川村二郎 『チャンドスの城』

「なぜなら、ヒュムニス、それがすべてなのよ、――それがすべてなのよ、ヒュムニス、希望を持たずに幸福でいるということが。」
(ホフマンスタール 「恐れ」 より)


川村二郎 
『チャンドスの城
― 物語と夢』


講談社 
1976年11月20日第1刷発行
242p 
19.4×13.2cm 
丸背紙装上製本 カバー 
定価1,100円



本書「あとがき」より:

「これは「文学と夢についての試論」という副題を添えて、雑誌「群像」一九七五年十月号から一九七六年九月号まで、一年間にわたって連載した文章である。」
「ホフマンスタールをはじめて読んだのは、一九四五年、(中略)動員されていた製鋼工場の中でである。(中略)それから間もなく戦争が終り、工場からは解放されたが、内側にも外側にもとりとめない焼野原がひろがっている中で、『六百七十二夜の物語』を読んだ時、予感は確信に変った。自分にとって文学が何であるのか、その意味を一番深い所で教えてくれるのがこの作者だと、はっきり考えた。」
「あるエッセイの中に、
 「この作家を読みはじめて以来、現在に到るまで、彼はぼくのためにいわば守護聖者の役をつとめてくれている。ぼくが文学について考える上で、彼に負うているものはほとんど無限にひとしい」
 などと書きつけもした。しかしこんなことを書いてしまえば、その無限にひとしいものの実体を披露して見せるのが、物を書く人間の債務になる。とにもかくにもある程度の債務を果し、三十年前の暗鬱な感動に形を与えたつもりでいるのが、この書物である。」



「あとがき」中で言及されている「あるエッセイ」は、「バロックについて」(「すばる」第一号、昭和45年6月/単行本『幻視と変奏』収録)です。
著者によるホフマンスタールの訳書として、岩波文庫版『ホフマンスタール詩集』、講談社文芸文庫版『チャンドス卿の手紙|アンドレアス』があります。


川村二郎 チャンドスの城


帯文:

「――物語と夢――
ホフマンスタールに『チャンドス卿の手紙』という作品がある。チャンドス卿は架空の人物だが、作中で『新パリス』『ダプネ』を書いている。二重構造の複雑さ、夢と現実を往き来する物語に託する実存とは。『群像』連載中から好評の長篇エッセイ。」



帯背:

「川村二郎
長篇エッセイ」



帯裏:

「「このことを証言してくれ、私は存在していたのだ、たとえ誰一人私を知る者がなかったとしても。」――この言葉は謎めいて重く、痛切で、しかも透明なひびきを帯びている。この声は、城の内部でかすかにきこえるにすぎない。しかし城の窓は、たしかに外に向って開かれている。(本書より)」


目次:

第一章 夢
第二章 死
第三章 美
第四章 冥府
第五章 分身
第六章 幻視
第七章 神話
第八章 迷宮
第九章 音楽
第十章 影
第十一章 旅
第十二章 犠牲

あとがき




◆本書より◆


「第一章」より:

「物語への興味は、要するに、別世界への興味である。」
「遠距離への思慕。それが物語への情熱の基本にあるとして、その方向は必ずしも、辺境から中央へ、未開から文明へ、という筋道をたどるとは限らない。(中略)まさしく逆方向の、中央から辺境への思慕の物語」
「ドイツ・ロマン派の遠心的志向の代表者といってよいヴィルヘルム・シュレーゲル、「忘れられたもの、誤解されたものに光をあてる」ことをおのが使命と考え、(中略)古いヨーロッパの文学的遺産を貪欲にあさりつくしたこの翻訳の天才」
「文明の爛熟と繊細化に、倦むほどなずんだ心は、実はこの倦怠においてすでに、文明に対する慊焉においてすでに、対極の側に向って変容しはじめているのではなかろうか。もしそうとすれば、暗さへの志向は、一種の親和力の作用、共感の運動として理解されてよいことになる。」
「未知の世界の神秘へと誘われる観照が、あっさり発見してしまった、その世界の富(中略)。しかしこの富は、エキゾチシズムの対象から共感の対象へと変貌することによって、はじめて観照者自身の富となる。」



「第二章」より:

「『六百七十二夜の物語』は、観照する人間が破滅する物語である。
 何不足なく暮している(中略)青年が、ある日、他人との交際を疎ましく思いはじめ、大方わが家に閉じこもって過すようになる。閉ざされた室内が、彼にとっては一つの宇宙となる。「絨毯や織物や絹布、彫刻を施したり腰板をはめこんだりした壁、金属製の燭台や水盤、ガラスの水差し、陶磁の壺」、そういったさまざまな物や器が、彼にはこれまで思いもかけなかったほど意味深く感じられ、「世界のすべての形や色」がその中で生動し、「世界の神秘」が形象のうちに呪縛されているのを、まのあたり眺める心地に彼はひたされる。」
「物語の重心は室内にあるのではなく、むしろ主人公がそこから離脱し、脱落して行く過程におかれている。そしてこの過程は、まさしく離脱、脱落と呼ぶにふさわしく、室内からの自覚的な出発、夢からの覚醒の印象はきわめて乏しい。」
「離れているからこそ対象の生を強く感じるとは、観照的な人間の特性である。そのような人間にとっては、プラトン風な愛こそが真の愛であり、現在の情感ではなく過去の追憶こそが心を真に満たす力であり、異郷にあってこそ故郷は真に故郷としての意味を持つことになる。「ガラス越し」に、手の届かぬものとして眺めているからこそ、世界は秘密に満ちた謎として彼の前に現われる。」
「室内を出てからは、主人公の運命は急転直下というも愚かなばかりである。事態の解決のために何一つ有効な手を打つこともできず、あてもなく町中をさまよい歩くうちに、彼は今まで見たことがあるかどうか、思い出すこともできないむさ苦しい街区にやってくる。(中略)宝石商の家の窓から、隣家の温室を眺めると、無性に温室を見たくなって、中庭伝いに隣家の庭に入る。温室の中で世にも稀な美しい花々に見とれているうちに、陰険な家霊のようなこの家の少女に閉じこめられてしまう。必死になってそこから脱出し、家の裏手から狭い通路に抜けると、空中にかけられた橋板を渡って向い側の家の屋上テラスにたどり着くといった恐怖の経験を重ねた末、またしても、醜くみすぼらしい路地に歩み出る。もう日は暮れており、一刻も早くベッドに横になりたいという気持しか彼にはない。しかし彼がやがて迷いこんだのは兵舎の中庭で、そこにつながれていた馬を眺めているうちに、馬の足もとに先程買った装身具を取り落とし、身をこごめて拾おうとしたはずみにしたたかに腰を蹴りつけられ、兵舎のわびしいベッドに寝かされたまま、血を吐いて死ぬのである。」
「『千夜一夜』(バートン版)では、六百七十二夜は、(中略)一種の英雄伝説風な物語のうちの一夜に当るが、英雄ペルセウスのような数奇な星のもとに生れた「放浪者」という名を持つ主人公が、艱苦の末もろもろの敵を打ち破り万民の王となるというその物語は、室内の観照者のあわれな死の物語とはおよそ似ても似つかない、勇壮かつ殺伐な活気に満ちている。だが、それはそれとして、六百七十二夜は、主人公が、魔神によって河に投げこまれ、海に漂い出て一隻の船に救い上げられるが、それは異教徒の船で、たちまち囚われの身となってしまう、という、最大の受難の場である。」
「明らかにこの場面も神話的な死を示している。死の経験、地獄めぐりの経験を通過した者が、真に偉大な人物になるという、神話の定式がここにあらわれている。」
「『六百七十二夜』が「メルヘン」であるのは、当然のことながらまず、『千夜一夜』の雰囲気(中略)を、模造しているからである。しかしこの模造された雰囲気は、主人公が破局へ進むにつれて稀薄化し、ついには消滅する。」
「「メルヘン」の雰囲気が破壊された後にも、この物語はなお「メルヘン」でありつづけている。それは明晰な分析的精神には理解困難なことだろう。それは夢から脱落した場所がまた夢であるといっても同じことだが、当然のことながら二つの夢のあいだには落差があり、規模もいちじるしく異っている。小林秀雄の巧みな比喩を重ねて借りるなら、「入口も出口もない不思議な球体」からは、結局出発しようがないのだが、それにしてもこの球体は、最初に比べれば、途方もなく巨大になっているのである。すなわち、エキゾチシズムの気分などでは捉えようもない、美も醜も、大きいものも小さいものも、高いものも低いものも、無差別にくるみこんでひろがっている、「物語の中の物語」の世界、本来の『千夜一夜』のメルヘンの世界に、それは変容している。」
「すぐれた才能ならば、出発点で、予感のうちにすでに自己の知るべきすべてを知っている。というより、それを知っているのがすぐれた才能というものである。最高の世界と最低の世界をくるみこむ「ただ一つの人間性」を心おきなく讃嘆するにしては、『六百七十二夜』の作者は、人間性の錯落たる謎の叢林に踏み迷いすぎていただろう。しかし少くとも、この人間性の綜体は、予感のうちに望見されてはいた。蒼ざめた観照的人間の、「ガラス」の外側でのよるべない彷徨と死が、「放浪者」と名づけられた英雄の、荒々しい行為の世界での受苦と、おぼろげにもせよ重ね合わせになって見えてくるのは、ほかでもない、この予感のせいである。」



