富士川義之 『英国の世紀末』

「そしてワイルドにとって最も重要なデカダンスの命題のひとつが、真に近代的であるためには、われわれは過去に沈潜しなければならない、ということにほかならなかった。」
(富士川義之 『英国の世紀末』 より)


富士川義之 
『英国の世紀末』


新書館 
1999年12月31日初版第1刷発行
296p 索引vi 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,600円+税
装幀: SDR(新書館デザイン室)
カバー表: J・M・W・ターナー「黄金の枝」(部分)



本書「あとがき」より:

「十九世紀英国の世紀末に出た本を何冊か取り上げて論評しながら、作者および時代の特色、願わくばその感触とでもいったものを少しでも浮かび上がらせることはできないか、というのが、そもそも最初の動機であった。」
「そのさい、大分以前から漠然と考えていたことを思い切ってやってみることにする。つまり、フレイザーの『黄金の枝』を何よりも世紀末の書として文学的観点から読み直すことと、その読み直しをワイルドやイェイツなどの読解に可能なかぎりつないでみる、ということである。いま挙げた世紀末の代表的な文学者たちが示す神話や神話形成力への強い関心と、神話や宗教や呪術などに寄せる人類学者の熱情とのあいだには、同時代の文化的関心事を共有する者同士の類縁性が少なからず認められるのではないか。そんなふうにかねがね思っていたからだ。」
「本書はある意味で前著『ある唯美主義者の肖像――ウォルター・ペイターの世界』の続編として書かれたものである。隔月誌「大航海」の第十三号から第三十号まで三年間、十八回にわたって連載したものに手直しをしてできあがった。ただし、エピローグは新たに書き下ろした。」



本文中図版(モノクロ)19点。


富士川義之 英国の世紀末


帯文:

「フレイザー、ワイルド、イェイツ、ジョイス……
英国の世紀末に20世紀の源流を探る!」



帯背:

「文学と文明」


帯裏:

「ヨーロッパ文化の衰退をめぐって、英国の世紀末がどのような反応を見せたか、どのようにして危機を克服すべきと考えたのか、そのさまざまな試みを、とりわけ神話や神話形成力への強い関心との関連でとらえようとするのが、敢えて言えば、本書の意図である。(「あとがき」より)」


目次:

プロローグ ピット・リヴァース博物館
 ヴィクトリア朝コレクション
 J・G・フレイザーのほうへ

第一章 黄金の枝
 世紀末の書
 夢のような空想の世界
 偉大なアマチュア
 二十世紀文学的な性格
 新しい学問
 比較研究法
 『黄金の枝』の二つの謎
 キリスト教の異教的起源
 ネミよさらば
 虚構としての鐘の音
 唯美的な神話観
 神話形成力の魅惑
 西洋中心主義者のジレンマ
 迷信と文明
 共感呪術
 思考の万能の原理

第二章 ワイルドの芸術論
 嘘の衰退
 ゾラ受容について
 唯美主義的な芸術観
 神話と神話形成力と事実
 嘘と想像力
 ロマンスと瞬間のヴィジョン
 ジョイスとエピファニー
 魂の領域への関心
 英国の芸術復興
 道徳律破棄論者
 『獄中記』について
 芸術家キリスト
 対話的手法

第三章 ケルトの薄明
 ワイルドとイェイツ
 「浮浪者の磔刑」
 語りの力の回復
 口誦文化の採集
 彼方への憧れ
 出発の唄
 肉体の秋
 世紀末とデカダンス
 ノルダウ 『退化論』
 とてつもない活力の時代
 文学におけるケルト的要素
 アングロ・アイリッシュの知識人
 ケルト的想像力
 終末と発端としての世紀末
 芸術宗教とオカルト研究
 黒豚峡谷の伝説
 ユートピア夢想
 野蛮な神が

エピローグ 現代の黙示録
 『地獄の黙示録』と『闇の奥』
 『タイム・マシン』
 「範型」や「虚構」への信頼
 現代の文化状況

あとがき

索引




◆本書より◆


「第一章 黄金の枝」より:

