R・A・ニコルソン 『イスラムの神秘主義』 中村廣治郎 訳 (平凡社ライブラリー)

「自己の意志を抹消したスーフィーは、専門用語で「黙従」または「満足(リダー)」と「神への信頼(タワックル)」の「階梯」に達したと言われる。」
「「ある修行者がチグリス川に落ちた。彼が泳げないのをみて、岸の男が叫んだ、「誰かに頼んであなたを助け上げましょうか」と。「いいえ」と修行者は言った。「それではあなたは何を望んでいるのですか。」修行者は答えた、「神の意志の行なわれんことを! 私が何かを望んだりしなければならないのでしょうか」と。」」

(R・A・ニコルソン 『イスラムの神秘主義』 より)


R・A・ニコルソン 
『イスラムの神秘主義
― スーフィズム入門』 
中村廣治郎 訳

平凡社ライブラリー 143

平凡社 
1996年4月15日 初版第1刷発行
248p 
B6変型判(16.0cm) 並装 カバー 
定価1,200円(本体1,165円)
装幀: 中垣信夫
カバー・マーブル制作: 製本工房リーブル
カバー: イスラムのカリグラフィ。箴言「最高の知恵は神への畏怖なり」。


「本著作は、一九八〇年六月東京新聞出版局より刊行されたものの改訂新版である。」



「訳者まえがき」より:

「本書は Reynold A. Nicholson, The Mystics of Islam (London: G. Bell and Sons, 1914)の全訳である。原題をそのまま訳せば「イスラム教の神秘家たち」となろうが、簡単に「イスラムの神秘主義」とした。」


ニコルソン イスラムの神秘主義


カバー文:

「スーフィズムとは何か。この神秘主義の伝統を知らずして
イスラムの全体的理解は覚束ない。斯界の大家がその学殖のすべてを傾注してスーフィーの思想・体験・生活の内的構造を平明に説く古典的入門書。」



カバーそで文より:

「R.A. Nicholson
レナルド・A. ニコルソン(1868―1945)
英国の東洋学者、ヨークシャー生。
父ヘンリー・アレインは科学者、祖父ジョンは聖書学者。
アバディーン大学、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに学ぶ。古典文献学から東洋学に転じ、
アラビア語・ペルシア語を研究。
1902年以降ケンブリッジ大学ペルシア語講師、
26年以降同大学アラビア語教授を務める。
とりわけスーフィズム文献の校訂・翻訳に
先駆的な業績を残すとともに、多くの学術書を上梓、
それらは今日にあっても古典的価値を保っている。
(以下略)」



目次:

訳者まえがき
編者序 (G・R・S・ミード)

序章
第一章 道
第二章 照明とエクスタシー
第三章 霊知
第四章 神の愛
第五章 聖者と奇蹟
第六章 合一の境地

原註
訳註
解説――スーフィズムとは何か (中村廣治郎)
平凡社ライブラリー版へのあとがき (訳者)




◆本書より◆


「スーフィズムに関するアラビア語やペルシア語の著作に見られる無数のスーフィズムの定義(中略)の主なる重要性はスーフィズムが定義できないということを示した点にある。(中略)スーフィズムを定義する人(中略)は自分が感じたものを表現することしかできない。(中略)しかしながら、これらの定義はスーフィズムのある局面や特徴を簡便かつ手短に叙述しているので、二、三の見本をあげてもよいだろう。

 「スーフィズムとは次のようなものである。神だけが知る行為がスーフィーの上を通りすぎている(つまり、彼になされている)ようでなければならないということ、そしてスーフィーは神だけが知る方法で常に神と共にあるべきだということである。」
 「スーフィズムは完全な自己修行である。」
 「スーフィズムとは、何も所有せず、何ものにも所有されないことである。」
 「スーフィズムとは、規律や知識で構成された体系ではなく、道徳的性向である。すなわち、もしそれが規律であるならば、一所懸命に努力すれば自分自身のものにできる。またそれが知識であれば、習得することができる。しかし、そうではない。それは、「神の道徳性に基づいて汝自身を形成せよ」という言葉によって知られるような性向である。だが神の道徳性は規律によっても、知識によっても得られるものではない。」
 「スーフィズムとは、自由であり、寛容であり、自己抑制のないことである。」
 「それは次のようなものである。神は汝を汝自身に死なせ、神のうちに生かしめることである。」
 「現象界の不完全さを見ること、否、あらゆる不完全さからかけ離れた神を観照する中であらゆる不完全なものに目を閉ざすこと、それがスーフィズムである。」
 「汝の頭にあることをすべて捨て、手に持つものをすべて与え、自分に何がふりかかってこようとひるまぬこと、それがスーフィズムである。」

 スーフィズムとは、多くのさまざまな意味を持った言葉であり、その主要な特徴を描くためにはどれか特定の型だけを表わすのではなく、一種の合成画を作らざるをえないということが読者には理解できるであろう。スーフィーとは宗派のことではない。彼らは教理体系を持たず、彼らが神を求めるよすがとする「道」は、「人間の魂と同じくらいの数があって」無限に変化するが、同一家族の成員としての類似性はそれらすべての中に見出せる。」

「「スーフィー」という言葉は(中略)"suf"(羊毛)から派生した語で、(中略)粗末な羊毛の衣を身にまとったイスラム教徒を指す語であった」

「真の清貧は富を持たぬだけではなく、富への欲望を持たぬことである。手に何も持たないだけではなく、心にも何も持たないことである。「貧しい者(ファキール)」と「乞食者(デルヴィーシュ)」と呼ばれることは、イスラム教の神秘家にとっては名誉なことである。なぜなら、それらは彼が、心を神から逸らすと思われるすべての考えや願望から絶縁していることを意味するからである。(中略)そのような貧者は個我的存在から脱しているので、いかなる行動、感情、性質をも自己自身に帰することはない。(中略)神秘主義的著作家たちのことを知っている人なら改めて教えられるまでもなく、彼らの語彙が曖昧であり、同一語がしばしば見方によって多少とも幅を持った、多数ではないにしてもあるグループをなす意味を持つことがある。(中略)スーフィーを「貧乏人」から区別するのは「自我」の欠如である。」

「汝ら、神を求めて追う者よ、
神は汝らなるが故に追い求めるに及ばず。
見失ってはいないものを何ゆえに探し求めるのか。
汝ら以外に誰もいない。しかし、汝らは――いずこに、おお、いずこに、だ。」


「ヌーリーは言った、「かつて私は光を見たことがある。そして私はあまりにも視線を逸らさずそれを眺めすぎた結果、私が光になってしまった」と。」


本書より、ルーミーの詩:

「人は酒と薬物の利用の咎めを招いても、
瞬時、自我意識より逃れんとする。
なぜなら人は皆、この人生が罠であり、
意識的な記憶や思考が地獄であることを知るがゆえ。」




こちらもご参照下さい:

アッタール 『イスラーム神秘主義聖者列伝』 藤井守男 訳











































































































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