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アンドレ・ブルトン 『魔術的芸術 普及版』 巖谷國士 監修

「「アンチ-リアリティ!」」
「いうまでもなく実証主義とははげしく対立するこの「反-現実」こそ、まさに本物の現実であり、グノーシス派が「光の財宝」のただなかへの跳躍によって到達する現実である。」

(アンドレ・ブルトン 『魔術的芸術』 より)


アンドレ・ブルトン 
『魔術的芸術 
普及版』
 
監修: 巖谷國士
翻訳: 巖谷國士・鈴木雅雄・谷川渥・星埜守之


河出書房新社 
2002年6月20日 初版印刷
2002年6月30日 初版発行
272p 22.2×17.4cm 
角背紙装上製本 カバー 
定価3,800円+税
装幀: 中島かほる



Andre Breton: L'Art magique, 1957/1991

横組。カラー図版161点、モノクロ図版71点、『魔術的芸術』原書(特装版および普及版)書影(モノクロ)5点。
新版『魔術的芸術』(1991年)の邦訳は河出書房新社から1997年に大型本として刊行されました。本書はその縮刷普及版です。大型本の巻末に掲載されていた「アンケート」は本書では割愛されています。



ブルトン 魔術的芸術 01



帯文:

「未知の領域をひらく美術史の革命的転換
シュルレアリスム思想・美学の集大成
20世紀最大の《幻の書物》、待望の普及版」



帯裏:

「刊行にあたって――
『魔術的芸術』はアンドレ・ブルトンの晩年の「大事業」である。古代エジプト絵画からデ・キリコまで、原始諸民族のオブジェからデュシャンまで、ケルトの象徴文様からエルンスト、タンギーまで、古今のあらゆる芸術の領域を踏査し、「魔術的」の一語をもってあらたな視野のもとに置き、さらにシュルレアリスムの理念に照らすことによって、美術史そのものを書きかえようとした壮大な試みである。
巖谷國士」



内容:

原著新版序文
自由な散策 (ジェラール・ルグラン)

魔術的芸術
芸術 魔術の伝達手段
 有史以前の芸術と今日の未開芸術
 古代諸文化の芸術、魔術の弁証法
 遠まわりの魔術、中世
近代 魔術の危機
 伝説的メッセージの継承
 ロマン主義的幻視と内的世界
 「大いなるあやかし」、眼の「錯覚」の不思議とその限界
 混沌(カオス)への誘い、表現主義から表意文字(イデオグラム)へ
 二つの大いなる綜合、ギュスターヴ・モローとポール・ゴーガン
ふたたび見いだされた魔術 シュルレアリスム

解題 (星埜守之)
後記――回想風に (巖谷國士)

図版索引
『魔術的芸術』普及版への注記 (河出書房新社編集部)
監修者・訳者略歴




◆本書より◆


「自由な散策」(ジェラール・ルグラン)より:

「現在の読者が『魔術的芸術』を受けいれるためには、まず視線を適応させることに同意してもらわねばならない。つまりこの書物は、この領域におけるシュルレアリスムの反省の総決算でも、未開民族の芸術のパノラマでも、多かれ少なかれ傍流に属する美的諸実践の概観でもなく、ある偉大な精神の、みずからの慣れ親しんだ世界のなかでの、自由な散策なのである。そう、つねに昂揚にうちふるえ、ときに不安をもたらしさえする、そういった親近性をもって慣れ親んだ世界だ。ところでそこに適応することの難しさの原因はとりわけ、それ以来、知識の普及の巨大な「進歩」がなしとげられてきたことに存する。それを知と呼ぶことにためらいはあるにしてもだ。通俗化の手段の拡大ということなのである。(中略)ボスや、さらにはフュースリの名までもが、いまや広汎な大衆に知られている。観光客が船でセピック川(ニューギニア)をさかのぼって、そこで自分たちの顔に彩色をほどこしてもらっているような時代に、「原始的オブジェ」を前にした「感動」について何を語ったらよいのだろう? だがかつてのあの時代には、人類学博物館の部屋部屋はどこもひとけのないままだった。教養ある人々の思想においてすら、もう標識が立てられていたはずのさまざまな地帯についての基本的な評価の材料が、矛盾にみちたものまでふくめて、欠けていたのである。」
「私が望みたいのは、人々がそこに、ある精神のいくつかの常数を認めることである。ランボーが標榜していた「ひとつの魂のなか、ひとつの肉体のなかの真実」という言葉にたえず依拠し(これをいうのは神秘主義だといって非難する声に対してだ)、「学識」の執念ぶかい職業的番人たちがこの要請の意味を切り刻んでしまうことに反対しつづけた、そんな精神のことである。」



