アーサー・マッケン 『夢の丘』 平井呈一 訳 (創元推理文庫)

「そのとき、はじめて彼は、人間らしい人間の世界を永久に失っていたことを、目(ま)のあたりに悟ったのであった。(中略)自分はやっぱり人間らしい人間になれなかった。ひょっとすると自分の躯(からだ)のなかには、世間に出ても自分を見知らぬ異邦人にするような、なにかそんな妖精めいた血が流れているのかなと、そんなことを思ったりした。」
(アーサー・マッケン『夢の丘』より)


アーサー・マッケン 
『夢の丘』
平井呈一 訳

創元推理文庫 510-2

東京創元社 
1984年9月28日 初版
290p 
文庫判 並装 カバー 
定価380円
カバー: 東恩納裕一



Arthur Machen: The Hill of Dreams, 1907
「解説」中に図版(モノクロ)1点。


マッケン 夢の丘


カバー裏文:

「空にはすさまじい赤光(しゃっこう)があった。イギリスは片田舎の山奥の、その赤光に燃えたつ古代ローマ人砦に独り遊ぶルシアン・テイラーは、作家になる夢を紡(つむ)いでいた。だが、こんな田舎にいて何ができよう。牧神が徘徊する故郷の山々からサバトの街ロンドンへ、一人の青年の孤独な魂の遍歴を描く、神秘性と象徴性に満ちた二十世紀幻想文学の金字塔。」


巻頭文:

「空にはあたかも大きな溶鉱炉の扉をあけたときのような、すさまじい赤光(しゃっこう)があった。その赤光に燃え立つ古代ローマ人砦は、人跡まれな山奥深いまぼろしの丘にある。貧乏田舎牧師の倅(せがれ)ルシアン・テイラーはそんな秘境に独り遊びながら、作家になる夢を紡(つむ)いで暮らしていた。だが、こんな田舎で何ができよう。ルシアンは自らの夢にとり憑(つ)かれたまま故郷をあとにする。牧神が徘徊する故郷の山々からサバトの街ロンドンへ、一人の青年の孤独な魂の遍歴を描く、神秘性と象徴性に満ち満ちた二十世紀幻想文学の金字塔!」


内容:

夢の丘

解説 (紀田順一郎)




◆本書より◆


「藪の立木はひと枝としてまっすぐなのはなく、すくすくと伸びたのはない。みんなおたがいに編(あ)まれたようにからみあっている。地面とすれすれなのは、ひねくれた枝が瘤々(こぶこぶ)の根っことよじれあっている。人間の形をしたようなのが、あっちにもこっちにもあり、顔に似たのやからみあった手足に似ているのに、ルシアンは驚きの目をみはった。緑色の蘚苔(こけ)が髪の毛で、巻毛はハイイロの苔(こけ)、ねじれた根っこが片っぽの足で、腐った木の皮のへこんだところが、ちゃんと人間の顔になっている。ルシアンの眼はそれを見すえ、まるで樹木の似顔画に見こまれたように、居すくんでしまった。しまいに彼は、なんだか自分がオリーヴ色の美しい肌をした、髪も眼も黒い迷子(まいご)の牧神(フォーン)になって、山の日なたに寝ころがっているような気がしてきた。」

「父はものごとをまともな角度から見ることのできない人であった。世間も言うように、父はときどき、牧師としては少々奇矯(ききょう)すぎる意見を吐くことのある人であった。まじめな問題を普通から少しはずれた扱い方をする癖(くせ)、これがこの父子の大きな絆(きずな)の一つになっていたが、これはしかし孤立を助長することにもなった。」

「ルシアンは、こうした険悪な審判ムードは、だいたい予想していたのである。彼はこの小さな農村社会から、ますます尻ごみして、小さくなった。そんなわけで、ルシアンとしては、好きな田野や、愉しい思い出のある森を散歩しないときは、ひたすら家に閉じこもって、父の書棚にある書物を片っぱしから手当りしだいに読んでは、今どき通用しないような古くさい知識をかき集めることに没頭した。」

