清水徹 『書物について ― その形而下学と形而上学』

「シュレーゲルの考える断章は「小さな芸術作品」のようではあるが、それはけっして完成を意味しない。「はりねずみ」のように刺々しく、あるまとまりでありながら、完結性、全体性というものから切りはなされているばかり、ほとんどそういうものを排除するような孤絶性をそれは示している。だからこそ彼らは、そういう自分たちの表現形式を命名するために、(中略)「アフォリスム」とか「マキシム」という語を用いず、語源的に「細かく砕かれたもの」を意味する「断章=断片」“Fragment”という語を選んだ。「断章=断片」という語のもつ否定性をそのまま維持しながら、積極性へと逆転させようと考えたのである。」
(清水徹 『書物について』 より)


清水徹 
『書物について
― その形而下学と形而上学』


岩波書店 
2001年7月25日 第1刷発行
vii 382p 口絵(カラー)ii 
20.5×15.5cm 
角背紙装上製本 プラカバー 
定価4,600円+税 
装丁: 中島かほる 
表紙絵: ボッティチェルリ「マグニフィカトの聖母」ウフィツィ美術館



本書「はじめに」より:

「わたしがここで試みようとしているのは、まず書物を物体として捉えたうえで、これまでのさまざまな書物論や書物史や書物文化史、そしてまたいろいろな文学作品を踏まえながら、わたしたちが、テクストではなく《書物》という物体に、どのような夢とどのような機能とを託してきたかという問題を、《書物》をめぐる《想像的なもの》のありよう、《書物》のもつ神話的価値の変遷、そして、《書物》の形而上学(テクストの志向するものを含む)などの視座から探ることである。」
「わたしがここで探ろうとしているのは、書物の物質性と書物の発信する情報とを不可分のものとした上で、いわゆる書物の「内容」なり「主題」なりと、すくなくともその基礎において溶けこんでいるもの、長い歴史のあいだに書物という物体そのものにあたえられた価値だ、と言いかえてもいいかもしれない。」
「なお、以下においてはヨーロッパにおける《書物》が中心となるだろう。それはわたしがフランス文学専攻の徒であり、書物の形而下学と形而上学という問題に関心をもつようになったのも、ステファヌ・マラルメの撰文集『彷徨妄語(ディヴァガシオン)』と、ミシェル・ビュトールのいくつかの作品を読んだことがきっかけとなったからである。本来なら、ヨーロッパにおける《書物》といろいろな意味で対照的な日本における《書物》についても論じるべきであろうが、わたしにはそのための充分な準備がなかった。」



カラー口絵は「ベリー公のいとも美しき聖母時祷書」、「USA 76 アメリカ合衆国建国200年記念キット」(ジャック・モノリ)。
本文中図版(モノクロ)多数。


清水徹 書物について 01


帯文:

「書物/本とは……、
ほんとうに
ただものではない!」



帯背:

「もの
としての本」



帯裏:

「いつも手元にあって慣れ親しんでいる本/書物。書物とは何だろうか? 「もの」としての書物が世に現れて、現代に至るまでその身につけてきた特質とそのありよう。書物という物体とその内容をなすものがひとつに溶けこんだ相において自在に語られる「書物への夢 夢の書物」。
その考察はおのずとヨーロッパ精神史を飾る多くの詩人、作家、思想家たち――マラルメ、ユゴー、ダンテ、プラトン、ビュトールら――の書物との関わり、文人たちの測り知れない書物への想いへと及んでゆく。……そして今!」



目次:

Ⅰ 書物の考古学
 書物の誕生から確立へ
  書物の起源
  ページの成立
  口頭言語から書物へ
  図書館の誕生
  神話としてのアレクサンドリア図書館
 象徴としての書物
  古代オリエント世界、あるいは書物と死
  旧約聖書の世界における書物
  聖書による戴冠
 コデックス革命
 《書物》の達成
  『神曲』における《書物》の達成
  美しい書物

Ⅱ 近代性と書物
 グーテンベルク革命
  グーテンベルク革命
  ユゴーの幻視
  「毒」としての活字印刷
 図書館をめぐる想像界(イマジネール)――バベルの影――
 《書物》と文学的絶対――『アテネーウム』誌グループ――
 バベルの影のもとに
  第二の印刷革命
  シャルル・ノディエと《書物》へのアイロニー
  古書ブームとノディエ
  ヴィクトル・ユゴーと書物幻想

Ⅲ マラルメと《書物》
  書物の物体性への関心
  活字と版画
  襞・折り目
  挿絵入り豪華本をめぐって
  《書物》の神話
  ふたたび、襞、折り目
  公衆への呼びかけ
  書物としての劇場
  書物における音楽
  書物とバレエ
  『賽の一振り』について
  断章性・未完結・多義性
  《究極の書物》

