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坂崎乙郎 『幻想芸術の世界』 (講談社現代新書)

坂崎乙郎 
『幻想芸術の世界
― シュールレアリスムを中心に』

講談社現代新書 189

講談社 
昭和44年5月16日 第1刷発行
昭和53年10月10日 第18刷発行
254p 口絵2p 
新書判 並装 カバー 
定価390円
装幀: 杉浦康平+辻修平



本書「あとがき」より:

「本書はシュールレアリスムを中心として現代芸術における幻想と、幻想芸術の系譜の二つの部分に分けられています。ロマン派についてかなりのページを割いているのは、シュールレアリスムの源をたぐっていくと、どうしてもそこにゆきあたるからでした。」


本文中図版(モノクロ)多数。
口絵はマグリット「アルンハイムの領土」(カラー)とハンス・ベルメール「人形」(モノクロ)。


坂崎乙郎 幻想芸術の世界 01


カバー文:

「幻想芸術とはなにか? なぜ人びとの関心をひくのだろうか?
人はそれを芸術の堕落であり、芸術とは無縁だというかもしれない。
また、たんなる「空想」や「遊び」と考えるかもしれない。
しかし、それはあらゆる領域における個性が必然的に招いた
未知の世界への投企なのであり、存在感を失った現代人が、
新しい対象を発見する方法なのである。同時に、幻想芸術とは
いままでにない可能性を発見しようとする危険な試みでもある。
本書は、世界の美術史のページをひもときながら、
ボッシュ、レオナルドから現代のシュールレアリスムまでの
先達の実験を例にとり、幻想芸術の意味と存在の必然性を
読者に納得のいくように説いた出色の芸術論である。」



カバーそで文:

「幻想に遊ぶ――フロイトは、『詩人と幻想』というエッセイの中で、
詩人の夢を形づくるファンタジーを次のように図式化している。
詩人とはもともと子どもとひどく似かよった存在である。
子どもは遊びの世界に我を忘れて没頭し、そこにしか自己存在の意味を
みいださない。一方、詩人は幻想のなかにありとあらゆるものを発見しようとする。
むろん、この際「遊び」と「幻想」とは厳密に区別されねばならないだろう。
が、成熟した人間はかつてあれほど真剣にくりかえした少年時代の遊びを
完全に放棄できるだろうか。そうではあるまい。人間にはそれほど完璧な
情念の放棄は許されておらない。子どもの遊びは大人の魂にかくされた体験として
残存し、大人はいつしか「遊び」に代えるに「幻想」を以てするのである。
――本書より」



目次:

まえがき

1 幻視する魂の系譜
 〈1〉 ロマン主義の表現性
 〈2〉 シュールレアリスムへの発展

2 幻想の怪異さと倫理性
 〈1〉 怪異の世界
 〈2〉 現代の錬金術として
 〈3〉 幻想芸術の倫理

3 幻想の主題・死とエロス
 〈1〉 死を克服する戦い
 〈2〉 死のダイナミズム
 〈3〉 エロスは死を繰り返す

4 空間処理の革命
 〈1〉 遠近法への挑戦
 〈2〉 歪曲し内面化しコラージュする

5 恐怖の空間
 〈1〉 繊細さとおびえ
 〈2〉 無の戦慄

6 子どもっぽさと夢
 〈1〉 幻想に遊ぶ
 〈2〉 夢と郷愁を追って

7 狂気の色彩
 〈1〉 狂女セラフィーヌの絵
 〈2〉 狂気の画家と幻覚剤

8 白紙の上の錯覚
 〈1〉 共同幻想と個人幻想
 〈2〉 所詮は一枚の紙の上

9 装飾が生きて息づく
 〈1〉 浮世絵と世紀末絵画の装飾性
 〈2〉 シュールレアリスムと装飾性

10 エロティシズムの美学
 〈1〉 エロティシズムの情念
 〈2〉 エロティシズムの視覚化

11 人体解剖への執拗な欲望
 〈1〉 手を結ぶ医学と芸術
 〈2〉 画面を有機化する

あとがき
参考図版文献目録




◆本書より◆


「まえがき」より:

