矢内原伊作 『ジャコメッティ』

「私は絵画も彫刻も選択しなかった。私は選択されていたのだ。ほかにどうしようもできなかった。人間はそうせざるを得ないものを選択する、だから人間には選択がない」
(ジャコメッティ)


矢内原伊作 
『ジャコメッティ』

宇佐見英治・武田昭彦 編

みすず書房 
1996年4月10日 印刷
1996年4月20日 発行
341p 目次1p 著者・編者略歴1p 
口絵(モノクロ)i 図版(モノクロ)8p
A5判 丸背布装上製本 カバー 
定価4,944円(本体4,800円)



本書「あとがき」より:

「本書は矢内原伊作がジャコメッティについて書いた諸篇のうち、最良のものを選びそれを主に、また(中略)滞仏中書きとめていた未発表の手帖・日記の一部を撰録、武田昭彦と宇佐見英治が、著者生前の意を汲んで編集した書である。(中略)筑摩版の『ジャコメッティとともに』は(中略)第二部十二章以下及び八章のほんの数ページを除き、本書では(中略)同書のほぼ三分の二以上を再録した。」


「ジャコメッティについての日記・手帖」は二段組。
モノクロ図版18点。


矢内原伊作 ジャコメッティ 01


カバー: 「アルベルト・ジャコメッティ(矢内原伊作撮影・一九六〇)」


帯文:

「幻の本『ジャコメッティとともに』に、未発表の日記・手帖・手紙をも撰録。20世紀最高の芸術家の仕事の日夜、脳髄、対話の貴重な記録として、この一書により、ヤナイハラの名は不滅となろう。」


帯背:

「真実の記録」


カバー裏文:

「矢内原伊作は、1956年から1961年にかけて、5度の夏をパリで過ごした。彫刻家・画家、アルベルト・ジャコメッティのモデルをつとめるためである。彼は、ジョンソン博士におけるボズウェル、ゲーテにおけるエッカーマンのように、偉大な芸術家との対話を忠実に記録した。残された手帖の最初の1冊にこう記されている。〈常に携え、一切のものを記録するためなり。外界ではなく内界を、印象ではなく思想を、事象ではなく本質を、見ることが、そのまま生きることであるほどに。〉芸術家は、他の誰よりも矢内原に、制作の過程で、日常の会話で、率直な言葉を吐いているようにみえる。〈もう少しの勇気、50グラムの勇気、あと一滴の勇気さえあれば!〉といった具合に。
 矢内原が生前に、最初の年の経験をもとに、『ジャコメッティとともに』と題し、まとめた単行本もいまや幻の本となっている。それに、60年・61年の日記・手帖より再現された「ジャコメッティ語録」、矢内原あて9通の手紙も、本書には収められている。20世紀を代表する偉大な芸術家の数々の作品にその姿を残す〈ヤナイハラって誰?〉という、世界中の読者の問いに答えるとともに、この一書を通して、ヤナイハラの名は不滅のものとなるであろう。」



矢内原伊作 ジャコメッティ 02


表紙: 「ジャコメッティから矢内原あての手紙(一九五九年一月十二日)」


目次:

I ジャコメッティとともに
II その後のジャコメッティ
III ジャコメッティからの手紙
IV ジャコメッティについての日記・手帖 (一九六〇年八月―九月/一九六一年七月―九月)
V アルベルト・ジャコメッティ略年譜

解題 (武田昭彦)
あとがき (宇佐見英治/武田昭彦)



矢内原伊作 ジャコメッティ 03



◆本書より◆


「ジャコメッティとともに」より:

「ぼくは(中略)ヨーロッパの思想や歴史を理解するうえに各地を旅行することがいかに有益かを力説したが、旅行の嫌いな、というより旅行のことなどを考える余地のないほどいつも仕事に憑かれている彼はあまり賛成しなかった。彼は足を停めて黄ばんだマロニエと灰色の貧しい家がつづいている通りを眺め空を仰いで言う。
 「美しいではないか、これ以上に美しい景色は世界中どこを探してもないだろう、セザンヌでも誰でも偉大な芸術家は旅行をしなかった。」
 「画家にとってはそうです。しかし思想家や文学者にとってはまた別でしょう。たとえばモンテーニュ、ゲーテ、スタンダール。」
 「そうだ、文学者には旅行が役立つ。しかしスタンダールの旅行記が面白いのは、彼が観光者でなく、同時に内面への旅行者だからだ、自己の内部への旅行を伴わない旅行は何にもならない。」」