Ⅳ バベルのあと
  新たな地殻変動
  ミシェル・ビュトールの位置
  書物における非連続
  《文庫本》論争
  《リーヴル・ダルチスト》、或は書物の物質性と視覚性
  そして、いま


あとがき



清水徹 書物について 03



◆本書より◆


「象徴としての書物」より:

「こうした「ピラミッド・テクスト」や「死者の書」を書いた古代エジプトの書記と、ずっとあとの近世以後における作家とは、ともに、死とエクリチュールとの深い関係において、同じ位置にいると言えるだろう。古代エジプトの書記は、生と死とをへだてる境界を超えて、生を死へと連続させるために「死者の書」を書いた。それは、死を断絶とは見ず、死を押しのけようとする試みであると同時に、生のなかに死を導きいれようとする試みとも見える。死を生へと転位させるのか、生を死へと転位させるのか。いずれにせよ、そこには何か奇妙にねじれた二重性のようなものがある。というか、この「転位」は治療なのか殺害なのか、そこに介入するのは毒なのか薬なのか?
 この奇妙な二重性は、デリダが精妙な手つきで分析した、エジプト王にトート神のささげる文字の、「パルマコン」としての奇怪な多義性と、あざやかに照応する。文字は「薬、毒、媚薬、魔力、治療法」という役割を演じる。文字は記憶の助け、記憶への薬の役割を果たすと同時に、記憶力にとっての毒、記憶力を殺すものでもある。
 古代エジプトにおけるような冥界への信仰が薄れ、死を生からへだてる境界の厳然たる乗り越え不可能性がつよく意識されてゆくようになっても、文字は「パルマコン」としての対立する性質を変わらずに保ちつづけてゆく。死の世界へと去った人びとの残した囁き、嘆き、喜びを、消えてゆくままにまかせず、のちに来る者たちに伝えようとする意志、そうやって生と死とをへだてる境界を無くそうとする希望が、著述家に託されるだろう。生を死からへだてる境界にこだわり、生と死とをへだてる境界を「書く」という行為で乗りこえようとする意志は、ふつうの個人の地平においても認められるものだ。何か大切だと思うことを死後につたえるため、自分の個体としての限界のそとに残すために、ものを書く。いまそれを書かなければ、明日は自分が死んでいるかもしれず、あるいは生きていても忘れてしまうかもしれないから、いま書いておく。そんなふうに、自分のなかに、あるいは自分のまわりに、たえず死の脅威を感じながら、それに抵抗し、それを押しのけるために書く。
 よく言われるように、作家はあの『千一夜物語』の語り手シャハラザードに似ている。夜のあいだシャハリヤール王に物語を語るシャハラザードは、もしかしたら(中略)夜明けとともに殺されるかもしれない。そういう夜の闇の時間の恐怖のなかに生きながら、語りつづけることで、死を遠のけてゆき、そのことがもしかしたら語り手のまわりの世界にもいくばくかの明るさをもたらすことになる。いや、ただたんに死から束の間のあいだ逃れるというだけではなく、より本質的には、闇のなかで語りつづけること、死の空間のなかで書くことが、語られたもの、書かれたものそれ自体のなかに、何らかの変質をもたらさずにはおかないだろう。モーリス・ブランショははっきりとそういう変質に、「文学の誕生」を見る。このように死とエクリチュールとの関係は、自覚的な作家の意識の基底部をなしているはずであり、こうして《書物》はその誕生のときから、死に浸されていると言ってもいいのである。」



「《書物》と文学的絶対」より:

「もしも神的な秩序への信頼にひびがはいり、中世風の調和に安住できなくなったという意識が《近代》であるならば、シュレーゲルはまぎれもない《文学的近代》を明確にしるしづけた。そして、そのようにして神的なものとのあいだに否応なしに内的距離を生じさせてしまった意識が、なお《絶対》を希求するとき、それは、けっして到達されることのない探索、無限なる道程、ついに未完結としてある作品というかたちをとるだろう。」

「ドイツ文学に昏いわたしがあえてシュレーゲルと《イエナ・ロマン派》をもちだしたのは、とりわけシュレーゲルとノヴァーリスによって輪郭づけられた理論布置のなかで、《書物論》のもっとも重要な要素である《至高の書物》ないしは《象徴としての書物》の観念が、改めて《近代》の光をあびて大きく浮かびあがっているからである。《書物論》という視野のなかに置きなおしてみると、キリスト教の聖書からダンテの『神曲』に到るまでのあいだで確立された《至高の書物》という考え方が、十八世紀末~十九世紀始めというヨーロッパ史のいわば分水嶺をなす時点で、シュレーゲルとノヴァーリスとによって《近代》へと転位され、はっきりと新しい意味づけがなされた。
 シュレーゲル-ノヴァーリスの《書物論》の主軸のひとつは《断章》の観念である。」
「《イエナ・ロマン派》の人びと、とりわけシュレーゲルとノヴァーリスは、表現の凝縮性、文体の鋭利、表出される思考の辛辣などを超えて、断章に独自の価値をあたえた。