「一昨年からことしにかけて、わが国ではシュールレアリストのハンス・ベルメールをはじめ、同じくドイツのパウル・ヴンダーリッヒ、ウィーンの幻想的レアリスムの画家エルンスト・フックスおよびペーター・クリーチの作品が展観されて愛好家を喜ばせていると聞いている。ベルメールの版画はヨーロッパにも氾濫(はんらん)している由だし、幻想的レアリスムの巡回展もかなりの成功をおさめたという。西独ではフランスに亡命していたエリアスベルクの仕事が再評価され、ホルスト・ヤンセンも衆目を集めつつある。最近物故したルネ・マグリットに寄せられた賛辞に至っては批評家、実作者のちがいを問わず枚挙にいとまがないほどかもしれない。
 おそらく、かかる現象の底には、まず第一に、眼にみえる世界に対する痛烈な諷刺があるに相違ない。もとより、造形芸術は視覚に供せられた逸楽ではあるが、自然はともあれ、ひとり内部世界は眼を閉じてはじめて獲得される。
 現在の私たちは力にも富にも名声にも美にもひたすら不信感しか抱いてはおらない。とすれば私たちをとりまき、生活のディテールを構成しているもの(引用者注: 「もの」に傍点)とは何か。これとて、人間同様あす知れぬ運命を担った存在にすぎぬのではあるまいか。不可視の、想像力の羽ばたく領域のみがひとり信頼しうるにたる世界だとすれば、人はおのがじし孤立した秩序を築かなければならない。この意味において、幻想芸術はいついかなる時点においても底流にとどまる宿命を保ち続けている。
 第二に、バランスを失した私たちは、おのずから過去の歴史に同じ病的徴候をたずねて、マニエリスムの時代にゆきあたった。モンス、ポントルモ、あるいはセーヘルスの再発見はシュールレアリスムの功績に帰せられるが、とはいえ超現実主義は終末を告げたわけではなく、内的世界は外的世界のいちじるしい拡散に比例して、増幅し振幅していく。それゆえ、幻想的レアリスムもベルメールもときにアルチンボルドのテクニックを学び、プラチェルリのロボットを模倣しながら、現実の錯綜に対処するより強力な迷宮を構築しはじめた。幻想芸術はこの点、見る者に衝撃を与えるよう仕組まれているが、それは現実にたえる免疫としての毒素、ひいては現実超克の自負に支えられている。」
「第三に、これがもっとも重要な要素であろうが、眼に見えるものへの不信から、人びとはいつしか造形言語とか映像とかいっとき流行した概念の上に、いわゆる言語イメージをおくようになった。一枚の絵、一点の彫刻が窮極において語りかけるものは言葉(引用者注: 「言葉」に傍点)ではなかったであろうか。言葉といって語弊があるなら、思想という文字におきかえよう。人は絵をみながら考え、彫刻の前にたたずんですすんで思念することを求めだしたのである。幻想芸術はもともと不条理の基盤に建てられた家屋であり、単一化への傾向よりもむしろ多様化への傾向を蔵しているから、いきおいみる者は作品の増殖的効果にさまざまな暗示を受けるにちがいない。
 つまるところ、幻想とは単なるイリュージョンでもなければ単なるファンタジーでもないことを断わっておかなければならない。幻想は思考とならんで、人間の意識のあり方なのである。それはともに真実を探求する。が、思考が対象を把握する手段だとすれば、幻想は対象を発見する(引用者注: 「発見する」に傍点)方法であり、この意味においてシュールレアリスムの詩人ポール・エリュアールがいったように、幻想をたずねる者には「何一つ手本がない」のかもしれない。思考以上に、幻想は種々さまざまの錯誤を体験しなければならないだろう。思考の要は論理だが、幻想は多くの場合、非論理的な構成から招来される。したがって、ときには遊びがあるいは実験が、制作者の理性を奪い、彼の生命を賭けさせる場合もあるだろう。しかし、私たちはそれをおそれてはいけない。現代という時代ほど、あらゆる分野において二者択一を迫り、この「賭けること」に至上の意味を与えている時代はないのだから。」



坂崎乙郎 幻想芸術の世界 02

「猫 (19世紀アメリカの素朴画家)」


坂崎乙郎 幻想芸術の世界 03

「象牙の腕輪 部分 (ナイジェリア)」







































































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