「「けさがた私はたいせつな発見をした。」せっせと筆を動かしながら彼は言う。「それは鼻の先端から始めなければならないということだ。顔のすべての部分は鼻の先端から始まって背後に向う動きの中にある、鼻は一つのピラミッドだ。上から見たピラミッドを描くことさえできたら、他の部分は自然にできあがるにちがいない。」それからまた、「きみの顔に似なければならない、しかし似なくなることを恐れてはならず、似せようとして描いてはいけないのだ。」また「私は真実のすぐ近くまで来ていることを感じる。こんなに接近したことは三十年来はじめてのことだ、あと一歩というところだ。ああ、この一歩が実現できたらどんなに美しいか、それは恐らくあまりにも美しすぎる。」」

「「戦争で多くの人が死んだ、私の知っている立派な友人もたくさん死んだ、私にとって戦争とはこういう知人の死にほかならない。生きていた人間がいなくなるということ、これはなんとしても納得できないことだ。そのために私は長いあいだ悩んだ。そのあげく私はこういうふうに考えたのだ。私にとっての友人の存在とはその友人についての意識にほかならない、とすれば彼は死んでも私の意識のなかで彼は生き続けている、少なくとも私にとっては彼が生きている場合となんの変りもない、彼は私に向かって微笑したり話しかけたりする、死も何ひとつ変えはしないと。そう考えてやっと私は少し平静になることができたのだった。」」

「「それでは現代の画家あるいは彫刻家の中で、誰の仕事があなたの仕事に比較的近いと思いますか。」「一人もいない」と彼は即座に答えた。「私は不思議でならない。全く同じではないにしても大体同じ方向の仕事をする画家あるいは彫刻家が少しはいてもよさそうなものだが、それが一人としていないのだ、実に奇妙だ。むしろ素直に絵を描きさえすれば誰もが私と同じ仕事をするはずだと思われるのだが。」しばらく考えてから続けて、「画壇のことを少しも知らない日曜画家だけが私の仕事に比較的近い絵を描いているのかもしれない。絵画のことを何一つ知らない田舎の婆さんに絵筆をもたせたら、きっと私と同じように描くだろう。そうだ、田舎の婆さんはきっと私よりもうまく描くにちがいない。」」