「現在フレイザーは、人類学者たちのあいだで、どちらかと言うと、珍奇な事例を一貫性もなく寄せ集めただけの古臭い、アマチュアの蒐集家にすぎないとして退けられがちである。だが、私のような非専門家の読者にとって、いま『黄金の枝』を読み返して大変興味深く思われるのは、夥しい数にのぼる蒐集例であり、まことに巧妙な語り口で示される物語の文学性にほかならない。つまり一言で言えば、高度に専門化された現代の人類学研究者からはめったに得られない、文学性の強い、大らかなアマチュア的性格の魅力であって、そこで展開される理論や解釈の妥当性、厳密性では必ずしもないのである。」

「前述のとおり、『黄金の枝』初版が二巻本として刊行されたのは一八九〇年のことである。つまりこれは紛れもない世紀末の書なのだ。」

「ところで、フレイザーがケンブリッジ大学生の頃に書いた「ケンブリッジの六月」と題するいかにも若書きだが印象に残る短い詩がある。
 夏の一日が過ぎようとしているのに、自分は森や丘や川や野原や海辺に出かけることもなく、故郷スコットランドを遠く離れたケンブリッジの学寮の中にひとり囚人のように引きこもり、「人生の短い夏が過ぎ去り/青春の儚い薔薇が色あせているあいだに」古い書物のページを繰るばかりであると歌う。そして――

  いや、そうではないのだ! これらの退屈なページのあいだからは
   かすかにきらめく眺望がひらけ、
  そこには地上の斜面に咲く花よりも
   さらに美しい花々が咲き乱れているのだから。

  夢のような空想の世界!
   これこそぼくのほんとうの故郷なのだ、
  紫色の山々と
   白い泡でふちどられた青い海の故郷なのだ。

 読書に没頭することで過ぎ去ってゆく自分の青春の日々を、こんなロマンティックな詩を作って慰める詩的感性の持主であるのが、ほかならぬ若きフレイザーである。」

「この場合のアマチュアは文人というふうに言いかえることもできるが、文人=アマチュアの存在が専門家によって脅かされつつあることを最初に鋭く意識した時代が、ほかならぬ英国の世紀末であった。ペイターはギボンやヴィンケルマンやゲーテたちの十八世紀への愛着と憧憬を終生渝(かわ)ることなくもちつづけていた。フレイザーもまた、ペイターに劣らず、十八世紀文学と思想、とりわけギボンやヒュームやアディソンに対してつねに郷愁に近い親愛感を寄せている。彼らにとって、十八世紀の文人たちは、専門主義の台頭などを意識させられることもないままに、自由にのびのびと快活に活動することのできた、幸福なアマチュアと見えていたに相違ない。
 だが、それにしてもアマチュアとは何か。専門の細分化が加速度的に進行し、いたるところに専門家が蔓延している二十世紀末の今日では、アマチュアとはしばしば貶価(へんか)的な呼称と化してしまっている。かつては光輝を帯びて使われることもあったその言葉は、いまではすっかり色褪せている感がある。専門主義の弊害を指摘する人は数知れないのに、それでも敢えてアマチュアの復権を説く人はめったにいない。(中略)そんな中でエドワード・W・サイードが「現代の知識人は、アマチュアたるべきである」と強く主張しているのには注意を引かれずにはいない。『知識人とは何か』第四章「専門家とアマチュア」で、サイードはアマチュア主義をこう定義する。

   専門家のように利益や褒章によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求することをいう。

 サイードの言うアマチュア主義とは要するに「専門家とは異なる一連の価値観や意味」を追究することであり、アマチュアとは「利益とか利害に、もしくは狭量な専門的観点にしばられることなく、憂慮とか愛着によって動機づけられる活動」に従事する人を指している。」

「つまりフレイザーは十九世紀に輩出した偉大なアマチュアのひとりだったのではないか。大学で講じながらも、専門家ではなく偉大なアマチュアでありつづけたラスキンやペイターとちょうど同じように、である。そのような観点から見るとき、専門家とアマチュアの対立の構図が次第に鮮明になりつつあった世紀末の時代状況の中で、フレイザーの野心的な仕事のもつ意味合いがいささかでも明らかになることだろう。」

