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唐十郎 『フランケンシュタインの娘』

「「すると、この箱の中には体温のない子が入っているわけ?」
 「今は体温はないけれど、いつか蘇生するフランケンシュタインの娘です」
 「分らないわ。あたし、この人の言ってること、よく分らないわ!」」

(唐十郎 『フランケンシュタインの娘』 より)


唐十郎 
『フランケン
シュタインの娘』



福武書店 
1987年8月10日 第1刷印刷
1987年8月15日 第1刷発行
229p 
定価1,300円
装丁: 菊地信義
装画: 古内ヨシ


「この作品は「海燕」一九八六年七月号から八七年七月号まで隔月連載された。」



本文中に図2点。
純愛SF長篇。唯脳社会の毒牙から、けなげな無脳の「お嬢さん」を守るため、勝ち目の無い孤立無援のたたかいに身を挺する男は、ヒーローと呼ばれてしかるべきではなかろうか。


唐十郎 フランケンシュタインの娘


帯文:

「解剖学教室から盗み出された無脳児の標本は美少女として甦えるのだろうか。
様々な現代科学の意匠を通し、愛と秘密の哲学が縦横無尽に展開する長篇小説」



帯背:

「最新
長篇
小説!」



帯裏:

「川村二郎氏評
(「海燕」 9月号)
無脳児の蘇生、内と外とを分つ境界の撤廃、そうした発想に、いかほど人を愕かすだけをもくろむ鬼の面のような胡乱さがつきまとっていようと、面の裏には何もないとは到底考えられないのである。キメラのモチーフは、物語の最後に到って、男と「お嬢さん」とを「接木」するというイメージにおいて頂点に達する。塩が両者を結びつける物質となる。男は塩をまぶした裸の背中に、お嬢さんをおんぶして立ちつくす樹木となる。男の狂気が完成したといってしまえばそれまでである。しかしそこで語られている塩の寓話、じりじりと焼けつく道で塩の袋を背負ったまま仆れ、やがて塩は地に吸われて消え、自分は骸骨となる驢馬の話は、何を意味するとも判然とせぬまま、ある痛切な生のイロニーを具象化している。」



内容:

フランケンシュタインの娘
 フランケンシュタインの娘
 変容する娘
 三人の乳母
 脳の窓口
 延びすぎた廊下
 鎖国の部屋
 梨リンゴ




◆本書より◆


「研究室に通された時、先生は僕に、これが無脳児の女の子だよと、白い缶の蓋を開けて見せました。生後一週間のその子は、全裸で白い缶の底に仰向けになっていましたが、肌はビロオドのようにつややかで、静かな呼吸とともに瞼を薄く開け、先生の白衣を見詰めていました。
 「この子は半分死んで半分生きているんだよ」
と先生は言われました。何が死んで何が生きているのかという問いに、それは植物中枢が生きていれば半分は生命体といえるからだと言ったきり、死んでいる後の半分についてはなにも語られませんでした。」

「先生、人々は植物のように生きています。」
「空気と水になじめないお嬢さんは、その植物のなかで、もっともかわいくない例外でしょうが、雷鳴の光りの中で、いつかその正体を見せてくれるようでもあるのです。」

「「おぼえとけ、このおののきを! 早産したきみたちが、僕の背に手をかけることはできないんだ。なぜなら、僕のおぶってるのは只の赤ん坊じゃない。理念よりも早く生まれ、幻像よりもすばしこいお嬢さんなんだ。ここに早産の源がある! その源に、偽れる早産の輩が、なにができんだ!!」
 それは怒りすぎだったでしょうか。」

「もしも、解剖学教室から出て、お嬢さんを連れ歩く僕に会いに来るならば、先生は手首を切る必要がない。自分を傷つけてみるというその習いは、解剖学教室と人熅(いき)れのざわめきの間に立って、バランスをとるセレモニーであった筈だ。そのバランスを狂わし、どこまでが解剖学教室で、どこの領域が生きている人々の証しか渾然とさせてしまうために、僕は、「お嬢さん」を連れだしたのだ。「お嬢さん」がいるこのシャバも、お嬢さんと連れ添っているこの時間も、拡大された解剖学教室の一瞬ではないかと伝えるために……。この狂わした設定に、先生が少しでも気付いてくれれば、もう、自らを傷つけることはない。ここは広い解剖学教室で、バランスをとるために手首を見詰める廊下という出口も必要ないのだ。こうした強引な思い込みの中にどんな欠陥があったのか。」