「魔術的芸術」より:

「まず手はじめに、ノヴァーリスのようなきわめて高貴な精神の持ち主がこの問題についていだいていた観点から、しかるべき情報を得ることができるだろう。彼は、みずから促進しようと切望していた芸術の形態を描き示すにあたって、「魔術的芸術」という言葉をえらんだことがあるのだが、(中略)彼のとらえたこの言葉の意味のなかには、ある千年来の経験の産物が明確化されたかたちで見いだされるばかりでなく、精神と心情のもっとも輝かしい光が一個の存在のなかで例外的に結びついていたおかげで、その経験を超えたものさえ見いさだれることが期待できる。」
「ノヴァーリスの思想を通じてとらえることができるのは、この言葉が特殊語彙の域から出て一般的な境界にたどりつき、すこしずつ日常言語のなかへ流れこもうとした瞬間である。」
「ノヴァーリスは事実、パラケルススの「天にあり地にあるもので、人間のなかにも存在しないものはない」という観点と、スウェーデンボリの「あらゆる外観、あらゆる物質の形態は、自然の最奥にひそむ源泉を見透させる仮面、包皮であるにすぎない」という観点とを、等しくわがものにしてしまう。彼のいわゆる「伝統的」思想への忠実ぶりは、端的にこう表明されている。「われわれは宇宙のあらゆる部分とばかりでなく、未来、過去ともつながりをもっている。とくに重要であり有効であると思われるこうした強力な関係を確証できるかどうかは、われわれの注意の方向と持続力しだいである」と。」
「ノヴァーリスの目からすれば、魔術はたとえ儀式用の道具を失ってはいても、私たちの日々の生活のなかで、その効力のすべてを守りつづけているものだろう。」
「残念ながら(中略)ノヴァーリスは魔術的芸術について、覆いをかぶせた言葉で自分の考えを表明している。いわく、「数学は法にしか、つまり法的な自然や法的な芸術にしか関与せず、けっして自然や芸術そのものにはかかわらない。自然や芸術が魔術的なものになるのは、ただ徳化されるかぎりにおいてである。愛こそが魔術を可能にする原理だ。愛こそが魔術的に作用するのだ」と。ここで注意したいのは、「徳化(モラリザシオン)」という言葉にはどんな曖昧さもふくまれないだろう、ということだ。これが「精神化」の意味で用いられていることは異論の余地がないだろう。「徳」、つまり精神的なものに強調が置かれているのは、「フィジック(物質的)なもの」が日ましに重く私たちにのしかからせている担保のつらさをとりのぞこうとするため、またそのうえで、この二つの項の和解を可能にしようとするためにほかならない。同様に「愛」という言葉も、精神化され、純化された欲望という意味でしか理解できない。「愛する心は精神のあらゆる要望を満足させる」。ここで私たちは、じゅうぶんに進化をとげた魔術的概念と出くわすのだ。その概念は神秘主義者たちの要求にこたえることをやめはしなかった。彼らにとっては、魔術は「それ自体としてひとつの意志にほかならず、その意志こそがあらゆる不思議、あらゆる秘密の大奥儀である。それは存在の欲望の求めに応じて作用する」(ヤーコプ・ベーメ)。同時にこの概念は、ひとつの世界のなかに、つまりすべてが共謀して閉ざそうとしてきた私たちの世界のなかに、みずからの出口を(中略)探しもとめるのである。」