「いまさら言うまでもないことだが、『黄金の枝』で何よりもまず圧倒されるのは、実におびただしい数にのぼる引例である。(中略)この人類学者は引例の蒐集に全く途轍もない情熱をそそいでいる。」
「こんなふうに書くのも、(中略)呪術とか、樹木崇拝とか、生け贄とかいった、原始的信仰と宗教に関する問題をめぐって、たとえばインドネシアに、あるいは中国に、あるいはスコットランドにこんな例がある、などというぐあいに、数々の具体的な蒐集例が次から次へと繰り出されるのにすっかり眩惑された覚えがあるからである。ほんの一例を任意に挙げると、「共感呪術」について述べた章の中で、漁師や猟師の使う一種の呪術を語る件(くだ)り。
 ブリティッシュ・ニューギニアの西部諸部族は、ジュゴンまたは海亀に槍を投げる漁師を助ける目的で、一種の呪術を使う。つまり槍の穂先を差しこむ柄の孔に小さなカブトムシを詰めるのである。このカブトムシが人間にかみついたら容易に離れないのと同じように、カブトムシを詰めた槍の穂先は、ジュゴンや海亀の体内深くまで食い入る、と信じられている。また、カンボジアの猟師は、網を張ってもいっこうに獲物がかからない場合には、裸体になっていったんその場を立去り、網のあることに気づかぬふりをしてまた戻ってくる。そして故意に網に引っかかり、「しまった、網にかかってしまった」と叫ぶのだ。こうすれば網には必ず獲物がかかると信じられているという。
 こんな順序で引例をつづけてから、これと同じような無言劇は、フレイザーの故郷、スコットランドの高地でも最近まで行われていたと指摘して、次のような話を紹介する。ある牧師の語るところによれば、彼が少年の頃友人たちとロッホ・アライン付近で釣をしていたとき、どうしても魚が釣れない場合には仲間のひとりを舟から突き落して、魚ででもあるかのように仲間を水中から引き上げるまねをしたものだという。そうすると、魚がよく釣れるようになるとされていた。
 こういう、世界各地の習俗や迷信にまつわる引例を次々と連鎖状に、いわば数珠つなぎに合成してみせることが『黄金の枝』の内容の大半を占めている。そこではさまざまな文化がほとんど等価なもの対等のものとして並置さrていて、たとえばヨーロッパ世界と非ヨーロッパ世界の文化的差異などが強調されることはない。」
「ほとんど無数と言ってよい引例の合成によって作られた『黄金の枝』の方法は、いささか唐突に聞こえるかもしれないが、『荒地』や『詩章』における「編集的方法」(もとの文脈抜きで種々雑多な引用や引喩などをちりばめた詩句の合成よりなる)を連想させずにはおかない。
 エリオットやパウンドが『黄金の枝』を愛読したことはよく知られる事実だが、ここで示唆したいのは、いわゆる影響関係などということではない。フレイザーのテクストが内包する二十世紀文学的な性格ということである。『黄金の枝』が世紀末の書であるとともに二十世紀の書でもあるゆえんは、さまざまな文化の文脈や固有性を無視して、引例のいわばコラージュ集ともなっていることにあると考えるからである。二十世紀のモダニストたちが吸収したのは、そのようなフレイザーの引例の合成法でもあったのではあるまいか。」

「「呪術も宗教も科学も人間のものの考え方がつくり出した仮説にすぎない」
 ここに『黄金の枝』におけるフレイザーの文明観のエッセンスがあると言ってよいだろう。」
「むろん留保付きにではあるが、彼は明らかに、現代風に言えば、ある意味で文化多元主義者であったと言えるかもしれない。つまり結果的に多神教文化を肯定する文化多元主義者の立場を貫くことを通じて、一神教であるキリスト教文明の軛からの脱却を人びとに促していると見ることができるからだ。あるいは、狭い、硬直したヴィクトリア朝のキリスト教文明中心の見方から脱して、歴史上のあらゆる時代、あらゆる人間に対して開かれた態度を取ることを可能にする根拠となるような言説を唱えていた、と言い直してもよい。
 これは当時ほとんど革命的と言ってもよい言説だった。とりわけキリスト教徒の慣習の多くのルーツが異教徒の慣習に由来するという彼の言説は少なからぬ衝撃をあたえたのである。」



「第三章 ケルトの薄明」より:

「アーノルドのみならず、当時の通俗的見解では、ケルトとは要するに、アイルランドでかつて栄えた辺境の文化にすぎなかった。あまりにも地方文化的、土俗的なものと見なされていたのである。だがイェイツは、そういう通俗的な見方に逆らって、ヨーロッパ文化の古層をなすものとして、ケルト文化をとらえ直していく。それは一方ではホメーロス以来のヨーロッパ文学の伝統につながるものであり、他方では新プラトン主義以来のオカルティズムの伝統と結びつくものでもあった。このような独特なケルト文化理解を示した世紀末の文学者はイェイツ以外にはいない。アイルランドのナショナリズム運動と深くかかわりながら、イェイツは最終的にはつねにナショナリズムを越える地平というか、ナショナリズムとインターナショナリズムの中間点に自らのケルト文化理解の基盤を置いていたのだった。
 この詩人にとって、アイルランド文芸復興運動の支柱となるケルト復活は、魔術やオカルティズムやフランス象徴主義文学や芸術などとほとんど不可分に結合しつつ成就され得るものであった。その意味で彼のケルトへの関心は、ナショナリズムや地方的文化へと一方的に閉ざされ局限されてゆくのではなく、より開かれたインターナショナルな場へ出ていくことが絶えず夢見られていると言ってよい。(中略)最初期から最晩年にいたるまで一貫して認められる、「他界」ないし「異界」に寄せるほとんど異様なほど烈しい執着も、このような彼の根本志向と深いところでつながっているのではないか、と取り敢えず言っておきたい。」

「近年のイェイツ批判で気になるのは、「想像のアイルランド」といういわば想像の共同体を築こうとするイェイツの姿勢を、あるいは芸術の超越的な光輝を目ざす彼の姿勢を、どうしようもなく歴史的現実に無自覚だったとしてほとんど嘲弄さえする場合がときに目につくことである。「想像のアイルランド」の創造のプロセスにおいて、イェイツによるケルト神話や伝説や民話についての想像的な解釈や注釈などが実に巧妙に使用され、読者を「想像のアイルランド」の世界の中に誘いこむ強い魅力になっていることなどははなから認めないのだ。あるいは、そうした魅力を感受できないからこそ無関心なのだと言ったほうがよいのかもしれない。」
「いずれにせよ、イェイツは、古代ケルトの知識や英知に基づく活力にあふれる想像力を駆使できるように、自らを鍛えようではないか、と呼びかけずにはいられない。そのようなケルト的想像力こそ、現代アイルランド人が最も必要としているものだから、と言うのである。」

「生者の世界の中に死者が組みこまれ、生者と死者の相互交流がほとんど日常茶飯事的に行われているのが、ケルト以来のアイルランド人の生活であることを、イェイツは確信していた。日常的世界のいたるところに他界や異界が侵入し、互いに親しく交流し合うのが、アイルランドに残るケルト世界の特質にほかならぬと考えていたのである。なぜなら、ケルト世界は、近代的な合理主義や唯物主義によっていまだ汚染されていないからこそ、そういう超自然的な、あるいは霊的な交流が可能であったと見るのだ。「想像のアイルランド」は、このようなケルト的想像力を基盤として築かれなくてはならない。イェイツはそう堅く信じていたのである。しかも本気で。
 つまりケルト復活というのは一種のユートピアとして夢見られているのだった。(中略)そのようなユートピアにはとても付いていけず、社会の現実とはあまりにかけ離れすぎていると感じていたのが、アイルランドの民衆であった。アイルランド固有の神話や伝説や民話を明確な主題としながらも、民衆の実際の関心事から離れてしまうといった矛盾が、こうして次第に露わになってゆく。だが、民衆とのあいだに距離が生ずれば生ずるほど、イェイツはますます「想像のアイルランド」の創造にのめりこんでしまう。そして異界の存在を否認し、生者と死者の交流などということをデカダンスとして嘲弄する人びとに対して、いっそうの嫌悪感をつのらせ、危機感をもたずにはいられない。こうして近代的な合理主義や物質主義に対する戦いの強力な武器として、オカルティズムや心霊学を高々と掲げてゆく。それらはホメーロス以来のヨーロッパ文化の基層に深く根を張っているものだから、というのが、かいつまんで言うと、イェイツの考えの根底にあるものだった。」






















































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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