「ジャコメッティのほうから言い出して、仕事にかかる前「半時間だけ」展覧会を見に行こうということになったのである。(中略)「こう一杯並べられていては何が何だかわからない。」そう呟きながらもジャコメッティは一つ一つの絵を見てまわった。が、彼を満足させるようなものは一つとしてなかった。彼が感心したものといえば、女の顔を描いたルオーの小品くらいのものである。そのルオーの作品の前で彼は言う。「この絵の傍らでは他のすべての作品が力のない薄手なものに見える。(中略)現実のものの迫力に幾らかでも近いのは、このルオーの絵だけだ。しかしルオーは間違っている。なぜなら、絵具を厚く盛りあげることによって、画面を浮彫りにしているからだ。これは詐術だ。絵画はあくまでも平面によって奥行を実現しなければならないのに。」部屋の中の裸婦を灰一色で描いたビュッフェの大きな絵については、「悪くない、ルオーを除く他のどの絵よりもいい。(中略)もっぱら線だけで描くところや灰色だけで描くところなどは、私のやり方に似ている。しかし彼はまさに始めるべきところでやめているのだ。そして現実を描くかわりに現実を図式化してしまっている。女の裸体は決してこんなものではない。セザンヌの裸婦のほうが遥かに本当だ、見給え。」そう言ってジャコメッティは、ぼくを反対側の壁際に引っぱって行き、「ビュッフェの絵は近くで見ると比較的いいが、遠くから見ると全く力を失ってしまう。あの裸婦は女にも何にも似ていない。絵の中には何もない。」(中略)出口に向って歩きながらジャコメッティは、ピカソの絵の前で呟いた。「これはポスターだ、ポスターとしてはよく出来ている。」」
「「他人の絵を見ても無益だ、時間を損した。この車はなぜもっと速く走らないのか」と彼は一人で憤慨している。「展覧会を見ようと言い出したのも、このタクシーをつかまえたのもあなたではありませんか」とアネットがたしなめる。それには答えないで彼は自分自身の考えに没頭し、指で空中に何かをしきりに描きながら、時おり嘆息とも叫びともつかぬ呻きを発した。アネットが「何を考えているの」ときくと、「ヤナイハラの鼻のことだけを考えている。今日こそ何とかしなければ、糞!」と彼は答えた。」
「「ルオーのように絵具を盛りあげてはいけない。マチエールの厚みに頼ることは深さを歪めることになる。空間の正しい深さは薄く塗ることによってのみ達せられるのだ。これは矛盾だ、しかし矛盾だからこそ試みる価値がある。」
 「矛盾した二つの事柄を同時にしなければならない。それが描くということだ。例えば私にはきみの顔がきわめて単純に見え、同時にきわめて複雑に見える。非常に繊細にも見え、同時に怖ろしいほど巨大にも見える。この両方を同時に描かなければならない。これは不可能と思われるほど困難だ。」
 「空間は無限にひろがっていると同時に、どんなに小さくして行っても終りに達することはない。それは小さいほうにおいても無限だ。」
 「今日の他の画家たちがどういうつもりで、そしてどういうふうにして仕事をしているのか、私には全然わからない。彼らはタブローを作るために描いている、つまりタブローをオブジェとして作っているのだ。オブジェは限られ閉ざされたものだから彼らはすぐ行きづまる。一つの仕事をどこまでも続けて行くことができない。しかし絵画にせよ、彫刻にせよ、本当の芸術はどこまででも続けて行くことのできるものなのだ。」」
「「きみの顔が私にはよく見えているのに、それを描くことは実に困難だ。ほとんど不可能だと思われる。他の画家はこれをどういうふうに描くか、私はそれを知りたい。(中略)誰もが、見えるとおりに描くことはやさしい、だから試みる必要もないと思っている。実際はこれほど困難なことはないのに。」
 「今日のほとんどすべての画家は、主観をすてて自然を忠実に模写するかわりに、ひたすら主観を表現しようとする。絶えずこれまでになかった新しいものを求め、他人に似ることを恐れて個性的であろうとする。結果はどうか。今日の展覧会で見たように、現代の画家は千差万別のようでいて不思議にどれもこれも同じように見える。個性的であろうとしてかえって非個性的になっている。新しいものを求めながら古いものを繰り返している。(中略)アブストレの若い画家たちの多くは自然を模写すれば通俗的になると思い、通俗的になるまいとして主観的個性的な絵を描こうとする。ところが実は、それによってかえって通俗的になっているのだ。事情は全く逆だ。セザンヌは個性的であろうなどとは少しもしなかった。彼は主観を捨てて自然を忠実に模写しようとしたのだ。しかも結果においてセザンヌの絵ほど個性的なものはほかにない。」
 ぼくを見つめて休みなく筆を動かしながらジャコメッティは以上のようなことを語ったが、(中略)こういった言葉の間には全精力を仕事に集中する沈黙の時間があり、仕事の困難に対する嘆きや焦燥や絶望があり、また自らを激しく叱咤する何十遍もの「糞(メールド)!」があった。」
「真暗になってやっと筆をおき、例によって電燈の光で今日の仕事を仔細に眺める。昨日よりも一層消されているが、顔のヴォリュームは遥かによく出ている。「今日のところは眼に見えないが私は非常に進歩した。明日は十倍もよくなるだろう。ただ絵具の堆積ができて画面が浮彫りになってしまった。これは仕事の継続の大きな妨げになる。どうしたものか。」そう言って彼はしばらく、絵を見つめていたが、食事用のナイフをもってきたかと思うと、何も言わずに絵具の盛りあがった部分を削り取ってしまった。(中略)二週間苦心に苦心を重ねて描かれたぼくの顔は忽ち消し去られ、絵は見るかげもないあわれなものになってしまった。(中略)が、ジャコメッティは平気だ。(中略)「これでよくなった」と彼は言う。「心配しなくてもいい、きみの顔は明日までに、画布の上に立ち戻ってくるだろう、今までよりも遥かに見事なものとして。それに、これまでに描いたところに捉われず自由に再び始めるためにも、こうして削り取ることはいいことなのだ。(中略)明日こそ私は、きみの顔を完全に描くことができるだろう。」」



矢内原伊作 ジャコメッティ 04


ジャコメッティのアトリエ、矢内原伊作撮影。


矢内原伊作 ジャコメッティ 05


ジャン・ジュネとジャコメッティ。


























































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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