「「ある農夫が」とエリファス・レヴィはいう、「毎朝二時か三時におきて、陽ののぼる前に家からずっと遠いところへ行き、おなじ草を毎日一本ずつ摘むことをしたとすれば、彼はこの草を身につけることによって、数多くの奇蹟をおこなうことが可能だろう。この草は彼の意志のしるしとなり、その意志に応じて、彼がそうなってほしいと欲望のままに命じるすべてのものになりさえするだろう」(『高等魔術の教義と儀礼』)と。どんな本物の詩人、本物の芸術家が、これに異をとなえたりするだろうか? なるほどこれは、公認の教育が気にもとめないような意見である。そういう教育はこの種のヘルメス的隠秘学の伝統にとりこまれがちなあらゆる思想を即座に嘲弄し、なんの手つづきもふまずに排除してしまうからだ。(中略)詩人たちは公認の教育とは反対に、こうした声にはすこぶる注意ぶかく耳を傾ける態度を示す。」
「そういうわけで、科学界では魔術のことを、逸脱した、遠くかけはなれた、低い意識水準にとどまっている民族グループに限られた実践であるとみなし、研究対象としては、人間精神のおぼつかない第一歩を照らしだす興味しかもたずにいるのだが、他方の領域では、根本的に異なる考え方がうかびあがっている。それによれば、現在の意識水準(中略)を超えることの原理一切が、自然の秘密についての学という意味での魔術のなかにあり、それ以外のところにはありえない、ということになる。(中略)「魔術には」とエリファス・レヴィは説明する、「ただひとつの教義しかなく、それはつぎのようなことだ。見えるものは見えないものの顕現である。いいかえれば、感じとられ目に見える事柄のなかには、われわれの感覚にはとらえられず目には見えない事柄と正確に比例するようなかたちで、完全な言葉が存するのである」と。したがってここには、学者たちの視線とはもはやなんの共通点もない視線がある。」
「魔術が前面に押しだす根本原理を、この著者(引用者注:「ルイ・ショショー」)のつぎの言葉ほどうまく説明している例はこれまでになかったのではないか、と思われる。「宇宙はひとつの球体のなかにつつみこまれており、その半径は無限であっても有限であってもいい。ひとつの星を中心とする天体の複合集団が、その球体のなかを、重力、磁力、熱力から想像できるようないくつかの基本的な力によって、めぐりめぐっている。それぞれの衛星、それぞれの惑星の上では、さまざまな存在たちが組織と構造を与えられており、そのさいに作用しているのは、それらの存在たちをのせて運ぶ星に行きわたり、しかも王者である恒星に起源をもつようなダイナミズムである。存在たちはそれぞれの種族の可能性に応じて、だがつねにひとつの感応力にしたがって生きている。主導的な恒星に由来するこの感応力こそ、存在たちを化学的にも生物学的にもこの星と一体化させているものだ。……動物、植物、鉱物といった被造物をたがいに区別している差異がどれほど大きくても、摂理にもとづいた驚くべき調和を具現する一連の関係が、それぞれのあいだにこのうえない連帯を打ちたてている……」。
「魔術の基礎をなす一般的理論には、ある副次的な部門がふくまれている。それは原則としてどんな星の世界にも関係するが、たいていはこの地上界に適用されている部門である。すなわち“万物照応(コレスポンダンス)の理論”がそれだ。宇宙のなかの一切が多くの場合、合理的に説明のつく特定の法則にしたがって構成されており、運動してもいるということから、魔術はこんな結論をみちびきだす。すなわち、地上界ではどんな存在もひとつずつ構造をもっているが、それぞれの構造に特有の性格は、宇宙のエネルギーのさまざまな組みあわせがそれぞれの存在のなかに局在した結果なのだ。たとえば、一片の銅と、一本のクマツヅラの茎と、一羽の鳩とのあいだには、組織上、形態上、密度上、等々の差異がある。とはいえこれらの対象は、外見がいかに異なっていようとも、おなじひとつのダイナミズムの拠点であることには変りがない。このダイナミズムは鉱物の場合には潜在的であり、動物の場合には流動的、活動的、そしてある程度まで知性的ではあるが、どれもおなじ種類のものである。占星術の教えるところでは、この種の存在たちを生じさせている決定因のなかで支配的だった宇宙的感応力は、金星から来ている。したがって、金星に感応されたすべての触知可能な果実のあいだには、ある共感、ある相乗作用が存する。自然三界に例をとれば、銅とカーネリアン石、銀梅花とクマツヅラ、鳩と牡牛がそれにあたる。その結果、実践の面では、金星の感応下にあるひとりの人間存在は、たとえばカーネリアン石と銅とが構成に加わっている“護符”を身につけることによって、自分に特有の潜在能力を増大させることができるわけである」。
 ここにはあのボードレールの、想像力の機能と構造そのものにかんする有名な理論とおなじものが――語彙にいたるまで――認められる。想像力とは、「まさしく無限なるものと類縁をもち」、「世界のはじまりにあたって」アナロジーを、隠喩をつくりだしたものなのだ。」
「魔術師たち、芸術家たち、詩人たちに共通するこの「原初の力」については、万物照応の理論こそが、いわばその戦術的転化として、本当の意味で現実の核心に分けいるために欠かすことのできないものを提供してくれる。そうした現実においては、「ひとつのイメージは寓意でもなく、未知の事柄の象徴でもなく、それ自体の象徴なのである」(ノヴァーリス)。ひとつのイメージは絶対的な独創性をおびながら、無垢のひろがりをもつ共鳴音をあたかも宇宙の他の部分と結びつけるようにして私たちのうちに響かせながら、いわばその誕生の瞬間にこそ見てとれるものである。」

