持たぬ人間ゆえ、非生産者として軽蔑された。当時、彼は次のように弁明している。
 「ある種の檻のなかに閉じこめられているがために、また、生産的な人間となるために必要なものを持たぬがゆえに、周囲の運命が彼をそうしたところへ導いたがために、結局何もしないでいるのだ。」
 劣等感が彼を責めさいなむ。いくたびとなく、死んだほうがましだと思う。が、制作が救いとなり、着実に一歩一歩を進んだ。死の影が遠のいたわけではない。死の意識が彼を支えていた。」

(坂崎乙郎 「ゴッホの遺言」 より)


坂崎乙郎 
『絵とは何か』

河出文庫 725A


河出書房新社 
昭和58年9月26日 初版印刷
昭和58年10月4日 初版発行
171p 
文庫判 並装 カバー 
定価320円
デザイン: 粟津潔


「本書は、一九七六年十二月一五日河出書房新社より単行本として刊行されました。」



本文中図版(モノクロ)41点。



坂崎乙郎 絵とは何か



カバー裏文:

「絵は、思想である。
思想とは、
肉体のことである。
だから、絵を理解する根本は、
知識ではなく、
ゴッホの持っていたような
愛情なのだ。
愛情がなければ、
なにも、
わからない。」



カバーそで文:

「坂崎乙郎(さかざきおつろう)
一九二七年、東京に生まれる。一九五四年早稲田大学大学院美術史科卒業。専攻西洋美術史。現在、早稲田大学教授。著書、『夜の画家たち』『クレー』『マチス、ルオーと表現主義』『幻想芸術の世界』『反体制の芸術』『イメージの狩人』『イメージの変革』『絵を読む』『終末と幻想』他多数。」



目次:

絵とは何か (1976年4月17日、女子美術大学における講演より)
絵を読む (1976年1月30日、紀伊國屋ホールにおける第109回新潮社文化講演会より)
ドイツ・リアリズムと日本 (1976年2月10日、紀伊國屋ホールにおける講演より)
シュルレアリスムと日本 (芸術生活社「芸術生活」 1973年3月号掲載)
ゴッホをめぐって―現代絵画はどこへ行く (1976年3月20日、熊本美術館における講演より)
ゴッホの遺書 (岩波書店「世界」 1975年11月号掲載)

あとがき (1976年5月9日)




◆本書より◆


「絵とは何か」より:

「ですから、絵は、すぐれていれば、あるいは受け取る側に感受性があれば、複製の、機械を通してでき上がってきたいわゆるニセ物ですね、ニセ物であっても、一人の人間の心を掴まえることがありうる。それによって、掴まえられた人間が一冊のすばらしい本を書くことが、実際にありうるんだということになります。
 これはもう、すでに物質の問題を越えて、精神の問題に移ってきています。小林秀雄の精神とか、あるいは、ゴッホの精神という問題に移ってきているんです。
 一人の人間をそういう形で呪縛する、掴んで離さない絵は、一人の人間が一生をかけて打ち込んだ絵である、と私は考えるのです。
 現実の生き方でも、一人の人間を変えるのは思想ではなく、ある人間の生き方とか、そういう実質的なものだという気がします。
ところが今日では、そういう本物の考え方は、水平線の、あるいは地平線のはるかな底に沈んでしまっている。表面にうわついてあるものが絵であり、飾りであり、それが売れて行く現状になっているわけです。
 実を言えば、私は絵なんか売れなくなればいいと思っています。現実世界で絵をそれほど必要としない、そういう飾り物は見る人があまり必要としない、むしろ目の邪魔になると考えるようになる。そして画商さんも、絵が売れなくなれば、当然、店を閉めてしまうでしょう。そうすると現実世界は、お先真っ暗、完全に絵というものが無になるわけです。そのとき、絵とは人間が一生をかけて打ち込んだものという考え方がもう一度現実世界に浮上してくるんじゃないでしょうか。なぜかというと、ゴッホにしても、あるいはピカソの売れないときにしても、ニコラ・ド・スタールにしても、エゴン・シーレにしても、みんなこの考え方のなかで生きていた人たちであるし、現実世界のことはあまり問題にしなかった人たちだからなのです。
 ところが物質文明といっていい現代の文明というものは、水平線上のことばかり大事にするわけです。絵を描きたい人は、美術学校へ行きましょうというぐあいで、そこはたいへん月謝が高いけれども、そこで勉強していれば、飾り物になる絵を描ける人が、いくらか出て来るんだというわけです。だから、技術を覚えましょう、遠近法の簡単なやり方を覚えましょうなどといっているのは、いわば、ご飯を簡単に炊きましょうというお釜とまったく同じ思想ですね。しかし、これは間違いです。」



