富士川義之 『記憶のランプ』 (ちゅうせき叢書)

「知性や習慣や用途や目標などの軛に縛られた日常的記憶とは異なるもう一つの記憶、心の内奥に埋もれたまま発掘されるのを待っている、いわば宝物に等しい深層の無意識的記憶への強烈な関心に突き動かされた、一群の文学者たち」
(富士川義之 「文学と記憶」 より)


富士川義之 
『記憶のランプ』

ちゅうせき叢書8 

沖積舎 
昭和63年10月15日発行
255p 
四六判 丸背紙装上製本 
カバー ビニールカバー 
定価2,800円



富士川義之第三評論集。表題「記憶のランプ」は、澁澤龍彦の著書『記憶の遠近法』『魔法のランプ』からとって追悼の意を込めたのか……と思いきや、「ジョン・ラスキンの『建築の七燈』第六章「記憶のランプ」からとっている」(本書「あとがき」)ということでした。


富士川義之 記憶のランプ


帯文:

「プルースト・ラスキン・ペイター・パウンド・バラードなどロマン主義以降のイメージ・記憶をたどる著者の第三評論集。」


帯裏:

「収録した十二篇のエッセイはすべてこの五年間に書いたもので、文学的モチーフもテーマもそれぞれかなり異なるが、こうして一冊にまとめるにあたり改めて読み返してみると、自分のなかに、ある抜きがたい嗜好というか、一種の習癖みたいなものが存在することに気づかざるを得ない。/ともかく、ロマン主義以後急速に増大する、文学における記憶の微妙な作用への関心と、それに関連する諸問題ということが、本書の主要モチーフをなしていると言えようか。(「あとがき」より)」


目次 (初出):

I
文学と記憶――ワーズワス、プルースト、ナボコフ (「言語生活」 1986年3月号)
ピップの原風景――『大いなる遺産』をめぐって (『イギリス/小説/批評――青木雄造先生追悼論集』 南雲堂 1986年11月)
建築を読む――ラスキン、ペイター、プルースト (「ユリイカ」臨時増刊総特集「プルースト」 1987年12月)
ある唯美主義者の肖像――ウォルター・ペイター (『世紀末の美と夢・イギリス篇』 集英社 1986年9月)

II
樹木の神秘主義――パウンド (「ユリイカ」 1983年6月号)
パウンドの政治学――オルソンに即して (「ユリイカ」 1984年11月号)
英国の未来派――ウィンダム・ルイス (「ユリイカ」 1985年12月号)
一九二〇年代の恋人――ナンシー・キュナード (「ユリイカ」 1985年10月号)

III
ゴシップの漂う別世界――アガサ・クリスティー (「ユリイカ」 1988年1月号)
熱帯のバラード (「ユリイカ」 1986年6月号)
J・G・バラードとカタストロフィーの風景 (「ユリイカ」 1985年5月号)
イングランド讃歌――ジェフリー・ヒル (「ユリイカ」 1986年12月臨時増刊号)

初出一覧
あとがき




◆本書より◆


「文学と記憶」より:

「文学における記憶の機能という、決して一筋縄では行かない、大変厄介な課題についてあれこれ思いめぐらしているときに浮んできた名文句がある。“Proust had a bad memory”というのがそれだが、これは(中略)ごく初期のサミュエル・ベケットの評論『プルースト』(一九三一年)のなかに見出せる一句である。これを吉田健一は「プルーストは悪い記憶の持主だった」とかつて訳したことがあるが、この場合の「悪い記憶の持主」が反語であることは言うまでもなかろう。」
「西暦紀元前の何世紀にどういうことがあったなどというようなことを、ただ機械的に覚えているだけで、そういう既成事実のみを、いつでも、際限なく引き出せる人を良い記憶(博識)の持主だとすれば、『失われた時を求めて』の作者は「悪い記憶の持主」と呼ぶほかない、いわゆる良い記憶の持主とは決定的に位相を異にする記憶の持主だというのが、吉田氏及びベケットの所論にほかならないのである。この反語としての「悪い記憶の持主」というプルースト理解は、記憶は必ずしも個人の自覚した意志によってのみ甦るものではないことを明らかにしたこの大作家における記憶と文学のかかわり合いを一言で要約した大層印象的な表現だと思う。と同時に、これは、ひとりプルーストのみにとどまらず、ルソーやワーズワスからナボコフにいたる、あるいは吉田健一にいたると言ってもよい、記憶と時間への強い執着を基盤としながら自己の文学世界を築き上げていった多くの文学者たちにも当てはまる名言ではないのか。敢えてそう言ってみたくなるほど、まったく人の意表をつくベケットの寸言は、知性や習慣や用途や目標などの軛に縛られた日常的記憶とは異なるもう一つの記憶、心の内奥に埋もれたまま発掘されるのを待っている、いわば宝物に等しい深層の無意識的記憶への強烈な関心に突き動かされた、一群の文学者たちの特性を鋭く衝いているように思われるのである。」

「ところがプルーストは、昼の思考にはなじめず、「忘却の織りなす編み細工や飾り模様」を一つ残らず逃すまいとして、暗幕を張った部屋に電燈を燈して昼を夜に変じ、記憶の糸をたぐり寄せるという仕事にすべてを捧げたのだった。」