「ここでは魔術の歩みが宗教の歩みに先だつものだったのか、それともその逆なのかを決定することは控えよう。(中略)以下の事実を思いおこせば足りるだろう。すなわち、ある人々にとっては、魔術はもっとも直接的なアニミズムにもとづいており、宗教ほど入念な仕上げを前提としていない以上、宗教に先行するものでしかありえなかった、ということになる。(中略)フランソワ・レグサ(『古代エジプトにおける魔術』)が指摘しているように、「あらゆる時代、あらゆる場所で魔術はおこなわれてきたし、こんにちなお、われわれのあいだでもそれにふける者がいる。ひとりの学生が寝る前に教科書を枕の下にしのばせるとき、彼はいくばくかの魔力に頼っている。(中略)」。」

「すでに述べたように、この著者(引用者注:「ルイ・ショショー」)は「白魔術」と「黒魔術」とのあいだに設けられている区別に異をとなえながらも(「本来、ひとつの物理学、ひとつの化学、等々しか存在しないのと同様に、ひとつの魔術しか存在しない」)、この区別は唯一無二の魔術をあやつる称賛すべき動機、あるいは非難すべき動機を説明する場合には適当なものであると、まったく正当に評価している。頂上にまでいたる道は、これ以上ないほど狭い絶壁にそってつづく。結局のところ、そこに向って出発するさいのただひとつの保証は、心の純粋さ以外ではありえないだろう。」

「魔術の目的に適合しようと決めていようがいまいが、芸術作品は魔術そのものを起源としている(引用者注:「芸術作品は~」以下に傍点)、ということを忘れてはなるまい。たとえ純粋に「写実的」であろうと望んだとしても、芸術作品がその資源の重要部分を魔術に負うているという事実は動かしがたい。こうした意味で、あらゆる芸術は少なくともその発生において魔術的であろう。」

「多少なりとも構成原理に立ちもどってみれば、どんな芸術も魔術と密接な関係を保っていることがよくわかる。それにしても、このように魔術に依存しているという感覚が、長いこと思考を服従させてきた合理主義の潮流のおかげで、数世紀にわたって抑圧されてきたこともまた事実である。学校での型にはまった教え方も、ある種の技術的手段が必要(中略)だという考えを押しつけることで、芸術を、こうした芸術自身への反省からそらしてしまうことに役だってきた。こんにちでは、そのせいで芸術も豊かさを失ってきたことが一般に認められる。(中略)アカデミズムがもうそれ以上に被害をひろげないようにするためには、詩人たちからの抗議が必要だった。」

「明らかにもうひとつの行き方は、芸術の枠を超えたひろがりのなかで、もはや美ではない魔術的なものをこそ熱望し、美に対する魔術的なものの優位性をきっぱり認めてしまうことだ。必然的にその行き方は人類のアニミズム段階における歩みを再現することになるだろう。つまり「地上から天空にいたるまで、もろもろの存在を統合し、配列し、活性化させている神秘的な力」(ルイ・ショショー)を人間に従属させられるような実践の総体を信じるところから出発し、原始的な「アナロジー」がもはや初歩的ではない観測を生みだしたその瞬間から、象徴思考(引用者注:「象徴思考」に傍点)に達してゆくような歩みをである。」

「存在の裏づけとなる魔術的荷重(引用者注:「荷重」に傍点)をはるかにすこししか失っていないものは、各地にちらばって生きのびている民族集団の活動の所産であるように見える。彼らは「原始民族」というおよそ不適切な名前で一括指示されているが、いまもなお、貶下(へんげ)的な意味をふくませるのでないかぎり「野生人」という用語のほうがふさわしいほどだろう。すなわち、(中略)あるものは諸大陸のさいはてに追いやられ、あるものは地上でもっとも不毛な界域に閉じこめられてしまっている老いた諸民族のことだ。(中略)魔術的トーテミズムにささげられた三冊の美しい書物(中略)の著者ロテュス・ド・パイニは、(中略)魔術というただひとつのもの(引用者注:「ただひとつのもの」に傍点)だけが、被造物人間に〈感受すること〉、〈思考すること〉、〈意志すること〉という三能力をあいついで授けてくれるのだといって感謝している。「こんにち」と彼女はいう、「人間の大きな種族のそれぞれは、深いところである精神的な糸につながれている。それは御伽噺(おとぎばなし)さながらの糸であり、動物的感受と、神秘な植物と、硬い石とから(引用者注:「動物的感受と~」以下に傍点)できている。……あまりにも非難されてばかりいた古い概念を、歴史の枠のなかに据えなおすべき時である。……大いなるトーテム(引用者注:「トーテム」に傍点)が古い歴史のすべてを支配していることを知らなければならない」と。こんにちまで生き生きとしたトーテムの精神を維持している芸術(とくにオーストラリアのアボリジニや、ニューギニア人や、アメリカ北東岸のインディアンの芸術)は、本書のような著述のなかでは特別の位置を求めている。」

