ヴァージニア・ウルフ 『オーランドー』 (杉山洋子 訳)

「われわれはいろいろな〈自分〉でできており、それが給仕が片手で捧げ持つ皿のように重なりあっていて、それぞれにお気に入りの場所とか、共感とか、ささやかな約束事や権利を持っているから、どう呼んだところで(名づけようのないのも多いのだが)、雨の日でないと来ないもの、緑のカーテンの部屋だけ、ジョーンズ夫人(さん)がいない時だけ、ワインを一ぱいおごってやったら来る――とかいう工合なのだ。つまり、人間誰でもそれぞれの経験から多種多様な自分との間に多種多様な条件を作っては増殖していけるわけで――なかには無茶苦茶に変てこでとても活字にできない自分だってあるのです。」
(ヴァージニア・ウルフ 『オーランドー』 より)


ヴァージニア・ウルフ 
『オーランドー』 
杉山洋子 訳


国書刊行会 
1983年11月5日 初版第1刷発行
1992年10月31日 新装版第1刷発行
1993年9月10日 新装版第2刷発行
278p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,500円(本体2,427円)

Virginia Woolf : Orlando, 1928



初版は「世界幻想文学大系」第39巻として刊行されました。本書はその新装版です。訳者による新装版あとがき「十年後に」が追補されています。
本文中図版(モノクロ)8点。


ウルフ オーランドー 01


左はペンギンブックス版(旧版)です。


帯文:

「映画「オルランド」原作
監督・脚本/サリー・ポッター
主演/ティルダ・スウィントン
9月4日より日比谷シャンテ・シネ2にて
同じ人間――何も変わらない
性が変わっただけ」



帯背:

「ヴァージニア・ウルフの
綺想ファンタジー」



帯裏:

「われらの時代の最も風変わりで途方もなく陽気な小説の主人公は300年も生きており、時として英国の、そして更に英詩の象徴ともなる。不思議と苦々しさと歓喜が一つになってこの作品を作りあげている。また滑らかな散文の美しさに加えて、幾つかのテーマが反復しては互いに結びつきあってできている構造そのものからして音楽的な小説である。
――J・L・ボルヘス 「ヴァージニア・ウルフ小伝」 より」



カバーそで文:

「オーランドー? それはあのエリザベス1世に薔薇水の鉢を捧げた美少年? それとも遣り手のトルコ駐在大使、あるいはヴィクトリア朝の淑やかなレディ、詩集「樫の木」で賞讃されたのは彼/彼女じゃなかったっけ?
 両性具有の詩人オーランドーの伝記――の体裁を取りながらヴァージニア・ウルフが仕掛けた、無数の隠し絵を読み解く楽しみ、シュールレアリスティックな歴史小説、アレゴリカルな文学史、メタ・バイオグラフィー……この麗人の時空を越えた冒険談は、多層的な読みを可能にする。
 ウルフ文学の中で異彩を放つ、遊び気分にあふれたファンタジック・ロマンス。」



目次:

オーランドー――伝記
 序
 第一章
 第二章
 第三章
 第四章
 第五章
 第六章
 索引

隠し絵のロマンス 伝記的に (杉山洋子 1983年7月20日)
十年後に (杉山洋子 1992年9月1日)



ウルフ オーランドー 02



◆本書より◆


「彼はたちまち十ページかそこらを詩で埋めつくした。確かに達者だ、が、劇中人物は〈悪徳〉、〈罪悪〉、〈不幸〉などで、この世に在る筈もない国々の王や女王が登場する。忌わしき陰謀で全員破滅、気高き情緒は溢れんばかり、せりふはといえばおよそ普段作者自身の口から出るような言葉とは似ても似つかぬ。とはいえ、これすべてすらすらと美しく書かれており、作者は未だ十七歳未満、十六世紀はまだまだ終らないことを考慮に入れれば、相当な出来栄えではあった。しかしながら、オーランドーはやっと筆を置いた。若き詩人たちの永遠のテーマである自然を、彼もまた描写していたのであるが、緑の色合いをぴたり正確に表現するために物それ自体にあたってみようとして(というのは並々ならぬ大それたことなのだが)、たまたま窓辺の月桂樹の茂みを眺めたのであった。見た後では当然ながらもう書けない。自然の緑と文学の中の緑は別物なのだ。自然と文学は本来相入れぬもの、一緒にするとお互い同士ずたずたの引き裂きあいになってしまう。オーランドーが緑の色合いを見たばかりに、韻は台無し、韻律はばらばらになってしまった。おまけに自然は独特の手管を弄するものだ。ひとたび窓外の花に群がる蜜蜂、あくびしている犬、あるいは落日を眺め、「ああ、あと幾度あの夕陽を見ることがあるのだろう」とか何とか(書き留めておく値打ちもないほどのことを)考えてしまうと、もうペンを置いて、マントを肩に部屋を出てゆこうとして、そこで塗りの櫃(ひつ)に蹴つまずく、なんてことになる。オーランドーはいささか不器用だったのだ。」
「人間のもろもろの気質には相性があり、こういう性(たち)の人にはこういう気質がつきものと言えるらしいので、伝記作家としてはこの際、オーランドーの不器用さは孤独愛とよく対をなす、ということに注目しておきたい。櫃に蹴つまずくようなオーランドーは当然、人気ない場所、広大なる眺め、そして永久不変の孤独を愛したのである。
そういうわけで、長い沈黙の後やっと「ぼくはひとりっきりだ」と言った、つまりこの記録において初めて口を開いたのである。」