「第三章」より:

「優雅な美青年が醜悪な馬に蹴られて死ぬ。そういった物語の設定は、物語作者のいかなる意向がそれを要求したかにかかわらず、作者個人の意向を超えた、物語の一般的な趣向という次元で考えることが可能である。
 その趣向を一言でいうならば、世紀末風な残酷物語の趣向である。」
「世紀末風な残酷物語の趣向という時、通俗的な用語で、悪魔主義と呼ばれる傾向が、その趣向を生みだす底流として想定され得るだろう。要するに、現に死んでいる、あるいは少くとも死に瀕している神に代って、新しい神を勧請しようとする意向だが、この場合、新しい神は無から生成するのではなく、すでに存在する神の対立者、すなわち悪魔の、栄誉ある復権という形で現われるわけである。ところで悪魔とは何か。それは元来、神ではなかったか。地獄に堕ちた天使。海底に突き落された巨人(テぃぃタン)。われわれの民俗伝承における、河童や山姫や産女(うぶめ)といった可憐な妖怪たちを引きくるめて、彼らはみな、より強力な神の支配する秩序のもとで零落した前代の神ではなかったか。――そうとすると、悪魔の復権の試みは、新しい神の勧請というばかりではなく、忘れられた古い神の再臨をもとめる、一種復古主義的な一面をも持つことになる。」
「復古といったモチーフ、いわば前進するためにもせよ後退するといった挙措に示される、この種のモチーフ(中略)」「それはむしろ、より繊細な、より柔かい心性の所有者にふさわしいモチーフだった。」
「『ディオニュソスの研究』でペイターは、この神の相の謎めいた多様性を仔細に跡づけながら、その神話は「生の全体」を覆っており、「人間の経験全体」を聖なる形で提示し、注解しているのだといっている。つまり地上を超えた神でありながら、その閲歴は地上の人間の生活に終始密着し、それを反映しているのだということである。」
「《彼(ディオニュソス)はそこで二重の存在になっている――一種の二重人格(ドッペルゲンガー)になっている。冥府の女王ペルセポネー同様、彼は二つの世界に所属しており、彼女と多くの共通性を持ち、彼女のものである暗い能力を充分に分け与えられている。彼は地下の神であり、しかも、地上のすべての子らと同様に、悲哀の要素を持っている。冥府の王ハーデス自身にひとしく、彼は神聖でありながら貪婪な人肉の嗜食者であり、それと知らずに少年ペロプスの象牙のように白い肩を食らった墓窖の主である。》
みずからそれと知らずに人間を食らう地下の神の悲哀。その消息についてはさらに、この神が厳冬にさすらいながら餌を求める狼と同化し、人狼伝説に結びついて行く過程をたどって語り続けられ、この伝承の変遷過程に連なるものとして、悪名高い中世フランスの殺人鬼、ジル・ド・レの名前が思い浮べられもする。(中略)人を殺し、食らうといった神、乃至悪霊の所業を、悲哀の相のもとに眺めるのは、やはり、いかにもペイターにふさわしい特徴的な洞察といってよいと思われる。『ディオニュソスの研究』は、この神が幼い時巨人(ティタン)によって虐殺されるという、ある秘教の伝承を紹介することで結ばれている。
 殺す者はまた殺される者である。死の神は同時に犠牲である。これは古代信仰の最も秘教的な領域において示された、生と死の一体性についての直観だが、この直観を背後に据えて見る時、ディオニュソスの神話が「人間の経験全体」を提示しているという意見は異様に深くなり、そこにまつわる悲哀の影は、曖昧な感傷や思い入れとは無縁に濃くなるように感ぜられる。」
「近代は、夢を失った代りに、その夢がいかに大きかったか、いかに深かったかということについて、明晰な認識を獲得している。(中略)この認識はいかにも近代だからこそ熟成されたにちがいないし、その意味では近代のものだが、単なる異質の世界へのエキゾチックな関心だけで到達するには、深遠にすぎ、広大にすぎる規模を持った認識だということも、また疑いのない所だろう。この認識のひらくパースペクティヴのもとでは、近代の悲哀は、「人間の経験全体」、死をも含めた「生の全体」を包んでいる、大きな悲哀のうちに溶けこんでしまう。このことが、ペイターの物語を、同時期の近代小説とのさまざまな類似にもかかわらず、はかない擬似神話、神話のパロディーに終らせていない理由である。」
「「わたしの大きな新しい発見、実に重大な発見であり、この時代の重要な要素であるのは、イギリスの偉大な芸術批評家、ウォルター・ペイターです(中略)。」
 ヘルマン・バールに宛てた手紙(中略)の中で、ホフマンスタールは、熱狂的な口調でこんな風に語り、『ルネサンス』と『エピクロスの徒マリウス』と、(中略)短篇集『幻の画像』の名をあげている。」



