川村二郎 『白山の水 鏡花をめぐる』 (講談社文芸文庫)

「鏡花はたしかに絢爛たる修辞の人ではあったけれども、真空恐怖に駆られて画面の隅々まで修辞で填めつくしたわけではない。むしろ、華麗をきわめた表現を唐突に中断する空白、あるいは逆に、茫漠とした空白の中に現出して瞬時に目を射る一点の色彩、または閃光、そういった部分において、鏡花の最も微妙な味いを探り取ることができる。」
(川村二郎 『白山の水 鏡花をめぐる』 より)


川村二郎 
『白山の水 
鏡花をめぐる』

講談社文芸文庫 か G3

講談社 
2008年9月10日 第1刷発行
393p 
文庫判 並装 カバー 
定価1,700円+税
デザイン: 菊地信義



単行本初版は2000年12月、講談社刊。本書はその文庫版です。文庫化にあたって解説と年譜、著書目録が付されています。

本書は、著者の自分語りから始まる(といえば川村二郎の長篇評論はみなそうですが)泉鏡花論です。川村二郎といえば自分語り&森鴎外批判、というわけで本書でも文脈そっちのけで鴎外をディスっています(「いかにも鴎外らしいといえばいえる、嫌味たっぷりの不愉快な文章」とか、折口信夫のことを「私見では鴎外などよりはるかに重要な近代日本文学史上の存在」と評したりとかです)。


川村二郎 白山の水 文芸文庫


カバー裏文:

「著者少年期の金沢体験を出発点に、また、その後の土地の精霊を訪ねる旅での見聞をもとに、泉鏡花の作品世界を、地誌的・民俗学的に読み解いた長篇エッセイ。「川」「峠」「水神」「蛇」「化物」「白神」等のキー・タームから、鏡花作品の幻想性に入りこみ、その深奥にある北陸の山と水、それらを宰領する精霊たちのうごめきを感じとる。鏡花をめぐるセンチメンタル・ジャーニー、巡歴の記録。」


目次:

一 金沢
二 川
三 橋
四 水死
五 水神
六 蛇
七 白
八 メルヘン
九 化物
十 盲人
十一 隅田川
十二 深川
十三 カロン
十四 小人
十五 変化
十六 峠
十七 鳥
十八 杜
十九 遊行
二十 白神
二十一 金沢

参考資料
 単行本 「後書」 (川村二郎)

解説 (日和聡子)
年譜 (著者編、一部編集部で補う)
著書目録 (著者作成、一部編集部で補う)




◆本書より◆


「一 金沢」より:

「金沢は最初の異界だった。」

「金沢にいた一年間、一人の友達もできなかった。求めもしなかったし、求められもしなかった。だがこの雪山の一日を振り返ると、名前も顔も忘れてしまったその数人のことが、妙になつかしく感じられるのである。名前も顔も忘れた。ひょっとすると、いなかったのかもしれない。いなかったのかもしれない人間が、なつかしく感じられるとはどういうことか。現(うつつ)より夢が好き、本体より幻が好きといった個人の生理が、そうした倒錯を惹き起すことは充分考えられるにしても、もしあの東の山の雪の中でなかったとしたら、その倒錯が生じただろうかとも思う。金沢の風土が、少くとも小学生のこちらに与えたその印象が、このなつかしさと分ちがたいことは確かである。」

「小学生は、鏡花を読みもしないうちに、鏡花の世界の空気を呼吸していたのである。」



「ニ 川」より:

「街には川がなくてはならない。水運、物流といった現実の利便を別にして、もっぱら原理的な意味において。」
「街は(中略)人間の意志によって作られる。意志が求めるのは安定である。」
「その街の安定志向を、川は、くつがえしはしないまでも、ゆり動かし、心もとなくさせる働きを持つ。いうまでもなく川は自然であり、破壊者としての時間の目に見える形である。もしそれが自然の暴力をほしいままに発揮し、洪水となって氾濫すれば、物理的に街は崩壊する。その暴力を振わせないために、街の中を流れる川はおおよそ堅固な護岸工事で囲いこまれ、檻の中の猛獣のように馴致(じゅんち)されている。しかしたとえ檻の中に入れられようと、猛獣は猛獣なのであり、いつ何時、檻の外に躍り出て来ないとも限らない。秩序の底にひそむ、潜在的な無秩序として、街の川は表象される。
 街に川がなくてはならないと思うのは、無秩序に接していてこそ、秩序は輪郭を際立たせると同時に、独自の陰翳を帯びることになるはずだと考えるせいである。無秩序と関係ない単なる秩序などというものは、数学の公式なみに味気ない。」