「歴史家によればこれはこの島国前代未聞の大寒波であったという。鳥は空中で凍り石(つぶて)の如く地に落ちた。ノリッジでは若く頑健そのものの田舎女が道を横切ろうとしたところ、曲り角で凍るばかりの突風に打たれて見る間に粉と砕け、ひと吹きの塵と化して屋根の上を吹っ飛んでゆくのを目撃した者がいる。夥しい数の牛、羊が死んだ。屍が凍ってシーツがはがせない。豚の群がまるまる路上に凍りついてじっとしている、なんてのは珍らしくも何ともない。野には羊飼、農夫、一つなぎの馬、鳥追いの小僧どもが大勢、みんな瞬間冷凍、こちんこちんに硬直して、片手を鼻にあてたり、瓶(びん)かららっぱ飲みしていたり、鴉に石を打っつけてやろうと身構えていたり、その鴉ときたらまた一ヤードと離れぬ垣の上に剥製よろしく止まっている。氷結の激烈さは実に凄まじく一種の石化を来たすこともあり、ダービー州のあちこちやたらと岩石の増殖を見たのは、溶岩噴出によるものにあらず、というのはそんなものは無かったからで、実はその場で文字通り石と化し凝固した不運な歩行者たちだと、一般に考えられている。こうした事態に当り教会は何ら打つ手を知らず、地主たちの中にはこれら遺物をお祓いして貰った者もいたが、大方は道標とか羊の背掻き石とか、形次第では家畜の水飲み桶とかに利用する方を好み、今日に至るまで概してこのような使用目的に見事に耐えているのである。」

「病は今や孤独のオーランドーを猛然と蝕んでいった。夜更けて六時間も読んでいた、で召使が家畜を屠るとか、小麦を刈り入れるとかの指示を仰ぎにゆくと、二折本(フォリオ)を押しやって、何を訊かれたのか理解できぬ様子なのだ。これはひどい、鷹匠のホールも、馬丁のジャイルズも、家政婦のグリムズディッチ夫人(さん)もお抱え牧師のダッパー師も胸が潰れんばかり。あんなに御立派な紳士に書物など無用だ。本など中風病みか死にかけの病人に任せときゃいい、と口を揃えて言った。だが病状は悪化した。というのは一旦読書病にとりつかれたら最後、身体は衰弱の一路を辿り、今度はインキ壺に湧き鵞ペンにはびこる今一つの疫病の餌食になってしまう。哀れな患者は物書きに耽りだすのである。」

「オーランドーは当惑するでもなく、姿見に映ったわが肉体をつくづく眺めてから、浴場へ、だと思うが、行ったのであった。
この待ち時間を活用して、所見を述べておこう。オーランドーは女になった――これは否定すべくもない。しかし、他のあらゆる点でオーランドーは全く以前の儘であった。性転換で将来の身の振り方は違っても、男女両オーランドーの自己同一性は毫も揺がなかったのだ。」
「変身は痛みもなく、完全に、オーランドー自身ちっともびっくりしないように行われたと見える。多くの人々がこの事で頭をひねり、このような性転換は自然律に反するとして苦心惨憺、(一)オーランドーは元来女であった、とか、(二)オーランドーは現在も男である、とか証明してきたものだ。そんなことは生物学者や心理学者に決めていただきましょう。ここでは簡単明瞭な事実だけ記せば十分。すなわちオーランドーは三十歳まで男だった、三十歳で女になり、以来ずっと女だ、と。」