「第七章」より:

「チャンドス卿は手紙の終りで、書く手だてとしてばかりでなく、考える手だてとして自分に与えられているらしい言葉は、
 「ラテン語でもなければ英語でもなく、イタリア語でもなければスペイン語でもなく、単語の一つすらぼくには未知の言語ですが、その言語を用いて物いわぬ事物がぼくに語りかけ、その言語を用いてぼくは、いつの日か墓に横たわる時、ある未知の裁き手の前で申しひらきをすることになるだろうと思うのです」
 こんな具合に書いている。このような「言語」が未知であるからこそ、チャンドス卿は沈黙するのだが、また、この「未知の言語」が予感されているからこそ、ホフマンスタールはこの『手紙』を書いたのだともいえる。その意味で、ここには作中人物の絶望と作者の希望が共存している。如露の中を泳ぐげんごろうや、鼠や、犬や、甲虫やをふさわしく表現する言葉が、チャンドス卿にはない。しかしこれらに彼の眼を注がせるホフマンスタールは、明らかに、げんごろうを表現する言葉を熱烈に求めている。
 げんごろうを表現するとは、要するに、虫と人間とが完全に等価であること、場合によっては虫の方が人間以上に重い意味を持つことを、表現を通じて明示するということである。」



「第十一章」より:

「誰でも自分の黄金時代を持っている。とはすなわち、現在は銅の時代か鉄の時代あたりに、不本意に生きている。不本意から解放されるためには、失われた黄金時代を回復するよりほか、手だてがない。
 物語を求める心は、端的にいって、この黄金時代への渇望にひとしい。」

「あれかこれか」を決めることができない。ただそれだけのことでは、自己の主体は不明瞭に薄弱になるよりほかあるまい。だが、決めることができないという、まさにそのこと自体を、自己の主体性と化したら、どうだろうか。「あれもこれも」であることをみずからの積極的な課題としたらどうだろうか。途方もない難事だということははじめからわかり切っている。(中略)『アンドレアス』でホフマンスタールが実現しようとしたことは、「あれもこれも」の理想だった。」
「哲学者アドルノは、ウィーンの気質には、「何時間もかけて剃刀を研ぐ」、といった「凝り性」の所があるといっている。役にも立たぬことに一生懸命になり、一生懸命になりながらそれでいてくつろいでいる。ホフマンスタールの制作の態度にも、どこか、そうした凝り性の感じがまつわりついているように思われる。
 『アンドレアス』はそのために未完に終ったのだといってもよい。しかしそれならばすぐ言葉を続けて、同じその理由のために、完成された部分は比類なく見事に作られているのだといわなくてはならない。」
「主人公の内部の風景そのものが、不安定に揺れながら、本質的には深い静寂の状態を維持しているのである。彼は悪党にたばかられて絶望する。はじめての愛に不安をおぼえる。この絶望や不安にはすべて動物の姿がまつわりついている。悪党にたばかられるのはまず馬が原因である。彼を絶望に追いこむ悪党の所行は、犬の殺害からはじまる。絶望のうちで、彼自身がかつて犬を殺した記憶がよみがえる。こうしたディテールの一切は、彼が動物と同じ次元にいることを暗示している。そこから人間の次元に上昇する経過をたどるのが、もちろん作品の志向であるはずだが、不思議なことに、その上昇運動を示す線はほとんど浮び出てこない。強いていえば、せいぜい獣から鳥への変身が見られるばかりである。絶望と不安の夢の中で、彼は愛する少女と一緒にいる。」
「寝室の窓辺に走り寄ると、ガラスにひびがはいり、窓枠に小鳥が死んでいる。夢の中できこえた音はこの鳥がガラスにぶつかった音だった。とすれば、夢の幸福感からさめても当然だろう。しかし恍惚はそのまま持続する。」
「おそらく鳥の死は彼自身の象徴的な死であり、この犠牲を通じて彼は絶望から恢復することができた、ということだろう。しかしいずれにせよ、このような夢の感応を信ずることのできる心にとって、そもそもいかなる教養、いかなる成長が可能だろうか。彼は黄金時代から歩み出て、現実の悪や暴力にさいなまれる。しかしさいなまれて賢くなる代りに、彼はその現実をさえも、即座に原初の夢の領分に繰りこんでしまう。鉄の時代の苦難の一々をさえも、黄金時代をその一瞬に呼び返すための動機に変化させてしまう。現実の側から見れば、度しがたい愚者、ほとんど白痴である。だが、その愚が度しがたければ度しがたいだけ、彼をそのようにあらせずにはいない夢の力の大きさもまた、ひときわ強烈に印象づけられることになる。」