「彼女は、塩袋を一頭の驢馬に積み、塩田を旅立った男の話をはじめる。行商の地は六日歩いた峠のふもとであるが、三日歩いた峠の道で、人の骨は見当らず、駄馬や驢馬の骸骨ばかりが散乱した光景につき当たる。地層のひだの稜線の、頂きから頂きに向かって累々と連なるその骸骨の背骨には、みな縄で縛った袋がくくりつけられている。袋に手をかけると、開けられた証しもないそれは腐食してホロホロと破けるが、中には何も入っていない。
 人骨もないところを見ると、じりじりと焼けつく陽光の下で、狂った人間が家畜を叩き殺したとは思えない。凶々しい予感で、足の遅い驢馬を振り返ると、若者には、その驢馬の目が、ここでは嫌なことが起こると訴えているようにも見える。もう、二、三百米も行った所で、ここであった事と同じようなことが起こる。転がる骨たちが証明するように、馬たちに付き添ってきた人間たちはみな逃げたのだろうから、あなたもその時は逃げるだろうと責めるような目の光りも若者は読んでしまった。
 その驢馬と暗黙の会話をするように、若者は、転がる骸骨の背にくくりつけられていた袋の中身が分るまで、お前を捨てはしないと肚に決める。からっぽの荷を背負ったまま、これらの隊商が旅をするわけがない。もしも、そんなことがあるならば、お前の背にのせた荷も空っぽになってしまうことになる。そんな不思議なことを放置するわけにはゆかないというのが若者の気持であった。
 こうして一頭の驢馬と人間は突き進むが、谷を上ったところで、空気を切る風の音が、妙にざわざわとしているのに気付く。
 それは隊商の驢馬を襲ったものの正体だった。トリパノソーマを宿すツェツェ蠅の群れだった。のろまで背丈の低い獣を殺すことを覚えてしまったツェツェ蠅は、一気に驢馬に襲いかかると、上着を振り回す若者の体にも飛びかかってくる。
 その背に絨毯のように蠅をまといつかせながら、驢馬は、人間が自分を見捨てて逃げるのを見ようとするが、若者にしてみれば誓った以上に、その驢馬の目がある限り逃げられない。そこで人間以上に人間らしい驢馬は、蠅をまといつかせたまま、腹の下に隠すかのように、若者の体にのしかかった。荷物と驢馬の体重を支えきれず、若者は倒れた拍子に岩にぶつかる。
 気が付くと、峠は夜になっている。腹の下から這い出そうとすると、まだ微かに息のある驢馬は、もう少しで軽くなる、どうかそれまでいてくれと言ってるような気がする。
 しばらくすると雨が降り出す。
 そして、驢馬の背負った袋の塩をすべて溶かしてしまった。
 地に吸われた塩のため、軽くなった腹の下から這い出し、若者は驢馬を揺するが、それはもう動かない。
 驢馬を死なして彼が知ったことは、空っぽになった袋の中身が塩だということだった。塩の重さのために身動きできず、ツェツェ蠅に襲われて死んだ生き物は、みな、塩の如きものを空っぽにするために生きてきたようなものにも思えた。
 晴れた或る日、若者は骨になりかかった驢馬の死骸の前にやってきた。塩を吸った大地の上は、乾いた後もじりじりと、彼の皮膚を焙るような気がした。そして何日も通ったがそこに草木は育たなかった。ただ死んだ驢馬の骨と記憶だけが鮮明によみがえってきた。
 そして〈塩〉という不毛のキメラが、この異様な光景を、若者の頭の中で、いつも永遠であるものに見せた。」

「これは逃れようのない或る話なのである。ツェツェ蠅から塩袋の重さから、鈍足から、人間と驢馬の差から、雨と塩の均衡から、知識から、知らないことが特権の人間の身上から、逃れられるべくもない。
 「逃げないよ、捨てないよ」と言った男の声は、その逃れられない何かに向かっても響いている。」





こちらもご参照ください:

養老孟司 『唯脳論』 (ちくま学芸文庫)
堀切直人 『迷子論』
Mary Shelly 『Frankenstein』 (Lynd Ward Illustrated Edition)
「CINE VIVANT No. 8 ミツバチのささやき」
















































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好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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