「彼は不愉快な自分の記憶に戻って、自分が蒙(こうむ)った蔑(さげす)みと侮辱をあれこれと思い出した。少年のころ、学校の先生たちが彼を蔑む言葉をささやいているのを聞いたり、学校の勉強以外のことを学びたがっている彼のことを、生意気だと言っているのを聞いたこともあった。(中略)彼と彼の父とは、いつでも戸外へ出さえすれば、そうした卑しい動物どもの冷笑と侮蔑の並木道を通るのであった。こういう卑屈な不潔さが人間の皮をかぶって、金持におもねり、金持の奴隷となって、力と権力のためにすることなら、どんなに醜いことをも醜くないと考えている。貧乏人や虐(しいた)げられたやつらを蔑むためなら、どんな残酷な蔑みも残酷でないと思っている。この汚らわしい非道なやつらの槍玉に上げられたのが、彼であった。(中略)そうした彼らの教会のなかでは、富者と貧者の席は、截然(せつぜん)と区分されている。こうした区分は、なにもカーマエンだけにあるものではない。ロンドンの金持の実業家や、成功した文壇の耆宿(きしゅく)たちも、おそらく彼らが傷つけ害した、生きるためにもがき苦しんでいる貧しい人々の犠牲の上で、おもしろおかしく暮らしているのである。(中略)ルシアンは自分の生活、自分の意志をつぶさに反省してみた。自分の愚かさとか成功欲とかはともかくとして、今まで意識的に悪意を抱いたり、故意に虐待を企(くわだ)てて、それを愉しみと是認をもって眺めて喜んだことは一度もなかったのを見た。そして、かりに自分が死んで土の下に埋められて、蛆虫(うじむし)どもに食われるときが来たら、そのときこそ、人間どものなかに生きている今よりも、純粋の友のなかにいることだろうと思った。そうして彼は、その汚い、チクチク刺す、汚らわしいけだものを、兄弟と呼ぶことにした。「おれは、おれの兄弟たちを、むしろ悪魔と呼びたい」と彼は心のうちで言った。「おれは地獄にいるほうがよっぽどましだろう」眼のなかが血のようにまっ赤だった。そして見上げる空も血の空のように見え、大地は炎となって燃えていた。」

「このところ、希望にも失望にも飽き果て、世間の侮蔑が胸のなかに蟠(わだかま)って疼(うず)き、「おれはとうから兄弟どもを悪魔と呼んできたが、こうなったらいっそやつらと一緒に地獄に住もう」と考えたり、さんざんな苦しい日が続いた。彼は咽喉(のど)がつまったようになって息が喘(あえ)ぎ、顔の筋肉がひとりでにピクピク動くのを覚え、誰か狂人が自分をけしかけているような衝動を感じた。その自分が、じつは、今は滅びた亡霊(まぼろし)の軍隊の築いた、荒廃した砦のある町カーマエンのあの晩の幻影の体現者だったのである。生命も、世界も、太陽の法則も、とうにどこかに消え去って、再生が起こり、死者の国がはじまったのであった。ケルト人の血が彼を駆り立てて、妖しい森から手招ぎをして呼んでいる。森を世界としていた《矮人(こびと)》であった遠い先祖たちが洞穴から出てきて、舌足らずのシューシューいう人間のものではない言葉で、しきりと呪文と祈祷(きとう)を唱えている。―彼は何年も何代も、自分の民族のなかで眠っていたいという願望に、雁字(がんじ)がらめになっていた。」

「奇怪な残酷物語もいくつかあった。山賊につかまった男が片輪にされて、醜い姿になり、逃げて町へ帰ってきたら、化物と間違えられて、わが家の門口(かどぐち)で殺されたという話など。とにかくルシアンは、自分がまだ行ってみない人生の暗黒面や隠れた隅々は、何でも見のがさないようにと心がけた。」

「ああいう暖かい家庭にいる人が外へ出てきて、彼の名前を親しげに呼んで、なかへ入って寛(くつろ)いでいけと、たとえ言ってくれたとしても、おそらくそれは無駄だったろう。ああいう人たちと彼とのあいだには、もうどうにも動かしがたい大きな溝ができてしまっているのだ。そのとき、はじめて彼は、人間らしい人間の世界を永久に失っていたことを、目(ま)のあたりに悟ったのであった。(中略)自分はやっぱり人間らしい人間になれなかった。ひょっとすると自分の躯のなかには、世間に出ても自分を見知らぬ異邦人にするような、なにかそんな妖精めいた血が流れているのかなと、そんなことを思ったりした。」

