ミシェル・レリス 『レーモン・ルーセル ― 無垢な人』 (岡谷公二 訳)

「この文章を終えるに当たり、私は、私の作品がほとんど至るところで、敵意ある無理解にぶつかるのを見ていつも感じたつらい気持ちに再び思いおよぶ。」
「今のところ私には、私の本が、死後いくらか成功を博するだろうという希望をあてにするしか手がない。」

(レーモン・ルーセル 「私はいかにして或る種の本を書いたか」 より)


ミシェル・レリス
『レーモン・ルーセル
― 無垢な人』
岡谷公二 訳


ペヨトル工房 
1991年11月10日発行
187p 
21×13.4cm 
並装(フランス表紙) 函 函カバー
定価2,200円(本体2,136円)
装幀: ミルキィ・イソベ



本書「あとがき」より:

「本書は、Michel Leiris, Roussel l'ingénu, Editions Fata Morgana 1987 の翻訳である。
 これは、一九九〇年に物故したレリスの、ルーセルに関する文章、談話の集録で、発表年月は半世紀にわたる。レリスは、人嫌いだったルーセルを身辺に知っていた唯一の文学者と言ってよく、その証言はきわめて貴重だ。」
「付録として、ルーセルの「私はいかにして或る種の本を書いたか」を訳載した。これは彼が、その死後、遺言の形で自己の特異な創作方法を公にした文章で、ルーセルの理解には不可欠のものである。」



巻頭にレリスの肖像写真(モノクロ)。


レリス レーモンルーセル


帯文:

「ルーセルのもっとも身近にいた人、ミシェル・レリスによるルーセル読本。
ブルトンをはじめ、シュルレアリストたちが読み誤った、
ルーセルの綺想の謎。
ついに翻訳されたルーセルの遺稿
「私はいかにして或る種の本を書いたか」を
併録し、ルーセル独自の創作方法が明かされる。」



目次:

レーモン・ルーセルに関する資料
旅行者とその影
私はいかにして或る種の本を書いたか
『新アフリカの印象』をめぐって
レーモン・ルーセルにおける想念と現実
レーモン・ルーセルについての対話 (聞き手: ピエール・バザンテ)

◆付録
私はいかにして或る種の本を書いたか (レーモン・ルーセル)

◆解説
『アフリカの印象』から『幻のアフリカ』へ (岡谷公二/初出: 「ユリイカ」 1974年4月号)

あとがき (岡谷公二)




◆本書より◆


「レーモン・ルーセルに関する資料」より:

「車で旅行をする時、彼は、風景はそっちのけで、読書をしていた。丸々一冊は持ってゆかず、一部のページを破って、ポケットにつっこんでいったのだが、それは、何を読んでいるかを人に知られるのが嫌だったからである。」


「旅行者とその影」より:

「ルーセルが行った最初の旅行の一つは、第一次大戦の数年前に、母とともにしたインドへのクルージングだった。この母親は、途中で死ぬかもしれないという考えにとりつかれていて、棺を持って行った。ルーセルはといえば、船が南十字星を見ることができる緯度まで南下する随分前から、いつ見えるかと毎日船員たちに訊ね、これから彼を待ち構えているどんな変った風景や住民よりも、はるかにこの星に関心があるように見えたという。」

「いくつかの町、とりわけ子供の頃の幸福な思い出の結びついている町は、彼にとってタブーだった。(中略)思い出を台なしにするのを怖れて、これらの町へもう一度行こうとは決してしなかった。」

「こうした特徴を集めてみると、ルーセルが、厳密な意味での旅行は少しもしなかった、ということがわかる。実際、彼は、いついかなる時も観光には心をうばわれず、外部は、彼が心の中に持っていた世界と決して相わたることなく、どの国を訪ねても、予め心の中に持っていたもの、つまり彼固有のこの世界と完全に一致した要素しか見ようとしなかったらしい。(中略)想像されたものを至上と考える彼は、芝居や、だまし絵や、みせかけに類するものに対して、現実に対してより、はるかに強い魅力を感じていたかに見える。『私はいかにして或る種の本を書いたか』の中で、彼はたとえば、『新アフリカの印象』の出発点となったのは、現実の風景では少しもなく、最初は、「イヤリングに飾りとしてさげるごく小さな双眼鏡の、目に当てる幅二ミリの筒形部分に、ガラスに貼ってはめこまれた写真――一枚はカイロのバザールの、もう一枚はルクソルの河岸のもの――だった」と断言している。」