   私は、私自身の全体、全体的な私に関して、断章の体系以外のいかなる標本もあたえることはできない。なぜかというと、私自身が断章の体系そのものなのだから。
   〔一八九七年十二月十八日付、兄アウグスト宛の手紙〕

 実際、彼らの著作のなかには断章という独特な形式が、(中略)かなり多くの量を占めている。だがそれらの断章は、いろいろなところで発掘されたり発見されたりする古代の作品のかけらのように、ある作品が崩壊して切れ切れの部分が断片として残ったというのでもなく、またパスカルの『パンセ』のように、何かある巨大な制作意図が途中で作家の死などの理由から完成に到らず、断片的なかたちで残ったものというのともちがって、言説としての展開と発展をはじめから拒否し、いわば凝縮した思弁として放りだされたような言語表現形式なのである。」
「シュレーゲルはこんなふうに言う。

   古代人のいくつもの作品が、いまでは断片と化してしまった。近代人の多くの作品は、誕生においてすでに断片である。
   〔『アテネーウム断章』二四〕

 言説が有機的な展開をへて完成へと到るという可能力をはじめからもたず、あるいはそれを否定するような何ものかをみずからのうちに含んでいるために、はじめから断章というかたちをとる。――そういう性格をもっともたくみに喚起しているとして、しばしば引用される断章。

   ひとつの断章とは、ちょうどひとつの小さな芸術作品のようなもので、周囲の世界から完全に切りはなされていて、しかもそれ自身として、はりねずみさながらのかたちで完全なものでなければならぬ。
   〔『アテネーウム断章』二〇六〕」

「シュレーゲルの考える断章は「小さな芸術作品」のようではあるが、それはけっして完成を意味しない。「はりねずみ」のように刺々しく、あるまとまりでありながら、完結性、全体性というものから切りはなされているばかり、ほとんどそういうものを排除するような孤絶性をそれは示している。だからこそ彼らは、そういう自分たちの表現形式を命名するために、この種の簡潔な言語表現を指示する言葉としてその当時すでにあった「アフォリスム」とか「マキシム」という語を用いず、語源的に「細かく砕かれたもの」を意味する「断章=断片」“Fragment”という語を選んだ。「断章=断片」という語のもつ否定性をそのまま維持しながら、積極性へと逆転させようと考えたのである。」



「あとがき」より:

「こどものころから本を読むことはまあ好きだったが、よく考えてみると、本を読むことより本を買うことのほうがもっと好きだったような気がする。本についてのもっとも鮮明でもっとも早い記憶のひとつは、たぶん十歳前後のころ、はじめてひとりで電車にのって本を買いにいったときのことである。そのころ東京の下町に住んでいたわたしは、家の近くから当時の市電にのって、(中略)駿河台下の三省堂書店まで行って、あれこれと眺めてから握りしめていったお小遣いで何か一冊を買った。お目当ての本、読みたい本を買うという行為それ自体もうれしかったが、それにもまして本を自分の所有物として手にもって帰ってくるという快感はたとえようもないものであった。そうやって買った本はいろいろと記憶に残っているが、なかでも忘れられない本、もっとも愛読した本は、澤田謙というひとが書いた『プルターク英雄伝』である。焦げ茶色のクロース装の表紙の手触りまで覚えている。いったい何度読み返したことだろう。とうとう最後にはばらばらになり、消滅してしまった。
 もちろん、《書物論》というようなものを考えるようになったのは、ずっとあと、フランス文学の勉強をはじめ、マラルメやビュトールを読みだしてからのことである。(中略)あるときビュトールが『物体としての書物』という評論を寄稿していたので興味をそそられてページを開いて愕然とした。この雑誌では各論文の冒頭に、そこで対象とされている書物名が列挙されている。ビュトールの評論で対象として掲げられているのは、何と、いわく――テオクリトス『田園詩』、『ラブレー全集』、バルザック《人間喜劇》プレイアード版第四巻、『ルイス・キャロル全集』、『マラルメ全集』、そしてディラン・トマス『全詩集』というものである。(中略)彼としては、書物の物体性、ページのうえの活字配置など、ほとんどだれも論じない主題を扱おうとして、その問題を考えさせる著作をずらりと並べたのだった。
 愛読し翻訳もしていたビュトールがマラルメを論じているというので早速読みだした。するとまたも驚くべきことに、本来一本の線である文章を適当な長さに切って並べたのがページの始まりだとか、名辞を列挙するときにはラブレーがやっているように、叙述のなかにつづけて書くのではなく、その名辞だけを縦に並べるのが読みやすいばかりか、それが列挙であることが明瞭になるとか、もっぱら書物の形而下的面ばかりを論じていた。はじめてわたしは、書物の物体性を考え直さねばならぬことを教えられたのだった。これがこの本の起源である。」















































































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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