「私たちは、魔術の秘儀を伝えると称する霊鍵や呪法書の図版から出発して、占星術、カバラ、タロットをはじめとする卜占術、護符づくりのような加護祈禱、さらにいくらか留保つきながら、魅惑的な絵画をもっとも豊富に提供してくれる錬金術を通り、図像学的探索をつづけてゆくことができるはずだ。美という角度から見れば、もちろん、こうした作品の呈する価値はじつに多様である。(中略)この点からは、行商文学を通じてひろまることのできた木版挿絵と、たとえばデューラーの版画作品とのあいだに、尺度の違いなどなにもない。両者が私たちにおよぼす魅力は、明らかに、発揮されている力量とはほとんど関係がない。魅力は基本的にはそれぞれの突飛な性格に存しており、私たちを面くらわせる力の大小に応じている。」

「どんな時代もみずからのためにいくつかの源泉をさかのぼり、そこから典拠を汲まなければならないものである以上、私たちの時代、ことさらに波瀾の多いこの時代が、遠くまで研究の手をのばさなければならないのは必然であった。」



「芸術 魔術の伝達手段」より:

「人間の祖先がゴリラであれ(東アフリカ)、オオハシであれ(ニューギニア)、死体であれ(ニューギニア)、あるいはまた豚であれ(ニューヘブリデス)、これらの祖先がとっている胎児のような姿勢や、小人のような立居ふるまいをすることからして、未開人たちが、われわれにはそれを考えだすのに数世紀が必要だった系統発生学のフロイト的法則を「感じとって」いると考えることが許される。ある遠い南海の島では、トーテムの精霊は化物のような老人の頭部をもちながら、しかし純然たる胎児の姿をしており、それはまるで、サンスクリット語のテクストやヘーラクレイトスの、はるかに洗練された思弁にあらわれる永遠の子ども(引用者注「永遠の子ども」に傍点)のようである。(中略)このような、いままさに消えさろうとしている「知」の虜(とりこ)になった民族には、西洋美学のもろもろの合理的カテゴリーなど必要のないものだ。しかもそれにもかかわらず、彼らがわれわれにもたらすのは、十全な(引用者注:「十全な」に傍点)、したがって概念的なメッセージである。「白人」の侵入の前に姿を消すことを選択した、「火の土地(ティエラ・デル・フエゴ)」のアラカルフ族の哀れな財宝は、どこか博物館のガラスのなかで、われわれの文明をいつまでも排斥しつづけることであろう。」

「ヒエロニムス・ボスは、完璧な幻視者である。彼の作品が忘却の淵からうかびあがって半世紀もたっていないが、すでにそれは絵画芸術の基盤そのものを再検討に付している。」
「17世紀には修道士ホセ・デ・シグエンサが、ボスのうちにきわめて正統カトリック的な救済の道を人々に教えようと腐心する熱心なキリスト教徒を見てとるだろう。だが、彼はまた意味深長なつぎのような言葉を書きもするだろう。「私の見るところでは、この人の絵画と他の人々の絵画とのあいだにある違いは、他の人々が、たいていの場合、人間を外側から見えるがままに描こうとするのに対し、この人だけは大胆にも人間を内側からあるがままに描くところにある」。」



「近代 魔術の危機」より:

「コージモ(引用者注:「ピエロ・ディ・コージモ」)に話をもどすなら、その本質的な関心は、古代の自然主義を、それも多神教などはうわべにすぎないような自然主義を創造しなおすことである。また彼はプラトン的な主知主義も知らないわけではない。この点についてジョルジュ・ピュデルコ氏は、のちのカルダーノのような汎心論(引用者注:「汎心論」に傍点)(この考え方では、石は地に植えられた植物(引用者注:「地に植えられた植物」に傍点)となる)や、魔術を普遍的共感と考えるピーコ・デッラ・ミランドラのような人物の発言を考慮に入れている。「枝と木を結婚させるように葡萄の木の枝をニレの木に接木する農民とおなじく、魔術師は、空と大地を結びつけ、下位の領域を上位の世界の諸力と密接な関係に置くのである」。
 神聖な閃光が森へと(すなわち物質へと)ふりそそぎ、森を燃えあがらせているが、そこに住む生物たちは、さしてそれを気にとめているようでもない。大火事にもほとんど動揺しないこの動物たちは、姿を変えた「精霊」なのではなかろうか。「人間よりは獣に近い」暮らしをしていたというコージモは、嵐をおそれてはいたが、植物に活力を与える雨が降るのを見ることには喜びも感じていた。死の観念によって恐怖と霊感にとらわれ、奇抜な自然現象を目にすれば、人間がそれを台なしにしてしまうことを想像するだけで何度でも怒りに襲われた。だから絵の題材に、動物性が「人間的なもの」を凌駕するギリシアの奇抜な寓話を選んだのである。彼の絵画は、黄金時代に属する発見、たとえば葡萄酒より古い蜜の発見を扱っている。この異教的性格は、(中略)風景の細部にまで浸透しており、それだけでなく、ある不思議な官能性、一種の太古的な汎性欲論を身にまとっている。そこでは半人半獣の生き物たちが、「理性」によって廃棄されてしまった世界の、もっとも忠実な証人となっている。」

「ゴーガンのたえざる「漂泊」のうちに、単なる異国の冒険への誘いを読みとるのはまちがいだろう。彼がポリネシアに出発したのは、彼のなかにポリネシアがあったからだ。」

「われわれはこの文明が今後どんなに手ごわい社会的問題に直面してゆかねばならないかを知っているが、この文明の性質についてはつぎのことしかいうことができない、すなわち、この文明のなかで生きていくためには、退化した一種の古典主義の最後の化身である科学的実証主義を、必要最小限のところまで切りつめねばならないこと、革命的なものもふくめて、経済上の進歩についての幻想を捨てねばならないこと、そして、それらすべてに先だって、「野生の」文化の遺産の上に詐術と死の影を重くのしかからせつづけているキリスト教のシステムを清算せねばならないこと。そう、もっとも「良心的な」社会学者・人類学者たちにはお気の毒だが、この「野生の」という言葉をこそいますぐに復権させるべきだろう。」



「ふたたび見いだされた魔術 シュルレアリスム」より:

「アンチ-リアリティ(引用者注:「アンチ-リアリティ」に傍点)! デュシャンがあるニューヨークの雑誌に送っていたこの魔術についての定義は、カンディンスキーにも、「具象派」デ・キリコにもひとしく通用する。いうまでもなく実証主義とははげしく対立するこの「反-現実」こそ、まさに本物の現実であり、グノーシス派が「光の財宝」のただなかへの跳躍(引用者注:「跳躍」に傍点)によって到達する現実である。」

「問題は未知のもの、はかりしれないもの(引用者注:「はかりしれないもの」に傍点)と真の協定を結ぶことである。その協定の条項は精神それぞれに応じて種々さまざまだろうが、それにしてもこれはサモトラーケー島の奥儀体得者たちにとっての、カベイロイの秘密をけっしてあかさないという誓約とほぼ比較できるものである。いやそれ以上に、中世の妖術師たちの名高い「悪魔との誓約」と比較したほうがよいかもしれない――ただしその場合には、神にも人間にも断じて「魂を売って」はならないという話になるわけだが。」




ブルトン 魔術的芸術 02



ブルトン 魔術的芸術 03



ブルトン 魔術的芸術 04



ブルトン 魔術的芸術 05





こちらもご参照ください:

ミッシェル・レーリス/ジャックリーヌ・ドランジュ 『黒人アフリカの美術』 岡谷公二 訳 (人類の美術)
ハンス・プリンツホルン 『精神病者はなにを創造したのか ― アウトサイダー・アート/アール・ブリュットの原点』 林晶/ティル・ファンゴア 訳
ロジェ・カイヨワ 『幻想のさなかに ― 幻想絵画試論』 三好郁朗 訳
マルセル・ブリヨン 『幻想芸術』 坂崎乙郎 訳
グスタフ・ルネ・ホッケ 『新装版 迷宮としての世界』 種村季弘+矢川澄子 訳
C. Whistler and D. Bomford 『The Forest Fire by Piero di Cosimo』















































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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