「すべての真の詩人同様、誰よりも、この世界で自分は一人きりだと感じていたにちがいないルーセルは、おのれの天使と悪魔の行列を、至るところにひきつれて歩いた。つまりそれは、星に対する固定観念であり、贅沢さと快適さに対する嗜好であり、甘いものに対する好みであり、最高の名誉や、格付けされた奇蹟や、ゴーダ名鑑に名が出ることへの偏執や、老化と死に対する強迫観念、幼児期へのノスタルジー、(中略)強い不安であった。彼は、その習慣、固定観念、幼時をなつかしむ情とを、丁度彼の母がインドへゆく時棺を持っていったのと全く同様、必携の荷物として必ずや持ち歩いていて、どこにいても、いつでも、変ることない同じ自分を見出すのだった。」



「レーモン・ルーセルにおける想念と現実」より:

「レーモン・ルーセルがつねに想像力に賭けていたこと、彼にとっては、作り出された世界、つまり「想念」の世界と、与えられた世界(中略)、つまり「現実」の世界とのあいだに、明確な対立があったことがわかる。
 現実に関して言えば、レーモン・ルーセルは(中略)、それに何一つ期待を抱いていなかったのはたしかである。」

「現実にはあちこちに罠が仕掛けられているため、それと日々接触するには、ルーセルには、多くの用心が必要だった。たとえば、トンネルの中にいると不安でならないので、それに、自分がどこにいるかをいつも知っていたかったので、或る期間、彼は夜汽車で旅行するのを避けた。また、ものを食べることは、「心の平静さ」を損なうと考えて、ある時期のあいだずっと、数日間断食しては、そのあと「ランベルマイヤー」の店へいって多量の菓子を食べるという習慣を繰り返していたこともあった。(中略)会話で傷つけられたり、人を傷つけたりするのを怖れていた彼は、危険な話をさけるためには、相手に質問するに限る、と言っていた。」

「その新しいもの嫌いは、必然的な結果として、先例に対する敬意を彼のなかに生み出した。「新しいものは何でも、私には気づまりなんです」と彼は言ったものだった。シャルロット・デュフレーヌ夫人によると、彼は一度或ることをすると、それが先例となって強制力を持つに至り、そのために同じことを繰り返すことがよくあったそうだが、それほど彼の変化に対する嫌悪は深かった。
 このように彼は、現実に何とか順応するために戦術を用いなければならなかったが、そこから彼自身が「規則マニア」と呼んだもの、即ち規則に従って一切を秩序づけようとする欲求が生れた。この規則は、倫理的な性格を持たぬ、純粋状態の規則であって、彼が作品の中で従った規則が、厳密な意味での美的な狙いを一切持っていなかったのと同様である。」

「自然や、感情や、人間性に属するものから全くといっていいくらい超脱しようとし、彼自身さえ気がつかなかったほど外見は動機のない素材に営々と取り組みながら、レーモン・ルーセルは、このような逆説的な方法によって、真の神話の創造に達したのだった。」

「ルーセルは、「現実よりも想念の分野」を好むと明言したけれども、こうして彼が日常生活の世界と対立させる世界は、結局のところ超自然的なものに対する信仰を、少しも基礎としていなかったように思われる。「私はいかにして或る種の……」の中で、ルーセルは、自分は論理家だと言って自慢している。(中略)彼の努力は、現実とは何一つ共通するところのない、すべてがこしらえものの虚構の世界の創造をめざしている。彼が作り出すものは、ひたすら、こしらえものであればあるほど、現実に少しも頼らず、彼の天才の力だけで真実となっていればいるほど、価値があるのだ。想念の世界と現実とのきずなをことごとく断ち切ろうとする、このような、別して否定的努力が、観念論者ではなかった彼レーモン・ルーセルを、自殺という決定的な解放へとみちびいていったのは、理の当然だった。」