「シュルレアリスムと日本」より:

「詩人のランボオですら、次のように歌っている。
 「ほんとうの生活はない。私たちはこの世にはいない。」
 制作者の心にはたえずこの種の現実否定がひそんでおり、このことは明らかに芸術家がいかに自分の魂の領土を守っているかのあかしなのである。まして、絵画は今やまったく想像力のありかたにかかっており、シュルレアリスムが「魂の状態」を大切にした以上に人間のエグジスタンスそのものにかかわってきている。ただし、すぐれた絵には技術も必要であるから、まるで乱暴なピカビアやマン・レイの作品は正統でない、と私はくりかえすのである。」
「ゴッホの言葉どおり、現代社会の中で芸術家は「割れた水差し」にすぎない。しかし、彼は確実に自己実現の痕跡を止めるのであり、この痕跡のみが彼の恩寵である。(中略)今年の春、パリに没したベルメールくらいシュルレアリスムの理念に殉じた人はなかったのではあるまいか。孤独な死だったろう。報われるところも少なかったろう。ただし、彼の版画が二十世紀最良の作品で、かつ超現実で、彼にとって感覚イコール魂であったことはおいおい明白になるはずである。」



「ゴッホをめぐって」より:

「ゴッホは、オヴェール時代に自分の絵の完成を感じた。つまり、若いときからねらっていた「セレニテ」というものに至ることができた。
 ゴッホは手紙をフランス語で書いていました。「セレニテ」はフランス語で、「静謐」とか「悲しみの中の明るさ」「晴れやかさ」ということです。たとえば、「エビアン」という言葉が手紙に頻繁に出てきます。小林秀雄氏はこれを「よろしい」と訳している。(中略)エビアンというフランス語を頻繁に使っているのをみると、ゴッホは、やっぱり何回も自分で肯定か否定かの問いかけを出しながら、「それでいいんだ」と自分に言い聞かせている気がします。
 そして「セレニテ」。つまり晴れやかさ。晴れやかさといっても、悲しみのなかの晴れやかさなんです。というのは、ゴッホには、人生は悲しみに満ちているという考えが基本的にあるからです。喜びよりも悲しみを負わなければ、芸術家は成長しない。あるいは成功することが、芸術家にとっていちばんのガンであることを、何回も何回も言い聞かせている。そのうちに、自分でも本気でそう思うようになった人間ですから、晴れやかさといっても、悲しみの真只中の晴れやかさ、明るさのことです。それが、さきほどの二つの作品に出ている。若いころの作品は、ほんとうに悲しくて悲しくてしようがない働いている人たちを描いていた。しかし、この頃には、その風景は悲しいけれども、どこか明るい色があるというふうになってくる。人生も、ある意味で肯定できるのだという感じの晴れやかさに、彼は到達したんですね。」
「ですから、ゴッホがもし自殺しなかったらという仮定が、これから先も何回もいろいろな人から提出されるでしょうけれど、三十七歳以上ゴッホは生きられなかったと私は信じています。その時すでに肉体も精神もボロボロだった。ただ三十七歳で、彼はその地点に到達することができた。それが素晴しいということなんです。」



「ゴッホの遺言」より:

「彼は早くから見離されていた。あまりに異常な言動に、自分でも狂人であると言明したほうがどんなに生き易かったかわからない。ポリナージュでも、牢獄につながれている思いだった。定職を持たぬ人間ゆえ、非生産者として軽蔑された。当時、彼は次のように弁明している。
 「ある種の檻のなかに閉じこめられているがために、また、生産的な人間となるために必要なものを持たぬがゆえに、周囲の運命が彼をそうしたところへ導いたがために、結局何もしないでいるのだ。」
 劣等感が彼を責めさいなむ。いくたびとなく、死んだほうがましだと思う。が、制作が救いとなり、着実に一歩一歩を進んだ。死の影が遠のいたわけではない。死の意識が彼を支えていた。」















































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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