岡谷公二 『アンリ・ルソー 楽園の謎』 (中公文庫)

「つまり、すべては、ヤドヴィガの夢の中の風景なのである。そして夢みるヤドヴィガを、今度はルソーが夢みる。夢は二重なのだ。それは、二重鍵のように、この風景を現実からへだてる。いや、夢の二重鍵によって、この風景は、誰も乱すことのできない、彼一人の現実、日常の現実より一層真の現実となる。」
(岡谷公二 『アンリ・ルソー 楽園の謎』 より)


岡谷公二 
『アンリ・ルソー 楽園の謎』

中公文庫 お-50-1

中央公論社 
1993年7月25日 印刷
1993年8月10日 発行
312p 口絵(カラー)8p 
文庫判 並装 カバー 
定価680円(本体660円)
カバー画: ルソー「夢」



「文庫版あとがき」より:

「初版からすでに十年の月日が経っており、国外、国内において、ルソーをめぐる情況にいくつか大きな変化が生れているが、本書の所論に訂正を迫るていのものではなかったので、若干の辞句のほかは、本分には手を加えなかった。」


アンリ・ルソー評伝。初版は1983年2月、新潮社より「新潮選書」の一冊として刊行。本書はその文庫版。
本文中図版(モノクロ)多数。


岡谷公二 アンリルソー楽園の謎 01


カバー裏文:

「「飢えたライオン」から「夢」に至る“異国風景”と呼ばれた大作群は「現代絵画の大きな収穫であり、同時に問題を投げかける重要な作品である」。素朴画家に位置づけられながら、素朴派をこえる色彩豊かで不思議な画風と、画壇とは無縁な場所に生きたルソーの謎めいた足跡を辿り、不遇だったこの天才の実像を描き切った本格細緻な評伝。」


目次:

口絵 
 「風景の中の自画像」
 「ジャガーに襲われた黒人」
 「ジュニエ爺さんの馬車」
 「カーニバルの晩」
 「戦争」
 「眠れるジプシー女」
 「蛇使い」
 「詩人に霊感を授けるミューズ(カーネーション)」

第一章 故郷ラヴァル
第二章 メキシコの夢
第三章 パリ市入市税関
第四章 アンデパンダン展
第五章 アルフレッド・ジャリ
第六章 再婚
第七章 「蛇使い」まで
第八章 銀行詐欺事件
第九章 「詩人に霊感を授けるミューズ」
第十章 ピカソのアトリエで
第十一章 熱帯の楽園
第十二章 最後の恋

文庫版あとがき

アンリ・ルソー年譜
図版目録
参考文献



岡谷公二 アンリルソー楽園の謎 02



◆本書より◆


「文庫版あとがき」より:

「広く名を知られながら、ルソーほどその生涯も作品も謎にみちている画家は珍しい。ルソーの存在そのものが謎と言ってもいい。(中略)知れば知るほど、ルソーはこちらの手をすり抜けて、遠のいていくような気がする。(中略)ただ一つ、私にとって明らかになったのは、ルソーを素朴派に分類したのは、美術史の大きな誤りだったということである。(中略)彼は、ピカソ、ブラック、マチスらと並ぶ二十世紀前半の大画家なのである。」
「彼は、印象派からキュビスムに至る同時代のさまざまな流派とは無縁な場所に生きていた。それゆえそれらの流派のどこにも彼の席はない。
 ルソーは、ラスコーやアルタミラの洞窟の岩壁に動物画を描いた原始人のものに近い、呪術的ともいうべき絵画観の持主だった。その点で彼は、近代美術史の中でまったく孤立した異色の存在である。しかし美術史という枠をはずし、セザンヌの静物画を、町の教会堂の奉納画や、店の看板や、ポスターや、ちらし――ルソーは、そうしたものをどれほど愛したことか――と同じ視点で眺める立場に身を置くならば、ルソーは正統性を帯びて立ちあらわれる。彼は、中世以来培われてきた民衆の感性と想像力を受けつぎ、そうしたものの中に深く根を下ろしているからである。近代芸術は、このような土壌から乖離したところで生れた。
 どの流派にも分類できないルソーは、こうして近代芸術そのものに対する鋭い問いとなる。私が本書でなし得たのは、この問いにできるだけ明確な形を与えることだけであった。」