「一九三二年、レーモン・ルーセルはもはや書かない。彼はチェスをはじめ、睡眠薬(バルビツール剤)の中毒になる。(中略)この時期、彼は、(中略)同性愛者と麻薬中毒患者たち、つまり、つねに変わらず彼の心を占めつづけてきた性的嗜好と、最近の、薬に対する彼の偏愛とを共有する人たちの屯ろする、ピガール街七五の家具つきホテルに腰を落ちつけていた。」
「一九三三年の初め頃、熱帯アフリカから戻った私は、自分の参加した民族学調査団の出資者の一人であったルーセルに会いに行った。(中略)相変わらず優雅で美しかったけれども、少し重苦しくなり、年をとり、とても遠いところから話しているような口のきき方をした。二年近く私と会っていなかったので、沢山の私の身内や親戚について、次々と消息を訊ねた。それから、「時間が経つのが段々早くなるよ」という人生に関してのメランコリックな考察(微笑を浮かべながら)。暇乞いをすると、控えの間まで送ってきて、私たちは長い間立話をした(暇乞いをした人間を長々とひきとめるいつもの習慣――小心のせいだろうか? 追い払うという印象を与えたくないからだろうか? それとも一人きりになるのが怖いのだろうか?――にしたがって)。同じ訪問の際、私が書いているかどうか訊ねると、彼は「むずかしくてね」と答えた。」

「ルーセルは、子供の頃をのぞいては、ひとときたりとも幸福な時を過したことがないと言っていた。そしてその苦しみを、一種の息切れ乃至息苦しさのようなものだと記していた。しかしパレルモで、彼は完全な《至福感》を見出す。彼はもはや、認められることのなかった《栄光》にも、著作にも心を労さない。一ときの至福感を得るためなら、どんなものでも引きかえにする、と彼は言う。或る日薬が切れたとき、彼は、「切れ! 切れ! さもなきゃ薬をくれ!」と叫ぶ。これは、両手足の切断の方が、このような薬の切れた状態よりましだという意味だった。
 シャルロット・デュフレーヌ夫人によると、薬をのむようになってから、ルーセルは、以前は怖れていた死を好むようになったという。
ある朝、七時頃、浴槽の中で血だらけになっている彼の姿が発見された。彼は、かみそりで静脈を切りひらき、「静脈を切るなんて何てやさしいんだ……。何でもありゃあしない」と言いながら、けたたましく笑いつづけていた。」
「当時彼は、コップを持ち上げるのがやっとで、殆んど食べさせてやらねばならなかったほど体が弱っていた。薬をのんでいるので、寝台から落ちるのを心配し、床にじかにマットレスを敷いて寝ていた。」
「或る日彼は、シャルロット・デュフレーヌ夫人をわずらわせて、パリにいる召使いに手紙を書いて貰った。その中で彼は、××番の箱の郵送を頼み、この箱の中にはピストルが入っており、それを送って貰いたいのだと述べた。パレルモでは、自分は外国人なので、別のを買いたいと思っても買えない(と彼は考えていた)のだと言うのである。彼は夫人に対し、残念ながら引金をひく勇気はないが、多分あなたが、そうしてくれるだろう、と言った。夫人が拒絶すると、承知させようとして小切手帖をとり出し、いくら欲しいのかとたずね、彼女がことわるたびに、値をつりあげていった。とうとうその手紙は、出されずに終わった。
 シャルロット・デュフレーヌ夫人の懇願に従い、ルーセルはついに、スイスのクロイッリンゲンに睡眠薬中毒の治療を受けにゆく決心をする。七月十三日の朝、彼はこのために電報を打たせた。晩、彼は夫人に向い、今夜はあなたはゆっくり寝てほしい、今日はとても気分がいいし、睡眠薬も余り沢山はのまなかったから、と言った。さかいのドアは、以前は開け放しになっていたのに、数日前から閉されていた。
 十四日の朝、物音がきこえないので、夫人は、二つの部屋のさかいのドアを叩く。答えがないので、彼女はボーイをよぶ。ボーイは、廊下のドアから入る。こちらは鍵がかかっていなかったのだ。夫人とボーイとは、さかいのドアの方まで押していったか、ひきずっていったマットレス(彼の衰弱状態からすれば、これは超人的な努力だった)の上によこたわっているルーセルの姿を認める。ルーセルの顔はおだやかで、落着いていて、このドアの方をむいていた。
 遺骸をパレルモからつれ戻すためには、防腐処理を施さねばならなかった。」

