オクタビオ・パス 『マルセル・デュシャン論』 (宮川淳・柳瀬尚紀 訳)

「彼の関心をひく唯一の法則は、ただひとつのケースにおいてのみ、そしてただひとつの機会にのみ適用されうるような、例外の法則なのである。」
「デュシャンはパンテオンにおさまろうとも浮浪者に終わろうとものぞまないが、しかし彼が《同化された芸術家》の運命よりは社会の除け者のそれを好むことは明らかである。」

(オクタビオ・パス 「純粋の城」 より)


オクタビオ・パス 
『マルセル・デュシャン論』 
宮川淳/柳瀬尚紀 訳


発行: 書肆 風の薔薇
発売: 白馬書房 
第1版第1刷 1990年12月20日印刷/1991年1月10日発行
第1版第2刷 1991年4月20日印刷/1991年4月30日発行
134p 別丁図版(モノクロ)8p 
四六判 角背紙装上製本 カバー 
定価1,545円(本体1,500円)
装幀: 中山銀士
見返写真: 稲川徹



本書には、オクタビオ・パスによるニ篇のデュシャン論が収録されています。宮川淳訳「純粋の城」(Marcel Duchamp ou le château de la pureté)はフランス語版単行本からの訳で、雑誌『gq』1974年5~7月号に掲載されました。柳瀬尚紀訳「★水はつねに★複数形で書く」(★ water writes always in ★ plural)は、1973年にフィラデルフィア美術館で行われたデュシャン回顧展のカタログに掲載された文章(英訳)の訳で、『エピステーメー』1977年11月号に掲載されました。


パス デュシャン論 01


帯文:

「緊急出版
ノーベル文学賞
受賞!
オクタビオ・
パスの
現代
美術

……デュシャンの『大ガラス』作品とともに、
われわれの伝統は終わる。
あるいはむしろ、この作品とともに、
またこの作品を前にして、
未来の絵画を
はじめなければならないだろう。
もし絵画が未来をもち、
未来が絵画をもつとすれば。……」



帯背:

「〈網膜的〉絵画の彼方へ」


パス デュシャン論 02


カバーはトレーシングペーパーのような半透明の紙の裏側に文字とモノクロ図版が印刷されていて、本体表紙のカラー図版が透けてみえるようになっています。


パス マルセルデュシャン論 03


目次:

純粋の城 (宮川淳 訳)
★水はつねに★複数形で書く (柳瀬尚紀 訳)

あとがき (阿部良雄)



パス デュシャン論 04



◆本書より◆


「純粋の城」より:

「デュシャンがやったすべては『大ガラス』に集中するが、これは一九二三年、決定的に未完となった。(中略)デュシャンは、視覚芸術も含めて、あらゆる芸術がある目に見えない領域で生まれ、終わることをわれわれに示した。本能の明晰さに彼は明晰さの本能を対置した、つまり目に見えないものは不明瞭でもなければ、神秘的でもない、それは透明なのだ…… (中略)デュシャンのケースが――マックス・エルンスト、クレー、デ・キリコ、カンディンスキーその他のいく人かのそれと同様――私を熱中させるのは、それが《最良》だからではなく、類例がないからだ。これこそ彼にふさわしく、彼を定義することばである。」

「デュシャンは機械崇拝の徒ではない。それどころか、未来派とは逆に、彼は近代の機械の活動の破壊的性格を非難した最初の者のひとりであった。機械は残滓の巨大な生産者であり、これらの廃物は機械の生産能力に幾何学的に比例して増大する。われわれの都会を散策し、その有毒な雰囲気を呼吸するだけで充分そのことは納得できよう。機械は破壊の手先なのであって、デュシャンを熱中させる唯一のメカニズムが、予期しえないやり方で機能するそれ――アンチメカニズムであるのはそこから由来する。これらの装置は言語遊戯の分身である。つまり、それらの突飛な働きはそれらを機械としては無に帰させるのだ。有用性に対するそれらの関係は、動きに対する遅延の、意味に対する《無意味》の関係と同じである。それは自分自身の批判を蒸留する。」

「彼の関心をひく唯一の法則は、ただひとつのケースにおいてのみ、そしてただひとつの機会にのみ適用されうるような、例外の法則なのである。」

「デュシャンは彼を動かした意図についてしばしば語っている、「私の意図は眺められるべき絵をつくることではなく、絵具のチューブがそこでは目的としてではなく付属品として用いられているにすぎないような絵をつくることだった。それが文学的と呼ばれる事実は全く問題にならない。それというのも文学的という言葉のもつ意味はきわめて広汎で、全く説得的ではないからだ。……網膜にしか訴えかけない絵画と、網膜をこえて進み、絵具のチューブをもっと先へ進むための踏台として使う絵画とでは大変なちがいがある。後者はルネッサンスの宗教画家たちの場合だ。絵具のチューブは彼らの興味をひかなかった。彼らの興味をひいたのはなんらかの形で彼らの神の観念を表現することだった。だから私が同じことをやらい直すわけではないが、いずれにせよ、純粋絵画はそれ自体として、目的としては興味がないという考えは私にもある。私にとって目的は別である。それはただ灰色の脳細胞だけがあらわすことに成功できるような結合、ないし少なくとも表現である」。」

「公的な画家はポピュラーな画家という意味ではない。デュシャンにとって、芸術とは陰謀家たちの間のメッセージのように分ち合われ、伝えられなければならないひとつの秘密である。彼の言葉をきこう、「絵画は今日のぞむがままに通俗化してしまった。だれも数学者同士の会話に口をはさもうとなどしないのに、夕食の席上で、ある画家と別の画家との優劣について長々とした会話をきくのはまったく普通なのだ。ある時代が産み出すものはつねにその凡庸さだ。産み出されていないものは産み出されたものよりもつねにすぐれている」。別の対話で、彼は詩人アラン・ジュフロワにつぎのように話している、「画家は現在の社会に完全に組み込まれていて、もはや社会の除け者の類いではない」。デュシャンはパンテオンにおさまろうとも浮浪者に終わろうとものぞまないが、しかし彼が《同化された芸術家》の運命よりは社会の除け者のそれを好むことは明らかである。」



「★水はつねに★複数形で書く」より:

「裸体を見つめる眼差しと、この眼差しのなかにそれ自身を見つめる裸体との弁証法は、いやおうなしに古代異教の大いなる神話のひとつを呼び起こす。ディアーナの水浴とアクタイオーンの失墜である。妙なことに、この神話エピソードとデュシャンのふたつの大作との気がかりな類似性はいまのところ誰ひとり探求していない。」


パス デュシャン論 05



























































































































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難破した人々の為に。

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趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

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