武田百合子 『富士日記 (上)』 (中公文庫)

「あたしはバカだよ。バカだっていいんだ。バカだっていいから、バカな奴をバカと言いたいんだ。もっと言いたい。もっと言いたい。とまらないや」
(武田百合子 『富士日記』 より)


武田百合子 
『富士日記 (上)』

中公文庫 た-15-6

中央公論新社 
1981年2月10日 初版発行
1997年4月18日 改版発行
2007年7月15日 改版10刷発行
474p 
文庫判 並装 カバー 
定価933円+税
カバー: 武田泰淳氏画帖より



単行本は1977年、上下二冊本として中央公論社より刊行されました。本書はその文庫版三冊本(1981年)の上巻の改版です。


武田百合子 富士日記 01


カバー裏文:

「夫武田泰淳と過ごした富士山麓での十三年間の一瞬一瞬の生を、澄明な眼と無垢の心で克明にとらえ天衣無縫の文体でうつし出す、思索的文学者と天性の芸術者とのめずらしい組み合せのユニークな日記。昭和52年度田村俊子賞受賞作。」


目次:

昭和三十九年 
 七月
 八月
 九月
 十月
 十一月
 十二月
昭和四十年
 一月
 三月
 四月
 五月
 六月
 七月
 八月
 九月
 十月
 十一月
 十二月
昭和四十一年
 一月
 三月
 四月
 五月
 六月
 七月
 八月
 九月




◆本書より◆


「便所の臭気ひどくなる。(中略)昼も夜も臭い。うんこそのものの臭いというのではなく、少し粉っぽいような、ドブの臭いのまじったような、化学変化が起ったあとのうんこの臭い。「この臭いが頭の中に入って、頭がわるくなりそうだ」というから、今日は管理所に行く。しゃがんで便器のそばに顔をつけて臭いをかぐと、便器のまわりも臭う。
 「頭がわるくなってくる臭いがする。うちの商売、頭がわるくなると困る商売だから、すぐ直してくれ」といって管理所から工事店に電話してもらう。」

「今朝がた、湖の裏岸をまわって鳴沢へ戻るとき、河口湖にしては、大へん水が澄んでいて、釣をする人も絵のようにしずかに動かない。うっとりするような真夏の快晴だった。〈こんな日に病気の人は死ぬなあ〉と思いながら車を走らせていたら、梅崎(春生)さんが死んだ。涙が出て仕方がない。」
「おひるまえ、梅崎家へ主人と伺う。東京は暑い盛り。梅崎さんの家の廊下のようなところには、とてもよく陽が射しこんでいた。その廊下のようなところに坐って、恵津子さんは吐くように泣いた。」

「夕飯の支度をしていると、トランジスタラジオのジャズの合間に、大和の警官射殺犯人が車を奪って逃走、東京の渋谷の銃砲店に逃げ込み、店にいた人を楯にして警官と射ち合いの最中で、見物人が四人負傷し、山の手線がとまっている、としゃべっている。森田さんの車が、犯人の逃走した道順をたどって渋谷にさしかかる時刻である。「ラジオで『ビルから見る東京の夕方の空は紫色で美しい』といっているよ」と、夕焼を見乍ら、花子小声で言う。
 東京は、はるかかなたの、ふしぎに美しいもののように、なつかしいもののように、連続射殺事件のニュースを聞きながら思う。」

「夕方、うたたねをしたら、そのままずっと朝まで寝てしまう。」

「おじさんは、億以上の金のある者が、この町にたんといる、ということを何度も力説した。以前、石垣工事で、うちに石工の人たちが入ったとき、女衆たちは、朝くると仕事にとりかかる前に、腕から時計を外して、ていねいに松の枝にぶら下げた。女ものの華奢な金時計が、キラキラといくつも松の枝に下っているのを私は羽衣伝説のように眺めた。それから、休みどきに女衆たちは、「甲府のデパートでダイヤモンド指輪の売出しをやっている。この前買った時よりもよさそうに広告が出ているから、また買うべ」と話合っていた。それから、昼ごはんどきに「いまどきゃ千万なんど金のうちに入らねえずら。億が金ずら」と、こともなげな朗らかな声が門の方の草むらの中から聞えてきた。」

「夜 やきそば(キャベツ、牛肉、桜えび)。
 私は一皿食べたあと、二皿めを食べていたら、急にいやになって、残りは明日の犬のごはんにやることにする。「百合子はいつも上機嫌で食べていて急にいやになる。急にいやになるというのがわるい癖だ」と主人、ひとりごとのように言ったが、これは叱られたということ。
 夜は星空となる。遠くの灯りと星とは、同じ位の大きさにみえる。色も似ている。」

「○もぐらを退治するには、土が動いているところを叩いても、もぐらは早いから、もう五、六米も先をもぐって走っている。土が動いているところより、五米も十米も先を鍬で叩けば、ぶちあたって死ぬ。」

