ジル・ドゥルーズ 『記号と事件 1972-1990の対話』 宮林寛 訳

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「La philosophie cependant n’est pas une Puissance. Les religions, les États, le capitalisme, la science, le droit, l’opinion, la télévision sont des puissances, mais pas la philosophie. ( . . . ) N’étant pas une puissance, la philosophie ne peut pas engager de bataille avec les puissances, elle mène en revanche une guerre sans bataille, une guérilla contre elles. Et elle ne peut pas parler avec elles, elle n’a rien à leur dire, rien à communiquer, et mène seulement des pourparlers. Comme les puissances ne se contentent pas d’être extérieures, mais aussi passent en chacun de nous, c’est chacun de nous qui se trouve sans cesse en pourparlers et en guérilla avec lui-même, grâce à la philosophie.」
(Gilles Deleuze 『Pourparlers』 より)


ジル・ドゥルーズ 
『記号と事件 
1972-1990の対話』 
宮林寛 訳



河出書房新社 
1992年4月20日 初版印刷 
1992年4月30日 初版発行
305p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,800円(本体2,718円)
装幀: 森啓



本書「訳者あとがき」より:

「本書の原題は《Pourparlers》、直訳すれば『折衝』である。「折衝」という語の意味するところは、ドゥルーズ自身が序文で述べているとおり、ある力が外部から侵入してきたとき、その力を内側に折り曲げ、自己との戦いをくりひろげるということだ。したがって、外部の力として把握されたメディアへの対応を実践してみせる本書のタイトルは、素直に『折衝』と訳すべきだったのかもしれない。(中略)『記号と事件』は、もともと本書の第四部に収められた「哲学について」のインタビューが雑誌に掲載されたときの題名だ。それを総題に採用したのは、このインタビューが本書のなかでももっとも総括的なものになっているだけでなく、ドゥルーズのいう〈事件〉の考え方をつうじて、メディアとの対決姿勢がより鮮明になるのではないかと考えたからである。」



ドゥルーズ 記号と事件



帯文:

「思想のゲリラ!! 哲学の戦い!!
『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』、
映画論、フーコーの肖像、哲学について、政治の問題など、いま世界で最も注目を集めている哲学者ドゥルーズの二十年間の対話!!」



帯背:

「思想のゲリラ!!」


帯裏:

「●哲学は時代にたいする怒りから切り離せないということはたしかだ。しかし、もう一方では哲学が静謐の感をもたらすということも、やはり見落としてはならない。哲学は力をもたない。力をもつのは宗教や国家、資本主義や科学や法、そして世論やテレビであって、哲学はけっして力をもたない。……しかし、そのかわりに哲学は戦いなき戦いをたたかい、諸力にたいするゲリラ戦を展開する。また、哲学は他の諸力と語りあうこともできない。……哲学にできるのは折衝をおこなうことだけである……。
ジル・ドゥルーズ」



目次:

Ⅰ 『アンチ・オイディプス』から『千のプラトー』へ
 口さがない批評家への手紙
 フェリックス・ガタリとともに『アンチ・オイディプス』を語る
 『千のプラトー』を語る

Ⅱ 映画
 『6×2』をめぐる三つの問題(ゴダール)
 『映像=運動』について
 『映像=時間』について
 想像界への疑義
 セルジュ・ダネへの手紙――オプティミズム、ペシミズム、そして旅

Ⅲ ミシェル・フーコー
 物を切り裂き、言葉を切り裂く
 芸術作品としての生
 フーコーの肖像

Ⅳ 哲学
 媒介者
 哲学について
 ライプニッツについて
 レダ・ベンスマイアへの手紙(スピノザについて)

Ⅴ 政治
 管理と生成変化
 追伸――管理社会について

訳者あとがき




◆本書より◆


「序文」より:

「およそ二十年にもわたる期間に、しかも散発的におこなってきた対談のテクストを、いま、なぜ一冊の本にまとめるのか? 折衝が長引いたあげく、それがいまだに戦争に属しているのか、あるいはすでに平和に足を踏みいれているのか、判然としなくなることがある。哲学は時代にたいする怒りから切り離せないということはたしかだ。(中略)哲学は力をもたない。力をもつのは宗教や国家、資本主義や科学や法、そして世論やテレビであって、哲学はけっして力をもたない。(中略)みずからが力ではないところからして、哲学には他の諸力と戦いをまじえることができなくても当然なのである。しかし、そのかわりに哲学は戦いなき戦いをたたかい、諸力にたいするゲリラ戦を展開する。また、哲学は他の諸力と語りあうこともできない。相手に向かって言うべきこともないし、伝えるべきことももちあわせていないからだ。哲学にできるのは折衝をおこなうことだけである。哲学以外の諸力は私たちの外にあるだけでは満足せず、私たちの内部にまで侵入してくる。だからこそ、私たちひとりひとりが自分自身を相手に不断の折衝をつづけ、自分自身を敵にまわしてゲリラ戦をくりひろげることにもなるわけだ。それもまた哲学の効用なのである。」