「もう三百年近くもこの詩を書き続けてきたのだ。そろそろ仕上げなくちゃ。そして、あちこちと拾い読みしたり、読んでは飛ばしたりし始めて、読みながら、その間自分はまるで変ってないんだな、と思った。昔、彼女は、少年にありがちな、死に憧れる暗い気質だった、それから恋多き華麗な日々を過し、次ぎは陽気で辛辣で、散文も書いたし、劇にも手を染めた。このように自分は変化してきたのだけれど、思えば、本質的には今でも同じだ。相変らず物思いに沈みがちで瞑想的で、相変らず動物と自然を愛し、田園と四季がたまらなく好きだ。
「結局」と、立ち上がり窓辺にゆきつつ思う、「何も変っていない。家も庭も全く昔のままだ。椅子一つ動かしてない、小さな装飾品一つ売ってない。同じ小道、芝生、木立、池、池の鯉だって同じに違いない。確かに玉座にましますはエリザベス女王ならぬヴィクトリア女王だ、といっても、同じことではないか……」

「全くのところ、人生術の達人というものは、(中略)ふつうの人間の身体に脈打っている六十種、七十種もの〈時〉を何とかうまく一つに括って、時計が十一時を打つとそれが全部一斉に鳴り響くように工夫して、現在と過去の急激な分裂とか、現在が過去にすっかり呑まれてしまったりすることがないようにするのである。こうした人々は、墓石に記してある通りの定められた六十八年とか七十二年の歳月をきっかり生きたのだ、と考えてよい。そうでない人々はどうかと言うと、死んだ筈なのにそこらをうろついたりする、生れる前に人生の諸形態を経験済みだったり、また何百歳にもなるのに自分は三十六歳だ、などというのだ。人の一生の本当の長さは、『英国人名辞典』がどう言おうと、常に議論の余地がある。時を計る――これは難しい仕事なのだ、何か芸術とちょっとでも関わるとたちまち混乱してしまう。オーランドーは詩を愛していたものだから、買物のメモをなくしてサーディンもバスソルトも子供靴も買わずに帰途につくはめになったのかもしれない。」




◆感想◆


前にこのブログで紹介したウルフ作品は、お遊び的な戯曲『フレッシュウォーター』でしたが、今回紹介するのもお遊び的な架空の伝記『オーランドー』です。お遊びゆえに諷刺や衒学趣味、楽屋落ちなどが満載で、なかなかわかりにくいです。まえにペンギン版の原書をよもうとして3ページで挫折しました。
そもそもストーリーが、ウルフの知人ヴィクトリア・サックヴィル=ウエストをモデルにしつつ(本書収録図版の一部で、サックヴィル=ウエストの写真が主人公オーランドーの肖像として使用されています)、十六世紀から現代(1928年=本書出版年)まで生き続けた、しかも最初は男だったのが途中からなぜか女になってしまうオーランドーという架空の人物の伝記なので、まさに虚実皮膜。
訳者解説によると、本書は「英文学史のパロディ」であり、「詩人の精神的成長の物語」だそうです。「精神的成長」はいかがなものかと思いますが、それはともかく、シェイクスピアの時代のイギリスでは、女性は文学作品の対象にはなっても、文学作品の作り手にはなれなかったので、文学者をめざすオーランドーは文学少年として登場します。ところが十七世紀末頃から女性のイギリス文学への参加が始まると、オーランドーも女性になります。とはいえ、せっせと習作を書きためるものの、あまり才能があるようにも見えず、何百年も生きながら、まともな作品は本書の終わりのほうになってようやく「樫の木」という詩集を発表するだけで、最後には結婚して子どもを産んで、まさに「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(ボーヴォワール、1949年)とばかりに、完全に「女」になりきってしまいます。
ところで、本書で何百年も生き続けるのは主人公のオーランドーだけではありません。オーランドーが少年の頃に愛した樫の木も生き続けます。そういう意味では、本書の主人公は、むしろこの樫の木であるといってもよいです。


映画版がたいへんすばらしいです。監督のサリー・ポッターは以前、元ヘンリー・カウのリンゼイ・クーパーのアルバム『Rags』に歌手として参加していました。








こちらもご参照下さい:

Virginia Woolf / Edward Gorey 『Freshwater』

































































































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Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

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分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

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将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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