「前に彼は、自分には人間らしい能力も資格もないと自分に言い聞かせたことがあるが、あれはただ、自分が普通人の生活の単純なことを愉しむことができないという意味で言ったのであった。肉料理のついた上流家庭の午後の茶(ティー)の味を知らず、隣り近所のうわさを喋りあう味を知らず、子供たちと愉しい賑(にぎ)やかな宵を過ごす一家団欒(だんらん)の味を知らないために、四面楚歌にあっていた男が、なにも怪物とは限りゃしない。」

「彼は、自分が前に辿りついた結論―自分は人間らしい感性を喪失した。自分は市民のなかに溶けこめない異邦人であるために、不幸な人間なのだ、という結論にまた逆戻りをした。」

「泥んこの野道を歩きまわったあとの心暖まる炉の火と灯火、バタ・トーストの風味と熱いお茶の香り、炉の柵の前には二匹の猫が巣箱を作って眠っている。すべてみな痛いほどの苦痛と悔恨の種であった。通りすがりの見も知らぬ家々のどれもが、今は消えてしまった故郷の家を二重写しにして、彼の心に蘇らせた。何もかも昔と同じように用意されて、いつでもおいでというようになっていたけれど、彼はそこから締め出されていたのである。くたくたに疲れた足を引きずって、霧氷のなかをさまよい歩けと審判され、宣告された彼であった。先方もなかから出てきて、彼を助けることもできないし、彼もまた、こちらからノコノコ入っていくことはできなかった。(中略)人間性の技術を、彼はどこかへ落としてしまったのだろうか? 彼は自分の思考をすべて虚しいものと見た。彼は生活の暖かみとか愉しさとか小さな慰楽とかは、いっさい考えない一人の苦行者であった。だのに、そういうものに惹(ひ)かれることに心を許している。かりに、家路をさしていそいそと帰ってくる人の一人が、彼のことを気の毒に思って、寄っていきなさいと声でもかけてくれたとしたら、これは百年の志が水の泡になるより、もっとひどいことになっていたろう。だのに彼は、自分が享(う)けることのできない喜びにあこがれていたのである。ちょうど彼は、飲むことのできない亡者たちが水をほしがり、暖をとることのできない亡者たちが永遠の寒さのなかで震えているような、責苦の場所に来ているようなものであった。」

「ルシアンは夢魔と戦った。自分を誑(たぶら)かしているまぼろしと戦った。おれは一生、一つの悪い夢を見てきたんだと思った。世間に対しては、自分の目には火の衣に見えるが、じつはまぼろしの赤い衣を作って着てきたのだと思った。」




◆参考◆


江戸川乱歩「群集の中のロビンソン・クルーソー」より:

「イギリスのアーサー・マッケンの自伝小説に「ヒル・オヴ・ドリームズ」というのがある。(中略)この「都会のロビンソン・クルーソー」は、下宿の一室での読書と、瞑想と、それから毎日の物云わぬ散歩とで、一年の長い月日を唖のように暮したのである。友達は勿論なく、下宿のお神(かみ)さんとも殆ど口を利かず、その一年の間にたった一度、行きずりの淫売婦から声をかけられ、短い返事をしたのが、他人との交渉の唯一のものであった。」
「これは厭人病(えんじんびょう)の嵩(こう)じたものと云うことも出来よう。だが、厭人病こそはロビンソン・クルーソーへの不可思議な憧(あこが)れではないだろうか。(中略)「ロビンソン型」の潜在願望というものがあるのではないかしら。そういう潜在願望があればこそ、「ロビンソン・クルーソー」の物語はこのように広く、このように永く、人類に愛読されるのではないかしら。」





こちらもご参照下さい:

アーサー・マッケン 『怪奇クラブ』 平井呈一 訳 (創元推理文庫)























































































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