「ワーズワスはここで、「純真な幼年時代」についての記憶の回復ということがもたらす精神的治癒力について語っている。現在の不幸は「遠く過ぎ去った日々」を甦らせることによって、その過去をふたたび生き生きと感覚し、そのなかでふたたび生きることによってのみ癒やされるという、プルーストとも、あるいはナボコフとも明らかに共通するところのある記憶の重要な機能について語っているのである。」

「ワーズワスは詩人とは「不在のものがあたかも存在するかのように、不在のものに他のどんな人たちよりも影響されやすい性向の持主」と定義したことがあるが、ノスタルジアが窮極的に向うのは、まさしくこの不在を措いてほかにはないのである。」



「ある唯美主義者の肖像」より:

「ペイターにとって、モナ・リザは、美と恐怖、恍惚と戦慄の入り混じった複合的なイメージとして見られていた。ここで伝記的事情について少し述べると、ペイターがルーヴル美術館で初めてモナ・リザを見たのは一八六四年のことである。二人の妹を連れてパリ旅行をした折のことなのだが、モナ・リザを見たあと、彼は一人で、当時の観光客たちがよく訪れた身元不明の死体を収容する有名な死体公示所(モルグ)をも見物したという。モナ・リザと死体公示所という、一見結びつきそうにもない経験が、ペイターの脳裡で結びつき、モナ・リザ描写に不吉な死の影を投げかけるにいたったのではないかと、ある伝記作者は推測している。」


「ゴシップの漂う別世界」より:

「そこには、地方性というものに徹底的に執着することによって、ある普遍性に到達することを希う精神の志向性が明白に認められるように思われる。」


「熱帯のバラード」より:

「『闇の奥』は激しい狂暴な原始的自然の呪縛のなかで歪められる人間性の破滅、荒廃を主題とする作品だが、表題の「闇の奥」が、暗黒大陸の闇の奥であると同時に、人間性の闇の奥でもあることはここで念を押すまでもなかろう。また人間性の闇の奥への熾烈な関心が、暴力的なトロピカル・イメージの執拗な反復を通じて提示されていること、そこにこの中篇の最大の魅力が存在することもまた改めて贅言を要しないだろう。ジャングルの深奥部へと突きすすむことは、ここでは明らかに、闇に包まれた人間性の起源を探ることと等価に見なされているのである。
 ひるがえってバラードの破滅四部作を見るとき、彼もまた、反復強迫めいた熱帯の自然の災厄や猛威のイメージのおびただしい氾濫を通じて、人間性の闇の奥にうごめく奇怪な衝動に照明を当てようとしていることが知られるのである。その意味で破滅四部作は、その基本構造において、敢えて言うなら、『闇の奥』の新しいヴァリエーション、いわばそのSF版といった特徴をもつ作品群であるように思われる。」



「J・G・バラードとカタストロフィーの風景」より:

「しばしば強迫観念的とも見えるし、時にはいささかあざとく悪趣味的とさえ思えるこうした死や破滅のイメージを、バラードは平然とクールに並べ立てていく。ただ列挙しカタストロフィーの風景のカタログ作りに精を出すだけではなく、その一つ一つのイメージに否応なくのめり込み、執着し、魅惑されるのだ。しかもこの作者にあって特徴的なのは、カタストロフィーに対して、それが通常もたらす人間的感情――不安であれ、恐怖であれ――の側面には、はなはだ無関心だということである。」

「こうした黄金時代の夢、楽園志向は、バラードの場合、死と破滅への耽溺と劇的に対立する要素としてではなく、それと表裏一体となり、それとぴったり重なり合いながら顕示されていく。バラードが自然科学的ないしは社会科学的な趣向を重視する従来のSFの手法を批判して、「外宇宙」よりも「内宇宙」に注目せよと主張したことはよく知られているが、「外なる現実と内なる精神が出会い、融けあう場所」としての「内宇宙」の探究をつづけるこの作家にとって、『結晶世界』は、『沈んだ世界』や『燃える世界』などとともに、カタストロフィーがすなわち楽園に通じ、死は宇宙の内的な秩序の一部と化すことにほかならぬという観念を最もあざやかに刻み込んだ作品である。(中略)『結晶世界』の主人公は水晶の森を「時間のない風景」と見なし、「動機と素姓の問題」から解放され、「心のなかのアンバランス」を最終的に解消してくれる唯一のものは、「あの水晶世界のなかにしか見つからない」と思う。」



「あとがき」より:

「収録した十二篇のエッセイはすべてこの五年間に書いたもので、文学的モチーフもテーマもそれぞれかなり異なるが、こうして一冊にまとめるにあたり改めて読み返してみると、自分のなかに、ある抜きがたい嗜好というか、一種の習癖みたいなものが存在することに気づかざるを得ない。ユングはかつて、現代人は魂を求めているのではなく、魂の故郷を求めているのだと述べたことがあるが、この「魂の故郷」というべきものを求めてそれに明確な線と輪郭をもつかたちを与えようとする志向性を判然と示す文学者たちの仕事に、何よりもまず強い魅力を感じているのである。起源の探求の衝動、さらには原初の楽園への回帰の夢によって紡ぎ出されるさまざまな文学世界、その文学世界がたとえばどのような風景志向を通じて形象化されているのか、などといったようなところに、ぼくの関心の根のようなものが見出されるだろう。
 それは記憶のランプが照し出す文学世界と言い換えることができるかもしれない。ともかく、ロマン主義以後急速に増大する、文学における記憶の微妙な作用への関心と、それに関連する諸問題ということが、本書の主要モチーフをなしていると言えようか。」













































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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