「第十二章」より:

「カフカについて伝えられている挿話に次のようなものがある。彼がある時友人の家を訪問すると、友人の父がたまたま午睡中だったが、来客の気配に目を覚した。するとカフカは失礼を詫びてこういった、どうか私をあなたの夢だったと思って下さい。」
「現実世界から姿を消す。しかし彼岸へ渡るのではなく、現世にいる他人の夢の中にとどまっている。そんなことを望むのは、たとえば鏡花の綺譚などに出てくる、人間が眼をつぶる間だけ存在している妖怪にでもなりたいというのと、同じことのようである。自己滅却の願いというより妖怪、あるいは精霊への変身の願い。カフカの奇妙な挨拶を突きつめて行くと、そういった心の不条理な欲求にまで行きつくのではないか、という気がする。」

「この世界に対して、主人公は、終始ただ消極的な受身の態度を取っているだけである。受身――それは黄金時代の中に生きていた存在が鉄の時代に対して取り得る唯一の態度であるのか、とすら思われる。
 この態度を、積極的な関与に変えるのではなく、徹底した受身の姿勢が、受難の相貌を帯びるに到るまでに表現し得た時、『塔』という作品の、ひいてはホフマンスタールの文学者としての営為の、核心が形成されたのだといってよい。(中略)王子は一旦野蕃な力の手に擁立されながら、それを拒否し、叛乱軍に囲まれた城の「開いた窓」の前に立ち、狙撃されて死ぬ。射殺の一瞬前に彼は屠殺された豚のイメージを心に思い浮べる。」
「彼にとって、この豚は自分自身であり、しかもこの豚のイメージは、キリストの十字架像のそれにひとしいのである。
 屠殺された豚と、神ではなく、受難者=犠牲としてのキリスト。その同一化において、動物と人間との合一の夢は、窮極的な表現を獲得している。この死は、外の世界から見れば、無力かつ笑止な、存在と呼ぶにも値せぬ存在が、現実から一つ欠け落ちたというほどのことにすぎない。そのことを作者もはっきり知っている。そしてもはや、没落において輝く精神の高貴とか、破滅の美とかを、内の世界の規準に照らしてことごとしく言い立てようともしない。豚は屠殺され、キリストは磔刑に処せられ、王子は無抵抗に射殺される。ただそれだけのことである。作品の暗澹たる気分は覆うべくもない。希望のかげはどこにもない。それにもかかわらず、豚の腹に陽はさしこむ。狙撃されて仆れた王子は、瀕死の息の下から呟く。
 
 今はもう、希望することなど何一つないほどの心地よさだ。

 そして、何か言い残してはくれないのかと、忠実な従者が問いかけるのに対して、彼が答える末期の言葉、悲劇の大団円を閉じる最後の言葉はこうである。

 このことを証言してくれ、私は存在していたのだ、たとえ誰一人私を知る者がなかったとしても。

 これこそ、現実の中では他者の見る夢にひとしい、精霊にひとしい存在が、まさしく自覚的に他者の夢と化することを通じて、他者と結びつこうという願いの表現ではなかろうか。(中略)この言葉は謎めいて重く、痛切で、しかも透明なひびきを帯びている。この声は、城の内部でかすかにきこえるにすぎない。しかし城の窓は、たしかに外に向って開かれている。(中略)文学というはかない夢が、人の思いに受胎され、ひそかにはぐくまれ続ける消息の不思議さを、これほど心に沁み入るように呼びかけ、伝える言葉を、ほかにぼくは知らない。それはほとんど、一貫して内部の夢に憑かれながら、外部に対して篤実であろうとした作者自身の最後の言葉のようにさえ、きこえるのである。」




































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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