「私は、ルーセルが死のうとした(禁止される前に、睡眠薬が与える至福感を、いつもより余計に手に入れようとしたのでないならば)のが、隣室に通じるドア(porte de communication)――何でも打ち明けられる女友だちの部屋に通じていたドア――の裾であることを強調せずにはいられない。彼の直接の動機や、死ぬに際してこのような場所を選んだ理由――このドアのすぐ近くにいたかったのか、それともドアをバリケードでふさぐつもりだったのか?――が何であれ、彼は、少なくとも生前は不可能と認めていたこの communication (交流の意)の閾で、彼の心の奥底をほんの少しだけ分け持ってくれた唯一の人間のいる場所の方へ眼をむけて、自ら望んで死んだのだった。」



「レーモン・ルーセルについての対話」より:

「おっしゃる通り、彼はほとんど気違い扱い、病人扱いされていました。」

「実を言うと、彼がこんな地位を占めようとは考えていませんでした。むしろ、偉大なアウトサイダーのままだろうと思っていましたよ。今日、彼が有名になったことについては、もちろん遅すぎたと思っています。でも、あの人が持っていもしなかったものを持っていただなんて言われると、うんざりします。あの人は、ああした先見の明も、哲学的な計画も持っていはしませんでした。彼は、悪い意味ではなく、単純素朴な人でしたよ。」
「私は「レーモン・ルーセルにおける想念と現実」の中で、彼にとって、純粋なこしらえごとの持つ重要性を強調しておきました……。言葉による構築、言葉遊び、それだけです。でもこれで十分じゃありませんか? 全然神秘家なんかじゃありませんでした。あの人が錬金術の秘儀に通じていたとブルトンが考えたのは間違いです。あの人は実証主義者で、そのために苦労もしました。今日人々は、彼をたたえると称して、彼を卑小化し、彼が持っていたすばらしい素朴さをとりあげてしまっています。」



岡谷公二「『アフリカの印象』から『幻のアフリカ』へ」より:

「ルーセルは、同時代の文壇からは全く孤立していた。彼は成功を熱望し、世間の無理解に一生苦しんだが、この孤立と無理解とは、彼の作品の本質に由来しているように思われる。(中略)彼の作品はやはり少数者のものだ、という思いを私は禁じえない。
 ルーセルは同時代の文学にも美術にも全く関心を持っていなかった。同時代の存在そのものさえ認めていなかったのではないか、とさえ思えるふしがある。」

「彼はシュルレアリストの唾棄する世間的名声にあこがれ、そのためには自己宣伝の記事を書くことも、俳優たちに金品をふりまくことも辞さなかった人間であり、政治的にはむしろ保守反動で、変化と進歩を怖れ、自己を解放するより自己を束縛することを望み(束縛することによって自己を解放すると言うべきか?)、その作品を、自動記述法とは反対に、厳密な方法にもとづいて書いた。
彼が崇拝していた同時代の作家は、(中略)ジュール・ヴェルヌであり、次いでピエル・ロティだった。この好みはきわめて特異で人の意表をつく。とくにヴェルヌに対する彼の尊敬の念は、限度を知らなかった。」

「十九世紀から二十世紀はじめにかけてのフランス近代文学の成果は、全くといっていいほど彼の視野に入っていなかった。この首尾一貫した好みと、この好みに対するファナティックな固執の仕方を通じて、私たちは、彼の深い現実嫌悪、幼児のように頑なで、やわらげようのない現実拒否をみてとることができる。文学のヴェクトルは、現実をさしてはならなかった。文学は彼を現実から逃れさせ、運び去って、酔わせ、夢みさせるものでなければならなかった。
 それは彼自身の創作の場合においても守られねばならない。現実と一切かかわらないこと――、それは彼が自分に課した鉄則である。」

「二人(引用者注: ルーセルとレリス)に共通する言語観とは、言葉を対象を表現する手段としてでなく、そのなかに神話のひそむ一つの世界とみなすことである。それは言葉そのものに対する関心であり、呪物に対するように言葉に執着することだ。彼らは言葉の裂け目から、或る深い声をきこうとする。彼等は言葉が万人共通のものであることを拒否し、それをあくまで私的なものとし、記録の闇の中で一つ一つの言葉の持つ、真実の意味―彼等にとっての―を見出そうとする。
 この、言葉に対する病的と言っていいほどの鋭敏さ――そこにレリスの出発点があった。病気でないような才能などあるはずもないが、レリスもまたこの病魔との戦いにその半生を費すのである。」



こちらもご参照下さい:

岡谷公二 『レーモン・ルーセルの謎』
「夜想」 27 特集: レーモン・ルーセル』
































































































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Author:ひとでなしの猫
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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