「六 蛇」より:

「ホフマンの(中略)『金の壺』(中略)を初めて読んだのは中学四年の時、戦前の岩波文庫の石川道雄訳『黄金宝壺』によってである。読み終えて呆然とした。名古屋市立図書館で読んだのだが、館の外へ出ると世界が変って見えた。(中略)その後、大学に入ってドイツ文学を専攻することになる道筋への、間違いなくこの読書体験が決定的な第一歩だった。
 何にそれほど衝撃を受けたかといえば、幻想と現実の境がどこにあるのか分らぬ、極端な二元の混淆状態、それを見て目がくらんだのである。(中略)ホフマンは、双方の世界の交錯と融合を、表現の原理たらしめていると感じられた。要するに、表現におけるイロニーの鬼火めいたゆらめきに眩惑されたのだ。」
「人間の男と蛇との恋物語が(中略)始まって、神話世界にのめりこむ。ただこの世界はあらかじめ失われている夢の理想郷なのであり、夢は現実の介入を示すイローニッシュな表現によって不断に損われるので、その夢の回復ないし実現を読者はほとんど信じることができない。物語の表面では一応恋は成就し、ハッピーエンドを迎えることになるのだが、それはいわば、無理を承知でイロニーの中からもぎ取られたかのような結末なので、後味としてはむしろ、無理の痛々しい感触が残る。
 鏡花には表現におけるあからさまなイロニーは見られない。夢をすとんと現実に落したり、現実を強引にねじ曲げて夢の意匠に仕立てたりする操作が、ことさら目立つわけではない。鏡花において現実は、しばしば自然主義リアリズムさえも顔色なからしめるほどの、醜悪な相をさらけだしている。」
「角兵衛獅子の少年が、春の海に入って戯れているうちに、とんぼを切ってそのまま水の中に見えなくなる。二三人浜へ駈けて来たが、「馬鹿な奴だ」「馬鹿野郎」と高声で大笑いするばかり。やって来た巡査さえ、子供が溺れたと聞いて、
 「角兵衛が、はゝゝ、然(さ)うぢやさうで。」
 いくら芸人が人間扱いされていない時代でも、これはひどすぎる。もっとも、こうしたむごい現実に囲まれているからこそ、次の日の朝上った、女と少年の抱き合った死体は、それだけいよいよ美しく際立ち、夢の成就を告げ知らせているのだともいえる。
 おそらく『金の壺』のホフマンは、『春昼・春昼後刻』の鏡花ほど強く夢を信じてはいないのだ。だから愛らしい蛇がそこから生れ、またそこに回帰するはずの夢の国、アトランティスの情景も、一時(いっとき)過ぎれば現実の風に吹かれて消え失せかねない、虚空に描かれた幻のような不安げなたたずまいを見せている。表現のイロニーがたえず夢の浄福をおびやかす。
 鏡花にイロニーがあるとすれば、事柄自体のイロニーである。無残な生と死が聖化を約束し、妄想の所産でしかないような夢が真実を保証する。夢の強度が現実を圧服する。(中略)ホフマンが近代だとすれば、鏡花は近代以前である。」
「『春昼』の蛇にアレゴリーの性格を読み取ろうとするのは無理である。それは海辺の村ののどかな春の日中、人家の間近へのたくったり畑の中を飛んだりして、小心な人間を気味悪がらせる動物以外のものではない。だが、先へ進むにつれて幽晦の度を強める物語が、神秘的な交感の実現を証す女の水死でもって、絶頂に達すると同時に唐突に終るのを目にする時、圧倒された読者は、物語を導きだす役割を果した蛇に、そもそも神秘にかかわる宿因があったのだと思わねばならなくなる。その時読者は、近代文学の中で発現するのとは少し異質の想像力、目前の現実をそのまま神話にしてしまう想像力の働きをも、否応なしに感得させられることになる。」



「二十一 金沢」より:

「水死体に執するフェティシズムが現実に満足を求めると、いかに目もあてられぬ惨状を呈するかを、(中略)江戸後期のある文人の見聞記の一節が明示している。文化元年五月、隅田川に男女の身投があった。「男は廿一二、女は十六七、対(そろい)のゆかたにて互ひに抱き合ひ、緋縮緬(ひぢりめん)のしごきにて結び合ひ、溺死してあり」という次第。たちまち江戸の細民どもが押しかけ、見物人を舟で運ぶ船頭は、初めは八文、後には十六文、さらには二十四文、三十二文、半百(五十文)にまで舟賃をつり上げた。
 「此見物を乗せたる舟幾艘ともしれず、船頭は情死ありて思はぬ銭まふけしたり、三四日斯(かく)の如し」
 つまり何日も水の上に放置されていたわけである。女はそれほど変らなかったが、男の方の顔は水ぶくれして薬缶のようになっていたという。
 死体が見世物になる。死体を見世物にするのは、見ることへの人間の欲望が、制御されなければどれほどとめどもなく野方図になるかということの証である。死者たちは、生者から何らかの抑圧なり迫害なりをこうむって、死を選んだのだろうが、死後、細民の好奇の目にさらされて、二重に生者の凌辱を受けたのだといってよい。」
「『千鳥川』(明治三十七年)という、ほんの十ページばかりの小篇がある。過激な情死礼讃論がその中核をなしている。
海辺の茶屋で休んでいる学生が、ここは心中のあった所だそうだがと、店の女房にたずねる。女房はここではない、この先の川に身を投げたのだといい、一件のいきさつをこまごまと物語る。その話によれば、女は良家の令嬢で立派な学校の生徒であるにもかかわらず、とんでもない浮気もので、内気なおとなしい男を行きがけの道連れにして、一緒に川へ身を投げたのだという。(中略)女房の報告は俗物的偏見をむきだしにした、いかにも不愉快なものだが、そうであるだけ、事実を正確に伝えているかどうかは別にして、事件に対する世間の反応を正確に伝えているといえるだろう。ふしだら女が、
 「些(ちっ)とも容色(きりょう)が好(よ)かないんだから厭(いや)ぢやありませんかね」
 というのも、実際に不美人だったかどうかは知らず、そんなことをする女は醜いにきまっていると思いたい世間の「良識」にとっては、まことにわが意を得る判定にちがいない。
 話を聞いた学生は激昂する。ふしだらだろうと不身持だろうと、死ぬというのはよくよくのことだ。たとえどんなことがあったにしろ、身を捨てたら許すべきではないか。かわいそうに、死んだものを、散々にけなしつけるとは何事だ。
 「嘘でもいゝ、追善菩提のため、飽(あく)まで誉(ほ)めろ、思ふさま庇(かば)つて話せ」
 というのが、昂奮した学生の言分である。
 昂奮はさらに進んで次のような激語に到る。
 「何(ど)うせ、くさしついでだと思つて、第一女振(おんなぶり)が好(よ)くないなぞといふことがあるものか。先づ其の容色(きりょう)から誉め立てろ、つひぞ見た事のないやうな美しいお姫様でございましたと、」
 実際には女房のいう通り、不器量で執着心の強い女が、柔弱な男にからみついて、水底に引きずりこんだのであったかもしれない。あまっさえ死体は、自然の浄化作用の進行する中で、おぞましい壊敗の相を呈していたかもしれない。学生はもとより、そうしたことは承知の上だろう。承知の上で、あえて、「嘘でもいゝ」という。心中した者はすべて美しく、心中した者をそしる者はすべて醜い。死んだ女を汚らわしいと罵った同級の女学生たちは、学生にいわせれば、たとえ身を投げたところで「龍宮で門前払(ばらい)」の醜女ぞろいなのである。
 鏡花の作品はおしなべて、「嘘でもいゝ」からあくまで対象の美をほめたたえてしまおうとする、強烈な意志と情熱によって生みだされている。そこにはほとんど確信犯的な、巧言令色への志向が働いている。「嘘」を敵視する「誠実」な近代の文学は、当然それをきれいごととして排斥するだろう。しかし嘘を承知でほめる、ぬけぬけとした美の礼讃者にとって、そうした誠実派からの批判は、痛くも痒くもないはずである。
 白山の姫神も、そのような意志と情熱の放つ光によって、包みこまれ、輝かされている。」





こちらもご参照下さい:

川村二郎 『白山の水 鏡花をめぐる』 (単行本)


























































































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本