「第三章 パリ市入市税関」より:

「ルソーは、一八九三年に退職するまで二十二年間、入市税関に勤めた。しかし軍隊で万年二等兵だったように、パリ市入市税関でも、彼は一向に昇進せず、やっと最後に一等級あがっただけだった。ウーデは、ルソーの晩年、そのアトリエで知り合った、入市税関でのかつての彼の同僚の口から、ルソーの勤務振りについて話をきいたことがある。この同僚は、自分も退職したあと、時々ルソーの家に遊びにきていたらしい。(中略)「ルソーと彼は、グルネル橋で一緒に見張りの仕事をしたとのことだった。この老人は、座に居合わせた連中よりも、ルソーの能力についてよく知っていた。ルソーについての彼の評価は、あまり高いとはいえなかった。ルソーは、むずかしい仕事は一切出来なかった。で、河岸を走り回る仕事をさせられた。(中略)一体お化けを信じる人間が利口と言えるだろうか? 或る夜、彼等は、葡萄酒倉庫の樽のあいだに骸骨をたてかけておき、糸でそれを動かした。彼等は、ルソーが骸骨にていねいな口をきき、のどが渇いていないかと訪ねるのを見て、大いに笑ったものだ。多分彼は今でも、あの骸骨が生きていたと信じているにちがいない。それにルソーはあまり自分を外に出さず、自分に関心のあることしか話さず、同僚とは冗談口もきかなかった。彼はどこかにたった一人で坐って、デッサンしたり描いたりしていた。城壁でも、ムードン門でも、ゆく先々で彼はいつもこんな風に振舞っていたらしい」(ウーデ『アンリ・ルソー』)」

「絵から離れると、社会の中で、ルソーは無に等しい存在になる。しかしこの無こそ、彼の絵の空間を深くし、色彩を豊かにし、画面に輝きを添える発条であったとも言い得る。まるで彼は、絵にすべてを集中させるため、あらかじめ余計な才覚は与えられなかったかのようだ。」

「ルソーが、終生これらのアカデミズムの大家たちに敬意を抱きつづけたことは間違いない。
 ルソーが画家を志した頃は、印象派が、ブグローやジェロームの頑強な反対を押し切って、画壇に漸く地歩を占めはじめた時期であった。しかしルソーは、この革命的な絵画運動に毛ほどの関心も示してはいない。(中略)それは、無視というよりももっと徹底した、関心のないものは目に入らない幼児のような態度である。つまり、彼にとって、印象派は存在しなかったのである。」
「二十世紀に入って、ピカソ、ブラック、ドラン、ドローネなどキューヴ、フォーヴの画家たちの強い支持を受け、親しい交際をむすびながらも、ルソーが彼等の絵画に理解を示した形跡は見当らない。ルソーは、最後まで、ピカソより、ブグローやジェロームの方を評価していたように見える。」

「ルソーは、このような近代絵画の流れとは、全く無縁の場所にいる。絵とは彼にとって、構図とか、ヴァルールとか、マティエールである以前に、彼がその中で生きることのできる、或いは所有しうるひとつの世界でなければならなかった。彼の絵の、二十世紀には類を見ないその完結性の強さと、細部への異常な執着と、制作の入念さは、そこから来る。」

「ルソーは、近代において人の信じ得ないものを信じた。彼に素朴さがあるとすれば、人柄や技術よりも、このようなことを生涯信じつづけた点にある。」



「第四章 アンデパンダン展」より:

「一世紀近くにわたって、画壇の実権を握り、名声をほしいままにしたこれらアカデミズムの画家たちの名は、今日では全く忘れ去られている。(中略)多額の費用を使って国家が買上げた彼等の絵の多くは、美術館の倉庫の奥深くに積み重ねられたままになっているからである。
 一九七九年にパリのグラン・パレで催された「第二帝政下のフランス美術展」で、私は、ブグロー、ジェローム、ボナのような画家たちの絵を、はじめてまとめて見る機会を得た。そしてそれらの、アカデミックな意味での技術の水準の高さ、一見堂々たる画面構成とは裏腹の、発想の陳腐さ、俗悪さ加減には驚かされた。
 独創性の全くない、技術だけが達者なこれらの二流画家が、天才たちの上にあって、これほど長いあいだ権威を揮い得たとは、私たちの眼には、きわめて奇異に映る。
 それは、サロンがこの時代、今日よりもはるかに大きな社会現象であり、社会の体制そのものの体現だったからである。サロンの組織を支えたのは、当時のフランスのブルジョワ社会の驚くべき保守性と趣味の低俗さだった。印象派の、すべてが光の靄と化したかのような、輪郭線の全くない、色鮮やかな作品は、堅固な社会秩序に対する挑戦、とブルジョワたちには見えた。印象派の画家たちは、絵画の革新者というより、社会の安寧をおびやかす危険分子だったのであり、実際そのような扱いを受けた。彼等の重視した色彩の明るさとは、まさにアナーキーの表現そのものにほかならなかった。「色彩は、芸術のもっとも動物的な部分だ」と、新古典主義の総帥アングルは言い放ったものだ。」

「ルソーの肖像画の多くには、風景が描かれている。(中略)しかしそこでは、風景は、単なる枠組でも、背景でもない。それは、描かれた人物と緊密に結びつき、一体化しており、時には人物に対して、象徴的、寓喩的な役割を果している。たとえば、「ばら色の服の少女」で、少女が切石の山の上に立っているのは、少女が石屋の娘だからである。アポリネールとローランサンをモデルとする「詩人に霊感を授けるミューズ」(一九〇九年)で、前景にカーネーションを描いたのは、それが「詩人の花」だからであった。」
「ピエール・デカルグが指摘するように、これは、教会の奉納画にあって、聖アントワヌのそばに豚を、聖ロックのそばに犬を、聖ヒエロニムスのそばに獅子を置くのと全く同じ方法である(『税関吏ルソー』)。ルソーは、近代では全く忘れられてしまった、このような中世絵画の伝統をあきらかに受けついでいる。「風景の中の自画像」についても同様である。」
「ルソーと、河岸に立つ人々との、巨人と小人のようなコントラストは、遠近法によっては得ることのできない独自な空間をみちびき入れている。これは、造形上のたくらみというよりは、彼の心理上の現実をあらわしているのである。いや、重要なものが大きく見えるとは、常に変らぬ人間心理の現実であり、彼はこの現実に即したにすぎない。この現実を忘れたのは、視覚に盲従した近代絵画の欠陥である。」



「第六章 再婚」より:

「ルソーの風景画のほとんどすべては、パリ近郊の風景である。森の木々が緑の影を落すゆるやかな流れに釣糸を垂れている男、牧場で草をはむ牛たち、木立にかこまれた小さな工場、小山の中腹の城館、散歩者が靜かに杖を曳いている村はずれの小道、ものさびしい草原の中の石切場――これらのなにげない風景は、そのなにげなさのためにかえって私たちの心を捉える。樹木や、釣人や、散歩者は一見稚拙で、不器用に見える。しかし見ているうちに、それらがのっぴきならぬ形体を持ち、動かしがたい現実性をそなえているのに気づく。もはやこれ以外の樹木や、釣人や、散歩者は考えられなくなる。そして私たちは、長いあいだ、このような風景を心の奥底で求めつづけていたことを不意にさとる。その時、私たちはあらためてルソーの風景と出会う。パリ郊外の風景が、そのままひとつの神話となる。そこにひろがる透明で、静かな青空は、額縁によって断ち切られることなく、どこまでもひろがっているように思われる。それは、失われた楽園の空を私たちにかい間見させる。」


「第十一章 熱帯の楽園」より:

「ルソー晩年の一連の密林風景は、ルソーの心の奥深くにかくされていた、生に対する欲求の具象化である。これらの風景は、彼が所有し、その中で生きたいと心から願っていた世界であり、それゆえこれは、失われた楽園を取り戻そうとする試みなのである。」
「ラスコーやアルタミラの洞窟の岩壁にみごとな牛や鹿や猪を描いた人々は、絵が単なる外観ではなく、真の実在である、とおそらくは信じていた。(中略)呪術とかかわるこのような絵画観は、今日でも、未開とよばれている人々のあいだに見出される。それは、絵画が芸術となる時代まで、人々の心を支配してきた。(中略)ルソーは、この種の絵画観のもっとも近くにいた人である。」
「絵を、人を死に至らしめる力さえ持つ現実と見なすには、この世の因果律を否定し、科学的合理主義に背をむけた、超自然なものに対する信仰が要る。ルソーは、あきらかにこのような神秘家の一人であった。」
「ルソーが降霊術を信じていたことについては、いくつも証言がある。」
「ヴォラールの『画商の想い出』によると、ルソーは或る日お化けの話をしたあと、「あなたは信じないんですか、お化けを、ヴォラールさん?」と訊ね、ヴォラールが信じないと答えると、「私は信じますよ」と言ったとのことである。」

「ルソーにとって絵を描くとは、とくに晩年の密林風景を描くとは、彼が生き、呼吸しているこの現実と同じ密度、秩序、構造を持つ世界の創造をめざすことだった。彼の細部への執着はそこからくる。この現実では、細部はすべて明確であり、なにひとつなおざりにされていないからである。彼が樹木の葉一枚一枚を丹念に描くのは、実際の樹木にあって、一枚の葉とてかりそめにはついていないからである。これは、一般に言うリアリズムとは違う。
 私は、岩手県の寺々で、本堂の欄間に、遺族たちが死者のために奉納した絵が沢山かかっているのをかつて見たことがある。そこには、死者たちがあの世で何不自由なく暮せるようにと、快い住居や、美しい調度や、死者の好物や愛用品が、綿密に、微細に描かれていた。勿論絵師に描かせたものであろうが、画面には異常な現実感があった。一切が絵空事であってはならない、この世にあるがままでなくてはならない、要するに絵が現実と等価物になっていなくてはならない、そうでなくては死者はあの世で不自由を耐えしのばなければならない――絵師も共有していた、遺族たちのこうした痛切な願いが、このような現実感を生んだにちがいない。
 ルソーの密林風景の持つ現実感には、どこかこれに近いところがある。彼が深く希求している世界の実現には、なに一つ欠けるところがあってはならないのだ。もし欠ければ、それだけ彼はその世界で生きにくくなるだろうから。」
「ルソーは、絵を生きたひとつの現実とした。彼は、ひとつの秩序、ひとつの宇宙を創造した。私は比喩的な意味で言っているのではない。」
「マルグリット・ユルスナルの『東方綺譚』の中に、「老絵師の行方」という短篇がある。自分の描いた海景の中を、小舟に乗って弟子とともに遠ざかり、ついに画中に姿を消した中国の絵師の話である。この絵師と同じように、多分ルソーも、自分の描いた熱帯の原始林の中に歩み入ることができる、と信じていたのだ。」



「第十二章 最後の恋」より:

「この絵(引用者注: 「夢」)で人目をひくのは、赤いソファの上に横たわる裸婦である。彼女は何者なのか、なんのためにここにいるのか? この絵に付したルソーの詩が、すべてを説明する。

  心地よく眠りこんだヤドヴィガは
  美しい夢の中で
  考え深げな蛇使いの吹く
  笛の音をきいた
  月が花々や緑の木々を
  照らすあいだ
  鹿子色の蛇たちも
  その陽気な音色に耳を傾ける

 つまり、すべては、ヤドヴィガの夢の中の風景なのである。そして夢みるヤドヴィガを、今度はルソーが夢みる。夢は二重なのだ。それは、二重鍵のように、この風景を現実からへだてる。いや、夢の二重鍵によって、この風景は、誰も乱すことのできない、彼一人の現実、日常の現実より一層真の現実となる。」



岡谷公二 アンリルソー楽園の謎 03



























































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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