種村季弘  『ザッヘル=マゾッホの世界』 (筑摩叢書)

「クラフト=エビングの独善的なドイツ的心理類型学はドナウの西でしか通用しない狭隘な諸前提の上に成立しており、今日の文化人類学者なら確実にこれを方法として継受する代りに、研究対象として取り上げるだろう。」
(種村季弘 『ザッヘル=マゾッホの世界』 より)


種村季弘 
『ザッヘル=マゾッホの世界』

筑摩叢書 288 

筑摩書房 
1984年1月30日初版第1刷発行
261p 口絵1p 目次3p 「マゾッホ文献について」vi 
四六判 並装 カバー 
定価1,300円
装幀: 原弘

 

本書「あとがき」より:
 
「本書は、雑誌「ユリイカ」昭和五十二年二月号から同五十三年四月号にいたるまで、十四回に亙って連載したエッセイ『ザッヘル=マゾッホの世界』を骨子とし、単行本編集に際して「終章」を付して一書にまとめたものである。」


本書「新版あとがき」より:

「本書は昭和五十三年七月十日桃源社より単行本出版された。(中略)新版編集に際しては、旧版の原形を出来るだけ残すため、文献目録を補い、本文中の字句を統一するなど、最少限の増補修正をおこなうにとどめた。」


種村季弘 ザッヘルマゾッホの世界


帯文:

「マゾッホは、マゾヒストか?
女性上位の文化と、逞しいウクライナ娘にはぐくまれ、毛皮をまとった伯爵夫人によって官能をめざめさせられた作家マゾッホ。その生涯と作品を、性の病理としての<マゾヒズム>から解き放つ力作評伝。」



目次:

口絵
 青年時代のマゾッホ
 バグダノフ男爵夫人ことファニー・ピストールの足下に跪くマゾッホ

第一章 幼年――ハンドシャ体験
第二章 少年――ゼノビア体験
第三章 学生――女王と女優
第四章 幻滅――アンナ・コトヴィッツ体験
第五章 待機――ファニー・ピストール体験
第六章 女の世界――マイヤーリンクの悲劇
第七章 醜の美学――ローゼンクランツ体験
第八章 仮装舞踏会――エミリー=アリス体験
第九章 契約――ワンダ体験
第十章 貴婦人修行――ザッヘル=マゾッホ体験
第十一章 空想の王子――ルートヴィヒ二世体験
第十二章 愛の奴隷――侍女フィリス体験
第十三章 最後のギリシャ人――アルマン体験
第十四章 晩年――フルダ・マイスター体験
終章 死後――クラフト=エビング体験

あとがき
マゾッホ文献について




◆本書より◆


「幻滅」より:

「マゾッホの恐怖は女の淫蕩そのものに対するよりは、騎士道恋愛の観念がもはや通用しない、したがって忠誠を死守すればドン・キホーテのように現実から欺かれる、恋愛の場としての宮廷の喪失の認識の方にあったのである。おそらくそれは四六年のルテニア農民が貴族の責任放棄にたいして感じたのと同じ、遺棄された幼児の恐怖感(と裏腹の絶望的な攻撃性)であった。四六年叛乱の場合にも昔ながらの農民と貴族の残酷な睦み合いの一体性の間に割り込んできたのは、神に似た神聖ローマ帝国という第三者であり、その神々しい仮面とは裏腹にユダヤ的に他所者的詐欺師的な虚構性の素顔暴露が事の顛末となった。
 後年の作家の恋愛に登場する第三者もきまって同じ聖仮面と猿の素顔の変身劇を演ずる。(中略)単なる性的異常が問題なのではない。情熱恋愛を通じて聖王国に昇華しようとする騎士の献身にたいしてガーターをではなく、理詰めの現実的計算ずくという応答をしか投げ返さない白々しいブルジョア社会そのものの、物神の一見いかめしい絶対性を誇示しながらたちまち猿の素顔を顕して主体の情熱をはぐらかす、本質的な裏切りと欺瞞が、彼をくり返し幻滅の荒野に置き去りにする。だからこの社会に生きている限り、ザッヘル=マゾッホと女性との間には、くり返しあの謎の第三者が出現しないではいないのである。(中略)彼がもはや信じなくなったのは、単に「女の貞節」ではなくて、それを隠喩として動いているこの世界そのものであった。」



「死後」より:

「クラフト=エビング博士の『性の心理学』がシュトゥットガルトから公刊されたのは一八八六年のことである。」
「『性の心理学』の公刊以後、小説家ザッヘル=マゾッホの名はもはや文学界の知名の士として知られていただけではない。マゾッホの名はこのときから、愛する対象から与えられる、肉体的もしくは道徳的苦悩が倒錯的に獲得する快楽を意味する病理学的現象の人格的代名詞となる。ザッヘル=マゾッホの人格もその著作も、それが本来持っている多義的な広がりを一面化されて、「マゾヒズム」という性の病理のなかに封じ込められてしまう。そして不幸にも、「マゾヒズム」の語は専門医の用語法を越えて一般に流布されるや忌わしい病的倒錯として通俗化され、ついにはザッヘル=マゾッホその人の個人的病理と同一視される。(中略)社交界とジャーナリズムが性倒錯の典型として名指された人物を以前程文学的栄光のなかで迎えようはずはなかった。クラフト=エビングの著書はマゾヒズムの病理を顕在化させることによって、作家としても社会人としてもザッヘル=マゾッホを葬り去ったのである。
 刑の執行者であったクラフト=エビングが完全に没道徳的な科学者であったかどうかは疑わしい。言い換えれば、性の病める花々の博物誌家であった彼が時代の道徳的偏見に汚染されていなかったかどうかは、すこぶる疑わしいのである。むろん俗見を打ち破る新しい学説を打ち出す学者が一方では俗におもねる韜晦(とうかい)の演技を怠らないのが常であるにしても、である。」
「私の言いたいのはこうだ。ドナウの西側では「変質的」であり「倒錯」であるような性行動も、ドナウの東側では通常のあり方として堂々と罷り通っており、(中略)早い話が西欧の教養ある成人の性行動を正常であるとして、それならば成人とは異る女性や子供は、彼等が女性であり子供であるというだけで「病人」であろうか。つまり実現されたものに対して、未決のものは未決であるがゆえに、排他的に変態もしくは病気として定義されるのであろうか。クラフト=エビングの独善的なドイツ的心理類型学はドナウ河の西でしか通用しない狭隘な諸前提の上に成立しており、今日の文化人類学者なら確実にこれを方法として継受する代りに、研究対象として取り上げるだろう。」
「マンハイムに生れ、バーデンバーデンとストラスブールを経てグラーツとウィーンに東漸して来た西欧の精神医はドナウ河の東側へまでは渡らなかった。一方、ガリチアからプラーハとグラーツを経て西欧に旅した小説家の方は、東と西の双方の民俗を生き、両者を調停させるために西欧文化を仮面として身に着けて東の素顔を韜晦したが、それゆえに期せずしてますます本来直(すぐ)なるものであった持って生れた東方人の素質を病気(引用者注: 「病気」に傍点)として際立たせてしまった。実は東の習俗そのものが病気なのではなくて、これを西欧文化の仮面で隠す技法が劣等複合という病気であることに気がついて、仮面をかなぐり捨てる晩年に至るまでは。クラフト=エビング博士は晩年の小説家の足跡までを追わず、壮年の仮面演技を本質と見誤って、かえって東方人の素顔を見失う。ドナウの対岸の、西側から見れば倒立し倒錯している人間の生き方もまた人間の生き方であることには露だに思い及ばなかったのである。
 国境の町グラーツですれ違った両者は、いわば二つの相異る文化類型の代表者としてすれ違ったのである。一方は異物を排除する「異物嘔吐型」の文化であり、これに対して他方は異物をも受け入れる「異物嗜食型」の文化である。そしていうまでもなく、前者が男性原理を柱とするのに対して、後者は女性原理を御柱として祭祀する文化である。要するに、ゲルマン人クラフト=エビングが「女のような考え方をする」東欧ユダヤ人マゾッホを唾棄したのだとすれば、これは単なるエロチックな好みの問題ではない。」
 
「マゾッホの性愛描写は、(中略)歴史的背景を前にして見るなら、失われた時を求める苦闘の戦略的寓意である。とはつまり、ギリシャ人を誘い込みながら女主人(ドミナ)と奴隷との間に形作られる三角関係は、かつて汚れない大草原の懐に抱かれていた人間(子)と至上の自然(母)との睦み合いの只中に工業化という男性原理を受動態で誘い込み、西方の能動性を受け入れながらこれを消尽し無化してしまおうとする、女主人公と奴隷との腹を会わせた美人局(つつもたせ)めく事前共同謀議契約のからくりを隠し持っているのだ。


























































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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