「庭はあざみの盛り。
 花子の部屋の窓下に、小さなかたまりがある。犬は来るなり匂いを嗅いだが、くわえもしないで、ほかへいってしまった。荷物を運びながら、よく見ると、鳥の仔が仰向けになって足を時々動かしているのである。巣から落ちたらしい。羽はむしれて赤裸で、内臓まで薄く透きとおってみえる。呼吸するたびにバカに大きく内臓が動く。眼はつぶっていて嘴も開かないが、苦しそうだ。羽が折れて、折れ口には一寸血がついていてアリがたかっている。五十センチも離れたところに柔かい羽毛がかたまって落ちていて、体はすっぽりと赤ムケになっている。浅い穴を掘って柔かい葉を敷いて、その中にうつむけに移し入れてやると、体のわりに大きな、成鳥のようなしっかりした足で夢中で歩こうとする。背中の方も赤ムケ、頭にも毛がない。足も骨折をしているらしい。漿液のようなものがにじみ出ている。じいっと見てから土をかぶせて埋めて固く踏んでやった。」

「籠坂峠を上りつめたあたりから霧がある。山中湖への下りにかかり、スピードがついてくると、見通しのきかないカーブで、自衛隊のトラックが、センターラインを越え、まるっきり右側通行して上ってくるのに、出あいがしら正面衝突しそうになる。自衛隊と防衛庁の車の運転の拙劣さには、富士吉田や東京の麻布あたりで、つねづね思い知らされてはいるが、あまりの傍若無人さに腹が立って「何やってんだい。バカヤロ」とすれちがい越しに窓から首を出して言った。すると、どうだろう、主人はいやそうな目でちらりと私を見やって「人をバカと言うな。バカという奴がバカだ」と低い早口で叱るのだ。私はおどろいて「だってバカじゃないか。こっちはちゃんと左を下ってるんだ。見通しのきかないカーブで霧も出ているのに右を平気で上ってくるなんて、バカだ。キチガイだ。自衛隊はイイ気になってるんだ。あたしはバカだよ。バカだっていいんだ。バカだっていいから、バカな奴をバカと言いたいんだ。もっと言いたい。もっと言いたい。とまらないや」と、今度は主人に向って姿勢を正して口答えした。すると、どうだろう。主人はもっと大きな声をあげて「男に向ってバカとは何だ」とふるえて怒りだしたのだ。おどろいた。正面衝突されそうになった自衛隊に向ってバカと言ったのに、私の車の中の、隣りに坐っている人が自衛隊の味方をして私に怒りだすなんて。車の中にもう一人敵が乗っているなんて。(中略)私は阿呆くさいのと、口惜しいのとで、どんどんスピードが上ってしまい、山中湖畔をとばし、忍野村入口の赤松林の道をとばし、吉田の町へ入ってもスピードを出し放しで走る。
 いいよ。言わないよ。これからは自分一人乗ってるときにいうことにしました。何だい。自分ばかりいい子ちゃんになって。えらい子ちゃんになって。電信柱にぶちあたったって、店の中にとびこんだって、車に衝突したって、かまうか。事故を起して警察につかまってやらあ。この人と死んでやるんだ。諸行無常なんだからな。万物流転なんだからな。平気だろ。何だってかんだって平気だろ。人間は平等なんだって? ウソツキ。
 頭の中が口惜しさで、くちゃくちゃになって、右は走るわ、急ブレーキをかけて曲るわ、信号が赤だって通りぬける。主人をちらりと眼のはしの方で見ると、車の衝撃実験のときの人形のように、真横向きの顔をみせて、しっかりと座席のふちにつかまっている。」



武田花氏(娘)執筆分より:

「それから、シェークスピヤ先生がお書きになったマクベスというお話をときどき母からきいた。とてもすごそう。それも読みたい。母のお話はたいていマクベスと、よつや怪談のいえもんとお岩様の話だ。」

「母が(いつものことだが)一番よく働いて楽しんでつかれたようだ。母は穴ほりとか、ギターをひきはじめると、一日中でもやっていて根気強い。御はんなどつくらなくなる。父は小説を書くのを一日中やっていて根気強い。私はどっちも根気がなく、人に言われるとやるというタイプ。」

「母がクロールで泳いでいると、岸にいた大学生のおにいさんたちは「すげえ、あの女」といった。」



武田泰淳(夫)執筆分より:

「ワラビ採りをやった。自宅の庭のを採ればいいのだが、百合子が反対なので、東隣りへ採りに行く。「うちの庭のは採っちゃダメ。うちのは生やしておく。よそのところのを採ってきて食べる。うちのを採ったら承知しないよ!」と、私が採りもしないうちから、おどすような眼つきをしていうのだ。」

























































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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