「管理と生成変化」より:

「私たちが「管理社会」に足を踏み入れているのはたしかです。社会はもはや規律型とは言いきれないものになっているのです。フーコーは、規律社会と、その主たる技法である「監禁」(病院や監獄だけでなく、学校や工場や兵舎もそこに含まれる)の思想家とみなされることが多い、しかし、じつをいうと、フーコーは、規律社会とは私たちがそこから脱却しようとしている社会であり、規律社会はもはや私たちとは無縁だということを述べた先駆者のひとりなのです。私たちは管理社会に足を踏み入れている。管理社会は監禁によって機能するのではなく、不断の管理と瞬時に成り立つコミュニケーションによって動かされている。管理社会について、分析の口火をきったのはバロウズでした。(中略)いま、手探りの状態でその形をととのえつつあるのは、新しいタイプの懲罰であり、教育であり、また治療であるわけです。(中略)いま目前にせまった、開放環境における休みなき管理の形態にくらべるなら、もっとも冷酷な監禁ですら甘美で優雅な過去の遺産に思えてくることでしょう。とにかく「コミュニケーションの普遍相」の探究には慄然とするしかありません。もっとも、実際に管理社会がととのえられる以前にも、さまざまな形の犯罪や抵抗があらわれることもあります。たとえばハッキングやコンピューター・ウイルスがそうだし、これがストライキや十九世紀に「サボタージュ(怠業)」と呼ばれた行為(機械に投げ込まれた木靴(サボ)を意味する)にとってかわることになるでしょう。(中略)言論やコミュニケーションは金銭に毒されている。しかもたまたまそうなったのではなく、本性からして金銭に支配されている。だから言論の方向転換が必要なのです。創造とコミュニケーションはこれまでも常に別々のものだったのです。そこで重要になってくるのは、管理をのがれるために非=コミュニケーションの空洞や断続器をつくりあげることだろうと思います。」


「哲学について」より:

「授業とは、一種のシュプレッヒゲザング(レシタティーヴォ)であって、演劇よりは音楽に近いといえるでしょう。というか、授業がすこしばかりロック・コンサートに似通ったものになるのをさまたげるものは原則としてひとつも存在しないのです。(中略)哲学科では「知識の累進性」という原則を拒否しました。同じひとつの授業が第一学年の学生とn学年の学生を対象にしておこなわれ、学生も学生でない者も、哲学の学生も哲学以外の学生も、さらに若い人と年配の人が一緒になり、しかもさまざまな国籍の人たちをひとまとめにしていたのです。(中略)各人が、自分の必要とするもの、自分の欲しいものを手に入れたし、自分の専門とはかけはなれたものであっても、何かに使えるとなれば、それをつかみとっていったのです。」
「そして哲学とは、厳密な意味で、議論とは何のかかわりももたないものなのです。誰かが問題を提起するとき、(中略)その問題を豊かなものにするだけでいいのです。問題の条件に変化をつけ、補足し、つなぎ合わせることがもとめられているのであって、けっして議論をしてはならないのです。ひとつの着想が、まるでいくつものフィルターを通過したような状態になってかえってくる、エコーのこだまする部屋とか円環のようなもの。そこでは哲学が、概念を用いる哲学的理解を必要とするだけでなく、知覚内容と情動による非哲学的理解もきわめて重要なのだということがわかりました。二通りの理解が必要なのです。(中略)生き生きとした哲学を殺してしまう知の過剰というものも存在する。非哲学的理解とは、不十分なものでも暫定的なものでもなく、ふたつの伴侶の片割れ、ふたつある翼のうちのひとつなのです。」

「記号は生の様態や生存の可能性を表示している。だから記号は、沸き起こるように活発な生命や、枯渇した生命を示す症候となるのです。しかし、芸術家は、枯渇した生命で満足することも、個人的な生活に満足することもできない。自分の自我や自分の記憶や自分の病では文章は書けないからです。書くという行為のなかでは、生命に手を加えて、個人を超える何かに作りかえる、そして生命を閉じ込めるものから生命を解き放ってやろうという企てがある。(中略)文章は、まだ言語をもたない、来るべき人民を想定して書かれるものなのです。創造とは、伝達することではなく、耐久力をもつことです。記号と〈事件〉と生命と生気論のあいだには、深い関係がある。それは非=有機的生命の潜在力であり、絵画や文章や音楽の線にもそなわることのある潜在力なのです。死んでいくのは有機体のほうであって、生命は死ぬことがない。生命に出口を教えないような、そして敷石と敷石のあいだの隙間に一本の道を穿ってくれないような作品など存在しないのです。私が書いたものは、すべて生気論になっている、いや、そうあってくれればいいと思っているだけかもしれませんが、とにかく私の本はすべて、記号と〈事件〉の理論を形成しています。」























































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